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消された功績

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

マーリンは、椅子に座っていた。


白い部屋。


白い机。


白い壁。


白い光。


ここには色がない。


色がないのに、全部が汚れて見える。


取り調べ室の椅子は固かった。


姿勢よく座るための椅子ではない。


長く座るための椅子でもない。


ただ、そこに座らせるためだけの椅子。


とても正しい用途の椅子だった。


マーリンは手首の制限具を見る。


細い輪。


冷たい輪。


魔力の糸を鈍らせる輪。


リュールへ向かおうとする感覚は、もう遠い。


遠いのに、完全には消えない。


厚い壁の向こうで、誰かが声を出そうとしている。


けれど、その声は届かない。


そんな距離だった。


リュール。


あの子は、どうしているのだろう。


格納庫にいるのか。


整備を受けているのか。


もう、別の名で呼ばれているのか。


考えたところで、答えはない。


ここで与えられる答えは、いつも別のものだ。


「マーリン=ロイス」


向かいの職員が呼んだ。


嬢はつかない。


もう慣れた。


慣れたくはなかった。


「NewEra中核資料およびリュール運用関連データの敵性通信帯流出について、供述を整理します」


供述を整理。


散らかしたのは、どちらなのだろう。


マーリンは何も言わなかった。


言えば、また別の意味になる。


言わなければ、沈黙として記録される。


どちらでも同じだ。


同じなら、喉を使わない方が楽だった。


喉の奥には、薄い吐き気がある。


消毒液の匂いは弱い。


水の匂いもない。


それでも、身体だけが勝手に嫌がる。


職員は紙を置いた。


「貴女は、NewEra計画に疑念を抱いていた」


マーリンは紙を見る。


そこにあるのは、もう自分の言葉ではなかった。


学園での質問。


ロイス公爵との会話。


クロードの端末閲覧。


リュール運用記録。


王国機への対応。


撃墜後の発言。


すべてが、細く、硬く、冷たくなっている。


人の言葉は、紙になると痩せる。


痩せて、骨だけになる。


その骨を、彼らは好きな形に並べる。


「貴女は、NewEra計画に疑念を抱いていた」


職員がもう一度言った。


「はい」


「貴女は、クロード=ロイスが残したNewEra関連資料を閲覧した」


「はい」


「貴女は、閲覧後にNewEra関連資料閲覧・接続管理責任確認書へ署名した」


「はい」


「貴女は、リュールの操縦者であり、同機の同期記録、試作機運用データに深く関与している」


マーリンは少しだけ息を吸う。


「操縦していました」


「関与している、でよろしいですね」


「……はい」


操縦していた。


乗っていた。


戦っていた。


死にかけていた。


吐き気を飲み込んでいた。


ステラの声を聞いていた。


ミハイルの名を胸の奥で呼んでいた。


その全部を、関与している、という一言にされる。


便利な言葉だった。


「以上により、貴女には動機、接続責任、運用知識がある」


「私は、流していません」


声は小さかった。


でも、出た。


まだ出るのか。


自分で少し驚く。


職員は表情を変えない。


「流出の実行を認めるよう求めているのではありません」


「では、何を」


「責任を認めてください」


マーリンは顔を上げた。


「責任」


「閲覧確認者として。一次管理責任者として。リュール運用に関わった者として。貴女が監督義務を怠ったことにより、NewEra中核資料およびリュール運用関連データが敵性通信帯へ流出した。その責任を認めてください」


やっていないことを認めろ、ではない。


責任を認めろ。


少しだけ、形が違う。


違うだけで、逃げ道がない。


「私が認めれば、何が変わりますか」


「手続きが進みます」


「それは、私にとって良いことですか」


職員は答えない。


答えられないのではない。


答える必要がないのだ。


マーリンは小さく笑った。


笑いはすぐ消えた。


「そうですか」


「マーリン=ロイス。貴女はすでに帝国の象徴でした。フルール・デスポワール。撃墜女王。リュール操縦者。貴女が争えば、事案は長引きます」


「長引くと、困るのですか」


「帝国の秩序に影響します」


秩序。


また、きれいな言葉。


「私が本当のことを言うと、秩序が乱れるのですね」


「貴女の主観と、帝国が必要とする事実は一致しない場合があります」


「事実は、必要に応じて選ばれるものなのですね」


職員は、初めて少しだけ目を細めた。


「発言は記録されます」


「ええ」


記録される。


何を言っても。


何を言わなくても。


なら、少しくらい自分の声で汚してもいい。


そう思った。


けれど、その小さな反抗も、すぐに疲れた。


疲れるのが早い。


身体も、心も。


胸の奥が浅く揺れる。


マーリンは手を膝の上で重ねた。


指が冷たい。


髪が頬にかかっている。


襟も、たぶん曲がっている。


唇の色も、薄いのだろう。


けれど、ここでは誰も見ない。


見るのは、表情ではない。


発言。


署名。


同意。


異常の有無。


使える項目だけだった。


次に見せられたのは、映像だった。


壁に投影される。


白い機体。


リュール。


Nep-001Pt Lueur。


その名が表示される。


マーリンの胸が、ひどく小さく鳴った。


あの子だ。


戦場の暗さの中で、白く光った子。


マーリンの糸を受け取った子。


怖いほど速く、怖いほど美しく動いた子。


次の表示で、マーリンは息を止める。


《NewEra戦術統合試験機》


《自律戦術補助基盤 実戦投入成果》


《無人人形部隊運用移行に向けた中核データ取得済》


マーリンの名はない。


映像は続く。


リュールが敵機を斬る。


補給艦を守る。


王国機を退ける。


敵艦へ接近する。


白いスラスターが尾を引く。


戦場は、美しく編集されていた。


悲鳴がない。


警告音がない。


吐き気がない。


ステラの通信がない。


マーリンの震えがない。


ただ、リュールが強い。


ただ、帝国の試作機が優れている。


そういう映像だった。


「この映像は、何ですか」


マーリンは尋ねた。


「広報および技術報告用に再構成されたものです」


「再構成」


「貴女個人の容疑とは別に、リュールの戦術価値は帝国資産として保全されます」


リュールの戦術価値。


帝国資産。


マーリンは、手首の制限具を見る。


リュールは資産。


マーリンは容疑者。


二つは、切り離される。


「私が乗っていました」


「記録上、当時の操縦者として記載は残ります」


「残る?」


「ただし、戦果の評価主体は変更されます」


「評価主体」


「撃墜数、撃沈数、救援任務の成功、補給線防衛への寄与。それらは、リュール運用計画およびNewEra戦術補助体系の成果として再分類されます」


マーリンは、意味を受け取るのに少し時間がかかった。


撃墜数。


撃沈数。


救った補給艦。


退避させた医療艇。


ステラと守った救難艇。


守れたはずの日。


守れなかった日。


全部。


全部、マーリンから外される。


「私が、戦ったのに」


声が漏れた。


子どもみたいな声だった。


職員は淡々と答える。


「貴女の操縦は、システム検証の一部です」


「ステラと守った戦場も?」


「イルクート一等候補生の随伴支援記録は、別途軍記録に保存されています」


別途。


保存。


それだけ。


ステラの笑顔も。


甘いものの約束も。


帰る場所の話も。


別途。


保存。


されているのだろうか。


何を。


マーリンは胸元を押さえた。


吐き気ではない。


痛みでもない。


ただ、穴が広がった。


「撃墜女王と呼んだのは、帝国ではありません」


「王国側の呼称が帝国内で流通したものです」


「でも、帝国も使いました」


「士気向上上、有効な呼称でした」


有効。


そう。


有効だった。


だから使った。


もう有効ではない。


だから捨てる。


「では、私は何だったのですか」


職員は答えを用意していたようだった。


「試作機運用における高適性操縦者です」


「人ではなく?」


「人としての貴女の価値を否定しているわけではありません」


「でも、私の戦いは帝国資産になる」


「戦果は帝国に帰属します」


「私の罪は?」


「貴女個人に帰属します」


あまりにきれいに分けられていて、マーリンは笑いそうになった。


戦果は帝国へ。


罪は個人へ。


痛みも個人へ。


吐き気も個人へ。


ステラを守れなかった記憶も個人へ。


けれど、白いリュールの輝きは帝国へ。


ずるい。


また、そう思った。


ずるい。


でも、その言葉は口に出さなかった。


出せば幼い。


出さなくても、幼いままだった。


「理解しましたか」


「いいえ」


マーリンは答えた。


「でも、見えました」


職員は少しだけ眉を動かす。


「何がですか」


「帝国が、私をどう分けたいのか」


理解はしていない。


納得もしていない。


けれど、見えた。


帝国は、マーリンを必要な形に分ける。


希望だった部分は使う。


戦果だった部分は使う。


リュールに関わる部分は使う。


疑念を持った部分は切る。


罪を背負わせる部分は残す。


とても器用だ。


父に似ている。


ロイス公爵は、家族を駒として扱う。


帝国は、人間を項目として扱う。


似ている。


嫌になるほど。



拘束室へ戻ると、食事が置かれていた。


手をつけていない皿が下げられ、新しい皿が置かれている。


中身はほとんど変わらない。


薄いスープ。


小さなパン。


味の少ない何か。


匂いは弱い。


弱いのに、受け付けない。


マーリンは水だけを少し飲んだ。


喉を通るまでに、時間がかかる。


「食事を取ってください」


小窓の向こうから声がする。


「あとで」


「摂取量低下が続いています」


「そうですか」


「医師確認が入ります」


「はい」


小窓が閉まる。


確認。


確認ばかりだ。


体調確認。


閲覧確認。


責任確認。


署名確認。


容疑確認。


確認されるたび、マーリン自身は遠くなる。


マーリンはパンに手を伸ばした。


指が少し震える。


一口だけ。


そう思って、かじる。


味がない。


噛んでも、喉が動かない。


水で流し込む。


胸がむかついた。


でも、吐かなかった。


吐かなかったので、食べられたことになる。


たぶん、そう記録される。


マーリンは笑った。


小さく。


「よくできました、かしら」


誰も答えない。


当然だ。


ここでは、褒める人も叱る人もいない。


あるのは、摂取量の記録だけだった。



次の取り調べで、紙が置かれた。


厚くはない。


一枚。


たった一枚。


「責任承認書です」


職員が言う。


「貴女が、NewEra関連資料およびリュール運用関連データの管理責任を怠り、敵性通信帯への流出を招いたことを認める内容です」


「私は流していません」


「実行を認めるものではありません」


「責任を認めるもの」


「はい」


「それは、罪を認めるのと何が違いますか」


「量刑および処遇判断に影響します」


答えになっていない。


でも、十分だった。


「認めなければ?」


「聴取は継続します」


「どれくらい」


「必要なだけ」


必要なだけ。


それは、終わりがないという意味だ。


「ブライアン様は」


「本件への関与が記録されています。接触は制限されています」


「アリソンは」


「回答できません」


「お父様は」


職員は少しだけ間を置いた。


「ロイス公爵閣下は、帝国秩序維持への協力を表明されています」


協力。


ああ。


父は協力している。


娘を切り離すことに。


ロイス家を守ることに。


NewEraを守ることに。


「私が認めれば、ロイス家は守られますか」


「少なくとも、事案の拡大は抑制されます」


「ブライアン様は」


「関係者聴取の扱いが変わる可能性があります」


可能性。


また、便利な言葉。


「アリソンは」


「回答できません」


「……そう」


クリスチーナは、もうここにはいない。


それでも、名前を出してしまう。


出せば、どこかで返ってくる気がして。


返ってこない。


「認めれば、私はどうなりますか」


「軍およびNewEra安全管理部門の判断に基づき、帝都外拘束施設への移送が検討されます」


「帝都外」


「はい」


遠くへ。


そういうことだ。


「処刑ではないのですね」


「現段階では」


現段階。


便利な言葉ばかり。


マーリンは紙を見る。


自分の名を書く欄がある。


また。


署名。


ペンは、いつだって軽い。


なのに、これで人は落ちる。


「マーリン=ロイス」


職員が言う。


「貴女は責任を認めますか」


マーリンは、長く黙った。


長く。


どのくらいかは分からない。


ここでは時間の感覚が薄い。


白い光がずっと同じだから。


本当は、認めたくない。


していない。


流していない。


王国へデータなど渡していない。


NewEraを疑っただけ。


クロードの言葉を知ろうとしただけ。


リュールに乗っただけ。


戦いたくないのに戦っただけ。


守りたかっただけ。


それだけなのに。


けれど、もう疲れた。


言葉を選ぶことに。


違う意味にされることに。


空腹を記録されることに。


大丈夫を異常なしにされることに。


名前を呼んでも返事がないことに。


疲れた。


疲れた、という言葉すら弱い。


空っぽになった花に、水をやっても咲かない。


花瓶を磨いても、花は戻らない。


「認めます」


声は、小さかった。


でも、部屋には十分だった。


職員の目が紙へ落ちる。


「内容を確認してください」


マーリンは紙を見る。


文字が並んでいる。


NewEra関連資料。


リュール運用関連データ。


敵性通信帯。


管理責任。


監督義務違反。


帝国秩序への影響。


自発的承認。


自発的。


マーリンは、その文字で少しだけ笑った。


「自発的、なのですね」


「署名は強制ではありません」


「ええ」


強制ではない。


ただ、選べる道が一本しかないだけ。


それはきっと、強制ではないのだろう。


紙の上では。


「訂正を求める箇所はありますか」


「あります」


職員が顔を上げる。


「どこですか」


「全部」


マーリンは言った。


職員は黙る。


マーリンは、少しだけ微笑んだ。


「でも、訂正しなくて結構です。どうせ、直りません」


ペンが差し出される。


マーリンは受け取った。


指が震えた。


今度は、署名の線が少しだけ崩れる。


それを見て、なぜかほっとした。


まだ、完璧ではないものが残っている。


それだけが、ほんの少しだけ救いだった。


マーリン=ロイス。


名前を書いた。


罪を認めた。


いいえ。


罪にされることを、受け入れた。


その違いは、きっと誰にも残らない。


責任承認書への署名後、見せられたのは帝国軍内部通達だった。


見せる必要があったのか。


それとも、見せることに意味があるのか。


マーリンには判断がつかない。


ただ、そこに文章があった。


《旧称:撃墜女王に関する広報使用を停止》


旧称。


もう、古い名前になっていた。


《マーリン=ロイス個人の戦果評価は、NewEra戦術補助体系およびNep-001Pt Lueur運用試験成果へ再分類》


個人の戦果評価。


再分類。


《リュール操縦者の高適性反応は、個人資質ではなく、試作機同期補助設計の有効性として扱う》


マーリンは、そこで目を止めた。


個人資質ではなく。


試作機同期補助設計の有効性。


つまり、マーリンが優れていたのではない。


リュールが優れていた。


NewEraが優れていた。


帝国が優れていた。


マーリンは、そのための証明にすぎない。


そして、今は危険因子。


便利なことだ。


本当に。


《当該人物はNewEra関連資料流出事案に関与した疑いにより、帝国軍広報対象から除外》


当該人物。


マーリン=ロイスですらない。


当該人物。


「名前も、長いと邪魔になりますものね」


ぽつりと言う。


職員は聞こえなかったふりをした。


通達は続く。


《リュールの戦果は帝国技術およびNewEra計画の正当性を示すものとして整理》


整理。


また、整理。


マーリンの中で、何かが静かに崩れる。


檻の中で折れたものとは別の何か。


空っぽになった後に、器だけを外から割られるような感覚だった。


「私がいなくても、リュールは帝国の英雄なのですね」


「兵器に英雄という表現は適切ではありません」


「では、成果」


「はい」


「私の罪は、私のもの」


「はい」


「私の功績は、帝国のもの」


職員は答えなかった。


でも、紙が答えている。


マーリンは頷いた。


「分かりやすくて、助かります」


嘘だった。


少しも助からない。


けれど、軽く言えた。


軽く言えるものほど、たいてい重い。



拘束室へ戻る前に、通信室へ連れて行かれた。


面会ではない。


確認通信。


そう説明された。


画面に映ったのは、ロイス公爵だった。


青白い顔。


痩せた指。


人工心肺装置の管。


その周囲に並ぶ、冷たい機械。


マーリンは、久しぶりに父の顔を見た気がした。


『マーリン』


「お父様」


声はきちんと出た。


まだ、娘としての呼び方が残っている。


それが、少し嫌だった。


『責任を認めたと聞いた』


「はい」


『賢明だ』


賢明。


褒められた。


いつぶりだろう。


褒められたのに、何も嬉しくない。


「ロイス家は、守られますか」


『余計な傷は避けられる』


「私は、余計な傷だったのですね」


『お前は傷ではない。傷になり得るものだった』


「違いが難しいです」


『感傷だ』


「ええ」


マーリンは頷く。


「もう、それで結構です」


ロイス公爵はしばらく黙る。


画面越しの沈黙は、部屋の沈黙より遠い。


『お前の功績は、帝国に残る』


マーリンは笑った。


今度は、声が少しだけ出た。


「功績だけは、残してくださるのですね」


『戦果は事実だ』


「罪も事実になりますか」


『署名した』


「そうですね」


自分の手で。


何度も。


父が用意した紙に。


帝国が整えた形に。


「お父様」


『何だ』


「私は、まだマーリンですか」


ロイス公爵は答えなかった。


その沈黙で、マーリンには伝わった。


父にとって、それは重要な問いではない。


有用か。


害か。


責任を負わせられるか。


ロイス家を守れるか。


それらの方がずっと大事だ。


『帝都外拘束施設への移送が決まる』


「帝都外」


『辺境監獄星だ』


言葉は静かだった。


辺境監獄星。


遠い響き。


帝都から離れ、ロイス家から離れ、リュールから離れ、NewEraの中心からも離れる場所。


捨てるには、ちょうどよい場所。


「戻れますか」


『手続き次第だ』


手続き。


最後まで、それだった。


「アリソンは」


ロイス公爵の顔は変わらない。


『関係ない』


「一度くらい、違う答えをくださってもいいのに」


『無意味な問いだ』


「そうですね」


マーリンは静かに頷く。


「お父様にとっては」


通信はそこで切られた。


父の顔が消える。


画面は黒くなる。


そこに映った自分の顔は、思っていたより幼かった。


髪は乱れ、襟は曲がり、目の下には薄い影がある。


フルール・デスポワールには見えない。


撃墜女王にも見えない。


ただ、疲れた少女が映っていた。


それでよかった。


それすら、すぐに消えた。


拘束室へ戻る道で、もう一度リュールの映像が見えた。


白い機体。


美しい軌道。


《NewEra戦術統合試験成果》


マーリンは立ち止まらなかった。


今度は、見ても足が止まらなかった。


あれはもう、自分のものではない。


そう決められた。


痛みだけが残っている。


痛みは、誰も持っていってくれない。


だから、まだマーリンのものだ。


少しだけ皮肉だった。


檻へ戻る。


扉が閉まる。


鍵の音。


小さい音。


何度聞いても、小さい。


マーリンは寝台に腰掛ける。


手首の輪を見た。


リュールは遠い。


帝国は遠い。


ロイス家も遠い。


クリスチーナは、もっと遠い。


水差しの横に、薄い光が落ちている。


花には見えない。


花でなくてよかった。


花なら、また摘まれる。


飾られる。


名前をつけられる。


枯れたら捨てられる。


空っぽのままなら、少なくとも咲けとは言われない。


マーリンは膝の上に手を置いた。


署名で少し歪んだ指先を見つめる。


完璧ではなかった線。


最後に残った、小さな失敗。


「クリス」


呼ぶ。


返事はない。


「私、認めてしまったわ」


返事はない。


「怒ってくれる?」


返事はない。


マーリンは目を閉じた。


泣けなかった。


泣いたら、少しは人間らしくなれたのかもしれない。


でも、涙は出ない。


帝国は功績を持っていった。


撃墜数も。


戦果も。


リュールも。


希望の花という名前も。


残った罪だけを、マーリンへ渡した。


とても軽い紙に載せて。


とても重いものとして。


白い部屋の中で、マーリンは静かに座っていた。


もう、誰かが髪を整えてくれるのを待つこともなかった。


辺境監獄星。


その名が、白い壁の中でゆっくり沈む。


そこへ行けば、帝都の光は見えない。


ロイス家の廊下もない。


リュールの白い姿も、遠くなる。


帝国は、マーリンから外側を剥がし終えた。


花の名。


戦場の名。


功績の名。


家の名。


残されたのは、罪の名だけだった。


それだけを抱えて、マーリンは帝都の外へ運ばれる。


正しい手続きで。


清潔な記録に包まれて。


誰の涙にも濡れないまま。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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