疑念
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学園から戻ったマーリンは、ロイス家の廊下を歩いていた。
白い壁。
磨かれた床。
正しい位置に置かれた花瓶。
音を吸う絨毯。
何も変わっていない。
変わっていないのに、少しずつ知らない場所になっていく。
ヘルリッヒ学園で聞いたブライアンの声が、まだ耳の奥に残っていた。
人間は間違える。
AIは間違えない。
たしかに、人間は間違える。
ミハイルを失った時、マーリンは何も動かせなかった。
ステラを失った時、止まれなかった。
リュールの白い刃は、怒りに引かれて進みすぎた。
落とした。
壊した。
沈めた。
それは戦場では正しかった。
補給線を守り、帝国側の損失を抑え、王国側の部隊を退けた。
数字にすれば、きれいに並ぶ。
けれど、ステラの声は戻らない。
ミハイルの手も戻らない。
正しい数字の中に、帰ってこない人の場所はなかった。
だから、間違えないものがあるなら、それにすがりたくなる気持ちは見えた。
恐れず、怒らず、誰か一人を愛するあまり全体を見失わないもの。
最も損失の少ない道を示すもの。
それがあれば、誰かは救われるのかもしれない。
けれど。
間違えないものが、人間を正しい場所へ置いていくとして。
その正しい場所が、檻だったらどうするのか。
「お嬢様」
クリスチーナがそっと声をかける。
「お顔の色が優れません」
「少し、疲れただけよ」
言いかけて、マーリンは自分で止まる。
また、言い慣れた言葉の方へ逃げそうになった。
「……気分が、少し悪いわ」
クリスチーナの目が、わずかに和らぐ。
「すぐに香りのないお茶をご用意いたします」
「ええ。お願い、クリス」
香の焚かれていない廊下なのに、どこかの部屋から流れてくる花の匂いが喉に触れる。
強い吐き気ではない。
ただ、胸の奥が浅く揺れる。
最近、そういうことが増えた。
医師は、戦闘負荷と魔力消耗、疲労と精神的緊張の影響だと言った。
たぶん、そうなのだろう。
そう思うしかない。
それ以外の可能性に触れるには、今のマーリンの周りには、意味を与えたがる人が多すぎた。
意味になれば、管理される。
管理されれば、誰かの判断になる。
マーリンの身体でさえ、マーリンだけのものではなくなる。
「お嬢様、先にお部屋へ」
「その前に、お父様から呼ばれる気がするわ」
マーリンがそう言うと、廊下の向こうから屋敷の者が現れた。
足音は控えめだ。
けれど、用件は軽くない。
ロイス家の者は、そういう歩き方をする。
「マーリン様。旦那様がお呼びでございます」
クリスチーナの眉が、ほんの少しだけ動く。
マーリンは小さく笑った。
「ほら」
笑えた。
笑えたが、楽しくはなかった。
ロイス公爵の部屋は、人工心肺装置の低い音に満ちていた。
一定の音。
乱れない音。
生きていることを証明する音でありながら、人の息からは遠い音。
窓は開いていない。
花もない。
香もない。
あるのは、書類の匂いと、金属と、冷えた空気。
マーリンは礼をする。
「参りました、お父様」
ロイス公爵は、書類から目を上げる。
「学園で発言したそうだな」
挨拶はない。
体調への問いもない。
いつも通りだった。
「はい」
「カーチスライトの講話に疑義を挟んだと聞いている」
疑義。
質問は、すぐにそういう名前になる。
マーリンは背筋を伸ばした。
「質問をしただけです」
「質問は、時に反論より厄介だ」
ロイス公爵の声は乾いている。
「特に、お前の質問は重い。撃墜女王の名を持つ者がNewEraに迷いを示せば、周囲はそれを意味として受け取る」
「意味」
「お前はすでに、ただの令嬢ではない」
何度も聞いた言葉だった。
聞くたびに、マーリン自身が少しずつ薄くなる。
ロイス家令嬢。
撃墜女王。
リュールの操縦者。
カーチスライト家の婚約者。
NewEraに近づいた者。
名前が増えれば、守られるのだと思っていた時期もあった。
けれど、今は違う。
名前は、鎧ではない。
札だ。
分類するための札。
運ぶための札。
処理するための札。
「承知しております」
「ならば、疑念は扱いを間違えるな」
「疑ってはいけない、ということでしょうか」
ロイス公爵の目が細くなる。
「疑念は、制御されるべきものだ」
制御。
父らしい言葉だった。
「疑うこと自体は役に立つ。計画の欠陥を見つけるためには必要だ。だが、感情に基づく疑念は害になる」
「感情に基づく」
「クロードがそうだった」
兄の名が出た瞬間、マーリンの指先が冷えた。
「クロードは理想と感情でNewEraを疑った。戦争を止めたいなどという曖昧な願いに囚われ、家の責務を見失った」
「お兄様は」
言いかけて、止まる。
怒りを出せば、父の言う通りになる。
感情に基づく疑念。
害になる疑念。
マーリンは息を整えた。
人工心肺装置の音が、隙間を埋める。
あの音は、まるで父の代わりに部屋を支配しているようだった。
「お兄様は、NewEraの危うさを見ていたのではありませんか」
部屋の空気が、すっと冷えた。
背後で、クリスチーナが息を止めたのが見えなくても伝わる。
ロイス公爵は、しばらくマーリンを見ていた。
「どこまで見た」
短い問い。
問いというより、確認だった。
マーリンは答えない。
答えれば、クロードが残したものまで父の手に戻される気がした。
あの端末も。
紙片も。
兄の警告も。
マーリンに向けられた、お前はマーリンだという言葉までも。
「答えません」
自分でも驚くほど静かに言えた。
ロイス公爵の表情は変わらない。
「お前は、自分が何をしているか見えているのか」
「見えていないから、知ろうとしています」
「知るべきものと、知らぬまま従うべきものがある」
「私は器ですものね」
言葉がこぼれた。
軽い調子にしたつもりだった。
けれど、軽くならなかった。
ロイス公爵は怒らない。
それがかえって怖い。
「そうだ」
父は言う。
「器は、余計なひびを持つべきではない」
マーリンは微笑む。
美しく。
完璧に。
「では、私はもう失敗作かもしれません」
クリスチーナが小さく「お嬢様」と呼んだ。
ロイス公爵の目が冷える。
「感傷に酔うな、マーリン」
「酔えるほど、甘いものではございません」
喉の奥に、薄い吐き気が戻る。
甘いもの。
ステラの声が胸をかすめた。
帰ったら、甘いものです。
もう、帰らなかった少女の声。
マーリンは口元を押さえそうになり、手を下ろした。
父の前で弱るのは嫌だった。
弱れば、それもまた症状になる。
症状になれば、管理される。
戦闘負荷。
魔力消耗。
感情反応。
どんな名前でもいい。
父はきっと、そう呼ぶ。
「マーリン」
ロイス公爵の声が、少し低くなる。
「NewEraにとって、疑う者は不要ではない。だが、疑う象徴は害になる」
「象徴」
「お前は撃墜女王だ。帝国の希望として使われた。民も軍も、お前の名に意味を見る」
使われた。
父はそう言った。
使った、ではなく。
まるで道具の説明のように。
「そのお前がNewEraを疑えば、疑念そのものが旗になる」
「私は、旗になりたいなどと」
「望む望まないではない。周囲がそう扱う」
父の声には揺れがなかった。
「人間の英雄は便利だ。だが、感情で反転する。反転した英雄ほど、計画に害をなすものはない」
マーリンは息を止めた。
英雄。
撃墜女王。
希望の花。
ロイス家の娘。
リュールの操縦者。
それらは称賛ではなかったのか。
少なくとも、父の口から出ると、すべて危険物に聞こえた。
「お父様は、私を危険だとお考えなのですか」
「お前自身ではない」
ロイス公爵は言った。
「お前が持たされた意味が危険なのだ」
意味。
また、それだった。
ミハイルの死にも、ステラの死にも、撃墜数にも、婚約にも。
帝国はいつも意味を与える。
そして今度は、マーリン自身が意味として扱われる。
ミハイルは政治案件になった。
ステラは戦果の引き金になった。
マーリンは撃墜女王になった。
ならば、疑念を持ったマーリンは何になるのか。
父の目は、それをもう探しているように見えた。
「では、私はどうすればよいのですか」
「従え」
短い答えだった。
「疑念を持つなら、ロイス家の利益として扱え。NewEraの欠陥を見つけるなら、NewEraを守るために使え。帝国の前で迷いを見せるな」
「迷いは、踏みとどまるためのものではありませんか」
クロードの言葉が、自然に口から出た。
ロイス公爵の目が、わずかに冷たくなる。
「クロードの言葉か」
マーリンは答えなかった。
答えなくても、父には伝わったのだろう。
「ならば、覚えておけ」
ロイス公爵は告げる。
「踏みとどまる者は、進む者の邪魔になる」
その言葉で、マーリンは悟った。
父はもう、マーリンの疑念を聞く気がない。
説得する気もない。
ただ、分類している。
従う象徴か。
疑う象徴か。
有用か。
害か。
その二つだけで。
「お前は有用だった」
だった。
その一語で、マーリンは息を止めた。
「今も有用であるかどうかは、お前の振る舞い次第だ」
マーリンは、きれいに礼をした。
「承知いたしました、お父様」
また言えた。
また、整えられた。
それが一番、苦しかった。
部屋を出ると、クリスチーナがすぐに腕を支えた。
「お嬢様」
「少し、足元が揺れただけよ」
「大丈夫とは仰いませんでしたね」
「言おうとはしたわ」
「仰らなかっただけで、十分でございます」
クリスチーナはそう言った。
静かな声だった。
マーリンは廊下の壁に手を添える。
白い壁は冷たい。
父の部屋の空気が、まだ肩に残っている。
人工心肺装置の音も。
だった。
有用だった。
その一語が、何度も耳の奥で転がる。
過去形は、残酷だ。
まだ終わっていないものまで、終わった形にしてしまう。
「ねえ、クリス」
「はい」
「私は、危険なのかしら」
クリスチーナはすぐには答えなかった。
優しい嘘を言おうとして、やめたのだろう。
「お嬢様が危険なのではございません」
「では?」
「お嬢様を危険なものとして扱いたい方々がおります」
マーリンは、少しだけ目を伏せる。
同じだ。
言い方は違う。
けれど、同じ場所を指している。
父も。
ブライアンも。
クリスチーナも。
それぞれ違う形で、マーリンを囲む危険を見ている。
「困ったわね」
マーリンは軽く言う。
「危険物なら、取り扱い注意の札でも下げておいた方がいいかしら」
「お似合いになりません」
クリスチーナは真顔で返した。
少しだけ、笑いそうになった。
本当に少しだけ。
「では、花瓶にでも挿しておきましょうか」
「それもお似合いになりません」
「クリスは厳しいわね」
「お嬢様に妙な札も、花瓶も、必要ございません」
言い切る声が、胸に触れた。
マーリンは壁から手を離す。
「ありがとう」
「何もしておりません」
「しているわ」
クリスチーナはそれ以上、言葉を重ねなかった。
ただ、マーリンの歩幅に合わせて歩く。
一歩後ろ。
近すぎず、離れすぎず。
けれど、父の命令よりずっと温かい距離。
その距離を、マーリンは失いたくなかった。
失いたくないと思った瞬間、胸の奥が冷えた。
失いたくないものほど遠ざかっていく。
ミハイル。
ステラ。
クロード。
名前を並べると、足元が少し頼りなくなる。
クリスチーナの手が、そっと支え直した。
「お部屋へ参りましょう」
「ええ」
「香りのないお茶を用意いたします」
「お願い」
マーリンは頷く。
廊下の先は、いつもと同じように静かだった。
だが、同じではない。
疑念を持った後のロイス家は、以前よりも壁が厚く見えた。
部屋に戻る前に、ブライアンが待っていた。
廊下の角。
窓から落ちる白い光。
彼は、そこにいるべき位置を最初から計算していたように立っていた。
「ロイス嬢」
「ブライアン様」
正しい距離。
正しい礼。
正しい心配。
「ロイス公爵閣下と話されたのですね」
「ええ」
「顔色が悪い」
「皆様、そればかり仰いますね」
「実際に悪いので」
正しい。
本当に、正しい。
マーリンは近くの小さな応接室へ入る。
使用人がすでに薄い茶を用意していた。
香りは弱い。
ティーカップの縁に、かすかな湯気が立っている。
ブライアンの手配だろう。
彼の配慮はいつも早い。
早すぎるほどに。
マーリンは椅子に腰掛けた。
クリスチーナは一歩後ろに控える。
だが、完全には離れない。
その距離に、マーリンは少しだけ救われた。
「ブライアン様」
「はい」
「お父様は、私を危険だとお考えなのでしょうか」
ブライアンは、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、マーリンには十分だった。
「……そう」
「ロイス嬢」
「否定してくださらないのですね」
「危険という言葉が正しいとは思いません」
「では、何と?」
ブライアンは目を伏せる。
「影響力が大きすぎる」
それは、やわらかい言い換えだった。
けれど、意味は同じだ。
「君は撃墜女王です。帝国の希望として、すでに多くの人間に知られている。君が口にする疑念は、ただの疑念では済まない」
「私は、ただ怖いだけです」
「その怖さに、人が集まることがあります」
「怖がることも、許されないのですか」
「許す、許さないではなく」
ブライアンはそこで言葉を止めた。
きっと、次に出る言葉が自分でも嫌だったのだろう。
マーリンは代わりに言う。
「管理する、ですか」
ブライアンは否定しなかった。
優しい人。
正しい人。
けれど、否定しない人。
「ロイス嬢。僕は、君を守りたいと思っています」
「ええ」
「ですが、君がNewEraを疑うなら、その疑念もまた守らなければならない」
「守る?」
「不用意に外へ出れば、君自身を傷つける理由にされる」
理由にされる。
その言い方は、奇妙に引っかかった。
「まるで、誰かが理由を探しているみたいですね」
ブライアンは沈黙した。
また。
沈黙。
マーリンは小さく笑う。
「ブライアン様は、黙るときが一番正直です」
「ロイス嬢」
「私は、もう危険なのですね」
「君が危険なのではありません」
ブライアンは低く言う。
「君を危険にできる者たちがいる」
その言葉は、優しかった。
けれど、救いではなかった。
なぜならブライアン自身も、その者たちの外側にはいないからだ。
カーチスライト家。
NewEra。
婚約。
軍への調整。
正しさを整える手。
ブライアンはマーリンを守ろうとしている。
それは、たぶん嘘ではない。
だが、守るための手は、時々檻の格子と同じ形をしている。
マーリンはティーカップを見た。
飲めそうな香りだった。
けれど、手が伸びない。
「ブライアン様」
「はい」
「私を守るということは、私の疑念も守るということですか」
ブライアンは少しだけ目を伏せる。
「そうありたいと思っています」
「思っている」
「はい」
「できる、ではなく?」
「……はい」
正直だった。
苦いほどに。
マーリンは頷いた。
「分かりました」
口にした瞬間、その言葉の軽さに気づく。
本当に掴めたわけではない。
ただ、ひとつ見えただけだ。
誰も、確実には守れない。
ミハイルも、ステラも、クロードも。
そしてきっと、クリスチーナも。
その考えが浮かんで、マーリンはすぐに打ち消した。
まだ、失っていない。
まだ、そばにいる。
まだ、手が届く。
そう思いたかった。
「ロイス嬢」
ブライアンの声が少し柔らかくなる。
「今日は休むべきです」
「お父様にも、休めと言っていただければよかったのに」
「ロイス公爵閣下は、君の休息を必要とは見なしても、優先はされないでしょう」
「ずいぶんはっきり仰るのですね」
「事実です」
事実。
便利な言葉だ。
けれど、ブライアンがそれを口にすると、少しだけ人間味がある。
父の事実は刃だ。
ブライアンの事実は、刃を布で包んだものに近い。
包まれていても、刃であることに変わりはない。
「ブライアン様」
「はい」
「お兄様なら、何と言ったかしら」
ブライアンは少し考える。
「クロード様ですか」
「ええ」
「危険を見たなら、見なかったことにするな、と」
「言いそうです」
「それから、巻き込まれすぎるな、とも」
「それは、言わずにご自分だけ巻き込まれる方ですわ」
ブライアンは、ほんの少しだけ苦笑に近い表情をした。
「否定できません」
クロードの話をしているのに、胸が少し軽くなる。
死者ではない。
失踪者でもない。
ただの兄として、誰かがクロードを語ってくれる。
それだけで、少しだけ救われる気がした。
けれど、長くは続かない。
部屋の外で、紙の束を運ぶ音がした。
軽い音。
白い音。
ロイス家では、紙の音が時々、剣より怖い。
その後、婚約と軍務に関する書類が運ばれてきた。
白い束。
婚約発表。
医療情報共有。
リュール運用権限。
護衛配置。
侍女業務の補助体制。
NewEra関連資料閲覧手続き。
接続管理責任確認。
見ただけで、胸が少し重くなる。
紙は白い。
きれいに整っている。
けれど、白いから安全とは限らない。
雪の下に刃が埋まっていることもある。
クリスチーナが受け取り、整える。
その手が、一瞬止まった。
マーリンは見逃さなかった。
「クリス?」
「……いえ」
クリスチーナはすぐに顔を上げる。
「量が多いと思いまして」
「そうね。読むだけで戦場より疲れそう」
軽く言った。
クリスチーナは笑わなかった。
ブライアンも書類を見る。
「確認は僕も行います」
「ブライアン様も?」
「もちろんです」
「それなら安心ですね」
言った瞬間、マーリンの中で何かが引っかかった。
安心。
本当に?
ブライアンが確認するなら安心。
クリスチーナが見るなら安心。
父が許可したなら正しい。
軍が必要と言うなら仕方ない。
今まで、そうやって進んできた。
その先が、今の場所だ。
マーリンはティーカップへ手を伸ばしかけ、やめた。
薄い茶の香りは弱い。
でも、喉が受け付けない。
クリスチーナは書類を一枚ずつ確認している。
婚約発表同意書。
医療情報共有確認書。
リュール運用時における身体負荷報告の共有範囲。
護衛配置変更承認。
侍女業務補助体制案。
それらは、どれももっともらしい。
必要そうで。
正しそうで。
マーリンを守る形をしている。
けれど、クリスチーナの指先は、ある一枚で止まった。
ほんの短い停止。
誰も気づかないほどの。
だが、マーリンは気づいた。
長くそばにいた人の手だ。
迷いが、どこに出るかくらいは見える。
「クリス」
「はい」
「何かあれば、言ってね」
「もちろんでございます」
答えは早かった。
けれど、その早さもまた、少しだけ怖かった。
クリスチーナは何かを隠すのが下手ではない。
下手ではないが、マーリンには見えてしまう。
心配している時。
怒っている時。
泣きそうな時。
そして、言えない時。
今の手は、言えない時の手だった。
「お嬢様」
クリスチーナが静かに声をかける。
「少しお休みになってから確認いたしましょう」
「ええ」
マーリンは素直に頷く。
「そうするわ」
ブライアンが書類の束を手元へ寄せる。
「僕の方でも確認します。署名を急ぐ必要はありません」
「そうなのですね」
「少なくとも、今すぐではありません」
少なくとも。
その言葉が小さく引っかかる。
今すぐではない。
では、いつかは必要になる。
必要なら。
また、その言葉に戻る。
必要なら、戦う。
必要なら、署名する。
必要なら、従う。
必要なら。
その先に何があるのか、最近のマーリンは少しずつ見え始めていた。
「ブライアン様」
「はい」
「必要とは、誰のための言葉でしょう」
ブライアンは答えない。
マーリンは続ける。
「帝国のため。ロイス家のため。NewEraのため。私のため。言葉は同じなのに、向いている場所が違います」
「だから、確認が必要です」
「誰が?」
ブライアンが息を止める。
「僕が」
「ブライアン様だけで?」
「……いいえ」
彼は静かに言い直した。
「君もです」
その答えは、少しだけ意外だった。
マーリンはブライアンを見る。
彼の目には疲れがある。
正しさを信じる人の疲れ。
疑い始めた人の疲れ。
それでも、彼はまだNewEraを捨てない。
捨てられない。
信じているから。
信じたいから。
あるいは、信じてきたものを今さら疑うには、彼自身も深く入りすぎているから。
「私も確認するのですね」
「はい」
「疑う象徴は害になるそうです」
「疑わない象徴は、もっと危険です」
ブライアンの声は低かった。
マーリンは少しだけ目を瞬く。
「それは、お父様に聞かせてよい言葉ですか」
「聞かせる場所は選びます」
「正しいですね」
「ええ」
そのやり取りは軽い。
けれど、軽さの底に冷たいものがある。
父の部屋で言われた言葉。
疑う象徴は害。
お前は有用だった。
踏みとどまる者は邪魔になる。
そのどれもが、マーリンの中で消えない。
クリスチーナは書類を整え直す。
一番上に、当たり障りのない婚約関連の紙を置いた。
その下に、軍務。
その下に、医療。
さらに下へ、NewEra関連の確認書類。
順序を変えた。
ただ整えただけにも見える。
けれど、マーリンには、それが少しだけ意図を持つ動きに見えた。
「クリス」
「はい」
「その書類、後で一緒に見てくれる?」
「もちろんでございます」
今度の返事は、先ほどより少し遅かった。
それが、かえって本当らしかった。
マーリンは小さく頷く。
「ありがとう」
「お嬢様は、まずお休みくださいませ」
「ええ」
休む。
その言葉が、今はやけに遠い。
戦場の後よりも疲れているかもしれない。
リュールに乗っていないのに。
魔力を削っていないのに。
ただ、言葉を聞いただけで。
ただ、疑っただけで。
身体の内側がひどく重い。
マーリンは立ち上がろうとして、少しだけふらついた。
クリスチーナがすぐ支える。
ブライアンも手を伸ばしかける。
けれど、クリスチーナの方が早かった。
「お嬢様」
「平気……ではないわね」
マーリンは小さく笑う。
「少し、休むわ」
「はい」
クリスチーナの声が、柔らかくなる。
その柔らかさに、また胸が痛む。
マーリンは部屋へ戻るために歩き出す。
後ろでは、ブライアンが書類を見ている。
クリスチーナはマーリンの隣にいる。
白い紙の束は、机の上に残された。
婚約。
軍務。
リュール。
医療。
侍女業務補助体制。
NewEra。
一枚一枚は、ただの書類だ。
紙だ。
インクだ。
署名欄だ。
けれど、紙は時々、人よりも強い。
剣よりも静かに、人を縛る。
マーリンは振り返らなかった。
振り返れば、あの白い束がこちらを見ているような気がしたからだ。
自室に戻ると、香りのない茶が用意された。
小さな卓には、甘いものも少しだけ置かれている。
ステラを思い出すから、下げたくない。
けれど、食べられない。
その中途半端な願いを、クリスチーナは何も聞かずに守ってくれる。
マーリンは寝椅子に腰を下ろした。
身体が沈む。
沈むのに、心は沈みきらない。
父の声。
ブライアンの沈黙。
クリスチーナの止まった指先。
白い書類。
それらが、頭の中で順番を変えながら回っている。
「クリス」
「はい」
「私が疑っているから危険なのではないのね」
クリスチーナは、茶器の手を止める。
「はい」
「私が疑うことを、誰かが危険として扱える」
「……はい」
「それが危険なのね」
クリスチーナは答えなかった。
答えなくてもよかった。
マーリンは少しだけ息を吐く。
窓の外には帝都の光がある。
整えられた光。
乱れない航行灯。
管理された軌道。
美しい。
美しいから、怖い。
「NewEraは、すべてを正しい場所へ置こうとしている」
マーリンは呟く。
「人も、家も、戦争も、疑念も」
「お嬢様」
「私は、どこへ置かれるのかしら」
問いは軽く出た。
だが、部屋は少し重くなる。
クリスチーナは答えられない。
マーリンも、答えを求めていなかった。
ただ、口にしたかっただけだ。
言葉にしなければ、疑念は胸の中で腐っていく。
言葉にすれば、誰かが管理する。
どちらも怖い。
けれど、クリスチーナの前なら、少しだけ言える。
「お嬢様は、どこかへ置かれるものではございません」
クリスチーナは静かに言った。
「お嬢様は、歩かれる方です」
マーリンは顔を上げる。
「歩く場所が、全部決められていても?」
「それでも」
クリスチーナの声は、少しだけ強かった。
「足を運ばれるのは、お嬢様でございます」
マーリンは、小さく笑った。
今度は、少しだけ本当に笑えた。
「クリスは、時々とても頑固ね」
「お嬢様ほどではございません」
「そう?」
「はい」
「では、似た者同士かしら」
「恐れ多いことでございます」
「否定しないのね」
クリスチーナは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「少しだけ、光栄でございます」
その返しに、胸が温かくなる。
温かいものは、同時に怖い。
失う未来を想像してしまうから。
マーリンはそれを振り払うように、ティーカップへ手を伸ばした。
香りは弱い。
一口だけなら飲めた。
喉を通る。
少しだけ、身体の揺れが落ち着く。
「お休みくださいませ」
「ええ」
マーリンは寝椅子に身を預ける。
目を閉じる。
眠るほどではない。
けれど、目を閉じていることはできる。
扉の向こうで、紙の音がした気がした。
ブライアンが確認しているのか。
屋敷の者が運んでいるのか。
それとも、ただの気のせいか。
マーリンには見えない。
見えない場所で、正しさは進む。
音もなく。
白い紙の形で。
丁寧な手続きとして。
必要という言葉をまとって。
マーリンの疑念は、ただの迷いではなくなった。
ロイス公爵はそれを危険視する。
NewEraを疑うこと自体ではない。
撃墜女王として、帝国の希望として使われたマーリンが疑うこと。
その影響力が、計画にとって害になる。
ブライアンもまた、その危うさを否定しきれない。
彼はマーリンを守りたい。
けれど、マーリンを危険にできる者たちの外側にはいない。
マーリンは気づき始めていた。
自分が疑っているから危険なのではない。
自分が疑うことを、誰かが危険として扱える。
そのことが危険なのだと。
目を閉じたまま、マーリンは胸元に手を置く。
名前のない違和感は、まだそこにある。
疑念も、そこにある。
どちらにも、まだ正しい名前はついていない。
つけたくない。
つけられたくない。
その頃、別室の机の上では、白い書類の束が静かに整えられていた。
婚約発表。
医療情報共有。
リュール運用権限補足。
侍女業務補助体制。
NewEra関連資料閲覧・接続管理責任確認書。
紙の端は、どれもまっすぐだった。
署名欄も、きれいに空いていた。
空いている場所は、いつも何かを待っている。
クリスチーナだけが、その中に混じる小さな刃の気配を見つけかけていた。
けれど、その刃が誰の喉元へ向いているのか。
まだ、マーリンには届いていなかった。
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