↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
113/117

裏切りの署名

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

クリスチーナは戻らなかった。


ティーカップの位置が、少しだけ違う。


毛布の端が、少しだけ乱れている。


書類の束は、机の上にきれいに置かれていた。


きれいすぎる。


クリスチーナが整えたものだ。


そう思うのに、そこに本人はいない。


マーリンは寝椅子から身体を起こした。


視界が少しだけ揺れる。


香りの弱い茶は、もう冷めていた。


飲もうとして、やめる。


喉の奥に、薄い吐き気が残っていた。


香りは弱い。


なのに、胃の奥が小さく波打つ。


戦場の後のように、身体だけがどこかへ置き去りにされている。


「クリスは?」


部屋にいた屋敷の者へ尋ねる。


返ってきたのは、礼儀正しい沈黙だった。


それから、礼儀正しい答え。


「アリソン様は、旦那様のご用で席を外しております」


「まだ?」


「はい」


「何の用か、聞いている?」


「詳しくは伺っておりません」


そう。


詳しくは。


ロイス家の者は、知らない時と、知っていて言わない時に、同じ顔をする。


昔は見分けられなかった。


今は、少しだけ分かる。


分かってしまう。


「クリスが戻ったら、すぐに呼んで」


「承知いたしました」


屋敷の者は頭を下げた。


完璧な礼だった。


けれど、クリスチーナの礼ではなかった。


同じ形なのに。


まったく違った。


クリスチーナの礼には、ほんの少しだけ重さがあった。


主の状態を見ている重さ。


足元へ視線を配る重さ。


倒れそうなら、すぐに近づくための余白。


今の礼には、それがない。


ただ、正しい。


それだけだった。


マーリンは机の上の書類を見る。


白い紙。


黒い文字。


正しい印。


クリスチーナの声が、扉の向こうから聞こえた気がする。


お嬢様。


署名なさらないでくださいませ。


その後が、ぼやけている。


NewEra関連資料。


リュール同期記録。


試作機運用データ。


王国側通信経路。


断片だけ。


意味までは届いていない。


「……クリス」


呼んでも、返事はない。


部屋は広い。


広い。


とても広い。


人が一人いないだけで、こんなにも広くなる。


ブライアンが訪れたのは、それから間もなくだった。


足音は静かだった。


彼はいつも通りに礼をする。


正しく、丁寧に。


そして、部屋の中を見て、ほんの少しだけ目を動かした。


クリスチーナがいないことに気づいたのだろう。


「ロイス嬢」


「クリスは?」


マーリンが先に尋ねると、ブライアンは一瞬だけ目を伏せた。


「ロイス公爵閣下の指示で、別件に当たっていると聞いています」


「別件」


「詳しい内容は、僕も確認中です」


確認中。


ブライアンらしい言葉だった。


分からない、とは言わない。


知らない、とも言わない。


確認中。


それは、まだ手を伸ばしている人の言葉だ。


けれど、届いているかどうかは別だった。


「ブライアン様も、知らないのですね」


「はい」


その答えは早かった。


早い正直さ。


マーリンは小さく頷く。


「そうですか」


ブライアンの視線が、机の上へ移る。


「ロイス嬢。書類は?」


「クリスが確認してくれていました」


「どこまで?」


「全部ではありません」


マーリンは書類へ視線を落とす。


白い束。


整った束。


もう、ただの紙には見えない。


「絶対に署名してはいけないものがある、と言っていました」


ブライアンの表情が変わった。


わずかに。


けれど、確かに。


「どの書類ですか」


「NewEra関連の確認書類だと思います」


「見ても?」


ブライアンは机へ歩み寄り、許可を求めるようにマーリンを見た。


マーリンは頷く。


「見てください」


彼は書類を手に取った。


婚約発表同意。


医療情報共有。


リュール運用権限補足。


侍女業務補助体制。


NewEra関連資料閲覧・接続管理責任確認書。


最後の一枚を読んだ時、ブライアンの指が止まった。


「……これは」


声が低くなる。


「やはり危険なのですね」


「危険です」


ブライアンは否定しなかった。


その早さが、少し怖かった。


「機密保持の確認書としては、範囲が広すぎる」


「クリスも、そう言っていました」


「NewEra関連資料だけではない。リュール同期記録、試作機運用データ、閲覧後に発生した接続履歴まで含まれている」


ブライアンは文面を追う。


眉間に浅い皺が寄る。


「外部通信経路、敵性通信帯、王国側通信経路と推定される経路への接続・移送があった場合、閲覧確認者を保全拘束および聴取対象とする」


マーリンは、聞いているだけで喉が乾いた。


クリスチーナが言っていた断片が、ようやく形を取り始める。


けれど、遅い。


彼女本人はいない。


「私は、リュール同期記録など動かせません」


「分かっています」


「試作機運用データも」


「君が触れるものではない」


「では、なぜ私の責任に?」


ブライアンは答えなかった。


紙を持つ指に、少しだけ力が入る。


その沈黙が、答えに近かった。


「この書類は、閲覧した事実を確認するものではありません」


ブライアンが言う。


「閲覧後に何かが起きた場合、君へ責任を結びつけるためのものです」


マーリンは笑おうとした。


失敗した。


「クリスと同じことを仰るのね」


「クリスチーナ嬢がそう読んだなら、正しい」


「では、署名しない方がいいですね」


「はい」


ブライアンは即答した。


その即答に、少しだけ救われた気がした。


救いは、ほんの一瞬だった。


扉が叩かれる。


屋敷の者が入ってきた。


手には、小さな通信端末。


「ロイス公爵閣下より、ご連絡でございます」


マーリンは椅子の肘掛けに指を置いた。


冷たい。


「繋いでください」


端末に、ロイス公爵の声が乗る。


顔は映らない。


声だけ。


その方が、かえって父らしかった。


『マーリン』


「お父様」


『書類確認は済んだか』


「まだです」


『必要な署名を先に済ませろ』


「確認してから署名いたします」


『確認は済んでいる』


「私の確認は済んでおりません」


端末の向こうで、わずかな沈黙があった。


人工心肺装置の音までは聞こえない。


けれど、聞こえる気がした。


一定で。


冷たくて。


人の息より、命令に近い音。


『NewEra関連資料を閲覧した事実はある』


「はい」


『クロードの端末を開いた。関連資料に触れた。カーチスライトも同席した。アリソンも書類を確認した』


マーリンは眉を寄せる。


クリスチーナの名が出た。


「クリスはどこですか」


『今は関係ない』


「関係あります」


『関係ない』


声は変わらない。


父はいつも、切るべきものを迷わず切る。


人も。


言葉も。


問いも。


『閲覧確認の署名を拒めば、閲覧経路の正当性そのものが疑われる。クロードの端末、閲覧に関与した者、書類を確認した者。すべて聴取対象となる』


ブライアンの目がわずかに動いた。


マーリンは気づいた。


これは、脅しだ。


けれど、ただの脅しではない。


手続きの形をしている。


「私が署名すれば、クリスは戻るのですか」


『アリソンの処遇と署名は別件だ』


「では、なぜ今、名前を出したのですか」


返事はない。


沈黙。


ブライアンの沈黙とは違う。


父の沈黙は、扉のようだった。


閉じるための沈黙。


『マーリン』


「はい」


『お前はNewEraに疑念を示した。学園でも、屋敷でも。今、閲覧確認への署名を拒めば、疑念は隠匿の意思として扱われる』


「疑うことと、隠すことは違います」


『判断するのは、お前ではない』


短い言葉だった。


それだけで、十分だった。


マーリンは、手元の書類を見る。


判断するのは、お前ではない。


父は、そう言った。


「お父様は、私を信じておられないのですね」


『信じる信じないの話ではない』


「では、何の話ですか」


『処理の話だ』


処理。


部屋の温度が下がった気がした。


マーリンは口元を押さえそうになり、こらえた。


「私は、人です」


『だから、処理には手続きが必要になる』


ブライアンが一歩前に出た。


「ロイス公爵閣下。少なくとも、NewEra関連資料閲覧・接続管理責任確認書については文面修正が必要です。保全拘束条項の範囲が広すぎます」


『カーチスライト』


父の声が、少しだけ鋭くなる。


『君は婚約者として同席しているのか。それともNewEraの関係者として異議を述べているのか』


ブライアンは止まった。


ほんの一瞬。


「どちらでもあります」


『ならば、より慎重に発言しろ。閲覧責任を曖昧にしたまま放置する方が危険だ』


「署名を急がせる方が危険です」


『急がせてはいない。遅れを戻している』


正しい言い方。


いつもの、ロイス家の言い方。


マーリンは、父の姿がなくても分かる。


あの冷たい目。


あの痩せた指。


あの人工の呼吸音。


『マーリン。署名しろ』


命令だった。


父の声は、娘に向けるものではなかった。


家の者に向けるものでもない。


道具へ向けるものに近かった。


「署名すれば、私の責任になるのですね」


『責任を明確にするための署名だ』


「私がしていないことでも?」


『していないと証明すればよい』


「証明する機会はありますか」


『手続きに従えばある』


「その手続きは、誰が作ったものですか」


返事はない。


もう、答えは必要なかった。


マーリンは書類の上へ手を置いた。


指が震えている。


クリスチーナがいれば、その手を押さえたかもしれない。


いいえ。


押さえただろう。


「お嬢様、なりません」と言って、侍女の礼儀など捨てて止めただろう。


けれど、クリスチーナはいない。


ミハイルもいない。


ステラもいない。


クロードもいない。


ブライアンはいる。


けれど彼は、手続きの外側へ出られない。


「ロイス嬢」


ブライアンが低く呼んだ。


「署名すべきではありません」


「署名しなければ?」


「僕が保留を申し立てます」


「通りますか」


ブライアンは答えない。


また。


沈黙。


マーリンは少しだけ笑った。


「本当に、正直な方」


「ロイス嬢」


「ブライアン様。私が署名しなければ、クリスも、あなたも、クロードお兄様の端末も、すべて聴取対象になるのでしょう」


「それは、脅しです」


「ええ」


マーリンは頷く。


「でも、脅しも手続きの服を着ると、正しく見えます」


ブライアンの顔が痛そうに歪んだ。


彼が悪いわけではない。


そう思う。


思いたい。


けれど、今この部屋で、マーリンを止める手は足りない。


クリスチーナの手が、足りない。


「お嬢様、署名なさらないでくださいませ」


あの声が、耳に残っている。


届いていた。


けれど、全部ではなかった。


なぜ署名してはいけないのか。


どうすれば避けられるのか。


誰を頼ればいいのか。


そこまでは、届かなかった。


届かなかった警告は、刃にはなる。


盾にはならない。


マーリンはペンを取った。


軽い。


こんなに軽いものが、人を縛る。


剣より軽い。


リュールの操縦桿より軽い。


ステラのシューティングスターが消えた時の、あの光よりずっと軽い。


それなのに、重かった。


「まず、婚約発表同意から」


屋敷の者が書類を差し出す。


マーリンは署名する。


マーリン=ロイス。


美しい字だった。


手が震えているのに、字だけは崩れない。


嫌になるほど、振る舞えてしまう。


次に、医療情報共有同意。


睡眠。


食事。


魔力残量。


精神状態。


マーリンは一度、ペンを止める。


「これも、私を守るためですか」


屋敷の者は答えない。


ブライアンが答える。


「本来は」


本来は。


便利な言葉だった。


マーリンは署名した。


次に、リュール運用権限補足。


リュール。


あの子。


あの白い機体。


マーリンの糸に反応し、マーリンを戦場へ連れていった子。


あの子も、紙の上ではただの運用資産になる。


署名する。


マーリン=ロイス。


次に、侍女業務補助体制。


マーリンの手が止まった。


専属侍女の同席制限。


医療面談時の立会い制限。


緊急時の移送・診察・隔離。


「クリスが、嫌がりそう」


小さく呟いた。


誰も答えない。


それが答えだった。


マーリンはペンを握り直す。


「……ごめんなさい、クリス」


署名した。


インクの線が、白い紙の上で乾いていく。


まるで、細い扉が閉じるみたいだった。


そして最後。


NewEra関連資料閲覧・接続管理責任確認書。


紙は薄い。


けれど、机の上で一番重い。


ブライアンが手を伸ばしかける。


止めたいのだと分かった。


けれど、彼の手は途中で止まる。


ロイス公爵の通信が、まだ繋がっている。


屋敷の者が見ている。


NewEra安全管理部門の印が、紙の上で冷たく光っている。


「ロイス嬢」


ブライアンの声は、ほとんど祈りに近かった。


「署名すれば、君の名が責任者として残ります」


「署名しなければ、疑っていることが罪になるのでしょう」


「僕が」


「ブライアン様」


マーリンは、彼を見る。


「あなたは、私を守ろうとしてくださいます」


「はい」


「でも、守るための手続きが間に合う前に、私を傷つける手続きが動くのですね」


ブライアンは答えなかった。


マーリンは、少しだけ微笑む。


「分かりました」


分かっていない。


本当は何も分かっていない。


けれど、言うしかなかった。


屋敷の者が、書類の一文を読み上げる。


「マーリン=ロイスは、NewEra関連資料の閲覧事実を確認し、接続管理責任の条項を承認する」


読み上げなくてもいい。


そう思った。


でも、読む。


正しい手続きだから。


マーリンは署名した。


マーリン=ロイス。


最後の線まで、美しかった。


裏切ったのは、誰だろう。


父か。


帝国か。


書類か。


それとも、署名した自分の手か。


ペン先を置いた瞬間、マーリンには分からなくなった。


書類は、すぐに回収された。


あまりにも早かった。


乾ききっていないインクへ、吸い取り紙が置かれる。


印が押される。


屋敷の者が封筒へ入れる。


封蝋。


ロイス家の紋。


NewEra安全管理部門の印。


全部が、決まっていたように動いた。


マーリンはそれを見ていた。


椅子に座ったまま。


手が冷たい。


ブライアンは通信端末を操作している。


彼の動きが、いつもより速い。


「ブライアン様?」


「確認します」


「何を?」


「この書類が、どの経路へ送られるか」


その言い方に、マーリンは不安を覚えた。


屋敷の者が扉を開ける。


その時、部屋の通信端末が鳴った。


短い電子音。


冷たい音。


屋敷の者が立ち止まる。


ブライアンの端末にも、同じ表示が走る。


彼の顔色が変わった。


本当に、変わった。


マーリンは初めて見た。


ブライアンが、礼儀より先に感情を表に出すところを。


「何が」


彼は答えない。


画面を見ている。


表示されている文字が、マーリンの位置からも少しだけ見えた。


《NewEra中核資料:接続異常を確認》


《リュール同期関連データ:外部移送記録を検出》


《経路:敵性通信帯に類似》


《推定接続先:王国側通信経路》


《閲覧確認者を照合中》


マーリンは、息を止めた。


王国側通信経路。


クリスチーナが叫んでいた言葉。


届かなかった言葉。


届かなかった意味。


表示が更新される。


《閲覧確認者:マーリン=ロイス》


《一次管理責任者:マーリン=ロイス》


《保全拘束対象:該当》


「……早すぎる」


ブライアンが言った。


声が低い。


怒りとも、恐れとも違う。


もっと苦いものだった。


「早すぎる?」


「流出経路の照合、署名責任者の確定、保全拘束対象の判定。ここまで整うには、本来なら時間がかかる」


マーリンは画面を見る。


文字は冷たい。


正しい。


あまりにも正しい。


「では」


喉が乾く。


「最初から、用意されていたのですね」


ブライアンは答えなかった。


その沈黙が、今度こそ答えだった。


通信端末から、ロイス公爵の声がした。


まだ繋がっていた。


『マーリン』


「お父様」


自分の声が、遠い。


『NewEra中核資料、およびリュール運用関連データの敵性通信帯への流出容疑が確認された』


「私は何もしておりません」


『それは取り調べで述べろ』


「今、署名したばかりです」


『署名によって責任者が確定した』


「お父様」


マーリンは、ゆっくり息を吸う。


息が浅い。


「これは、最初から決まっていたことですか」


通信の向こうは静かだった。


それから、父の声が返る。


『帝国に必要なのは、事実ではなく、処理できる形だ』


ブライアンが顔を上げた。


「ロイス公爵閣下」


『カーチスライト。君はこの件に関して、以後の発言に注意しろ。婚約者としての関与も、NewEra関係者としての関与も記録に残る』


ブライアンの口が閉じる。


閉じさせられた。


マーリンはそれを見ていた。


優しい人。


正しい人。


止めきれない人。


「お父様」


『何だ』


「私は、有用ではなくなったのですか」


わずかな沈黙。


『疑う象徴は害になる』


聞いた言葉だった。


同じ言葉。


やっと、つながった。


NewEraを疑ったから。


クロードの言葉に近づいたから。


撃墜女王として意味を持ちすぎたから。


マーリンは、使われるだけでは済まなくなった。


だから、裏切り者にされる。


希望の花は、枯れたことにされる。


帝国に都合のよい形で。


「私を罪人にすれば、私が何を言っても信じてもらえませんものね」


『感情的な解釈だ』


「でも、間違ってはいないでしょう」


ロイス公爵は答えなかった。


父の沈黙は、いつも扉だ。


今回も閉じた。


『保全拘束に従え。潔白なら、手続きの中で証明される』


「その手続きも、お父様が用意したものですか」


『マーリン』


声が低くなる。


『ロイス家に、これ以上傷をつけるな』


通信は切れた。


あまりにも簡単に。


父と娘の会話ではなく、処理の終了音のように。


部屋の中は静かだった。


書類はもうない。


署名した紙は、マーリンの手元に残っていない。


名前だけが残った。


責任者として。


容疑者として。


裏切り者として。


「ロイス嬢」


ブライアンが近づく。


「君がやったとは思っていません」


「ええ」


「僕が必ず」


「何を?」


マーリンが尋ねる。


ブライアンは言葉を止めた。


必ず。


その先がない。


彼は嘘を言えない人だった。


言えるかもしれない。


けれど、マーリンの前では、言い切れなかった。


「調べます」


「手続きの中で?」


ブライアンは、痛そうに目を伏せた。


「……はい」


マーリンは頷いた。


「では、私は手続きの中で罪人になるのですね」


「違います」


「今は違っても」


マーリンは、机の上を見る。


そこにあった書類はない。


クリスチーナの手が整えた紙は、すべて持っていかれた。


「紙はもう、私の味方ではありません」


ブライアンは何も言えなかった。


マーリンは、彼を責める気にはなれなかった。


責めれば、楽になるかもしれない。


でも、違う。


ブライアンは裏切ったのではない。


守りきれなかった。


それは、もっと苦い。


「ブライアン様」


「はい」


「クリスは、どこですか」


その問いに、ブライアンはすぐ答えられなかった。


マーリンは笑った。


今度は、ちゃんと笑えた。


ちゃんと笑えた分だけ、空っぽだった。


「本当に、黙るときが一番正直です」


「ロイス嬢」


「彼女がいれば、私は署名しなかったかもしれません」


ブライアンの手が、わずかに動く。


「探します」


「はい」


信じたい。


信じたいのに、胸の奥はもう冷えていた。


廊下の向こうから、軍靴の音が聞こえる。


一定の音。


乱れない音。


近づいてくる音。


保全拘束。


書類にあった言葉。


それが、紙から廊下へ出てきた。


マーリンは立ち上がろうとして、少しだけふらついた。


ブライアンが手を伸ばす。


「ロイス嬢」


「大丈夫です」


言った。


言ってしまった。


ブライアンは、その言葉を疑うように眉を寄せた。


けれど、ミハイルのようには言わなかった。


クリスチーナのようにも、ステラのようにも。


大丈夫ではありません、と。


君の大丈夫は信用しない、と。


甘いものは帰ってからです、と。


誰も言わない。


だから、大丈夫は通ってしまう。


扉が叩かれた。


屋敷の者ではない。


軍の音だった。


マーリンは背筋を伸ばした。


フルール・デスポワールとして。


撃墜女王として。


ロイス家の令嬢として。


容疑者として。


どの名前で立てばいいのか、もう分からなかった。


それでも、立ててしまう。


振る舞えてしまう。


それが一番、苦しかった。


扉の向こうで、軍靴の音が止まる。


部屋の中には、香りの弱い茶と、空になった机と、言いそびれた名前だけが残っている。


マーリンは、もう一度だけ書類のあった場所を見た。


白い紙はない。


だが、白さだけは残っていた。


何もなかったような白さ。


何もかも終わった後の白さ。


その白さの中で、クリスチーナの声だけがまだ、細い糸のように揺れていた。


署名なさらないでくださいませ。


遅かった。


届いていたのに。


遅かった。


扉が開く前に、マーリンは小さく息を吸った。


罪人として呼ばれるためではない。


倒れないためでもない。


ただ、クリスチーナが整えてくれた姿勢を、最後まで崩さないために。


軍靴の音が、部屋へ入ってくる。


帝国は、希望の花を飾った。


撃墜女王として称えた。


そして、不要になった瞬間、罪の器へ変えた。


裏切ったのはマーリンではない。


けれど、署名したのはマーリンの手だった。


その手はまだ冷たい。


ペンを持った形を、覚えていた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


面白いと思っていただけましたら、ご評価、ブックマークをお願いいたします。

感想もお待ちしています。

励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。