投獄
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扉が開いた。
入ってきたのは、屋敷の者ではなかった。
軍服。
二人。
その後ろに、NewEra安全管理部門の腕章をつけた職員が一人。
白い部屋に、黒い線が差し込んだように見えた。
マーリンは立っていた。
立ててしまっていた。
膝は少しだけ力を失っている。
指先は冷たい。
喉の奥には、まだ薄い吐き気が残っている。
けれど、姿勢は崩れない。
ロイス家の令嬢として。
帝国の希望として。
撃墜女王として。
容疑者として。
どの名前で立っているのか、もう分からない。
軍人の一人が敬礼した。
「マーリン=ロイス嬢」
声は硬い。
感情はない。
「NewEra中核資料およびリュール運用関連データの敵性通信帯への流出容疑により、貴女を保全拘束します」
保全拘束。
紙の上にあった言葉が、声になった。
「敵性通信帯」
マーリンは繰り返す。
「王国側通信経路と推定される経路への接続が確認されています」
NewEra安全管理部門の職員が言う。
「閲覧確認者、および一次管理責任者は、署名済み書類によりマーリン=ロイス嬢と照合済みです」
照合済み。
あまりにも早い。
あまりにも整っている。
まるで、ペン先が紙から離れるのを待っていたように。
「私は、何もしておりません」
マーリンの声は静かだった。
自分でも驚くほど、静かだった。
軍人は表情を変えない。
「供述は聴取の場で伺います」
「今ここで申し上げても?」
「記録には残します」
「信じては、いただけないのですね」
軍人は答えなかった。
信じるために来たのではない。
連れて行くために来たのだ。
それだけは、よく伝わってきた。
ブライアンが一歩前に出る。
「ロイス嬢は、署名の直後に容疑者として照合されています。流出経路の解析、責任者確定、拘束命令までが早すぎる。通常手順として不自然です」
NewEra安全管理部門の職員が、ブライアンへ視線を向けた。
「カーチスライト様。以後の発言は、関係者として記録されます」
「構いません」
「婚約者としての立場、NewEra関係者としての立場、どちらの発言として記録いたしましょう」
ブライアンの口が、一瞬だけ閉じた。
その一瞬が、すべてだった。
彼は言葉を失ったのではない。
言葉がどの檻へ入れられるかを、先に考えなければならない人だった。
マーリンは、その横顔を見る。
優しい人。
正しい人。
手続きに触れた瞬間、手を縛られる人。
「ブライアン様」
マーリンが呼ぶと、彼は振り向いた。
「はい」
「もういいです」
「よくありません」
即答だった。
その声だけは、少しだけ揺れていた。
「よくありません、ロイス嬢」
マーリンは小さく笑う。
「そう言ってくださる方がいるだけで、十分です」
「十分ではない」
「でも、足りないことに変わりはありません」
ブライアンは何も言えなかった。
マーリンは責めなかった。
責めるには、彼はあまりにも真剣に苦しんでいる。
それでも、苦しんでいるだけでは扉は止まらない。
書類はもう動いた。
署名は奪われた。
インクは乾き、印は押され、責任者は確定した。
そこにマーリンの意思がどれだけあったかなど、誰も問わない。
問う必要がない。
形は完成している。
軍人が告げる。
「同行をお願いします」
「拒否した場合は?」
「強制執行となります」
「そう」
マーリンは頷く。
「では、歩きます」
一歩踏み出した瞬間、視界がわずかに傾いた。
ブライアンの手が伸びる。
マーリンは、少しだけ身体を引いた。
支えられたら、崩れてしまいそうだった。
「ロイス嬢、体調が」
「大丈夫です」
言ってしまった。
その言葉は、部屋の中を通った。
誰も止めなかった。
ミハイルなら、信じなかった。
クリスチーナなら、叱った。
ステラなら、甘いものを理由に座らせた。
けれど、ここには誰もいない。
ブライアンは眉を寄せた。
疑ってはいる。
けれど、言い切れない。
「君の大丈夫は」
そこまで言って、彼は止まった。
続きの言葉を持っていない人の止まり方だった。
マーリンは微笑む。
「大丈夫です」
二度目の嘘は、一度目より簡単だった。
廊下へ出ると、屋敷の者たちが並んでいた。
皆、頭を下げている。
正しい角度。
正しい沈黙。
誰も顔を上げない。
誰も、マーリンの目を見ない。
希望の花と呼ばれていた時、彼らは遠くから見ていた。
撃墜女王と呼ばれていた時、彼らは恐れていた。
容疑者になった今、彼らは見ない。
見なければ、何もなかったことにできる。
ロイス家は、そういうことが上手い。
廊下には、いつもの香が焚かれていなかった。
それなのに、胸が悪い。
香ではない。
沈黙の匂いだ。
誰も何も言わない。
何も見ていない顔をする。
それが、喉の奥に絡みつく。
「クリスは?」
マーリンは、すれ違う屋敷の者に尋ねた。
返事はない。
「アリソンはどこですか」
別の者に尋ねる。
頭がさらに下がった。
それだけだった。
マーリンは立ち止まる。
軍人も止まった。
「アリソンはどこですか」
三度目。
少しだけ声が低くなった。
ようやく、年配の使用人が口を開く。
「存じ上げません」
嘘かもしれない。
本当かもしれない。
どちらでも同じだった。
マーリンに届かないことだけが、確かだった。
ブライアンが小さく言う。
「探します」
「はい」
「必ず」
マーリンは彼を見る。
必ず。
その言葉を、信じたい。
けれど、ブライアンの必ずは、いつも手続きの中にある。
手続きが閉じた場所へ、届くのだろうか。
「お願いします」
それでも言った。
他に言葉がなかった。
玄関広間へ出る直前、壁の通信端末が点いた。
ロイス公爵の声が流れる。
『マーリン』
足が止まる。
「お父様」
軍人たちも止まった。
ブライアンも、黙る。
『一時的な保全拘束だ。潔白なら、手続きの中で証明される』
「その手続きは、私を罪人にするために動いているように見えます」
『感情的な反応は不利になる』
「では、何も感じていない顔をすればよろしいのですね」
『お前はロイス家の名を背負っている。これ以上、家に傷をつけるな』
家。
ここでも、家。
「私は、傷なのですか」
返事は少し遅れた。
『お前が疑う象徴である限り、傷になり得る』
以前、父から聞いた言葉が、また戻ってくる。
疑う象徴。
害。
有用だった。
処理できる形。
全部、同じところへつながっていた。
「お父様は、NewEraを守るために私を差し出すのですね」
『違う』
否定は早かった。
だが、温かくはない。
『ロイス家を守るためだ』
同じではないか。
マーリンはそう思った。
ロイス家。
NewEra。
帝国。
父自身の生。
父の中では、それらはほとんど同じ場所にある。
そこに、マーリンは入っていない。
入っているとしても、人としてではない。
器として。
象徴として。
罪を置くための形として。
「クリスは」
『関係ない』
「関係あります」
『ない』
即答だった。
マーリンは、少しだけ笑った。
「彼女がいれば、私は署名しなかったかもしれません」
通信の向こうが沈黙する。
その沈黙は、冷たかった。
『ならば、外して正解だった』
ブライアンが息を呑んだ。
軍人たちは動かない。
NewEra職員も表情を変えない。
マーリンだけが、その言葉を受け取った。
正解。
クリスチーナを外したことが。
警告を届かせなかったことが。
署名させたことが。
すべて、正解。
「……そうですか」
声は、思ったより軽かった。
軽すぎて、自分のものではないみたいだった。
『マーリン。取り調べには協力しろ。無用な発言は控えろ』
「はい、お父様」
『ロイス家の娘として振る舞え』
「はい」
返事はできる。
まだできる。
それが腹立たしいほどに。
通信は切れた。
ロイス公爵の声は消えた。
人工心肺装置の音は聞こえない。
けれど、耳の奥でまだ鳴っている気がした。
外に用意されていた車両は、軍用だった。
窓は細く、外からは中が見えない。
中からも、ほとんど外は見えない。
乗る前に、NewEra安全管理部門の職員が小さな器具を差し出した。
「魔力干渉制限具です」
手首にはめるものだった。
細い輪。
飾り気はない。
「必要ですか」
マーリンが尋ねる。
「保全拘束対象者には規定上装着していただきます」
規定上。
また、正しい言葉。
マーリンは両手を差し出した。
冷たい輪が、手首に触れる。
かちり、と音がした。
それだけで、身体の奥に伸びていた糸が少し鈍る。
リュールへ向かう糸。
無意識に伸びようとする白い糸。
それが、薄い布をかぶせられたように遠くなる。
マーリンは手首を見た。
細い輪。
これだけで、少し黙らされる。
「痛みはありますか」
職員が尋ねる。
「ありません」
「気分不良は」
「大丈夫です」
職員は端末に入力する。
《本人申告:異常なし》
異常なし。
そう記録された。
吐き気も。
めまいも。
冷たい指先も。
胸の奥の空洞も。
大丈夫と言えば、異常なしになる。
リュールなら警告を出す。
《操縦者負荷:危険域》
《魔力消費:危険域》
赤い文字で叫ぶ。
けれど、人間のマーリンには警告がない。
自分で大丈夫と言えば、それで通ってしまう。
車内に乗る。
ブライアンも乗ろうとして、軍人に止められた。
「関係者同行は認められておりません」
「僕は婚約者です」
「本件においては関係者です。聴取対象となる可能性があります」
「だからこそ」
「規定です」
短い壁。
ブライアンはその壁の前で止まった。
マーリンは車内から彼を見る。
「ブライアン様」
「ロイス嬢」
「手続きの外に出ては、いけません」
彼の顔が歪む。
「君に、それを言われる筋合いはありません」
「ええ」
マーリンは少し笑う。
「その通りです」
扉が閉まる。
外の音が薄くなる。
ブライアンの姿が、小さな窓の向こうで歪んだ。
彼は何かを言っていた。
聞こえない。
聞こえなくなるものばかりだ。
クリスチーナの警告も。
ブライアンの言葉も。
マーリンが人であることも。
全部、少しずつ届かなくなる。
車両が動き出す。
ロイス家の門が遠ざかる。
かつては帰る場所だった。
いいえ。
帰る場所のふりをした檻だったのかもしれない。
厚い絨毯。
整えられた花。
人工心肺装置の低い音。
父の命令。
クリスチーナの足音。
全部が遠ざかる。
クリスチーナの足音だけが、最後まで耳に残った。
一歩後ろ。
いつもの距離。
守れるようで、守りきれない距離。
その足音は、もうしない。
マーリンは手首の輪を見る。
白い指。
細い手首。
そこに、冷たい拘束具。
撃墜女王。
そんな名前が、急にひどく遠いものに思えた。
戦場では、白いリュールが動いた。
敵機が退いた。
通信がざわめいた。
「撃墜女王だ」と恐れられた。
けれど今、マーリンは狭い車内で、手首に輪をはめられて座っている。
敵はどこにもいない。
剣もない。
推進光もない。
ただ、書類と手続きと沈黙だけがある。
戦場より静かで、戦場より逃げ場がなかった。
「便利ね」
小さく呟いた。
軍人は聞いていたかもしれない。
聞いていなかったかもしれない。
どちらでもいい。
帝国は、本当に便利だった。
希望が必要なら、花を飾る。
恐怖が必要なら、撃墜女王を立てる。
責任者が必要なら、署名させる。
罪人が必要なら、拘束する。
そのすべてに、正しい理由がつく。
家のため。
帝国のため。
NewEraのため。
犠牲を最小にするため。
誰かがそう言えば、人は頷く。
頷いた後で、自分が何を失ったのかを知る。
車両は白い施設へ入っていった。
拘束施設は、ロイス家よりもさらに白かった。
白というより、色がなかった。
壁。
床。
照明。
受付の端末。
軍人の手袋。
どれも清潔で、どれも冷たい。
香りはない。
花もない。
それなのに、胸が悪くなる。
消毒された空気は、花の香より優しいはずなのに、少しも楽ではなかった。
受付で、名前を確認される。
「マーリン=ロイス」
嬢はつかない。
ロイス家の娘でもない。
帝国の希望でもない。
ただの名前。
それも、記録のための名前。
「所持品を提出してください」
髪飾り。
手袋。
通信端末。
婚約印章。
ロイス家の小さな認証具。
一つずつ、透明な箱へ入れられる。
音が軽い。
軽い音で、マーリンが少しずつ剥がされていく。
「これは」
職員が、髪に触れた小さな飾りを指す。
クリスチーナが整えてくれたものだった。
特別な宝石ではない。
ただ、髪を留めるためのもの。
「身支度用のものです」
「一時預かりとなります」
「……はい」
外される。
髪が少し崩れる。
クリスチーナがいれば、すぐに直しただろう。
「お嬢様、動かないでくださいませ」と、少し呆れた声で言っただろう。
マーリンは、崩れた髪のまま立っていた。
誰も直さない。
直す必要がない。
容疑者の髪型など、記録には関係ない。
次に、医療確認。
小さな部屋に入れられる。
椅子が一つ。
机が一つ。
医師らしき者が端末を見る。
「体調不良はありますか」
「ありません」
嘘だ。
「めまい、吐き気、痛み、呼吸困難は」
「大丈夫です」
もっと嘘だ。
「睡眠は取れていますか」
「問題ありません」
嘘が増えていく。
けれど、誰も止めない。
医師は端末に入力する。
《拘束環境への収容:支障なし》
マーリンは、文字を見た。
支障なし。
便利な言葉。
人が壊れかけていても、立っていれば支障なし。
吐き気を飲み込めば支障なし。
泣かなければ支障なし。
大丈夫と言えば、支障なし。
「食事制限は」
「ありません」
甘いもの。
ステラが持ってきた焼き菓子。
クリスチーナが用意した香りの弱い茶。
もう、どちらもない。
「魔力干渉制限具による違和感は」
「ありません」
ある。
糸が遠い。
リュールが遠い。
自分の身体も、少し遠い。
でも、言わない。
言っても、記録されるだけだ。
異常として。
混乱として。
合理的判断能力を欠くものとして。
マーリンはもう、書類の言葉を覚えている。
覚えてしまった。
「確認を終了します」
医師が言う。
マーリンは立ち上がる。
また少し、視界が揺れた。
壁に手をつこうとして、やめる。
大丈夫。
言わなかった。
けれど、言わなくても、もう同じだった。
部屋は、檻というには整っていた。
小さな寝台。
薄い毛布。
机。
椅子。
水差し。
高い位置にある細い窓。
鉄格子はない。
けれど、扉は厚い。
内側から開けるための取っ手はなかった。
清潔な部屋。
安全な部屋。
保全拘束のための部屋。
名前を変えれば、何でも正しく見える。
マーリンは中へ入った。
扉が閉まる。
鍵の音。
思ったより小さい音だった。
大きな音なら、まだ分かりやすかったのに。
こんなに小さな音で、人は外へ出られなくなる。
マーリンは寝台に腰を下ろした。
毛布は固い。
水差しの水は透明だった。
机の上には何もない。
紙もない。
ペンもない。
署名するものは、もうない。
署名した紙は持っていかれた。
名前だけが残った。
責任者として。
容疑者として。
裏切り者として。
「クリス」
呼んでみる。
返事はない。
当然だ。
「ミーシャ」
返事はない。
「ステラ」
返事はない。
「お兄様」
返事はない。
名前を呼ぶたび、部屋が少し広くなる。
広い。
とても広い。
こんなに狭い部屋なのに。
マーリンは手首の制限具を見る。
冷たい輪。
これをつけた自分は、まだリュールの操縦者なのか。
撃墜女王なのか。
ロイス家の娘なのか。
婚約者なのか。
容疑者なのか。
それとも、ただの空っぽなのか。
父は言った。
疑う象徴は害になる。
帝国は、希望の花を必要とした。
撃墜女王を必要とした。
リュールの操縦者を必要とした。
そして、必要が変われば、裏切り者を必要とする。
人間の英雄ですら間違える。
感情を持つ者は危うい。
だから、NewEraが必要だ。
きっと、そう言うのだろう。
マーリンは、少しだけ笑った。
笑い声は出なかった。
「便利ね」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
帝国か。
父か。
書類か。
自分か。
水を飲もうとして、手を伸ばす。
手が少し震えた。
水面が揺れる。
飲める。
飲めるはず。
けれど、口元へ持っていった瞬間、喉が拒んだ。
吐き気が戻る。
マーリンは水差しを机へ置いた。
大丈夫。
言いかけて、止まる。
ここには、聞く人がいない。
止める人もいない。
嘘を嘘だと見抜く人もいない。
なら、言う意味がない。
マーリンは寝台に座ったまま、扉を見た。
厚い扉。
その向こうに、帝国がある。
ロイス家がある。
NewEraがある。
ブライアンがいるかもしれない。
クリスチーナがどこかにいるかもしれない。
でも、届かない。
扉一枚。
それだけで、すべてが遠い。
マーリンは目を閉じる。
眠れそうにはなかった。
泣けそうにもなかった。
ただ、胸の奥に白い空洞がある。
そこに、花の名前だけが落ちている。
希望の花。
フルール・デスポワール。
その花は、帝国のどこかではまだ咲いていることになっているのだろう。
裏切った花として。
枯れた花として。
処理された花として。
けれど、この部屋には花などなかった。
香りもない。
茎もない。
棘すらない。
ただ、椅子と寝台と水差し。
そして、何も持たないマーリンだけがいた。
投獄。
その言葉は、思っていたよりも静かだった。
もっと大きな音がすると思っていた。
怒号があると思っていた。
誰かが責めると思っていた。
石の壁や鉄格子が、いかにも罪人らしくマーリンを迎えると思っていた。
けれど、実際には違った。
清潔な部屋。
丁寧な確認。
規定通りの拘束具。
本人申告、異常なし。
拘束環境への収容、支障なし。
それだけで、人は罪人になる。
マーリンは、そっと自分の髪に触れた。
髪飾りがない。
クリスチーナが整えてくれた形も、もう崩れている。
ほんの少し。
本当に少しだけ。
けれど、その乱れを直す人はいない。
それが、投獄よりも重かった。
名前を奪われること。
肩書きを変えられること。
容疑者として記録されること。
どれも苦しい。
でも、それより先に。
呼んでくれる人を失う方が、ずっと苦しい。
「クリス」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
声は壁に当たって、戻ってこなかった。
マーリンは、薄い毛布を膝にかける。
クリスチーナなら、肩までかけた。
「冷えます」と言った。
「お身体を冷やしてはなりません」と、少し強い声で言った。
マーリンが「少しだけ」と言えば、「その少しだけは信用しておりません」と返した。
今は、誰も返さない。
だから、毛布は膝の上で止まった。
止まったまま、それ以上動かなかった。
扉の外で、足音が遠ざかる。
一つ。
二つ。
三つ。
やがて、何も聞こえなくなる。
マーリンは、白い部屋の中で一人になった。
帝国は、手続きとして彼女を連れてきた。
ロイス家は、家を守るために彼女を切り離した。
NewEraは、責任者として彼女の名を記録した。
ブライアンは、不自然さに気づいた。
けれど、止められなかった。
クリスチーナは戻らなかった。
彼女なら見抜いた。
止めた。
大丈夫ではございません、と言った。
けれど、いない。
マーリンの大丈夫は、誰にも嘘として扱われないまま記録された。
異常なし。
支障なし。
問題なし。
希望の花は、撃墜女王は、ロイス家の令嬢は、帝国の処理によって容疑者へ変わった。
紙の上で。
端末の中で。
そして、この白い部屋の扉の内側で。
マーリンは目を開けた。
細い窓の外には、空が少しだけ見えた。
宇宙ではない。
戦場でもない。
帝都の空の、ほんの切れ端。
あまりにも狭い。
それでも、そこに目を向けている間だけは、息が少しだけ入った。
マーリンは手首の輪を見下ろす。
白い糸は遠い。
リュールも遠い。
誰の声も届かない。
それでも、どこかでまだ、自分の中に細い糸が残っている気がした。
それはリュールへ伸びるものではない。
父へでも、帝国へでも、NewEraへでもない。
もっと弱くて、切れそうで、名前もない糸。
マーリン、と呼ばれた記憶。
ミーシャの声。
ステラの甘いもの。
クリスチーナの叱る声。
クロードの残した警告。
それらは、証拠にはならない。
手続きには勝てない。
罪を晴らす力もない。
けれど、まだ完全には消えていない。
マーリンは、その糸を握るように、指を丸めた。
握れない。
手首の輪が冷たい。
それでも、少しだけ指を曲げる。
それくらいは、許されていた。
白い部屋は静かだった。
静かすぎるほど。
マーリンは、その静けさの中で、初めて投獄されたのだと思った。
扉の鍵ではなく。
拘束具でもなく。
罪状でもなく。
誰も「マーリン」と呼んでくれないことによって。
その名だけが、白い部屋の中で、小さく息をしていた。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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