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侍女の違和感

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

書類は白かった。


白くて、厚かった。


白いものは、清らかに見える。


けれどクリスチーナは、白いものが必ずしも安全ではないことを知っている。


白い手袋は、汚れを隠さない。


白い制服は、血の色を際立たせる。


白い書類は、黒い文字をいっそう冷たく見せる。


机の上には、きれいに揃えられた紙の束があった。


婚約に関する手続き。


軍との連携確認。


リュール運用権限の補足。


医療情報の共有同意。


護衛配置の変更。


侍女業務の補助体制。


NewEra関連資料閲覧・接続管理責任確認書。


最後の一つだけ、他の書類と少し違っていた。


薄い。


枚数は少ない。


けれど、印が多い。


ロイス家。


軍。


NewEra安全管理部門。


白い紙の中で、その書類だけが妙に重く見えた。


クリスチーナは、机の前で息を整える。


焦ってはいけない。


書類は、慌てて読むものではない。


ましてロイス家の書類は、表の文言と裏の意味が同じ顔をして並んでいる。


読め。


見落とすな。


お嬢様のために。


クリスチーナは、そう自分に言い聞かせた。


マーリンは寝椅子に腰掛けていた。


眠ってはいない。


目を閉じているだけだ。


本当に眠っている時のマーリンは、もっと肩から力が抜ける。


指先の力も抜ける。


眉間の小さな皺も消える。


今は違う。


身体は疲れているのに、心だけが眠れずにいる。


「お嬢様」


クリスチーナは声をかける。


「ご気分は」


「少し、悪いわ」


マーリンは目を開ける。


「でも、大丈夫とは言っていないでしょう?」


少しだけ得意そうに言った。


そんなことで得意そうにならないでほしい。


そう思った。


けれど、その小さな得意げな顔が、クリスチーナには痛いほど愛おしかった。


撃墜女王。


帝国の希望。


リュールの操縦者。


そんな名前をいくつ重ねられても、目の前にいるのは、体調の悪さを素直に言えたことを少し誇る、年相応の少女だった。


「よくできました、と申し上げるべきでしょうか」


「子ども扱いね」


「お嬢様は、時々とてもお子様でございます」


「ひどいわ」


マーリンは少し笑った。


笑ったが、顔色はよくない。


香りの強いものは置いていない。


茶も弱いものに替えた。


甘い菓子は、小さく切って皿の端へ置いた。


食べられなくても、下げない。


それはマーリンが望んだことだ。


クリスチーナには、なぜそう望むのかも見えている。


甘いものは、もうただの甘いものではない。


ステラの声が残した、小さな居場所だ。


「少しお休みくださいませ。書類は私が確認いたします」


「クリスが全部?」


「はい」


「婚約の書類まで侍女に任せる令嬢なんて、あまり褒められないわね」


「お嬢様は、褒められるために生きておられるわけではございません」


言ってから、少し強すぎたかと思う。


けれどマーリンは、目を丸くしたあと、ほんの少し笑った。


「クリスは時々、ミーシャみたいなことを言うわ」


その名が出ると、部屋の空気が少しだけ柔らかくなり、すぐに痛くなる。


クリスチーナは頭を下げた。


「恐れ多いことでございます」


「ええ。本当に」


マーリンはティーカップを置いた。


中身はほとんど減っていない。


それでも、少し飲めただけよい。


そう思わなければならないほど、最近のマーリンの体調は細く揺れていた。


「少し、目を閉じるわ」


「はい」


目を閉じたマーリンの横顔は、驚くほど幼く見えた。


撃墜女王。


そんな名は、どこにも似合わない。


クリスチーナは書類の束へ向き直る。


守らなければならない。


そう思った。


何から。


それを、今から見つける。


最初の書類は、婚約発表に関するものだった。


これは分かる。


よくはないが、分かる。


ロイス家とカーチスライト家の婚約。


式典への出席。


発表順。


招待範囲。


軍関係者への通達。


貴族同士の婚約らしく、面倒で、重くて、息苦しい。


けれど、罠ではない。


少なくとも、表向きは。


マーリンの名前は何度も出てくる。


マーリン=ロイス。


ロイス公爵家令嬢。


カーチスライト家婚約者。


撃墜女王の名を持つ者。


どれも、紙の上では同じ人物を指している。


けれど、クリスチーナには、その一つ一つが別の鎖に見えた。


次に、軍との連携確認。


リュール運用に関する予定。


マーリンの搭乗間隔。


医師団の確認。


カーチスライト家側の立会い。


お嬢様の搭乗間隔を空けるため、と読めばよい。


体調への配慮。


カーチスライト様なら、そう考えるだろう。


実際、香りの弱い茶を用意し、医師を手配し、無理を止めようとしている。


優しい方だ。


そう思う。


思うのに、紙の中の言葉は冷たい。


――戦力維持を目的とする体調管理。


戦力。


お嬢様ではない。


戦力。


クリスチーナは一度、息を吐く。


ここで腹を立ててはいけない。


書類とはそういうものだ。


人を人として書かない。


役職。


権限。


責任。


配置。


そういう言葉へ変える。


それでも、嫌なものは嫌だった。


お嬢様は戦力ではない。


リュールの部品でもない。


帝国の便利な象徴でもない。


マーリンだ。


困ると少し眉を下げる。


褒められると荷物を増やす。


怖くても、怖いと言うまで時間がかかる。


甘いものを前にして、食べたいのか食べたくないのか分からない顔をする。


そういう人だ。


次のページ。


――緊急時における代理承認。


クリスチーナの指が止まる。


代理承認者欄には、ロイス公爵。


カーチスライト家代表。


軍責任者。


本人が意識不明、または著しい混乱状態にある場合。


本人が合理的判断能力を欠くと認められる場合。


任務遂行上、即時判断を要する場合。


文章は、正しい。


戦場では必要なのだろう。


リュールは試作機であり、マーリンの負荷は高い。


判断が遅れれば、機体にも操縦者にも危険が及ぶ。


理屈は分かる。


だが、範囲が広すぎる。


混乱状態。


合理的判断能力を欠く。


それを誰が決めるのか。


お嬢様が泣いたら。


戦いたくないと言ったら。


リュールに乗りたくないと言ったら。


ブライアン様を疑ったら。


旦那様に逆らったら。


それは、混乱になるのか。


感情的判断になるのか。


クリスチーナは、そっとページをめくる。


指先が冷たい。


紙の端はまっすぐで、触れると少し痛い。


薄い傷にもならない痛み。


けれど、積み重なれば人を止める痛みだった。


医療情報の共有同意書は、もっと嫌だった。


ロイス家専属医。


軍医局。


カーチスライト家医療顧問。


NewEra関連安全管理部門。


共有先が多い。


多すぎる。


体温。


脈拍。


魔力残量。


戦闘後症状。


睡眠状態。


食事量。


薬剤投与歴。


精神状態評価。


精神状態。


クリスチーナはそこを何度も読む。


マーリンは、体調が安定していない。


香りに弱くなっている。


食事も進まない。


疲れやすい。


めまいもある。


それらを医師が見るのは必要だ。


必要ではある。


だが、NewEra関連安全管理部門とは何か。


お嬢様の体調が、なぜNewEraに渡るのか。


リュールの操縦者だから。


そう言われれば、反論しにくい。


リュールとお嬢様は深く繋がっている。


搭乗者の負荷を管理するのは、試作機運用として正しい。


正しい。


正しいから、嫌だった。


正しい書類ほど、正しい顔で人を縛る。


間違った書類なら破ればいい。


だが、正しい書類は破りにくい。


必要。


安全。


管理。


保護。


そういう言葉をまとっているから。


「クリス……?」


寝椅子から、マーリンの声がした。


クリスチーナはすぐに顔を上げる。


「はい、お嬢様」


「怖い顔をしているわ」


「失礼いたしました」


「書類が、そんなに怖い?」


マーリンは冗談めかして言う。


顔色はまだ少し悪い。


それでも、人を和ませようとする。


クリスチーナは喉の奥が詰まる。


「怖いものでございます。書類は」


「剣より?」


「はい」


即答した。


マーリンが少しだけ笑う。


「クリスらしいわ」


「剣は、どちらから来るか見えます」


クリスチーナは書類へ視線を戻す。


「書類は、気づいた時には足元に絡んでおりますから」


マーリンはしばらく黙った。


「そうね」


その声は、思ったより低かった。


「最近、少し分かるわ」


クリスチーナは、これ以上は言わなかった。


今言えば、お嬢様は起き上がってしまう。


確認しようとする。


疲れているのに。


だから、飲み込んだ。


飲み込んでしまった。


それが後悔になるかもしれない。


そう思ったのに、今は休ませる方を選んだ。


お嬢様の身体は、本当に限界に近い。


顔色。


呼吸。


指先。


ティーカップへ伸びる手の遅さ。


全部が、休ませろと言っている。


書類は逃げない。


そう思った。


そう思いたかった。


侍女業務補助体制。


その題名を見た瞬間、クリスチーナの背筋が硬くなった。


補助。


一見、ありがたい言葉だ。


お嬢様の体調が優れないため、身の回りの支度を増員する。


軍や式典への随行時、別家の侍女や女性補佐官を配置する。


専属侍女の負担を軽減する。


とても優しい。


とても正しい。


だが、細部が違う。


――医療面談時、専属侍女の同席を必要に応じて制限する。


――軍務関係者との面談時、専属侍女の立会いは事前承認制とする。


――婚約発表以降、カーチスライト家側補助者を身辺管理に加える。


――緊急時、専属侍女を待たずに移送・診察・隔離を実施できる。


隔離。


クリスチーナは、その文字から目を離せなかった。


隔離。


誰を。


お嬢様を。


誰から。


危険から。


混乱から。


感情から。


侍女から。


そう読めてしまう。


「……いいえ」


小さく呟く。


これは補助ではない。


距離を作る書類だ。


マーリンとクリスチーナの間に、別の目と、別の手と、別の許可を挟むためのもの。


ロイス家は、距離を作るのが上手い。


近づきすぎた者を、礼儀という名で遠ざける。


忠義という名で従わせる。


配慮という名で、同席を制限する。


クリスチーナは、初めてマーリンに会った時のことを思い出す。


完璧な令嬢だと聞いていた。


帝国の希望。


フルール・デスポワール。


美しく、聡明で、誰もが憧れる少女。


実際に会ったマーリンは、庭園の奥で、小型の魔力計測器を分解していた。


白い手袋には土がつき、礼装の裾には草の実がつき、髪飾りは少し傾いていた。


クリスチーナを見るなり、マーリンは慌てて背筋を伸ばした。


完璧な令嬢の顔を作ろうとした。


けれど、手元には分解途中の計測器。


隠せていない。


まったく隠せていない。


クリスチーナは、まず手袋を替えるよう促した。


マーリンは少しだけ拗ねた。


それから、すぐに笑って従った。


あの時の顔が、忘れられない。


完璧な令嬢ではなかった。


可愛らしい少女だった。


好奇心に負ける。


怒られると分かっていても、見たいものに手を伸ばす。


けれど、誰かを困らせたと気づくと、少しだけ肩を落とす。


そんな少女だった。


その少女が、今は撃墜女王と呼ばれている。


婚約者を与えられ、軍の書類に囲まれ、NewEraに接続されようとしている。


そして、侍女まで遠ざけられようとしている。


「駄目です」


声が出た。


小さい。


でも、確かだった。


最後に残ったのは、NewEra関連資料閲覧・接続管理責任確認書だった。


題名だけなら、ただの機密保持書類に見える。


クロードの端末を開いた。


NewEra関連資料を閲覧した。


ならば、閲覧した者が内容を外へ漏らさないと誓う。


そういう書類なら、まだ分かる。


分かりたくはないが、分かる。


けれど、クリスチーナは一行目で手を止めた。


――閲覧者は、NewEra関連資料、リュール同期記録、試作機運用データ、およびこれらに紐づく接続履歴について、閲覧後に発生した複製・移送・外部接続記録の一次管理責任を負う。


長い。


長すぎる。


機密保持の文章にしては、背負わせる範囲が広すぎる。


閲覧した資料を漏らさない。


そこまでは分かる。


けれど、閲覧後に発生した接続履歴まで。


リュール同期記録まで。


試作機運用データまで。


それは、マーリンが触れたものだけではない。


マーリンの名に、後からいくらでも結びつけられるものだ。


クリスチーナは、次の行を読む。


――関連資料または関連運用データが、未承認外部通信経路、敵性通信帯、または王国側通信経路と推定される経路へ接続・移送された場合、閲覧確認者は保全拘束および聴取の対象となる。


保全拘束。


喉の奥が冷えた。


拘束。


その言葉は、書類の中であまりにも静かに置かれていた。


まるで、茶器の横に置かれた砂糖菓子のように。


しかし、砂糖ではない。


刃だった。


クリスチーナはもう一度読む。


閲覧確認者。


お嬢様。


マーリン=ロイス。


この書類は、機密を守るためのものではない。


機密が流れた時、誰を捕まえるかを先に決めておくためのものだ。


「……違う」


小さく声が漏れた。


これは、マーリンに責任を負わせる書類だ。


しかも、ただの管理責任ではない。


NewEra関連資料。


リュール同期記録。


試作機運用データ。


王国側通信経路。


言葉が揃いすぎている。


まだ何も起きていないはずなのに。


まるで、何が起きるか先に分かっているようだった。


クリスチーナは紙を持つ手に力を込める。


角が少し歪みそうになり、慌てて緩めた。


証拠を傷つけてはいけない。


侍女の感情で紙を乱したなどと言われれば、この書類は簡単に取り上げられる。


マーリンへ届かなくなる。


それだけは、駄目だ。


「これは……駄目です」


声は小さかった。


けれど、はっきりしていた。


この書類に署名してはいけない。


署名すれば、マーリンの名前が残る。


美しい字で。


完璧な令嬢の筆跡で。


逃げられない証として。


そして何かが起これば、帝国は言える。


閲覧確認者はマーリン=ロイス。


一次管理責任者はマーリン=ロイス。


保全拘束の対象はマーリン=ロイス。


やっていないことでも。


知らないことでも。


署名があれば、形になる。


ロイス家は、形を作るのがうまい。


正しい形。


美しい形。


逃げ道のない形。


クリスチーナはその時、はっきりと見た。


これは、マーリンを守るための書類ではない。


マーリンをいつでも罪人にできる書類だ。


「クリス」


マーリンが再び声をかける。


今度は、ただの呼びかけではなかった。


「何か、あるのね」


クリスチーナは顔を上げる。


隠すべきか。


いや。


隠せない。


隠してはいけない。


「お嬢様」


クリスチーナは慎重に言った。


「この中に、絶対に署名なさってはならないものがございます」


マーリンの表情が変わる。


「絶対に?」


「はい」


その言葉は、侍女として強すぎる。


分かっている。


それでも、弱められなかった。


「機密保持の書類に見えます。ですが実際には、NewEra関連資料やリュール運用データが外部へ流れた場合、お嬢様を一次管理責任者として拘束できる内容でございます」


「拘束……?」


マーリンが小さく呟く。


顔色がさらに白くなる。


クリスチーナは胸が痛んだ。


言いたくない。


こんなこと、マーリンに聞かせたくない。


でも、知らないまま署名させる方がもっと悪い。


「閲覧した資料だけではございません。閲覧後に発生した接続履歴や、リュール同期記録、試作機運用データまで含まれております」


「私が、そんなものを動かせるわけが」


「だから危険なのです」


クリスチーナは言う。


「動かせるかどうかではございません。お嬢様の名に結びつけられる形になっております」


マーリンは書類へ手を伸ばそうとした。


その瞬間、わずかに口元を押さえる。


「お嬢様」


「少し、気分が悪いだけよ」


「では、今はここまででございます」


「でも」


「この書類は逃げません。ですが、お嬢様のお身体は待ってくださいません」


クリスチーナは書類を引いた。


マーリンは悔しそうに唇を結ぶ。


「クリス」


「はい」


「必ず、あとで見せて」


「必ず」


クリスチーナは答えた。


「そして、署名を止めます。たとえ旦那様のご意向でも、カーチスライト様の前でも」


言ってから、自分でも驚いた。


けれど、撤回しなかった。


マーリンはしばらくクリスチーナを見ていた。


それから、小さく頷いた。


「お願い、クリス」


「はい、お嬢様」


この時、クリスチーナは思った。


間に合う。


必ず伝えられる。


そう信じた。


扉が控えめに叩かれた。


クリスチーナは書類を整え、立ち上がる。


入ってきたのは、屋敷の者だった。


名を呼ぶ必要のない相手。


呼ぶ必要のない相手ほど、ロイス家では命令を正しく運ぶ。


「アリソン様。旦那様の執務室より、書類確認の進捗を伺うようにと」


早い。


早すぎる。


まだ書類は届けられたばかりだ。


「お嬢様はお休みが必要です。確認には時間をいただきます」


「署名が必要なものは、先に印をいただくようにとのことです」


「中身を確認せずにですか」


屋敷の者は表情を変えない。


「形式上のものと伺っております」


形式上。


また、便利な言葉。


クリスチーナは微笑む。


侍女としての微笑み。


「形式上のものほど、確認が必要でございます」


屋敷の者が少し困った顔をする。


「旦那様のご意向です」


「承知しております。お嬢様のご体調も、旦那様はご存じのはずでございます」


少しだけ、強く言った。


屋敷の者はそれ以上言えず、頭を下げる。


「では、改めて参ります」


扉が閉まる。


クリスチーナはしばらく動かなかった。


今のやり取りは小さい。


何でもない。


ただの確認。


けれど、小さいものほど危ない。


署名だけ先に。


形式上。


旦那様のご意向。


その三つが揃う時、よいことが起きた試しはない。


クリスチーナは、危険な箇所を頭の中で繰り返す。


NewEra関連資料。


リュール同期記録。


試作機運用データ。


閲覧後に発生した接続履歴。


複製。


移送。


外部接続。


敵性通信帯。


王国側通信経路。


保全拘束。


順番を間違えてはいけない。


言葉を削ってはいけない。


マーリンへ説明する時に、少しでも曖昧になれば、危険がぼやける。


ぼやけた危険は、人を止められない。


「クリス」


マーリンの声が、寝椅子から聞こえた。


少しかすれている。


「はい」


「お父様は、急いでいるのね」


「そのようでございます」


「急ぐ時ほど、危ないのでしょう?」


クリスチーナは一瞬だけ黙った。


それから、正直に答える。


「はい」


マーリンは少しだけ笑う。


「クリスの書類講座は、役に立つわね」


「お役に立ちたくない種類の知識でございます」


「でも、役に立っているわ」


マーリンは目を閉じる。


「少しだけ、休むから」


「はい」


「その書類、離さないで」


「もちろんでございます」


離さない。


その言葉を、クリスチーナは胸の中で繰り返す。


書類だけではない。


マーリンのそばも。


その手も。


離さない。


しばらくして、また扉が叩かれた。


今度の音は、先ほどより硬い。


「アリソン様」


声が低い。


「旦那様がお呼びです」


クリスチーナの背筋が冷えた。


「このタイミングで、でございますか」


「至急とのことです」


至急。


また。


署名だけ先に。


形式上。


旦那様のご意向。


至急。


嫌な言葉ばかりが揃っていく。


クリスチーナはマーリンの方を見る。


マーリンは寝椅子で目を閉じている。


眠っているのか、眠ろうとしているだけなのか。


はっきりとは見えない。


顔色は悪かった。


茶も少ししか飲めなかった。


それでも、知らないまま署名したくないと言った。


伝えなければならない。


この書類は危険です。


署名すれば、お嬢様の名が責任者として残ります。


NewEra資料だけではありません。


リュール同期記録も、試作機運用データも、王国側通信経路も含まれています。


これは、何かが起きた時にお嬢様を拘束するための書類です。


全部。


だが、今起こせば、マーリンはまた無理をする。


旦那様の呼び出しを無視すれば、こちらの動きが知られる。


クリスチーナは、書類の束から一枚だけ抜き取ろうとして、止める。


抜けば気づかれる。


気づかれれば、潰される。


ならば、記憶するしかない。


侍女は、主の好みも、薬の時間も、衣装の重さも覚える。


朝にどの花を好むか。


疲れている時、どの靴を避けるべきか。


人前で微笑む時、どれほど指先に力が入るか。


そういうことを覚える。


危険な文言くらい、覚えられないでどうする。


クリスチーナは書類を整え、隠さない場所に置いた。


隠せば疑われる。


整えすぎれば、それも疑われる。


いつものように。


何も気づいていない侍女のように。


「ただいま参ります」


返事をする。


声は震えなかった。


よかった。


震えなかったことが、少しだけ悲しかった。


マーリンの部屋の扉の前で、クリスチーナは一度だけ立ち止まった。


扉越しに声をかけたい。


お嬢様。


署名してはいけません。


特に、NewEra関連資料閲覧・接続管理責任確認書には。


その書類は、お嬢様を守りません。


お嬢様を罪人にするための形を整えます。


そう言いたかった。


けれど、扉の向こうから小さな咳が聞こえた。


その後、静かになる。


休んでいる。


やっと。


クリスチーナは目を閉じる。


唇だけが動く。


必ず、お伝えいたします。


声には出さなかった。


出せば、廊下の者に聞かれる。


だから、唇だけで誓った。


届かない誓いではない。


届かせる誓いだ。


そう信じた。


廊下は静かだった。


静かすぎるほど。


厚い絨毯が足音を吸い、壁に並ぶ絵は何も語らない。


ロイス家の廊下は、いつも正しい顔をしている。


誰かが泣いても。


誰かが消えても。


誰かが罪人にされようとしても。


花瓶は正しい位置にあり、壁は白く、床は磨かれている。


クリスチーナの後ろには、屋敷の者が歩いている。


近すぎず、遠すぎず。


逃げないか見ている距離。


それが礼儀の距離に見えるのだから、ロイス家は本当に上手い。


白い書類の匂いが、まだ指先に残っている気がした。


それは香よりもずっと薄い。


けれど、クリスチーナには見える。


罠の匂いだった。


代理承認。


医療情報共有。


侍女の同席制限。


リュール運用権限。


それらも危険だった。


だが、もっと危険なのは、NewEra関連資料閲覧・接続管理責任確認書だった。


NewEra関連資料だけではない。


リュール同期記録。


試作機運用データ。


閲覧後の接続履歴。


それらが王国側通信経路へ流れたとされた時、マーリンを保全拘束できる形を作る書類。


これは、機密保持ではない。


責任者を先に置くための紙だ。


お嬢様を、いつでも罪人にできる紙だ。


クリスチーナは歩きながら、何度も文言を繰り返す。


一つでも落としてはいけない。


一つでも言い換えてはいけない。


旦那様の前で言葉を乱せば、侍女の感情として片づけられる。


感情的関与。


すでに、その札を貼られかけている気がした。


けれど、感情ではない。


いや、感情もある。


あるに決まっている。


お嬢様を守りたい。


あの小さな寝椅子で、無理に目を閉じていた人を守りたい。


完璧な公爵令嬢ではなく。


撃墜女王ではなく。


NewEraの象徴でもなく。


庭園の奥で魔力計測器を分解していた少女を。


怖い時に怖いと言えるようになりかけている少女を。


守りたい。


感情がある。


だからこそ、見えるものもある。


クリスチーナは、唇を結んだ。


旦那様は、きっと言う。


感情的だ、と。


それならば、そう答えればいい。


感情がございます。


お嬢様を人として見ておりますので。


ロイス公爵の部屋へ近づくにつれて、人工心肺装置の低い音が聞こえてくる気がした。


まだ扉の向こうなのに。


実際に聞こえるはずがない距離なのに。


あの音は、クリスチーナの中に残っている。


一定に。


冷たく。


生きるための音でありながら、人の温度から遠い音。


クリスチーナは背筋を伸ばした。


侍女として。


お嬢様の侍女として。


旦那様の前に出るなら、乱れてはいけない。


乱れれば、言葉が届かない。


届かせるために、整える。


それが侍女の戦い方だ。


扉の前で、屋敷の者が立ち止まる。


「アリソン様をお連れいたしました」


中から返事がある。


短い。


入れ。


ただ、それだけの声。


クリスチーナは一度だけ、来た道を振り返りたかった。


マーリンの部屋は見えない。


けれど、そこにいる。


書類の束もある。


ティーカップもある。


小さな甘いものも、皿の端に置いたままだ。


戻らなければならない。


戻って、続きを伝える。


署名してはいけない理由を。


誰を頼ればいいのかを。


どの文言が危険なのかを。


全部。


全部、伝える。


クリスチーナは扉へ向き直る。


手袋の指先を、そっと揃えた。


白い手袋だった。


汚れてはいない。


まだ。


扉が開く。


冷たい空気が流れてくる。


クリスチーナは一歩、中へ入った。


背後で扉が閉まる音がした。


その音は、いつもより少し重かった。


けれど、クリスチーナはまだ信じていた。


この扉は、また開く。


自分は戻る。


お嬢様の元へ戻る。


そして、必ず言う。


署名なさらないでくださいませ、と。


その警告が、マーリンへ届かないまま途切れることを、クリスチーナはまだ知らなかった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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