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届かない誓い

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

クリスチーナは、ロイス公爵の部屋へ向かっていた。


廊下は静かだった。


静かすぎる廊下は、足音をよく拾う。


自分の靴音。


後ろを歩く屋敷の者の靴音。


遠くで扉が閉まる音。


そして、まだ聞こえるはずのない人工心肺装置の低い響き。


すべてが、いつもより近く聞こえた。


NewEra関連資料閲覧・接続管理責任確認書。


長い名前だった。


長い名前の書類ほど、危ない。


クリスチーナは、頭の中で文言を繰り返す。


NewEra関連資料。


リュール同期記録。


試作機運用データ。


閲覧後に発生した接続履歴。


複製。


移送。


外部接続。


敵性通信帯。


王国側通信経路。


保全拘束。


一つでも落としてはいけない。


一つでも言い換えてはいけない。


旦那様の前で言葉を乱せば、侍女の感情として片づけられる。


感情的関与。


すでに、その札を貼られかけている気がした。


けれど、感情だけではない。


これは文章の問題だ。


書類の問題だ。


お嬢様の名を、罪の形へはめ込むための問題だ。


クリスチーナは、手袋の中で指を重ねる。


震えてはいない。


よかった。


震えないことに、少しだけ悲しくなる。


震えるほど怖いのに。


怖くない顔で歩けてしまう。


ロイス家に仕えるうちに覚えたことだった。


この屋敷では、正しく微笑む者ほど疑われにくい。


「アリソン様」


前を歩く屋敷の者が振り返る。


「どうかなさいましたか」


「いいえ」


クリスチーナは微笑む。


いつもの侍女の顔で。


「旦那様をお待たせしてはなりませんので」


屋敷の者は頭を下げ、また歩き出す。


その頭の下げ方は正しい。


角度も、間も、完璧だった。


だが、そこに心はない。


ロイス家では、心のない礼ほどよく通る。


心がある礼は、時に余計なものを含むから。


クリスチーナは、マーリンの礼を思い出す。


完璧な令嬢としての礼。


それでも、ほんの少しだけ指先が語る。


疲れている時。


怒りを飲み込んでいる時。


笑いたくない時。


泣きたい時。


クリスチーナは、それを見てきた。


ずっと見てきた。


だから、書類の中に隠れた罠も見つけられた。


お嬢様のそばにいたから。


お嬢様を見ていたから。


それを、感情的関与と呼ばれるなら。


そうなのだろう。


クリスチーナは、奥歯を軽く噛んだ。


それでもいい。


お嬢様を守るために使えるなら、感情であってもかまわない。



ロイス公爵の部屋の扉が開く。


中は、相変わらず温度が低かった。


寒いわけではない。


ただ、人が休むための温かさがない。


人工心肺装置が、一定の音を刻んでいる。


生きるための音。


生きながら、人から遠ざかっていく音。


クリスチーナは礼をした。


「お呼びと伺いました」


ロイス公爵は、机の向こうで書類を見ていた。


目を上げるのが遅い。


相手が待つことに慣れている人の動きだった。


部屋の奥には、機械の細い管が何本も伸びている。


それは、公爵の身体へつながっているようにも、この部屋そのものへつながっているようにも見えた。


ロイス家。


NewEra。


人工心肺装置。


命令。


すべてが、同じ音で動いている。


「アリソン」


「はい、旦那様」


「書類確認に時間がかかっているようだな」


「お嬢様のご体調が優れません。確認には慎重を期すべきかと存じます」


「体調管理は医師と軍が行う」


「お嬢様ご本人の確認も必要でございます」


「必要なものには署名をさせる」


短い。


それだけで済ませるつもりの声だった。


クリスチーナは頭を上げる。


「旦那様。恐れながら、いくつかの書類には、お嬢様へ十分な説明が必要でございます」


「どの書類だ」


問いが早い。


早すぎる。


クリスチーナは、喉の奥を冷たく感じた。


知っている。


旦那様は知っている。


少なくとも、どの書類をこちらが問題視するか、見当をつけている。


「NewEra関連資料閲覧・接続管理責任確認書でございます」


ロイス公爵の表情は変わらなかった。


「機密保持の確認だ」


「機密保持の範囲を超えております」


「NewEra関連資料を閲覧した以上、責任は発生する」


「閲覧した資料への責任ならば、理解できます」


クリスチーナは一語ずつ置くように言った。


「ですが、あの書類はNewEra関連資料だけではなく、リュール同期記録、試作機運用データ、閲覧後に発生した接続履歴まで含んでおります。お嬢様が把握できない範囲まで、一次管理責任を負わせる内容でございます」


ロイス公爵は、少しだけ目を細めた。


「よく読んでいる」


褒め言葉ではなかった。


「侍女の務めでございます」


「侍女の務めは、主の身支度を整えることだ。国家機密文書の解釈ではない」


「お嬢様が署名なさる書類であれば、私の務めの内でございます」


空気が、さらに冷えた。


人工心肺装置の音だけが、規則正しく続いている。


呼吸の代わり。


心音の代わり。


情の代わり。


「アリソン」


「はい」


「お前は、マーリンに近すぎる」


言われると思っていた。


それでも、胸の奥が鈍く痛んだ。


「専属侍女でございますので」


「専属侍女と、感情的な保護者は違う」


クリスチーナは手を握りそうになり、止めた。


手袋の中で指を重ねる。


お嬢様なら、きっと微笑む。


どんな時でも。


ならば、自分も微笑める。


「お嬢様をお守りすることは、感情的関与ではございません」


「守る?」


ロイス公爵の声に、薄い笑いが混じった。


「お前がマーリンを守れるのか」


クリスチーナは答えられなかった。


守れる。


そう言いたかった。


でも、戦場でマーリンを守れなかった。


ステラを守れなかった。


お嬢様の震える手を、いつも止められたわけではない。


ロイス公爵の命令も。


軍の要請も。


NewEraの書類も。


全部、止められたわけではない。


守れる、などと簡単には言えない。


けれど。


「守れないから、黙るのではございません」


クリスチーナは言った。


「届く限り、お伝えいたします」


「何を」


「署名なさってはならない、と」


ロイス公爵の目が、冷たくなる。


「それは命令か」


「侍女から主への進言でございます」


「進言にしては強い」


「強く申し上げなければ、お嬢様が危険でございます」


「危険なのは、マーリンではない」


ロイス公爵は静かに言った。


「マーリンが持つ意味だ」


また、その言葉。


意味。


クリスチーナは、ほんの少しだけ唇を噛みそうになった。


「お嬢様は意味ではございません」


「意味を持たされた人間は、意味として処理される」


「処理」


言葉が、思わず低くなった。


ロイス公爵は動じない。


「マーリンは撃墜女王だ。帝国の希望として使われた。NewEraの中核へ触れ、疑念を持ち始めている。あれが不用意に動けば、計画全体に傷が入る」


「あれ、ではございません」


クリスチーナの声は、静かだった。


静かなのに、自分でも驚くほど鋭かった。


「マーリンお嬢様でございます」


ロイス公爵は答えない。


答える必要がない、という沈黙だった。


その沈黙で、クリスチーナはやっと分かった。


この人には届かない。


お嬢様が人であることは、ロイス公爵にとって前提ではない。


必要なら人。


必要なら器。


必要なら象徴。


必要なら罪人。


形を変えられるもの。


そう見ている。


「だから、罪人にできる形を整えるのですか」


言ってしまった。


部屋の空気が止まる。


屋敷の者が息を呑んだ気配がした。


クリスチーナ自身も、己の言葉の重さを知っていた。


だが、撤回しなかった。


ロイス公爵は、しばらく黙っていた。


それから、人工心肺装置の音に重ねるように言った。


「お前は、言葉の選び方を誤った」


「では、正しく申し上げます」


クリスチーナは頭を下げた。


深く。


けれど、声は下げなかった。


「あの書類は、お嬢様を守るものではございません。NewEra関連資料やリュール運用データが王国側通信経路へ流れたとされた場合、お嬢様を保全拘束できる形を先に整えるものです」


「必要な備えだ」


「何かが起きる前から、起きた後の責任者だけが決まっている備えでございます」


「国家機密とはそういうものだ」


「お嬢様は国家機密ではございません」


「リュールの操縦者だ」


「人でございます」


「ロイス家の者だ」


「お嬢様でございます」


声が重なった。


どちらも退かなかった。


クリスチーナの胸の奥で、何かが静かに燃えている。


怒りではない。


怒りだけではない。


恐怖。


焦り。


悔しさ。


そして、それ以上に、どうしようもない庇護欲。


あの方を一人にしてはいけない。


あの方は、また大丈夫と言ってしまう。


また必要ならと答えてしまう。


また笑ってしまう。


誰かが止めなければならない。


止める人が、まだ自分しかいないなら。


「アリソン」


ロイス公爵は言った。


「お前は優秀だった」


だった。


その一語が、静かに落ちる。


ミハイルの死も、ステラの死も、数字になった。


今度は、クリスチーナの忠義が過去形になった。


「ですが、お嬢様を危険に晒す書類への署名を止めることが侍女失格であるなら、私は失格で結構でございます」


「よいだろう」


ロイス公爵は、あまりにも簡単に言った。


「しばらく、マーリンの専属から外す」


世界が、一瞬だけ遠くなった。


音が薄くなる。


けれど、人工心肺装置の音だけは残った。


一定に。


正しく。


「……旦那様」


「侍女業務補助体制は、そのためのものでもある」


「お嬢様には、まだ」


「伝える必要はない」


「いいえ」


クリスチーナは一歩前に出た。


屋敷の者が動く。


「お嬢様は、知らないまま署名したくないと仰いました」


「マーリンの体調では判断を誤る」


「判断を奪う理由にはなりません」


「感情的だな」


「はい」


クリスチーナは初めて、そう答えた。


ロイス公爵の目が動く。


「感情がございます。お嬢様が大切ですので」


侍女としては、失格かもしれない。


けれど、これだけは嘘ではない。


「それでも、書類は読めます。危険な文言は分かります。署名してはならないものがあることも、分かります」


「連れて行け」


ロイス公爵が言った。


屋敷の者が、両側から近づく。


クリスチーナは振り返った。


「お嬢様にお伝えしなければなりません」


「不要だ」


「必要でございます」


「アリソン」


ロイス公爵の声が低くなる。


「これ以上、ロイス家の邪魔をするな」


クリスチーナは、その言葉で決めた。


礼はしない。


ここで礼をすれば、認めたことになる。


だから、ただ背を向けた。


侍女として、許されない振る舞い。


けれど、お嬢様を守れない礼儀など、今はいらなかった。



廊下へ出た瞬間、クリスチーナは走った。


屋敷の者が呼ぶ声が後ろから来る。


「アリソン様!」


様はいらない。


今だけは、呼び止めるための飾りにしか聞こえなかった。


マーリンの部屋は遠くない。


遠くないはずだった。


けれど、廊下は伸びる。


白い壁が続く。


扉が並ぶ。


ロイス家の屋敷は広い。


広すぎる。


大切な人の元へ戻るには、いつも少しだけ遠い。


「お嬢様!」


声を上げる。


屋敷で走るなど、論外だ。


大声を出すなど、もっと論外だ。


知っている。


全部、知っている。


「お嬢様!」


扉が見えた。


マーリンの部屋。


あと少し。


屋敷の者が後ろから腕を掴もうとする。


クリスチーナは振り払った。


細い身体だ。


力が強いわけではない。


それでも、この一瞬だけは止まれなかった。


扉の前に辿り着く。


叩く。


一度では足りない。


「お嬢様! お嬢様、署名なさらないでくださいませ!」


中で、何かが動く気配がした。


届いた。


少なくとも、声は届いた。


クリスチーナは扉に手をつく。


「NewEra関連資料の確認書でございます! あれは機密保持ではございません!」


言い終える前に、後ろから腕を取られた。


「アリソン様、こちらへ」


「離しなさい!」


自分でも聞いたことのない声だった。


「お嬢様! リュール同期記録と、試作機運用データまで含まれております! 王国側通信経路と――」


口元を塞がれた。


布。


薬の匂い。


甘くはない。


冷たい匂い。


喉が焼ける。


それでも、クリスチーナは暴れた。


扉の向こうから、かすかな声がした。


「クリス……?」


お嬢様。


そこにいる。


そこにいるのに。


「ん、っ……!」


言葉にならない。


署名を。


署名をしてはいけません。


その書類に、名前を残してはいけません。


お嬢様。


お願いです。


扉が遠ざかる。


視界が揺れる。


靴が床を擦る音がする。


マーリンの声が、もう一度聞こえた気がした。


「クリス?」


それが、最後に届いた声だった。



運ばれた先は、屋敷の奥だった。


普段は使われない通路。


使用人でも、限られた者しか通らない場所。


古い搬送路のような狭い廊下を抜けると、小さな待機室があった。


窓はない。


椅子が二つ。


机が一つ。


壁には、古い通信端末。


端末の灯りは消えている。


扉が閉まる。


鍵の音。


クリスチーナは壁に手をついた。


膝が震える。


薬が回っている。


でも、まだ立てる。


まだ考えられる。


まだ、伝えられる。


そう思った。


通信端末へ手を伸ばす。


画面が一瞬光る。


《アクセス制限》


赤い文字。


クリスチーナは唇を噛む。


もう一度。


《アクセス制限》


分かっている。


それでも押す。


三度目。


《アクセス制限》


「……お嬢様」


声がかすれた。


喉が痛い。


布の匂いがまだ残っている。


息を吸うたびに、身体の奥が鈍くなる。


椅子に座れば、終わる。


そう思った。


座ってしまえば、立てなくなる。


だから座らない。


壁に手をつき、扉へ向かう。


叩く。


「どなたか」


声は小さい。


違う。


これでは届かない。


「どなたか!」


叩く。


拳が痛い。


「お嬢様へ、お伝えしなければならないことがございます!」


返事はない。


扉の向こうは静かだった。


ロイス家は静かな屋敷だ。


静かに人を飾り、静かに人を閉じ込める。


クリスチーナは扉に額をつける。


冷たい。


「NewEra関連資料閲覧・接続管理責任確認書……」


声に出す。


忘れないために。


「閲覧後の接続履歴……リュール同期記録……試作機運用データ……王国側通信経路……保全拘束……」


一つずつ。


一つずつ。


マーリンへ伝える順番。


「お嬢様。署名を……」


喉が詰まる。


足元が揺れる。


白い霧のようなものが、天井の隅から流れ始めていた。


非常灯が赤く点滅する。


何かの消毒か。


鎮静か。


安全管理か。


名前は何でもいい。


人を黙らせるためのものは、いつも正しい名前を持っている。


クリスチーナは口元を押さえ、咳き込んだ。


息が浅い。


視界の端が白くにじむ。


それでも、扉を叩いた。


「お嬢様……」


叩く力が弱くなる。


「署名を、なさら……ないで……」


届かない。


分かってしまった。


この部屋からでは届かない。


扉を叩いても。


通信端末に触れても。


声を絞っても。


マーリンの部屋までは届かない。


それでも、言うしかない。


言わなければ、本当に消える。


「お嬢様は……器では、ございません……」


クリスチーナは床に膝をついた。


手袋が汚れる。


侍女として、ひどい姿だ。


お嬢様に見られたら、叱られるだろうか。


いいえ。


お嬢様なら、まず駆け寄る。


汚れた手袋など気にせず、名を呼ぶ。


クリス、と。


その声を思い出すだけで、胸が痛かった。


最初に出会った日のことを思い出す。


庭園の奥で侍女たちの目を盗み、小型の魔力計測器を分解していた。


白い手袋には土がつき、礼装の裾には草の実がつき、髪飾りは少し傾いていた。


クリスチーナを見るなり慌てて背筋を伸ばし、完璧な令嬢の顔を作ろうとした。


けれど手元には、分解途中の計測器。


隠せていない。


まったく隠せていない。


あの時からずっと。


ずっと、守りたかった。


完璧な花ではなく。


撃墜女王ではなく。


ロイス家の器でもなく。


好奇心に負けて叱られる覚悟をしている、年相応の少女。


口止めのつもりなのか、小さな菓子を差し出そうとした少女を。


「お嬢、様……」


声がもう、ほとんど音にならない。


非常灯が赤く揺れる。


白い霧が濃くなる。


クリスチーナは床に手をつく。


まだ。


まだ終われない。


マーリンは、知らないまま署名したくないと言った。


約束した。


必ず見せる。


必ず止める。


届かせる誓いだった。


届かない誓いにしてはいけなかった。


「署名を……」


唇だけが動く。


「……なさら、ないで」


届かない。


分かっている。


この部屋の中で言っても、届かない。


けれど、言わずにはいられなかった。


声にならなくても、形だけでも残したかった。


この胸にあるものが、ただ消えるのが嫌だった。


クリスチーナは、床に手を伸ばした。


指先が震える。


手袋の白い布が床を擦る。


何かを書こうとしたわけではない。


記録を残す余裕などない。


ただ、身体が勝手にマーリンのいる方角を探していた。


扉。


廊下。


その先の部屋。


寝椅子。


ティーカップ。


白い書類。


小さな甘いもの。


そこにいるはずの、守りたかった人。


「お嬢様を……」


守りたい。


最後まで。


その言葉も、声にならない。


クリスチーナの中で、記憶がほどけていく。


マーリンが初めて「クリス」と呼んだ日。


怖いのに、怖くない顔をした日。


ミハイルの名を呼んで、目を伏せた日。


ステラのために甘いものを残した日。


大丈夫と言いかけて、飲み込めた日。


少しだけ得意そうに笑った顔。


よくできました、と言えばよかった。


いいえ。


言ってはいけなかった。


そんなことで褒めてしまったら、お嬢様はまた無理をする。


それでは足りません、と言うべきだった。


もっと休んでくださいませ。


もっと怒ってくださいませ。


もっと泣いてくださいませ。


もっと、誰かに手を伸ばしてくださいませ。


そう言うべきだった。


言う機会は、まだあると思っていた。


戻れば言えると思っていた。


扉はまた開くと思っていた。


お嬢様の元へ戻れると思っていた。


「……ごめん、なさい……」


謝る相手は一人しかいない。


守れなかった。


警告を届けられなかった。


そばにいられなかった。


また一人にしてしまう。


あの人を。


大丈夫と言ってしまう人を。


必要ならと答えてしまう人を。


白い書類の前に、一人で残してしまう。


それが、何より苦しかった。


クリスチーナは床を掴もうとした。


掴めない。


手袋の指先が、力を失っていく。


「今度、こそ……」


言葉が、なぜ出たのか分からなかった。


今度。


何の今度なのか。


そんなものがあるはずもないのに。


けれど、胸の奥で何かが叫んでいた。


今度こそ。


今度こそ、守る。


大切な人が危ない書類に手を伸ばす前に。


無理をして立とうとする前に。


大丈夫と言ってしまう前に。


止める。


腕を掴む。


名前を呼ぶ。


戻りなさいと命じる。


離れない。


失わない。


その願いだけが、霧の中で最後まで形を持っていた。


膝が崩れる。


床は冷たかった。


白い。


書類みたいに。


雪みたいに。


足跡を消すものみたいに。


クリスチーナは、床へ倒れながら手を伸ばす。


扉へ。


マーリンのいる方へ。


届かない。


届かないまま、指先が落ちた。



マーリンは、部屋で目を開けた。


声がした気がした。


クリスチーナの声。


「クリス……?」


返事はない。


寝椅子から身体を起こすと、少し視界が揺れた。


ティーカップが置かれている。


書類もある。


小さな甘いものも、皿の端に残っている。


扉の向こうが、妙に静かだった。


「クリス?」


もう一度呼ぶ。


返事はない。


扉が開き、屋敷の者が入ってきた。


「マーリン様。ご気分はいかがでしょうか」


「クリスは?」


「アリソン様は、旦那様のご用で席を外しております」


「お父様の?」


「はい」


マーリンは眉を寄せる。


クリスチーナは、何かを言いかけていた。


そんな気がする。


署名してはいけない。


NewEra関連資料。


リュール同期記録。


王国側通信経路。


夢だったのか。


声だったのか。


分からない。


頭がまだ重い。


「クリスが戻ったら、すぐに呼んで」


「承知いたしました」


屋敷の者は頭を下げる。


正しい礼だった。


けれど、クリスチーナの礼とは違った。


マーリンは書類の束を見る。


白い紙。


きれいに整えられている。


クリスチーナが整えたのだろう。


ならば、彼女は戻ってくる。


戻ってきて、続きを説明してくれる。


絶対に署名してはならないものがあると、そう言った。


だから、戻ってくるはずだ。


「……クリス」


小さく呼ぶ。


返事はない。


部屋は広かった。


広い。


とても広い。


ほんの少し前まで、同じ広さではなかったのに。


白い書類だけが、机の上で静かに待っている。


署名欄は空白のまま。


空白は、いつも何かを待っている。


その空白の前に、マーリンは一人だった。



クリスチーナは、危険な書類の正体を見抜いた。


NewEra関連資料閲覧・接続管理責任確認書。


それは機密保持の書類ではない。


NewEra関連資料、リュール同期記録、試作機運用データ、閲覧後の接続履歴。


それらが王国側通信経路へ流れたとされた時、マーリンを保全拘束できる形を作る書類だった。


クリスチーナは止めようとした。


ロイス公爵に抗い、侍女としての礼儀を捨て、廊下を走り、扉越しに叫んだ。


けれど、警告は届ききらない。


マーリンに届いたのは、名前を呼ぶ声と、断片だけ。


署名してはいけない理由は届かなかった。


そしてクリスチーナは、マーリンのそばから消える。


戻るはずの侍女が戻らない部屋に、白い書類だけが残る。


次にマーリンがその紙へ向き合う時、止める声はもうない。


どこか遠い白い部屋で、届かなかった誓いだけが、まだ扉の方へ手を伸ばしていた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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