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AIは間違えない

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

ヘルリッヒ学園の門は、変わっていなかった。


高く、白く、古めかしい。


貴族の子女を迎えるための門。


帝国の未来を育てるための門。


何も知らなかった少女たちが、礼儀と派閥と微笑みを学ぶための門。


マーリンはその前で、少しだけ足を止める。


懐かしい。


そう思うには、遠くへ来すぎた。


公爵家の公用車ではなく、軍用車。


制服は学園のものではなく、軍に近い式典用。


隣には、婚約者としてのブライアン。


一歩後ろにはクリスチーナ。


いつものように、静かに。


けれど、マーリンはもう、ただのロイス家令嬢ではない。


白いリュールの操縦者。


撃墜女王。


カーチスライト家の婚約者。


NewEraに接続される象徴。


名前が増えるほど、マーリン自身は薄くなる。


「お嬢様」


クリスチーナが小さく声をかける。


「ご気分は」


「少し、平気ではないけれど」


マーリンは言い直す。


「歩けるわ」


クリスチーナの目がわずかに和らぐ。


その反応が、胸に少しだけ痛かった。


大丈夫ではない。


平気でもない。


それでも、言い直せたことを、クリスチーナはちゃんと拾ってくれる。


戦場でなくても、こういう小さなことを拾ってくれる人は少ない。


門の近くには、祝意の花が飾られていた。


白と青。


帝国らしく、清く、整えられた色。


香りの強い花ではないはずだった。


けれど、今のマーリンには十分すぎた。


甘い香りが喉の奥に触れる。


胃が浅く揺れる。


マーリンは口元へ手を上げかけ、途中で下ろした。


式典の場で、弱さは見せない。


それくらいは、まだ整えられる。


ブライアンが半歩だけ近づく。


「ロイス嬢。無理をする必要はありません」


「学園の門を前に引き返したら、噂になりますわ」


「噂より体調を優先すべきです」


「ブライアン様は、そういうところまで正しいのですね」


「正しいかどうかは分かりません。ただ、必要です」


必要。


その言葉に、胸の奥が少し沈む。


マーリンは微笑む。


「では、必要な範囲で歩きます」


ブライアンは何か言いたげだった。


けれど、結局それ以上は言わない。


その沈黙も、正しい距離を保っていた。



学園内は、以前より静かに感じた。


実際には騒がしい。


生徒たちの視線。


小さな囁き。


教師たちの緊張。


足音を揃える使用人たち。


それらは確かにある。


けれど、マーリンの耳には遠かった。


ここでアンネリーゼと棘を交わした。


ここでブライアンは生徒会長として場を整えていた。


ここでミハイルは、少し困ったように笑った。


ミハイル。


その名を胸の中で呼ぶ。


返事はない。


返事のない名前ばかりが、胸の中で増えていく。


ミハイル。


ステラ。


お兄様。


呼べば呼ぶほど、ここにいない人たちの不在だけが濃くなる。


その代わりのように、別の言葉が浮かんだ。


人間は間違える。


AIは間違えない。


ブライアンが語る予定の言葉。


マーリンは、クロードの資料を思い出す。


人間は間違える。


だが、間違いを消すために人間そのものを消してはならない。


同じ入口から、違う道へ進む言葉。


どちらが正しいのか。


それとも、どちらも正しくて、どちらも危ういのか。


「マーリン様」


声をかけられ、マーリンは顔を上げる。


アンネリーゼだった。


完璧に整えられた髪。


少し硬い微笑。


努力で磨き上げた立ち姿。


相変わらず、美しい。


そして、相変わらず少し痛い。


「アンネリーゼ様」


マーリンは礼を返す。


「ご無事のお戻り、何よりでございます」


「ありがとうございます」


言葉は上品だ。


けれど、アンネリーゼの目はマーリンの制服を見る。


胸元の略章を見る。


ブライアンとの距離を見る。


そして、少しだけ表情を固くする。


「撃墜女王のご帰還、と皆が申しておりますわ」


その呼び名は、棘のように置かれた。


けれど、以前のような単純な嫌味ではない。


羨望。


恐れ。


不満。


焦り。


いくつものものが混じっている。


マーリンは微笑む。


「王国側の呼び名ですわ。美しい響きではございません」


「けれど、強い響きではあります」


「強い名は、重いものです」


「マーリン様なら、持てるのでしょう」


その言葉の奥には、持ててしまう人への妬みがある。


マーリンには、それが見えた。


アンネリーゼは努力の令嬢だ。


手に入れるために、積み重ねる人。


姿勢。


成績。


所作。


言葉。


表情。


すべてを磨いて、少しでも上へ行こうとする人。


だから、最初から持っているように見えるマーリンが嫌いなのだろう。


昔から。


「持てることと、望むことは違いますわ」


マーリンが言うと、アンネリーゼは一瞬黙った。


そこへブライアンが入る。


「アンネリーゼ嬢。本日の式典では、学園代表としてよろしくお願いします」


「承知しております、ブライアン様」


アンネリーゼの声が少し整う。


ブライアンの前では、彼女も正しい令嬢になる。


学園の空気が、昔の形を少しだけ取り戻す。


生徒会長。


ロイス家令嬢。


フェアチャイルド家令嬢。


そこにあったはずの配置。


けれど、そこにミハイルはいない。


ステラもいない。


そして、裏側にはNewEraがある。


アンネリーゼの家の名も、そこに細く繋がっている。


それを知ってしまった後では、彼女の棘さえ少し違って見えた。


ただの嫉妬ではない。


ただの意地悪でもない。


彼女もまた、家という箱の中で、正しい形に整えられているのだ。


本人が、それをどこまで知っているかは別として。



講堂は満席だった。


上級生たち。


教員。


軍関係者。


貴族家の代理人。


学園行事にしては、軍の色が濃い。


それでも、表向きは講話だった。


帝国の未来。


AI技術と統治補助。


戦時における合理的判断。


難しく、美しい題目。


マーリンは前列に座る。


隣にアンネリーゼ。


少し離れて、ブライアンが登壇する。


クリスチーナは壁際に控えていた。


マーリンは視線だけでクリスチーナを探す。


目が合う。


クリスチーナは小さく頷く。


それだけで、少し息がしやすい。


けれど、講堂の花の香りがまた少し強い。


壇上の左右に飾られた白い花。


式典らしい、控えめな香り。


だが、今は喉に残る。


マーリンは膝の上で指を組む。


少しだけ。


ほんの少しだけ耐えればいい。


昔、この講堂でマーリンは入学の挨拶を聞いた。


誰かの視線を浴びて、白い髪を整え、微笑んでいた。


フルール・デスポワール。


希望の花。


あの頃は、まだ花でいられたのかもしれない。


少なくとも、花のふりだけは上手だった。


今は違う。


花ではない。


戦果の象徴だ。


戦場で白く光る機体の操縦者。


敵に恐れられ、味方に称えられ、数字に囲まれた少女。


「皆様」


ブライアンの声が講堂に響く。


静かで、よく通る声。


彼は人を従わせるために怒鳴る必要がない。


場を整えるだけで、視線は彼へ集まる。


「帝国は、長い歴史の中で多くの判断を重ねてきました。正しい判断も、誤った判断もあります」


聴衆は静かに聞いている。


「人間は間違えます」


その言葉が出た瞬間、マーリンの胸が少しだけ冷える。


「恐怖により判断を遅らせる。怒りにより進みすぎる。愛情により全体を見失う。誇りにより敗北を認められない。人間の判断には、常に揺らぎがある」


揺らぎ。


迷い。


クロードの言葉が重なる。


迷いは、踏みとどまるための機能でもある。


ブライアンは続ける。


「ですが、AIは違います」


講堂の空気が、少しだけ張る。


「AIは恐れません。怒りません。誰か一人を愛するあまり、全体を見失うこともありません。与えられた情報を処理し、最も損失の少ない選択を提示する」


美しい説明だった。


本当に。


戦場で、それがあればどれほど救われるだろう。


補給線を守るために、誰をどこへ向かわせるか。


負傷者を先に運ぶか、砲台を守るか。


一機を救うために、艦隊を危険に晒すか。


AIなら、答えを出せるのかもしれない。


誰かが泣く前に。


誰かが迷う前に。


誰かが名前を呼ぶ前に。


でも。


ステラを失った時、マーリンは正しい答えなど欲しくなかった。


欲しかったのは、声だった。


『マーリン様』


そう呼ぶ声。


後ろを見る声。


止める声。


帰ったら甘いもの、と笑う声。


「AIは間違えない」


ブライアンは言った。


「少なくとも、人間の感情による誤りは犯さない」


その補足が、彼らしい。


AIを神にしない。


道具として見る。


けれど、その道具を強く信じている。


「もちろん、AIは万能ではありません。情報が誤れば、出力も誤る。設計が歪めば、結果も歪む。だからこそ、人間はAIを正しく設計し、正しく運用しなければならない」


正しく。


また、その言葉。


「NewEraは、AIによる支配ではありません。人間の過ちを補い、帝国をより安定した未来へ導くための計画です」


表向きの言葉。


けれど、マーリンはもうその裏を少し知っている。


統治補助AI。


オートマタ部隊。


意識統合技術。


社会最適化統治計画。


AIによる支配ではない。


けれど、支配と補助の境界はどこにあるのか。


ブライアンはそれを知っている。


知っていて、なお信じている。


講堂の生徒たちは、真剣に聞いていた。


ある者は憧れの目で。


ある者は不安そうに。


ある者は、何も考えていない顔で。


上級貴族の子女たちは、AIという言葉を美しい未来の飾りとして受け取るのだろう。


軍関係者は、損失を減らす道具として聞いているのかもしれない。


教師たちは、帝国の方針に沿う言葉として頷いている。


みんな同じ話を聞いているのに、見ているものが違う。


それもまた、人間の揺らぎなのだろう。


AIなら、こういう揺らぎも誤差として処理するのだろうか。


マーリンは指先をそっと握った。



講話の後半で、アンネリーゼが指名された。


学園代表としての意見。


フェアチャイルド家の令嬢としてではない。


そういう建前だった。


アンネリーゼは立ち上がる。


背筋は美しい。


顎の角度も、手の添え方も、完璧に整っている。


「ブライアン様のご説明は、大変明快でございました」


声も整っている。


「人間が間違える存在であることは、学ぶほどに痛感いたします。だからこそ、努力が必要なのだと、わたくしは考えております」


努力。


アンネリーゼらしい言葉だった。


「AIによる補助があれば、人間の努力はより正しい方向へ向かえるのでしょうか」


問いの形をしている。


けれど、その奥には別のものがある。


努力しても届かない者は、AIによって救われるのか。


それとも、努力さえ数字に変えられるのか。


マーリンはそう感じた。


ブライアンは穏やかに答える。


「努力は必要です、アンネリーゼ嬢。AIは努力を否定しません。むしろ、人の努力が無駄にならないよう、道を示すものです」


「道を」


「はい。誤った方向へ進み続けることほど、残酷なことはありません」


アンネリーゼの目が、ほんの少しだけ揺れる。


残酷。


その言葉は、努力してきた彼女には痛いだろう。


マーリンは横顔を見る。


アンネリーゼは微笑んでいる。


けれど、指先が少し強く握られていた。


フェアチャイルド家は、無人人形の開発に関わっている。


彼女はどこまで知っているのか。


知らないのか。


それもまた、家の中の檻なのか。


ブライアンは続ける。


「人間は、自分の誤りに気づけないことがあります。だからこそ、外側からの補正が必要です」


外側からの補正。


父の命令。


婚約。


軍の指示。


NewEra。


マーリンの人生には、外側からの補正が多すぎる。


補正されるたびに、マーリンは正しい場所へ置かれていく。


ロイス家の令嬢として。


リュールの操縦者として。


撃墜女王として。


婚約者として。


そのどれもが正しい。


正しすぎて、息がしにくい。


「では」


マーリンは気づけば、口を開いていた。


講堂の視線が集まる。


アンネリーゼも、マーリンを見る。


ブライアンが壇上から視線を向ける。


「ロイス嬢」


「人間が間違えるとして」


マーリンは静かに言う。


「その間違いの中に、残すべきものがある場合はどうなりますか」


講堂が静かになる。


花の香りまで止まったように感じた。


「恐怖や迷いが、ただの誤差ではない場合です」


ブライアンの目が、少しだけ細くなる。


クロードの言葉に気づいたのかもしれない。


迷いは、踏みとどまるための機能でもある。


「恐怖は、人を止めます」


ブライアンは答える。


「時には、それが必要なこともあります」


「では、AIはそれを見分けられますか」


「設計と情報次第です」


「人間の迷いを、情報として扱えるのですか」


「扱えるようにするべきです」


べき。


まだ、扱えるとは言わなかった。


マーリンはそこに、小さな隙間を見る。


「では、今は?」


ブライアンは沈黙する。


長くはない。


けれど、講堂の中では十分に長い。


「完全ではありません」


その答えに、空気がわずかに揺れた。


AIは間違えない。


けれど、まだ完全ではない。


人間は間違える。


けれど、迷いの中にも残すべきものがある。


その二つは、講話の美しさに小さな傷をつける。


ブライアンはマーリンを見る。


怒りではない。


困惑でもない。


どこか、痛みのようなものがある。


「だからこそ、人間の責任が必要です」


彼は言う。


「AIは道具です。間違えない道具として、正しく使う責任は人間にあります」


正しい答え。


講堂は安心したように息を戻す。


けれど、マーリンの胸には安心が戻らない。


責任は人間にある。


では、誰に。


父に。


ブライアンに。


軍に。


ロイス家に。


フェアチャイルド家に。


マーリンに。


責任は広がる。


広がって、やがて誰にも届かなくなる。


クロードの警告が、また胸に響く。


誰の罪にもならない犠牲は、繰り返される。


マーリンは口を閉じた。


これ以上問えば、講堂そのものを壊してしまう。


それが怖かったのではない。


ここには、まだ知らない生徒たちがいる。


まだNewEraを綺麗な未来として聞いている者たちがいる。


彼らの前で、全部を壊す権利が自分にあるのか。


それもまた、マーリンには見えなかった。


アンネリーゼは、そんなマーリンを見ていた。


棘の奥で、何かが揺れている目だった。



講話の後、学園の小さな応接室に移された。


マーリン。


ブライアン。


アンネリーゼ。


クリスチーナは壁際に控えている。


ティーカップには、薄い茶が注がれていた。


香りの弱いものに替えられている。


ブライアンの手配だろう。


優しい。


そして、抜け目がない。


マーリンはティーカップに触れた。


温かい。


香りは控えめ。


それでも、胃の奥がほんの少し揺れる。


飲めなくはない。


でも、飲みたいわけでもない。


クリスチーナが視線だけで尋ねる。


無理をなさらないでくださいませ。


そう言っているのが見えた。


マーリンは小さく頷く。


アンネリーゼはティーカップを置き、マーリンを見る。


「マーリン様は、随分と難しいことをお尋ねになりますのね」


「思いついたことを伺っただけですわ」


「それで講堂を黙らせてしまうのですから、さすがです」


棘。


けれど、少しだけいつもと違う。


アンネリーゼ自身も、ブライアンの言葉に何か引っかかっているのかもしれない。


マーリンは穏やかに返す。


「アンネリーゼ様のご質問も、アンネリーゼ様らしいものでした」


「努力の話ですか」


「ええ」


「マーリン様には必要のない言葉でしょう」


「必要ですわ」


アンネリーゼは笑う。


「ご冗談を」


「冗談ではありません」


マーリンは静かに言う。


「できることと、間違えないことは違いますもの」


アンネリーゼの表情が少し止まる。


ブライアンもこちらを見る。


マーリンは続ける。


「私は、できることが多いだけです。けれど、それで正しいかどうかは、いつも見えません」


撃墜女王。


敵を落とせる。


リュールを動かせる。


戦果を上げられる。


けれど、それは正しいのか。


ステラがいなくなった戦場で、マーリンは強かった。


強すぎた。


落とした。


壊した。


沈めた。


それは、帝国にとって正しい。


補給線を守るためにも正しい。


味方の損失を減らすためにも正しい。


だが、マーリン自身の中には、何一つ綺麗に収まらない。


アンネリーゼは小さく息を吐く。


「贅沢なお悩みですこと」


「そうかもしれません」


マーリンは否定しない。


否定すれば、アンネリーゼの積み重ねを踏むことになる。


努力しても届かない人がいる。


できてしまう人がいる。


それは不公平だ。


マーリンも、それを知らないふりはできない。


アンネリーゼの努力と、マーリンの才能。


どちらも別の檻だ。


比べても、救いはない。


ブライアンが静かに口を挟む。


「才能も努力も、正しい方向へ向けなければ損失になります」


「ブライアン様は、何でも損失でお考えになるのですね」


アンネリーゼの声に、少し棘が戻る。


ブライアンは動じない。


「損失を減らすことは、守ることに繋がります」


「人の感情も?」


アンネリーゼが問う。


意外な問いだった。


マーリンは彼女を見る。


アンネリーゼ自身も、少し驚いた顔をしている。


自分で言ってしまった、という顔。


ブライアンは静かに答える。


「感情は消すべきものではありません。ただ、判断を歪める時は補正が必要です」


「補正」


アンネリーゼはティーカップを見る。


「美しい言葉ですわね」


その言い方は、少しだけマーリンに似ていた。


マーリンは胸の奥がざわつく。


アンネリーゼも、檻の中にいる。


フェアチャイルドの名。


努力の令嬢という役割。


マーリンへの妬み。


NewEraに関わる家。


それらが、彼女を作っている。


彼女自身がどこにいるのか、もしかすると本人にも見えていないのかもしれない。


「アンネリーゼ様」


マーリンは静かに言う。


「フェアチャイルド家は、NewEraの技術に関わっておられますのね」


アンネリーゼの指が、ティーカップの取っ手で止まる。


ほんの一瞬。


だが、止まった。


「……ええ。多少は」


声は整っている。


「技術研究部門が、帝国の計画に協力しております。末席とはいえ、公爵家の責務ですわ」


「誇らしいことですね」


「そう言われますわ」


そう言われますわ。


その返しは、少しだけ奇妙だった。


自分が誇っている、とは言わなかった。


マーリンはそれ以上踏み込まない。


今ここで、彼女を追い詰めるべきではない。


アンネリーゼもまた、すべてを知らされているわけではないのだろう。


あるいは、知っていることを誇れと命じられている。


どちらにせよ、そこには彼女の自由が少ない。


「マーリン様は」


アンネリーゼが言う。


「ご自分の力を、誇らしいと思ったことはありますか」


部屋の空気が少し変わった。


ブライアンも口を閉じる。


クリスチーナが壁際でわずかに顔を上げる。


マーリンは少し考えた。


昔なら、答えは簡単だったかもしれない。


褒められれば嬉しかった。


誰かの役に立てば誇らしかった。


リュールが応えた時、怖くても少しだけ胸が熱くなった。


だが、今は。


「誰かを守れた時は」


マーリンは言う。


「少しだけ、そう思えました」


アンネリーゼは黙る。


「でも、守れなかった時の方が、長く残ります」


ステラの声が、また胸をかすめる。


マーリン様。


帰ったら。


言い切れなかった言葉。


アンネリーゼは、視線を落とした。


「……そういうものなのですね」


「ええ」


「マーリン様にも、残るのですね」


「残りますわ」


「消えない?」


「消えません」


アンネリーゼは、少しだけ笑った。


棘ではない。


困ったような、小さな笑みだった。


「少し、安心いたしました」


「安心?」


「完璧な方にも、消えないものがあるのだと」


褒め言葉ではない。


慰めでもない。


けれど、不思議と嫌ではなかった。


マーリンはティーカップを見つめる。


薄い茶の水面に、講堂の光が小さく揺れていた。


完璧ではない。


消えないものがある。


迷いも、恐怖も、痛みも。


それが誤差ではないのなら。


それを抱えたままでも、人間でいられるのなら。


マーリンは、まだ完全には消えていないのかもしれない。



応接室を出る頃、マーリンは少し足元がふらついた。


ほんの少し。


けれど、クリスチーナは見逃さない。


「お嬢様」


「大丈夫……では、ないわね」


マーリンは小さく言い直す。


「少し、疲れたわ」


「すぐにお休みを」


「ええ」


アンネリーゼがそれを見る。


何か言いかけて、やめた。


それから、いつものように微笑む。


「マーリン様も、お疲れになるのですね」


「私も人間ですもの」


そう返すと、アンネリーゼは一瞬だけ目を伏せた。


「そうでしたわね」


その声には、棘が少なかった。


ほんの少しだけ。


ブライアンが近づく。


「ロイス嬢、車を回しています」


「ありがとうございます、ブライアン様」


「講堂での問いは」


彼はそこで止める。


「いえ、後で話しましょう」


「ここでは?」


「ここは、学園ですから」


その言葉に、マーリンは周囲を見る。


白い廊下。


整えられた窓。


生徒たちの視線。


学園。


かつての場所。


けれど、もう安全な場所ではない。


ここにもNewEraの言葉は入ってきている。


AIの正しさは語られている。


フェアチャイルドの影もある。


ブライアンの思想もある。


檻は、屋敷や軍だけではない。


学園にまで広がっている。


マーリンは窓の外を見る。


中庭の花が揺れている。


かつてなら、綺麗だと思えた。


今も綺麗だ。


けれど、その香りを想像しただけで、少し喉が詰まる。


「ロイス嬢」


ブライアンの声。


「はい」


「AIは間違えません」


彼は静かに言った。


「ですが、AIを使う人間は間違えます」


マーリンは彼を見る。


ブライアンの表情は穏やかだった。


けれど、その目には小さな揺れがある。


クロードの資料を読んでからの揺れ。


「だからこそ、正しい人間が必要です」


「正しい人間とは、誰ですか」


マーリンが尋ねる。


ブライアンは、すぐには答えなかった。


マーリンも答えを急がない。


その沈黙が、この話の中で一番正直だった。


やがて、ブライアンは小さく息を吐く。


「少なくとも、自分が正しいと疑わない者ではありません」


「ブライアン様は、ご自分を疑っておられるのですか」


「最近は」


その言い方は、少しだけ苦かった。


マーリンは、胸の奥で何かが小さく揺れるのを感じた。


それが安心なのか、痛みなのかは判別できない。


「それでも、NewEraを信じるのですね」


「信じています」


答えは変わらない。


「ただ、信じることと、疑わないことは違うのだと」


彼は言葉を探すように、一度視線を落とした。


「クロード様の資料を読んでから、そう考えています」


クロード。


兄の名が、学園の廊下に落ちる。


マーリンは窓の外を見た。


白い花が揺れている。


風は穏やかだ。


何も知らなければ、ただ綺麗な日だった。


「お兄様は、間違えたのでしょうか」


「すべて正しかったとは言いません」


ブライアンは答える。


「ですが、彼が見た危うさは、本物だったのだと思います」


「では、正しい人間とは、危うさを見る人でしょうか」


「危うさを見ても、それを理由に逃げない人だと思います」


逃げない。


その言葉に、マーリンは少しだけ目を伏せる。


ロイス公爵はクロードを逃げたと言った。


けれど、ブライアンは違う言い方をした。


危うさを見ていた、と。


逃げたのではなく、見てしまった人。


見てしまったから、戻れなくなった人。


その方が、ずっと兄らしい。


「では、私はどうなのでしょう」


マーリンは言う。


「疑って、立ち止まって、それでも何も選べないなら」


「それでも、疑わないよりはいい」


ブライアンの声は静かだった。


「疑いを持たない正しさは、早く進みすぎる」


マーリンは彼を見る。


「ブライアン様らしくない言葉ですわね」


「そうかもしれません」


「お兄様の影響ですか」


「否定しません」


そこで、ほんの少しだけ空気が緩んだ。


クリスチーナが近くで小さく息を吐く。


アンネリーゼは少し離れた場所で、こちらを見ていた。


聞こえていたのか、いなかったのか。


分からない。


けれど、その表情はいつもの勝ち気なものではなかった。


何かを聞き逃したくないような、そんな顔だった。


マーリンは彼女へ視線を向ける。


アンネリーゼは一瞬迷い、それから近づいてきた。


「マーリン様」


「はい」


「先ほどの問い」


「恐怖や迷いの話ですか」


「ええ」


アンネリーゼは少しだけ唇を結ぶ。


「もし努力も、AIに正しい方向へ補正されるのなら」


言葉を探している。


彼女にしては珍しい。


「努力しない方が、正しいと言われることもあるのでしょうか」


その問いは、棘ではなかった。


怖さだった。


積み重ねてきたものを、外側から無駄だと言われる怖さ。


正しい方向ではないと、切り捨てられる怖さ。


アンネリーゼにとって、努力は自分を支える柱だ。


それを補正されることは、きっと自分の形を変えられることに近い。


ブライアンは静かに答える。


「あり得ます」


アンネリーゼの顔がわずかに強張る。


「ですが、それを人がどう受け取るかは別です。AIが示した結果だけで、人の努力の価値が消えるわけではありません」


「綺麗な答えですわね」


アンネリーゼが言う。


「けれど、結果を出せない努力は、家では評価されません」


その言葉は、彼女の家の廊下から来たように聞こえた。


フェアチャイルド家。


末席公爵家。


努力の令嬢。


マーリンは、彼女の棘の奥にあるものを初めてはっきり見た気がした。


「アンネリーゼ様」


マーリンは言う。


「私も、結果を出せば評価されますわ」


「でしょうね」


「でも、結果を出すほど、自分がどこにいるのか見えなくなります」


アンネリーゼは黙った。


「評価は、便利です。数字も、戦果も、称賛も。けれど、それが自分を助けてくれるとは限りません」


撃墜数。


撃沈数。


帝国の希望。


撃墜女王。


言葉は増える。


けれど、ステラの声は増えない。


アンネリーゼは、視線を下げた。


「……マーリン様は、嫌な方ですわ」


「ええ」


マーリンは少しだけ笑う。


「よく言われます」


「そんな顔で認めないでくださいませ」


「どんな顔でしょう」


「困ります」


それは、少しだけ昔のやり取りに似ていた。


棘はある。


けれど、刺し殺すための棘ではない。


まだ、互いの距離を測るための棘。


その軽さが、今は少し救いだった。



車へ向かう道で、学園の生徒たちが頭を下げる。


マーリンは微笑む。


整えた微笑み。


でも、前より少しだけ重い。


彼らの視線には、いくつもの名前が乗っている。


ロイス家令嬢。


撃墜女王。


ブライアンの婚約者。


NewEraの象徴。


そのどれもが、マーリンを見ているようで、マーリン自身を見ていない。


クリスチーナがそばにいる。


ブライアンが少し前を歩く。


アンネリーゼは学園側の見送りとして残っている。


それぞれの場所。


それぞれの役割。


白い門の外に軍用車が待っていた。


マーリンは乗り込む前に、もう一度だけ学園を振り返る。


ヘルリッヒ学園。


かつて少女だった場所。


けれど、そこにもすでにNewEraの言葉は入り込んでいた。


ブライアンは語った。


人間は間違える。


AIは間違えない。


AIは恐れず、怒らず、愛情で全体を見失わない。


だから、人間の判断を補正できる。


その言葉は正しい。


戦争の中では、きっと必要でもある。


けれどマーリンは、クロードの警告を思い出す。


迷いは、踏みとどまるための機能でもある。


AIは間違えないとしても、AIを使う人間は間違える。


そして責任は、広がりすぎれば誰にも届かなくなる。


アンネリーゼもまた、フェアチャイルド家と努力の檻の中にいる。


棘の奥にある揺れを、マーリンは初めて少しだけ見た。


吐き気とめまいは軽く残ったまま。


マーリンの中に、はっきりした疑念が生まれ始める。


ブライアンは正しい。


ロイス公爵も、帝国の論理では正しい。


NewEraも、犠牲を減らすための計画としては正しい。


けれど、その正しさは誰を守り、誰を檻に入れるのか。


「ロイス嬢」


ブライアンが車の扉を押さえている。


「お疲れでしょう」


「ええ」


マーリンは素直に頷く。


「疲れました」


ブライアンの目がわずかに揺れる。


その反応に、マーリンは少しだけ笑った。


大丈夫ではなく、疲れたと言った。


それだけのことなのに、周囲が少し驚く。


自分がどれほど言葉を飲み込んできたか、今さら見えてくる。


「戻ったら、休んでください」


「必要ですものね」


「はい」


いつもの即答。


けれど、今は少しだけ違って聞こえた。


命令ではない。


管理でもない。


少なくとも、今だけは。


「ブライアン様」


「はい」


「正しい人間が必要だと仰いましたね」


「言いました」


「正しい人間とは、間違えない人ではないのかもしれません」


ブライアンは答えない。


マーリンは続ける。


「間違えた時に、それを誰かのせいにしない人なのかもしれません」


クロード。


ミハイル。


ステラ。


父。


帝国。


王国。


AI。


責任は広がる。


広がって、消えそうになる。


それでも、消してはいけないものがある。


「ロイス嬢」


ブライアンの声は低かった。


「それは、とても難しいことです」


「ええ」


マーリンは頷く。


「だから、人間は間違えるのでしょうね」


車の中へ入る。


クリスチーナが隣に座る。


ブライアンは向かい側へ。


扉が閉まると、外の花の香りが少し遠ざかった。


代わりに、車内の静けさが降りてくる。


マーリンは窓の外を見る。


学園の白い門が、ゆっくり遠ざかる。


かつて少女だった場所。


もう、少女ではいられない名前を背負って戻った場所。


そこでも、答えは見つからなかった。


けれど、疑いだけは残った。


AIは間違えない。


ブライアンはそう言った。


たぶん、それは正しい。


けれど、間違えないものが、必ず人を救うとは限らない。


マーリンは膝の上で指を重ねる。


その指先は、まだ少し冷たい。


クリスチーナが何も言わず、薄い布を膝へかける。


マーリンは小さく礼を言う代わりに、少しだけ手を乗せた。


クリスチーナの手は、温かかった。


人間の手だった。


間違える手。


震える手。


届かない時もある手。


それでも、伸ばしてくれる手。


マーリンはその温度を確かめながら、窓の外へ視線を戻す。


次に見つめ直さなければならないものは、もう見えている。


ブライアン。


ロイス公爵。


NewEra。


そして、自分自身。


正しさが誰を守り、誰を檻に入れるのか。


その問いは、もう消えなかった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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