辺境監獄星
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移送命令は、白い紙で届いた。
白い紙。
黒い文字。
赤い印。
もう、それだけで十分だった。
マーリンは、机の上に置かれた紙を見ていた。
帝都外拘束施設への移送。
辺境監獄星への収容。
NewEra関連資料およびリュール運用関連データ流出事案に関する責任承認済み。
帝国秩序維持のため、帝都圏から隔離。
隔離。
また、正しい言葉だった。
捨てる、とは書かない。
追放、とも書かない。
不要、とも書かない。
ただ、隔離。
便利な言葉だ。
マーリンは笑おうとして、やめた。
笑うにも力がいる。
今のマーリンには、そこまで余裕がなかった。
手首には制限具。
髪は少し乱れたまま。
襟元も、きっと曲がっている。
直そうと思えば直せる。
けれど、直す意味が見つからなかった。
クリスチーナなら、許さなかっただろう。
「お嬢様、囚われていても身だしなみは身だしなみでございます」
そんなふうに言って、少し怒った顔をする。
怒りながら、指先は優しい。
その手が、もうない。
だから、マーリンは乱れたまま座っていた。
乱れていても、誰も困らない。
容疑者の髪が少し崩れていても、帝国は困らない。
「マーリン=ロイス」
扉の外から声がした。
呼ばれた。
けれど、自分の名前に聞こえなかった。
「移送準備を行います」
扉が開く。
軍人と、NewEra安全管理部門の職員。
もう見慣れた組み合わせだった。
白い部屋に、黒い線。
「立てますか」
「はい」
マーリンは立ち上がる。
少しだけ足元が揺れる。
水の匂いが胸に残っている。
食事はほとんど取れていない。
でも、立てる。
立てるなら、問題なし。
そう記録される。
「体調不良は」
「ありません」
嘘だ。
けれど、言いやすい嘘だった。
「大丈夫です」と言わなかっただけ、少しはましなのかもしれない。
誰も褒めてくれないけれど。
職員は端末へ入力する。
《本人申告:移送可能》
可能。
人は、可能と書かれれば運ばれる。
荷物みたいだ。
いや。
荷物の方が、もっと丁寧に扱われることもある。
割れ物注意の札くらいは貼ってもらえる。
マーリンには、何の札もなかった。
危険因子。
それが、たぶん一番近い。
拘束施設の廊下を歩く。
白い壁。
白い床。
白い光。
この場所には、時間の色がない。
灯りが消え、また灯っても、同じ白さが続く。
外へ出る扉の前で、所持品の最終確認が行われた。
髪飾り。
手袋。
通信端末。
婚約印章。
ロイス家の認証具。
すでに預けられていたものが、透明な箱の中で並んでいる。
戻されるものはない。
「これらは?」
マーリンが尋ねる。
「帝都保管となります」
「私には返らないのですね」
「処分決定後、扱いが定まります」
処分。
その言葉だけは、妙に直接だった。
「カーチスライト家への連絡は」
「回答できません」
「ロイス家へは」
「完了しています」
完了。
父は知っている。
知っていて、何も来ない。
通信もない。
面会もない。
命令だけが来る。
ロイス家らしい。
とても。
「アリソンは」
聞いてしまった。
もう、答えなどないと知っているのに。
職員は端末から目を上げない。
「回答できません」
いつもの答え。
マーリンは頷いた。
「そう」
短い声だった。
それ以上は出なかった。
聞くたびに、遠くなる。
けれど聞かなければ、もっと遠くなる気がした。
帝都拘束施設から軍用連絡艇へ移されるまで、外の空はほとんど見えなかった。
通路は覆われている。
窓は細い。
見えるのは、軍港の床と、遠くに並ぶ輸送機の脚だけ。
帝都の空は、見せてもらえない。
都合がいい。
帝国は、捨てるものをあまり人目に触れさせない。
拾われたら困るのかもしれない。
誰も拾わないのに。
連絡艇の乗降口で、腕の制限具がもう一度確認された。
「魔力干渉制限、正常」
「通信端末、所持なし」
「ロイス家認証具、所持なし」
「カーチスライト家関連物、所持なし」
一つずつ読み上げられる。
マーリンから剥がされたものの一覧。
ロイス家。
カーチスライト家。
リュール。
帝国軍。
ぜんぶ、なし。
残ったのは、制限具と身体だけ。
「搭乗してください」
マーリンは頷き、連絡艇へ乗った。
座席は硬い。
拘束用の細い帯が胸元と腰に回される。
金具の音。
かちり。
かちり。
軽い音で、身体が固定される。
「苦しくありませんか」
「はい」
本当は少し苦しい。
胸の奥がむかむかする。
帯の圧迫が、妙に気持ち悪い。
けれど、苦しいと言えば、確認が増えるだけだ。
確認されても、楽にはならない。
だから言わない。
連絡艇が動き出す。
床から振動が伝わる。
小さな揺れ。
マーリンは目を閉じる。
揺れは嫌いではなかった。
学園へ向かった時の船も、軍の移動艇も、リュールのコクピットも、全部揺れた。
けれど、今の揺れは違う。
行き先を選べない揺れだった。
「目的地は、帝国辺境監獄星」
職員が告げる。
まるで観光案内のように。
「中継軌道を経由し、監獄星管理局へ引き渡します」
マーリンは目を開ける。
「辺境監獄星には、名前がないのですか」
職員は少しだけ目を動かした。
「正式名称はありますが、収容者への案内には使用しません」
「そうですか」
名前を与えない。
なるほど。
捨てる場所には、きれいな名前などいらない。
捨てられる者にも。
連絡艇が軍港を離れる。
細い窓の外に、帝都の光が少しだけ見えた。
遠い。
大きい。
とても大きい。
白い都市。
高い塔。
貴族たちの屋敷。
学園。
軍港。
ロイス家。
カーチスライト家。
どこかにリュールもいる。
どこかに、白い機体が眠っている。
マーリンのいない場所で。
《Nep-001Pt Lueur》
その文字を思い出す。
球状コクピットの赤い警告。
魔力の糸。
白いスラスター。
ステラの声。
『マーリン様、右下は囮です』
『マーリン様、帰ったら――』
そこで、記憶が切れる。
いつも、そこで切れる。
黄色い光が消える。
通信が途切れる。
手を伸ばしても届かない。
マーリンは、窓から目をそらした。
胸が悪い。
揺れのせいか。
空腹のせいか。
思い出のせいか。
たぶん、全部だ。
「気分不良ですか」
近くの職員が尋ねる。
「少しだけです」
今度は、そう答えた。
大丈夫ではなく。
少しだけ。
職員は端末を見る。
「必要なら酔い止めを投与します」
「必要ありません」
薬の匂いを思い出した。
口を塞ぐ布。
届かなかった警告。
白い霧。
見ていないはずのものまで、想像で形を持つ。
「水を」
職員が容器を差し出す。
マーリンは受け取った。
金属の味がした。
一口だけ飲む。
喉を通る。
戻りそうになる。
でも、戻らない。
よくできました。
そんな声が頭の奥に浮かんだ。
誰の声にもならないまま、すぐ消える。
マーリンはもう一口飲んだ。
やっぱり、誰も何も言わなかった。
中継軌道の軍港では、マーリンは連絡艇から別の移送船へ移された。
大きな船だった。
けれど、乗る場所は狭かった。
収容区画。
白ではない。
灰色。
薄い金属の匂い。
座席は壁に固定され、窓はない。
帝都の光はもう見えない。
見えない方が、楽かもしれない。
そう思った。
楽ではなかった。
見えなくても、遠ざかることは伝わる。
「個人識別を確認します」
監獄星管理局の職員が端末を向ける。
「マーリン=ロイス」
「はい」
「責任承認済み。NewEra関連資料およびリュール運用関連データ流出事案。帝都圏広報対象除外。ロイス家身元保証、停止中。カーチスライト家婚約手続き、凍結中」
凍結中。
ブライアンの顔が浮かぶ。
ロイス嬢。
彼はそう呼ぶ。
今でも呼ぶだろうか。
それとも、もう呼べないのだろうか。
「ロイス家身元保証、停止中」
職員がもう一度確認する。
「異議は」
異議。
マーリンは首を振る。
「ありません」
本当はある。
ありすぎる。
でも、異議を唱える場所ではない。
ここは、異議を確認する場所ではなく、異議がないことを記録する場所だ。
「個人番号を付与します」
端末が小さく鳴る。
紙ではない。
画面に番号が出る。
マーリン=ロイスより、ずっと短い。
「以後、監獄星内では番号で呼称されます」
「名前は?」
「必要時のみ使用されます」
名前すら、保管される。
必要な時だけ取り出される。
ドレスみたいだ。
舞踏会の時だけ着せられて、終われば箱へ戻される。
けれど、今のマーリンに舞踏会はない。
箱だけがある。
「承知しました」
そう言うと、職員は少しだけ眉を動かした。
素直すぎたのかもしれない。
反抗すると思ったのかもしれない。
撃墜女王だから。
ロイス家令嬢だから。
帝国の希望だったから。
残念。
もう、どれもここにはいない。
移送船の中では、音がよく響いた。
機関の低い振動。
通路を歩く靴音。
遠くで閉まる扉。
誰かの咳。
金属が軋む音。
マーリンは壁際の席に座っていた。
両手は前で拘束されている。
手首の制限具はそのまま。
腕の拘束帯は、少し痛い。
痛いけれど、痛みがあることに少し安心する。
身体がある。
まだ。
中身は空っぽでも、身体だけは残っている。
空腹になる。
吐き気がする。
喉が乾く。
寒さを感じる。
手首が痛む。
身体は、マーリンを見捨てない。
それは優しさではなく、ただの機能かもしれない。
でも、残っている。
「気分不良が続くようなら申告してください」
職員が言う。
「はい」
「食事は取れますか」
「少しなら」
「少し、とは」
マーリンは考える。
少し。
便利な言葉だ。
自分で使うと、途端に曖昧になる。
「一口か、二口くらいです」
職員が端末へ入力する。
《摂食量低下》
《移送継続可能》
続行。
身体は、まだ運べる。
それで十分。
マーリンは目を閉じた。
眠るつもりはなかった。
けれど、白い部屋より灰色の船の方が、少しだけ目を閉じやすい。
夢は見なかった。
眠れたのかどうかも曖昧だった。
ただ、意識が何度か沈み、振動で浮かび上がる。
そのたびに、同じ場所にいた。
灰色の壁。
冷たい拘束具。
遠い機関音。
帝都ではない。
ロイス家ではない。
リュールの中でもない。
どこでもない場所。
どこでもない場所へ運ばれながら、どこかへ着く。
不思議だった。
不思議で、少し馬鹿みたいだった。
行き先があるのに、帰る場所がない。
辺境監獄星は、窓のない収容区画からは見えなかった。
見えたのは、降下艇へ移される時だけだった。
ほんの少し。
監視用の通路の小窓から、灰色の星が見えた。
灰色。
ところどころ黒い。
海は見えない。
雲も薄い。
大地には、傷のような線が走っている。
採掘跡か。
古い砲撃痕か。
ただの地形か。
判断がつかない。
花は咲かなさそうな星だった。
それだけは、すぐに思った。
「寒そうね」
声がこぼれる。
近くの職員が顔を向ける。
マーリンは軽く首を振った。
「何でもありません」
本当に何でもない。
星に向かって、寒そうと言っただけ。
けれど、そんな何でもない言葉すら、久しぶりだった。
返事がないのは、星だけではない。
ミーシャ。
ステラ。
クリス。
お兄様。
返事のない名前ばかりが、胸の中に積もっている。
降下艇が揺れる。
胸がむかつく。
マーリンは口元を押さえた。
職員が容器を差し出す。
「吐き気ですか」
「少しだけ」
「移送時の揺れによるものとして処理します」
処理。
また。
何もかも処理される。
吐き気まで。
「はい」
マーリンは頷く。
容器は使わなかった。
使わなかったので、症状は軽微。
たぶん、そう記録される。
監獄星の空気は、乾いていた。
降下艇の扉が開いた瞬間、冷たい風が入る。
金属と砂の匂い。
遠くで機械が動いている。
低い音。
ずっと鳴っている。
空は薄く、色がない。
帝都の空とは違う。
学園の空とも違う。
戦場の宇宙とも違う。
ここは、何かが終わった後の場所だった。
終わったものを置く場所。
使い終えた機械。
壊れた部品。
名前を失った人間。
そういうものが似合う場所。
「降りてください」
マーリンは足を下ろす。
地面は硬かった。
わずかに砂が滑る。
転びそうになり、踏みとどまる。
支える手はない。
ブライアンの手も。
侍女の手も。
誰もいない。
立てるなら、支える必要はない。
そういう場所なのだ。
監獄施設は、低く広がっていた。
高い塔ではない。
華やかな門でもない。
地面に張りつくような建物群。
灰色の壁。
鉄の柵。
監視塔。
貨物用の線路。
遠くに並ぶ作業棟。
貴族の屋敷は、広さで人を圧倒する。
この監獄は、低さで人を潰す。
どちらも、あまり優しくない。
「個人番号」
受付の職員が言う。
マーリンは、自分に割り当てられた番号を答えた。
声が少し遅れた。
まだ、慣れていない。
「氏名」
「マーリン=ロイス」
「旧身分」
旧。
その一文字が、胸に落ちる。
「ロイス家令嬢」
「罪状」
「NewEra関連資料およびリュール運用関連データの管理責任違反」
職員が顔を上げる。
「敵性通信帯流出事案」
「あ……はい」
訂正される。
罪状すら、正しく言えない。
「敵性通信帯流出事案に関する責任承認済み」
「承認確認」
「はい」
何度も、何度も。
認めたことを確認される。
自分が自分を捨てたことを、何度も言わされる。
職員は端末を操作する。
「ロイス家からの身柄引受申請なし。カーチスライト家からの面会申請なし。帝国軍からの戦力保全指定なし。NewEra安全管理部門より、危険因子区分継続」
なし。
なし。
なし。
継続。
マーリンは、言葉を聞いていた。
ロイス家からの身柄引受申請なし。
父は迎えに来ない。
カーチスライト家からの面会申請なし。
ブライアンは来られないのか、来ないのか。
帝国軍からの戦力保全指定なし。
軍はもう、マーリンを戦力としても見ない。
リュールは持っていったのに。
マーリンはいらない。
「確認しましたか」
職員が問う。
マーリンは頷く。
「はい」
帝国から捨てられるとは、もっと大きな音がするものだと思っていた。
怒号とか。
罵倒とか。
断罪とか。
そういうもの。
違った。
なし。
なし。
なし。
それだけだった。
何も来ないことが、捨てられるということだった。
入所処理は長くはなかった。
服を替えられる。
粗い布の収容服。
肌に少し硬い。
ロイス家の服ではない。
軍服でもない。
ドレスでもない。
身体の形を美しく見せる必要のない服。
それは、少しだけ楽だった。
少しだけ、悲しかった。
髪は簡単にまとめられる。
手つきは事務的だった。
引っ張られて、少し痛い。
「痛いです」と言えば、何か変わっただろうか。
たぶん、変わらない。
だから言わなかった。
医療確認では、また同じ質問をされた。
「食欲は」
「少しありません」
「吐き気は」
「少し」
「めまいは」
「時々」
言ってから、マーリンは自分で驚いた。
大丈夫と言わなかった。
隠さなかった。
言っても、誰も心配してくれないと知っているからかもしれない。
心配されるために言うのではなく、ただ症状として言う。
それは少し、寂しいほど簡単だった。
医療担当は端末を見て言う。
「移送負荷と拘束環境によるものとして経過観察。看護棟での短期観察後、労働棟適性を判定」
看護棟。
労働棟。
どちらも、響きが冷たい。
「私は、働くのですか」
「収容者は、可能な範囲で作業に従事します」
「可能な範囲」
「はい」
可能。
また。
身体が残っている限り、人は何かに使われる。
帝国らしい。
とても。
マーリンは頷いた。
「承知しました」
医療担当は、少しだけ不思議そうに見た。
反抗しないことが意外なのかもしれない。
叫ぶと思ったのかもしれない。
泣くと思ったのかもしれない。
撃墜女王だから。
貴族令嬢だから。
でも、マーリンはもう空っぽだった。
空っぽの器は、音が鳴りやすい。
けれど、鳴らす手がなければ静かなものだ。
看護棟へ向かう通路は、薄暗かった。
白ではない。
灰色でもない。
鉄の色。
壁には細い管が走り、床には古い傷があった。
清潔ではある。
けれど、帝都の施設のような無機質な清潔さではない。
ここには、使われ続けた古さがある。
人が眠り、起き、運ばれ、戻り、また眠る場所の古さ。
マーリンは、少しだけ足を止めた。
遠くで咳が聞こえる。
誰かの呻き声も。
小さな金属音。
ベッドの軋み。
ここには人がいる。
帝都の白い部屋より、人の気配がある。
けれど、温かいわけではなかった。
人の気配がある場所でも、人は簡単に孤独になる。
そのことを、マーリンはもう知っている。
「進んでください」
職員が言う。
マーリンは歩く。
細い通路の先に、部屋があった。
扉が開く。
中に並んでいたのは、鉄の寝台だった。
一つ。
二つ。
三つ。
もっと奥にも。
薄い寝具。
小さな棚。
水差し。
窓は高い。
帝都の拘束室と似ている。
けれど、違う。
ここでは、眠ることも管理ではなく作業の一部に見えた。
休むためではない。
また動かすために横たえる場所。
「この寝台を使用してください」
職員が指した。
マーリンは近づく。
鉄の縁に指を触れる。
冷たい。
とても冷たい。
ロイス家の寝台とは違う。
学園の寝台とも違う。
軍艦の仮眠台とも違う。
ここには、誰かのための柔らかさがない。
それでも、寝る場所はある。
身体だけは、ここに置ける。
マーリンは静かに腰を下ろした。
鉄の冷たさが、布越しに伝わる。
少しだけ、胸がむかついた。
けれど、もう驚かない。
身体はまだ反応する。
空っぽになっても、身体は残る。
それが、少し不思議だった。
「休んでください」
職員が言う。
命令なのか、配慮なのか。
判断がつかない。
たぶん、どちらでもない。
手順だ。
マーリンは頷く。
「はい」
扉が閉まる。
鍵の音はしなかった。
ここは檻ではなく、看護棟だから。
でも、出ていけるわけではない。
鍵の音がしない檻もある。
マーリンは鉄の寝台に座ったまま、手首を見る。
制限具はまだある。
リュールは遠い。
帝都も遠い。
ロイス家も遠い。
父も。
ブライアンも。
クリスチーナも。
すべて遠い。
遠いものばかりになった。
マーリンは、横になろうとして、少しだけ止まる。
靴を脱いでいない。
自分で気づいた。
それだけのことに、妙に時間がかかった。
マーリンは自分で靴を脱いだ。
指が冷えて、うまく動かない。
でも、脱げた。
脱げてしまった。
マーリンは寝台に横たわる。
鉄の冷たさが、背中に広がる。
目を閉じる。
花のない星。
名前を呼ばない施設。
番号で呼ばれる身体。
帝国からの、なし、なし、なし。
それが、辺境監獄星だった。
帝国は、マーリンを罵らなかった。
帝国は、マーリンを殺さなかった。
帝国は、マーリンを忘れる場所へ送った。
それが、一番静かな捨て方だった。
眠りは、すぐには来ない。
背中が冷たい。
喉が乾く。
胸の奥は浅く波打っている。
それでも、マーリンは目を閉じたままでいた。
ここでは、起きていても何も始まらない。
眠っても、何かが終わるわけではない。
ただ、身体を横たえる。
ただ、息をする。
それだけが、残っている。
ロイス家の身元保証はない。
カーチスライト家の面会申請もない。
帝国軍の戦力保全指定もない。
リュールの糸も届かない。
なし。
なし。
なし。
その三つの音が、鉄の寝台の下で静かに響く。
大きな断罪よりも、ずっと軽い。
軽いから、どこまでも沈む。
マーリンは毛布を胸元まで引き上げた。
粗い布が頬に触れる。
優しくはない。
けれど、ある。
あるものに触れていないと、自分の身体まで消えてしまいそうだった。
辺境監獄星の看護棟。
鉄の寝台。
高い窓。
番号で呼ばれる身体。
そこに、マーリンは横たわっている。
希望の花でもなく。
撃墜女王でもなく。
ロイス家の令嬢でもなく。
リュールの操縦者でもなく。
ただ、生きている身体として。
帝国がまだ奪っていないものは、それだけだった。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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