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NewEraの核心

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

クロードの資料は、まだ奥があった。


一つ読めば、次の扉が見える。


その扉の向こうに、また別の扉がある。


答えに近づいているのか、檻の奥へ進んでいるのか、マーリンには判然としなかった。


ロイス家の閲覧室には、香を焚いていない。


窓も少しだけ開けてある。


それでも、胸の奥には薄い違和感が残っていた。


吐き気というほど強くはない。


めまいというほど深くもない。


ただ、身体のどこかが、静かに波打っている。


戦場の高負荷とは違う。


リュールに深く繋がった時の、魔力を削られる感覚とも違う。


もっと内側で、何かが小さく揺れている。


マーリンは、その揺れをまた名前のない場所へ押し戻した。


名前をつければ、誰かが意味に変える。


症状。


不調。


戦闘負荷。


管理対象。


あるいは、まだ知らない別の何か。


どれも今は欲しくなかった。


クリスチーナは、マーリンのそばに香りのない水を置く。


何も言わない。


その無言が、今はありがたかった。


問い詰めない。


急かさない。


けれど、必要なものだけは手の届くところに置いておく。


クリスチーナの世話は、いつもそうだった。


それが檻ではないことを、マーリンはもう知っている。


ブライアンは向かいに座っている。


端末は隔離され、外部の管理網から切り離されていた。


小さな遮断装置が、机の端で淡い光を保っている。


正しく安全に。


正しく閉じ込められて。


「ロイス嬢」


ブライアンが静かに言う。


「この先は、初期構想ではなく、実装段階に近い資料です」


「つまり、危険だと?」


「はい」


「でも、見せてくださるのですね」


「隠せば、君は別の方法で見ようとする」


よく見ている。


少しだけ腹が立つくらいに。


マーリンは微笑む。


「信用されていますのね」


「信用しています。だから、危うい」


その言い方は、少しだけ人間らしかった。


正しい答えではなく、心配に近い。


それでも、ブライアンの手は止まらない。


危ういと知りながら、道を整える。


止めるためではない。


進ませるために、危険の角を削る。


それが彼の優しさであり、彼の管理だった。


マーリンは画面を見る。


NewEra Project 中核構成案。


そこに、四つの項目が並んでいた。


統治補助AI。


オートマタ部隊。


意識統合技術。


社会最適化統治計画。


文字は整っている。


整っているのに、ひどく冷たい。


「……これが、NewEra」


マーリンは呟く。


ブライアンは否定しない。


「輪郭です。核心そのものには、まだ遠い」


「これで遠いのですか」


「はい」


それが一番怖かった。


目の前に並ぶ言葉だけで、もう十分すぎるほど重い。


それでも、まだ奥がある。


帝国が隠し、ロイス公爵が掴み、クロードが止めようとしたもの。


そのすべてが、たった四つの項目に整えられている。


まるで、屋敷の書庫に並ぶ家系図のように。


誰が何を望んだかではなく、どの枝がどこへ繋がるかだけを示す紙のように。


最初の項目は、統治補助AIだった。


帝国全土の情報を収集し、分析し、最適な判断を提示する。


戦線維持。


資源配分。


治安管理。


貴族領の収支。


反乱予測。


外交判断。


人口移動。


魔力適性者の配置。


人間の判断では遅れるものを、AIが補う。


資料にはそう書かれていた。


言葉だけなら、便利な道具だ。


大きな帝国を支える賢い仕組み。


間違いを減らし、犠牲を少なくするためのもの。


「最初は、議会補佐のためだったのですね」


マーリンが言う。


「はい」


ブライアンが頷く。


「人間は情報を見落とします。家格、派閥、感情、利害。判断は常に歪む。AIはそれを補正できる」


「補正」


「より少ない損失で、より多くを守るために」


正しい。


本当に、正しい。


飢えを減らせるなら。


無駄な戦闘を避けられるなら。


補給線を効率化できるなら。


負傷者の搬送を最適化できるなら。


それはきっと善いものだ。


戦場で、数分の遅れが命を奪うことをマーリンは知っている。


補給艦が逃げ遅れるだけで、医療区画ごと失われることも知っている。


ステラが、右下が本命です、と言った声を思い出す。


あの一言がなければ、守れなかったものがあった。


情報は、人を救う。


判断も、人を救う。


だからこそ、怖い。


救えるものは、いつか救うためという名で、他のものを切り落とす。


マーリンは資料の端を見る。


クロードの注釈が残っていた。


――補助の名を持つものは、やがて判断を代行する。


――代行が常態化すれば、人は責任だけでなく、疑う力も失う。


マーリンは、その一文を指でなぞる。


画面の中の文字に、指先の温度は移らない。


それでも、そこに触れたかった。


「お兄様は、最初から疑っていたのね」


「疑っていたというより、境界を見ていたのだと思います」


ブライアンの声は硬い。


「AIが補助であるうちは有用です。ですが、どこからが補助で、どこからが支配なのか。その線は、運用する者によって変わる」


「お父様なら?」


ブライアンは一拍置く。


「限界まで進めるでしょう」


「ブライアン様なら?」


「必要なところまで進めると思います」


「その必要は、誰が決めるのですか」


部屋が静かになる。


ブライアンはすぐには答えない。


答えられないのではない。


答えがいくつもあるのだ。


帝国。


軍。


貴族。


AI。


そして、ブライアン自身。


マーリンは目を伏せる。


正しさは、いつも自分で歩き始める。


誰かが手綱を握っているつもりでも、正しいという言葉を得た瞬間、道は勝手に伸びていく。


「ロイス嬢」


ブライアンが言う。


「僕は、最終的な選択主体は人間であるべきだと思っています」


「べき」


マーリンは小さく繰り返す。


「まだ、そうなっているとは言えないのですね」


ブライアンはわずかに目を伏せた。


「制度は、理想より遅れます」


「人間の判断は遅れるから、AIが補う。けれど制度も遅れる」


「その通りです」


「大変ですわね。遅れるものばかりで」


軽く言ったつもりだった。


けれど、軽くはならなかった。


ブライアンは静かに受け止める。


「だからこそ、急ぎすぎる者もいる」


「お父様のことですか」


「ロイス公爵閣下だけではありません」


それ以上は言わない。


帝国中枢。


貴族議会。


軍。


NewEraに手を伸ばす者たち。


名前のない顔が、画面の裏に並ぶ。


マーリンは水の入ったコップへ視線を落とした。


水面は揺れていない。


揺れているのは自分の方だった。


次の項目は、オートマタ部隊だった。


人形。


人形使いが乗るもの。


魔力の糸でつなぎ、操縦者の意思で動かすもの。


マーリンにとって、人形とはリュールだった。


白い機体。


痛いほど深くつながる子。


自分の怒りも、震えも、喪失も、全部吸い上げるように応える機体。


マーリンの手が動けば、リュールの手が動く。


マーリンの魔力が伸びれば、リュールの中で白い糸が灯る。


時には、マーリンの方が引かれているのではないかと思うほど、深く。


けれど、資料の中の人形は違った。


操縦者を必要としない人形。


AI指揮系統に接続され、戦術判断を自律で行う機体群。


魔力適性者を前線に出さず、人的損耗を減らすため。


それが建前だった。


「無人人形……」


マーリンの声が少しかすれる。


「すでに試験は始まっているのですか」


「初期運用段階です」


ブライアンが答える。


「ただし、完全な自律運用にはまだ問題があります。母艦からのエネルギー供給の安定性、内蔵蓄電池の持続時間、敵味方識別、異常時の停止手順」


「魔力では、動かないのですね」


「無人機ですから」


ブライアンは静かに頷く。


「人形使いの魔力を主動力にはできません。反応炉も、人形サイズまで小型化されていない。ですから、オートマタは母艦からのエネルギー供給と、内蔵蓄電池で稼働します」


オートマタ。


その呼び名が、画面の中で何度も現れる。


人のいない人形。


魔力の糸でつながる相手がいない機体。


リュールとは違う。


あの白い機体は、マーリンの魔力に応える。


痛いほど深くつながり、怒りも震えも吸い上げる。


けれど、オートマタにはそれがない。


人形使いの迷いも、恐怖も、息遣いもない。


ただ、供給された力で動く。


蓄えた力で進む。


与えられた判断で敵を選ぶ。


クロードの注釈が重なる。


――人のいない兵器は、人の恐怖を知らない。


――恐怖を知らない兵器は、止まる理由を外から与えなければならない。


――外からの停止権限を失った時、それは兵器ではなく災害になる。


災害。


その一語だけ、少し濃く見えた。


マーリンは喉の奥が冷えるのを感じる。


ステラがいた頃、マーリンは止まれた。


出力が上がりすぎれば、ステラが声をかけた。


急旋回しすぎれば、戻された。


敵機を追いすぎれば、任務は達成していますと言われた。


ステラがいなくなってから、止まれなかった。


人間ですらそうなのだ。


声がなければ、手綱がなければ、怒りで突っ込んでしまう。


では、最初から人がいない兵器は。


何が止めるのだろう。


誰が、そこまででいいと言うのだろう。


「この開発に、フェアチャイルドが関わっているのですね」


マーリンは資料の下部に表示された協力機関名を見る。


フェアチャイルド系技術研究部門。


自律制御基盤。


識別補助演算。


小型判断核の安定化試験。


フェアチャイルド。


アンネリーゼ様の家。


努力の令嬢。


棘のある言葉。


マーリンへの羨望と妬み。


彼女の背後にも、こんなものがあったのか。


「フェアチャイルド家は、AI制御系と無人人形の判断核に強い」


ブライアンが言う。


「末席公爵家とはいえ、技術分野では存在感があります。NewEraへの関与も深い」


「アンネリーゼ様は」


「すべてを知っているとは限りません」


「でも、関係はある」


「家としては」


家として。


その言葉は便利だ。


個人を守る。


同時に、個人を巻き込む。


マーリンはアンネリーゼの顔を思い出す。


美しく整えた髪。


努力で磨かれた所作。


マーリンを見る時の、隠しきれない棘。


彼女もまた、家の中で役割を持たされている。


フェアチャイルドの名を背負い、NewEraの技術的成果に近い場所にいる。


知らずに。


あるいは、少しだけ知って。


「アンネリーゼ様は、私を嫌っているわ」


マーリンはぽつりと言う。


クリスチーナが少しだけ目を伏せる。


ブライアンは、静かに答える。


「君を意識しているのだと思います」


「優しい言い方ですね」


「事実です」


マーリンは小さく笑う。


「ブライアン様は、棘にも正しい名前をつけるのですね」


ブライアンは答えない。


マーリンは資料へ視線を戻す。


フェアチャイルドの名は、何度も出てくる。


無人人形。


AI判断核。


自律制御。


アンネリーゼの棘が、急に別の形を持った気がした。


彼女は、棘があるだけの令嬢ではない。


少なくとも、そう呼んで片づけられる人ではない。


帝国の構造の中で、マーリンとは違う場所から押し出されている令嬢なのだ。


「フェアチャイルド様は、どこまでご存じなのでしょう」


クリスチーナが静かに言う。


「分かりません」


ブライアンが答える。


「ただ、家の技術がどこへ使われるかを、すべて知らされる立場ではないはずです」


「それでも、家の成果として誇れと言われるかもしれない」


マーリンは言う。


「何に使われるかを知らないまま」


ブライアンは否定しない。


マーリンは目を伏せた。


アンネリーゼの棘が、少しだけ痛み方を変える。


嫌い合うだけなら簡単だった。


けれど、同じ檻の別の格子にいるのだと気づいてしまえば、その棘だけを責めるのは難しくなる。


「お嬢様」


クリスチーナが水を少し近づける。


マーリンは頷き、一口だけ飲んだ。


水は冷たい。


甘くも苦くもない。


ただ、喉を通る。


それだけが、今は助かった。


三つ目の項目は、意識統合技術だった。


マーリンは、画面を開いた瞬間に息を止めた。


ロイス公爵の名がある。


人工心肺装置。


延命管理。


神経信号転写。


意識保持試験。


AI補助記憶構造。


言葉は難しい。


けれど、意味は伝わる。


父は、ただ長く生きようとしているのではない。


肉体の限界を越えようとしている。


AIと意識を統合し、永続的な判断主体になる。


死を越えたロイス公爵。


永遠に続く家の意思。


マーリンの手が冷たくなる。


「お父様は……」


声が出にくい。


「ここまで」


ブライアンは、すぐには答えなかった。


クリスチーナも黙っている。


人工心肺装置の音が、記憶の中で蘇る。


規則正しい音。


冷たい音。


生きるための音だと思っていた。


でも、もしかするとあれは、別のものへ移るための音でもあったのかもしれない。


人間の身体から、機械へ。


父から、永続する意思へ。


命令から、構造へ。


「ロイス公爵閣下は、生に強い執着をお持ちです」


ブライアンは慎重に言う。


「それは存じております」


マーリンの声は、自分でも驚くほど冷たかった。


「ですが、これは」


「NewEraの中でも最も機密性が高い領域です」


「意識をAIへ移すのですか」


「完全な移植ではありません。現段階では、意識の複製、判断傾向の保存、記憶構造の補助的再現に近い」


「言い方を変えただけに聞こえます」


「そうかもしれません」


ブライアンは否定しない。


いつも通り。


正しい人は、逃げない。


逃げないから、こちらも逃げにくい。


クロードの注釈が表示される。


――生の保存ではない。


――これは、死を否定する権力の保存だ。


――人は死ぬから、次へ譲る。


――死なない権力は、未来を相続させない。


マーリンは、そこから目を離せなかった。


父はクロードを逃げたと言った。


けれど、クロードは見ていた。


父が何をしようとしているのか。


ロイス家が、帝国が、NewEraが、どこへ向かうのか。


「お兄様は、お父様を止めようとしていた」


「はい」


ブライアンの答えは短い。


「戦争だけではなく」


「おそらく」


マーリンは胸元に手を当てる。


吐き気は軽い。


けれど、別のものが重い。


父の命令。


血脈。


家。


生に固執する父。


消えた兄。


すべてがつながってしまう。


「お父様は、私にも血脈を守れと言いました」


「……はい」


「ご自分は、死なないつもりで」


その言葉は、皮肉にもならなかった。


ただ、悲しかった。


父は家を守りたいのではない。


家を通じて、自分を残したいのかもしれない。


ロイスの血も。


マーリンの婚約も。


NewEraも。


全部、そのための鎖なのかもしれない。


「お嬢様」


クリスチーナの声が少し近くなる。


マーリンは顔を上げない。


「私は、お父様の娘なのかしら」


クリスチーナは言葉を詰まらせた。


答えられない問いだと、マーリンも知っている。


それでも、出てしまった。


父にとって、娘とは何なのだろう。


血を継ぐ器。


家を繋ぐ駒。


リュールを動かす魔力。


カーチスライトと結合させるための役割。


そのどれもが、父の中では娘と矛盾しないのかもしれない。


それが、怖かった。


「お嬢様は、お嬢様でございます」


クリスチーナは、やっとそう言った。


いつもの答え。


でも、今はそのいつもがありがたい。


マーリンは小さく頷く。


「ええ」


信じきれなくても。


その声だけは、まだそばにある。


最後の項目は、社会最適化統治計画だった。


そこには、帝国の未来図があった。


貴族議会の判断をAIが補佐する。


軍の作戦判断をAIが補正する。


人形部隊は無人化される。


魔力適性者は、戦場ではなく管理・同期・高位試験に集中させる。


主要貴族家は、計画の各部門を分担する。


統治は効率化され、反乱は予測され、犠牲は最小化される。


完璧だった。


あまりにも完璧で、人の入る隙間がなかった。


「これは、統治計画です」


マーリンは言う。


「はい」


「戦争に勝つための計画ではなく」


「戦争後も含みます」


ブライアンが答える。


「帝国を、より安定した形へ移行させるための計画です」


「人を管理する社会へ」


「人を守る社会へ」


また同じ言葉。


同じ場所を、違う名前で呼んでいる。


マーリンは画面を見る。


反乱予測。


思想傾向分析。


貴族家評価。


婚姻による血統・魔力適性の安定化。


婚姻。


そこに、自分の影を見る。


ロイス家とカーチスライト家。


撃墜女王とNewEraの結合。


政治と軍事の結合。


マーリンとブライアンの婚約は、資料の中の一項目とよく似ていた。


「私たちの婚約も、この計画の一部ですか」


部屋が静かになる。


クリスチーナが息を止める。


ブライアンはマーリンを見る。


まっすぐに。


「一部として扱われています」


扱われている。


その言い方だけが、少しだけ救いだった。


ブライアン自身が完全にそう見ているわけではない。


けれど、構造はそう見ている。


マーリンは笑おうとした。


うまくいかなかった。


「そう」


それだけ言う。


それ以上言うと、何かが崩れそうだった。


クロードの注釈が最後に残っている。


――この計画は、平和を約束する。


――だが、選択のない平和は、檻である。


――檻の中で守られる人間は、やがて守られていることにも気づかなくなる。


――マーリンを、その中へ入れるな。


そこで、文字は途切れていた。


兄の警告は、また届かなかったのだ。


マーリンは画面を見つめる。


マーリンを、その中へ入れるな。


けれど、もう入っている。


撃墜女王として。


リュールの操縦者として。


ロイス家の娘として。


ブライアンの婚約者として。


檻の中に。


正しさの檻の中に。


「お嬢様」


クリスチーナの声で、マーリンは我に返る。


「お顔の色が」


「少し、疲れただけよ」


今回は、大丈夫とは言わなかった。


それだけで、クリスチーナの目がわずかに和らぐ。


ブライアンも画面を閉じる。


「ここまでにしましょう」


マーリンは頷いた。


逆らう気力がなかった。


知りたかった。


けれど、知ることは体力を削る。


戦場とは違う削られ方だった。


リュールなら、魔力が減る。


身体が軋む。


警告が鳴る。


NewEraを知ることには、警告音がない。


ただ、心のどこかが静かに削れる。


「ブライアン様」


「はい」


「あなたは、これを知っていて信じているのですね」


「はい」


短い答え。


「怖くはないのですか」


ブライアンは少しだけ考える。


「怖いです」


意外な答えだった。


マーリンは彼を見る。


「怖いものを、信じるのですか」


「怖いから、正しく扱う必要があると思っています」


「正しく扱えると?」


「扱えなければ、もっと悪いものになります」


その答えは、ブライアンらしかった。


間違いを恐れ、だから管理しようとする。


人間は間違える。


だからAIが必要だと信じる。


その信念が、どこまで優しさで、どこから檻なのか。


マーリンにはまだ見えない。


「お兄様は、選択のない平和は檻だと書いていました」


「クロード様らしい言葉です」


「ブライアン様は?」


「選択が多すぎれば、人は迷い、傷つき、間違える」


「だから、減らすのですか」


「最悪の選択を避けられるようにするのです」


また、正しい。


けれど、マーリンの胸にはクロードの言葉が残っている。


迷いは、踏みとどまるための機能でもある。


ステラがいた頃の戦い。


落とさずに止めた敵機。


逃げ道を残した線。


守れたはずの日。


あの迷いは、間違いではなかった。


マーリンは、そう思いたかった。


「最悪を避けるために、選べるものが一つずつ消えていくなら」


マーリンは言う。


「最後に残るものは、本当に救いなのでしょうか」


ブライアンは答えなかった。


沈黙。


それは逃げではない。


考えている沈黙だった。


そのわずかな沈黙だけで、マーリンは少し息ができた。


完全な正しさではない。


まだ、揺れる余地がある。


ほんの少しでも。


「ロイス嬢」


ブライアンが静かに言う。


「僕は、君がそう問うことを、消すべき誤差だとは思いません」


マーリンは目を上げた。


「本当に?」


「本当に」


「では、資料にはそう書き足してくださいませ」


少しだけ、意地の悪い言い方になった。


ブライアンは、ほんのわずかに口元を緩める。


「検討します」


「検討」


「いきなり書き足すには、手続きが多すぎる」


「正しい方」


「ええ」


そのやり取りは軽い。


けれど、軽さの下に、ひび割れたものがある。


ブライアンの正しさはまだ壊れていない。


マーリンの疑念も、まだ形を持ちきっていない。


それでも、何かが少し変わっていた。



閲覧室を出る頃には、外の光が少し傾いていた。


帝都の光は相変わらず整っている。


航行灯も、軌道線も、街の明かりも。


美しい。


けれど、今はその美しさが少し怖い。


全部が管理されているように見える。


全部が正しい場所へ置かれているように見える。


人も。


家も。


恋も。


死も。


マーリンは廊下で足を止める。


少しだけ、胃が揺れた。


クリスチーナが支える。


「お嬢様」


「平気……ではないけれど、歩けるわ」


クリスチーナは一瞬、驚いた顔をした。


それから、静かに頷く。


「はい」


ブライアンは少し後ろを歩いている。


正しい距離。


近づきすぎず、離れすぎない。


「ロイス嬢」


「はい」


「学園へ戻る予定が入っています」


「学園へ?」


懐かしいような、遠いような響きだった。


ヘルリッヒ学園。


かつての社交の場。


羨望と棘の場。


まだ、戦場が少し遠かった場所。


ミハイルと同じ空の下にいられた場所。


アンネリーゼの棘が、ただ棘として見えていた場所。


マーリンは一度、深く息を吸う。


廊下に香はない。


それでも、胸が少し詰まる。


「正式な復帰ではありません。式典と、上級生向けの講話に近いものです。NewEraに関する一般向け説明も含まれます」


「私も出るのですね」


「はい」


「撃墜女王として?」


「ロイス嬢としてです」


ブライアンはそう言った。


でも、二つはもう分けられない。


マーリンにはそれが見えていた。


ロイス嬢。


撃墜女王。


リュールの操縦者。


NewEraの象徴。


どの名で呼ばれても、周囲が見るものは同じだ。


美しい白い令嬢。


戦場で敵を落とした少女。


帝国の希望。


帝国に使いやすい形に整えられた名前。


「アンネリーゼ様も?」


「参加予定です。フェアチャイルド家の関係者としてではなく、学園代表の一人として」


フェアチャイルド。


無人人形。


AI判断核。


自律制御。


アンネリーゼの棘と、NewEraの冷たさが、細い糸でつながる。


学園で会えば、彼女はいつものように笑うだろうか。


マーリン様、と呼んで。


その裏で、何を知っているのだろう。


何を知らされていないのだろう。


何を知らないまま、誇れと言われているのだろう。


「ブライアン様は、何をお話しになるのですか」


ブライアンは静かに答える。


「人間の判断と、AIの可能性について」


マーリンは少しだけ目を伏せる。


次に来る言葉は、もう見える気がした。


人間は間違える。


AIは間違えない。


それは正しいのかもしれない。


けれど、その正しさを聞くために、マーリンはまた学園へ戻る。


まだ少女だった場所へ。


もう、少女ではいられない名前を背負って。


「ロイス嬢」


ブライアンが言う。


「講話の場で、君に発言を強いるつもりはありません」


「強いられなくても、視線は集まります」


「それは避けられない」


「避ける気も、ないのでしょう?」


「完全には」


正直だった。


マーリンは少しだけ笑う。


「ブライアン様は、便利な嘘が下手ですわね」


「褒め言葉として受け取ります」


「少し違います」


「では、注意として」


そう返されて、マーリンはほんの少しだけ息を抜いた。


笑えるほどではない。


でも、肩の力が少し落ちる。


クリスチーナの手が、支える力をほんの少し緩めた。


歩ける。


まだ。


マーリンは廊下の先を見る。


ロイス家の廊下は、長い。


どこまで歩いても、どこかへ戻されるような気がする。


父の部屋。


閲覧室。


自室。


クロードの部屋。


そして、これから向かう学園。


どの場所にも、NewEraの影が落ちている。


統治補助AI。


オートマタ部隊。


意識統合技術。


社会最適化統治計画。


それは戦争のためだけの計画ではなかった。


帝国そのものを、AIによる最適化社会へ移行させるための構造だった。


無人人形の開発にはフェアチャイルド家が関わっていた。


自律制御。


判断核。


識別補助演算。


アンネリーゼの家の名もまた、NewEraの中に組み込まれている。


ロイス公爵は、意識統合によって死を越えようとしている。


マーリンとブライアンの婚約も、計画の一部として扱われている。


クロードは、それを危ぶんでいた。


選択のない平和は、檻である。


その警告は、マーリンの胸に残る。


吐き気とめまいは軽く残ったままだが、今はそれ以上に、NewEraへの疑念が重い。


けれど、疑うということは、まだ選んでいるということなのかもしれない。


信じるか。


拒むか。


問い続けるか。


そのどれも、資料の中では誤差にされるかもしれない。


でも、マーリンの中ではまだ消えていない。


「クリス」


「はい」


「学園へ戻る支度をお願い」


「承知いたしました」


「香の強いものは避けて」


「もちろんでございます」


「それから」


マーリンは少しだけ迷う。


「甘いものは、少しだけ」


クリスチーナの目が揺れる。


「お召し上がりに?」


「分からないわ」


マーリンは静かに言う。


「でも、置いておいて」


「承知いたしました」


甘いもの。


ステラ。


帰ったら。


その言葉の続きを、まだどこかで探している。


食べられなくても。


置いておくことだけは、まだ選べる。


その小さな選択まで奪われたくなかった。


ブライアンは何も言わない。


言わないでいてくれる。


今だけは、それでよかった。


廊下の先に、帝都の光が見える。


整えられた光。


美しい光。


人間の迷いを照らすには、少し冷たすぎる光。


マーリンは、その光へ向かって歩き出す。


次に向かうのは、ヘルリッヒ学園。


そこでブライアンは、マーリンとアンネリーゼの前で語るのだろう。


人間は間違える。


AIは間違えない。


その正しさが、どれほど冷たいものかを、マーリンはまだ言葉にできない。


けれど、胸の中でクロードの文字だけが消えずに残っている。


迷いは、踏みとどまるための機能でもある。


マーリンは、その迷いを抱えたまま歩いた。


檻の中で。


それでも、まだ足を止める理由を失わないために。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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