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兄が残したもの

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

クロードの端末は、軽くなかった。


古い型の端末なのに、マーリンには妙に重く感じられた。


金属の重さではない。


そこに触れれば、知らなくていいものまで知ってしまうかもしれない。


そういう重さだった。


ロイス家の奥にある小さな閲覧室。


普段は古い家系資料や、公開前の社交文書を確認するために使われる部屋だ。


窓は細く、机は大きく、椅子は座る者を逃がさないように深い。


壁には本棚がある。


本棚には、歴代当主の記録、領地管理書、軍務関連の古い覚書が並んでいる。


どれも整っている。


どれも静かだ。


そして、どれも少しだけ冷たい。


クロードの部屋から持ち出した端末は、その机の上に置かれていた。


柔らかな布に包まれている。


布はクリスチーナが用意したものだ。


壊れ物を扱うように。


あるいは、壊れてほしくないものを守るように。


窓は少しだけ開けてあった。


香は焚いていない。


それでも、マーリンの胃の奥は浅く揺れている。


強い症状ではない。


けれど、確かに残っている。


吐き気というほど大きくはない。


めまいというほど深くもない。


ただ、身体のどこかが静かに波打っている。


マーリンは、その波に名前をつけない。


名前をつければ、誰かが意味に変える。


戦闘負荷。


精神的疲労。


管理対象。


あるいは、もっと別の何か。


今はまだ、ただの違和感でよかった。


クリスチーナは何も言わず、香りのない水をそばに置いた。


「ありがとう、クリス」


「ご無理はなさらないでくださいませ」


「少しだけ見るわ」


「その少しだけは、信用しておりません」


少し前なら、マーリンはそこで笑えたかもしれない。


今も、少しだけ口元は動いた。


けれど、笑いにはならなかった。


端末の隣には、クロードの認証カードがある。


NewEra関連施設。


初期閲覧権限。


クロード=ロイス。


その文字が、何度見ても胸に刺さる。


お兄様は、ここにいた。


ロイス公爵のすぐ近くに。


NewEraの奥に。


そして、そこから消えた。


逃げたのではなく。


何かを止めようとして。


そう信じたい。


信じたい、という言葉の弱さが、少しだけ悔しい。


信じている、と言い切れたなら楽だった。


けれど、マーリンにはまだ何も見えていない。


見えているのは、古い端末と、認証カードと、兄が残した短い言葉だけ。


人間は間違える。


だが、間違いを消すために人間そのものを消してはならない。


その一文は、胸の奥に刺さったまま抜けない。


「お嬢様」


「何かしら」


「お顔の色が」


「水を飲んだら少し戻るわ」


「戻らなければ」


「あなたが止めるのでしょう」


クリスチーナは、ほんの少しだけ眉を寄せた。


「はい。止めます」


その返事が、なぜか安心させる。


止められることが、檻ではない時もある。


少なくとも、クリスチーナの手は檻ではなかった。


その時、扉が叩かれた。


控えめな音。


けれど、遠慮とは違う。


入る理由がある者の叩き方だった。


クリスチーナが応じる前に、マーリンは誰か分かった気がした。


「お入りください」


入ってきたのは、ブライアンだった。


正しい距離で立ち止まり、静かに礼をする。


「ロイス嬢」


「ブライアン様」


「端末を開くのですね」


「止めにいらしたのですか」


「止められるなら、そうしたかもしれません」


正直だった。


ブライアンはいつも、嘘をつくより先に正しさを置く。


「ですが、君はもう触れてしまった。何も知らないままには戻れない」


「戻れる場所など、あったかしら」


言ってから、少しだけ後悔する。


意地の悪い言い方だった。


けれど、ブライアンは表情を崩さない。


「少なくとも、危険を減らすことはできます」


「危険を減らす」


「この端末をそのまま起動すれば、ロイス家の管理網に反応する可能性があります。隔離端末を用意しました。閲覧はそこから」


準備がよすぎる。


優しい。


そして、管理されている。


マーリンはそう思う。


「ブライアン様は、私を守ろうとしてくださっているのですね」


「はい」


「同時に、私がどこまで知るかも整えようとしている」


ブライアンは一拍置いた。


「否定しません」


否定しない。


その正しさが、また檻の音を立てる。


クリスチーナが静かに口を開く。


「カーチスライト様。お嬢様のご体調は、まだ万全ではございません」


「承知しています、クリスチーナ嬢」


ブライアンはクリスチーナへ視線を向ける。


「閲覧時間は区切ります。負荷が出れば中断する」


「お嬢様が中断をお望みにならない場合は」


「僕が止めます」


「私も止めます」


二人の声は静かだった。


マーリンは二人を見て、少しだけ困る。


守られている。


たぶん。


けれど、守られているのに逃げ場がない。


「二人とも、私を子ども扱いしていない?」


「しておりません」


クリスチーナは即答した。


ブライアンは少し遅れて言う。


「君を軽んじてはいません」


「答え方に差があるわね」


それだけは少し、昔の調子に近かった。


けれど、机の上の端末がすぐに現実へ引き戻す。


マーリンは椅子に座り直した。


「開いてください」


ブライアンが隔離端末を接続する。


小型の遮断装置が机の端に置かれる。


外部通信を切るためのものだろう。


小さな箱。


けれど、その存在だけで、部屋の空気が変わる。


秘密を見ようとしている。


隠されたものに触れようとしている。


マーリンは膝の上で指を重ねた。


クリスチーナが一歩後ろに立つ。


近い。


父の部屋の時より、ずっと近い。


ブライアンが端末を操作する。


画面に古い認証表示が浮かぶ。


ロイス家の紋章。


クロードの識別番号。


NewEra Project 初期資料群。


マーリンの指先が冷える。


「お兄様」


小さく呼んでも、返事はない。


画面だけが、静かに開いた。


最初に出てきたのは、資料の目録だった。


整然としている。


帝国らしく。


ロイス家らしく。


人の不安など入る余地がないほどに。


NewEra Project 基礎理念。


統治補助AI構想。


人形部隊自律運用試験。


意思決定誤差補正に関する草案。


魔力適合者と試作機の同期記録。


社会安定化指標。


難しい言葉が並んでいる。


けれど、マーリンにはその冷たさが伝わった。


これは戦場だけの話ではない。


人形だけの話でもない。


帝国そのものを、どう動かすかの話だ。


「統治補助AI」


マーリンは呟く。


「補助、なのですね」


「初期資料では」


ブライアンが答える。


「当初は、貴族議会や軍部の判断を支援するための計画でした。膨大な情報を整理し、最も損失の少ない選択肢を提示する」


「損失の少ない」


「戦争、飢饉、反乱、資源配分。帝国は大きい。人の判断だけでは遅れることがある」


「正しい話ですね」


「正しい話です」


正しい。


また、正しい。


最初から悪として始まったものではないのだろう。


人を守るため。


争いを減らすため。


犠牲を少なくするため。


その言葉は、どれも美しい。


だからこそ怖い。


マーリンは目録を進める。


クロードが印をつけた項目がいくつかある。


赤ではない。


目立つ印でもない。


ただ、小さな黒い点。


兄らしい。


声を荒らすのではなく、静かに危険な場所を示す。


マーリンはその一つを開いた。


――統治補助AIが提示する最適解と、人間側判断の乖離について。


画面に文章が流れる。


人間は感情により判断を遅らせる。


恐怖により撤退を選ぶ。


私情により合理的損切りを拒否する。


個人への執着により、全体最適を損なう。


マーリンはそこで手を止めた。


私情。


個人への執着。


まるで、自分のことを言われているようだった。


ミハイルを失いたくなかったこと。


ステラを帰したかったこと。


敵機の中の操縦者を気にしたこと。


それらは、ここでは誤差なのだろうか。


全体最適を損なう、余計な揺らぎなのだろうか。


ブライアンが静かに言う。


「ロイス嬢」


「大丈夫です」


言ってしまってから、気づく。


クリスチーナが小さく息を呑んだ。


マーリンは画面から目を離さない。


「……続けられます」


言い直した。


それでも、胸の奥は冷えている。


大丈夫ではない。


だが、読まなければならない。


その二つは同時に存在した。


クリスチーナは何も言わなかった。


ただ、水の入ったコップを少しだけ近づける。


それが今はありがたい。


飲めと言わない。


休めとも言わない。


でも、必要なものは近くにある。


世話と管理は違う。


その違いが、机の上に小さく置かれていた。



次の資料には、クロードの短い注釈が残っていた。


人の判断は遅れる。


だが、遅れる理由のすべてが誤りではない。


迷いは、踏みとどまるための機能でもある。


マーリンはその一文を何度も読んだ。


迷い。


踏みとどまるための機能。


ステラがいた時の戦いを思い出す。


敵機を落とさない角度。


逃げ道を残す線。


推進器だけを裂く判断。


あれは迷いだった。


けれど、誤りではなかった。


ステラがいなくなってから、迷う声が消えた。


マーリンは強くなった。


速くなった。


敵を落とすのも早くなった。


戦果も増えた。


それは、最適なのかもしれない。


でも、人間の側から遠ざかった。


「お兄様は」


声が小さくなる。


「迷いを、必要だと思っていたのね」


ブライアンは答えない。


クリスチーナが一歩だけ近づく。


「クロード様らしいお考えでございます」


「ええ」


マーリンは頷く。


「不器用で、遠回りで、少し面倒くさいわ」


言葉は軽い。


でも、胸は痛い。


クロードは父とは違った。


ブライアンとも違った。


人間は間違える。


その前提は同じでも、そこから向かう場所が違う。


父は管理へ向かう。


ブライアンは補正へ向かう。


クロードは、踏みとどまる余地を残そうとしていた。


その違いが、マーリンにはひどく大きく思えた。


「ブライアン様」


「はい」


「迷いは、誤差ですか」


ブライアンはすぐには答えなかった。


その沈黙は、今までより少し長い。


「誤差として扱われることはあります」


「扱われることは」


「ですが、すべてではありません」


「設計次第ですか」


「情報次第でもあります」


正しい答え。


でも、以前より少しだけ揺れている。


マーリンは画面を見る。


クロードの注釈は短い。


短いのに、ブライアンの答えよりも温度がある。


「AIは、迷いの理由まで見られるのでしょうか」


「見られるようにするべきです」


「今は?」


また沈黙。


今度の沈黙は、部屋の中で少し重く沈んだ。


「完全ではありません」


マーリンは小さく頷く。


安心はできない。


けれど、少なくともブライアンは「完全だ」とは言わなかった。


そのわずかな不完全さだけが、今は人間らしく見えた。


さらに資料を開く。


今度は、警告文に近かった。


正式な報告書ではない。


クロードが個人的にまとめた草案のように見える。


――NewEraは、補助である限り有用である。


――だが、補助が判断に置き換わる時、人間の責任は薄れる。


――責任が薄れた判断は、誰の罪にもならない。


――誰の罪にもならない犠牲は、繰り返される。


マーリンは息を止めた。


誰の罪にもならない犠牲。


ミハイルの死。


ステラの死。


撃墜数。


敵艦の撃沈。


それらはすべて、何かの結果になった。


政治案件。


戦果。


抑止力。


必要な犠牲。


誰が悪いのか。


王国側好戦派。


戦争。


帝国の構造。


リュールを動かした自分。


命令した軍。


意味を与えた貴族たち。


どれも正しい。


だから、誰にもたどり着かない。


罪が薄く広がる。


広がって、見えなくなる。


マーリンは口元を押さえる。


少し気分が悪い。


強い吐き気ではない。


ただ、胸の奥から冷たいものが上がってくる。


クリスチーナが水を差し出す。


マーリンは受け取り、少しだけ飲む。


冷たい水が喉を通る。


その感覚だけが、今はひどく現実だった。


「休みましょう」


「もう一つだけ」


「お嬢様」


「本当に、一つだけ」


クリスチーナは反論しかけて、止まる。


ブライアンが静かに言う。


「これで最後です」


マーリンは頷く。


「はい」


なぜか、生徒のような返事になった。


少しだけ可笑しい。


可笑しいのに、笑えない。


最後。


その言葉が、本当に最後であればいい。


けれど、たぶん違う。


一つ開けば、また一つ知る。


一つ知れば、戻れなくなる。


知ることは、扉を開けることに似ている。


そして、ロイス家の扉はいつも、開けた後の方が重い。


最後に開いた資料には、短い題名がついていた。


――Mへの警告。


M。


マーリンは、画面を見つめた。


自分のことだと、すぐには思えなかった。


けれど、他に誰がいるのだろう。


マーリン。


マーリン=ロイス。


クロードが残した、届かなかった警告。


文章は短かった。


マーリン。


もしお前がこれを見るなら、俺はもう近くにいないのだと思う。


その一文だけで、胸が詰まる。


クロードの声は、記憶の中より少し硬い。


でも、確かに兄の声だった。


俺は父を止める。


NewEraはこのまま進めば、帝国を救う顔をして、人間から選択を奪う。


人は間違える。


だが、間違えられることも人間の一部だ。


間違える自由を奪えば、正しさだけが残る。


正しさだけの世界に、お前のような子は生きられない。


マーリンの手が震えた。


お前のような子。


その言い方が、ずるい。


兄はいつも、優しい言葉を下手にしか使えなかった。


なのに、こういう時だけ、真っ直ぐ届く。


続きを読む。


父を信じるな。


だが、父をただ憎むだけでも駄目だ。


あの人は悪意で動いているのではない。


生き延びたいという執着と、帝国を正しくしたいという妄執で動いている。


悪意のない正しさほど、止めるのが難しい。


ブライアンの顔が、視界の端に入る。


正しい人。


優しくて、逃がさない人。


クロードの言葉は、父だけでなくブライアンにも届く気がした。


さらに下へ。


カーチスライトは有能だ。


信用できる部分もある。


だが、彼は正しさを信じすぎる。


正しさが檻になることに、気づくのが遅れるかもしれない。


部屋の空気が固まる。


ブライアンは何も言わない。


マーリンも、彼を見ない。


見たら、何かが壊れる。


お前は、役割だけで生きるな。


ロイス家の娘である前に、お前はマーリンだ。


それを忘れるな。


そこで文章は終わっていた。


短い。


短すぎる。


兄らしい。


大事なことほど、足りない。


マーリンは画面を見つめたまま動けなかった。


ミハイルが呼んだ名前。


ステラが近づけてくれた名前。


クリスチーナが守ろうとしてくれるお嬢様。


そして、クロードが残した。


お前はマーリンだ。


言葉は温かいはずなのに、ひどく痛かった。


もう、自分がマーリンなのか分からなくなっていたから。


「ロイス嬢」


ブライアンの声がした。


静かだった。


少しだけ、硬かった。


「ここまでにしましょう」


マーリンは頷く。


今度は逆らわなかった。


これ以上読めば、立っていられない気がした。


画面が閉じられる。


クロードの言葉が消える。


でも、消えない。


胸の中に残る。


正しさだけの世界に、お前のような子は生きられない。


マーリンはゆっくり息を吐く。


吐いた息が、少し震えた。


「ブライアン様」


「はい」


「お兄様は、ブライアン様のことも書いていました」


「読んでいました」


「怒らないのですか」


「怒る資格はありません」


ブライアンはそう言った。


それから、少しだけ間を置く。


「クロード様は、僕より先に危うさを見ていたのかもしれません」


「それでも、ブライアン様はNewEraを信じますか」


「信じています」


答えは変わらない。


「ただ、疑わずに信じてよいものではないとも思います」


それは、ほんの小さな揺れだった。


ブライアンの正しさに入った、小さなひび。


マーリンはそれを見逃さない。


でも、喜べなかった。


ひびが入ったからといって、檻が壊れるわけではない。


むしろ、ひびを補修するために、もっと強い格子が作られるかもしれない。


「私は」


マーリンは言いかけて、止まる。


自分が何を言いたいのか分からない。


怖い。


知りたい。


知りたくない。


兄を信じたい。


父を疑いたくない。


ブライアンを責めたくない。


でも、信じきれない。


全部が混ざっている。


「少し、休みたいわ」


結局、出たのはそれだけだった。


クリスチーナがすぐに頷く。


「はい、お嬢様」


ブライアンも立ち上がる。


「端末はこちらで安全に保管します。君の許可なく、内容は開示しません」


「本当に?」


「本当に」


「正しい管理ではなく?」


ブライアンは少しだけ苦笑に近い表情を見せた。


「君への約束として」


約束。


その言葉は、少しだけ人間らしかった。


マーリンは頷く。


「お願いいたします」


「はい」


ブライアンが端末をしまう。


クリスチーナがマーリンの肩に薄い布をかける。


水は香りがない。


部屋の空気も静か。


それでも、マーリンの胸の奥はざわついている。


NewEraは、ただの計画ではない。


リュールも、撃墜女王も、婚約も、父の命令も、どこかでそこへ繋がっている。


そしてクロードは、そこに警告を残していた。


マーリンは目を閉じる。


お兄様。


呼んでも返事はない。


けれど、初めて少しだけ、兄の背中が見えた気がした。


逃げた背中ではない。


何かを止めようとして、届かなかった背中。


その先にあるものを、マーリンはまだ知らない。


知らなければならない。


たぶん。


たとえ、それがさらに檻の奥へ続いていたとしても。



閲覧室から自室へ戻るまでの廊下は、ひどく長かった。


クリスチーナが支えてくれる。


ブライアンは少し前を歩く。


近すぎず、遠すぎず。


正しい距離。


端末は、彼が持っている。


クロードの言葉も。


NewEraの資料も。


兄の警告も。


いまは全部、ブライアンの手の中にある。


それを不安に思うべきなのか、安心すべきなのか、マーリンには判断がつかない。


「ロイス嬢」


ブライアンが足を止める。


「お部屋の前まででよろしいですか」


「ええ」


「医師を呼びます」


「必要かしら」


「必要です」


やはり即答だった。


マーリンは少しだけ目を細める。


「そこは揺れないのですね」


「揺れるべき場所ではありません」


「そう」


マーリンは小さく頷く。


正しい。


けれど、その正しさは今は少しありがたい。


倒れないためには、誰かが止める必要がある。


ステラがいなくなってから、止める声は減った。


クリスチーナは止めようとする。


ブライアンも止めようとする。


同じ止めるでも、形は違う。


クリスチーナはマーリンが歩けるように止める。


ブライアンはマーリンが壊れないように止める。


どちらが悪いという話ではない。


でも、そこには温度の差がある。


「ブライアン様」


「はい」


「お兄様の言葉を、どう思われましたか」


ブライアンは少しだけ沈黙する。


廊下の灯りが、彼の横顔を白く照らしている。


「痛い言葉でした」


「痛い?」


「ええ」


意外だった。


ブライアンは、痛いと言った。


「正しさが檻になる。そう言われて、否定しきれませんでした」


「否定しないのですね」


「できません」


「けれど、NewEraは信じる」


「はい」


マーリンは彼を見る。


「ブライアン様は、本当に困った方ですね」


「自覚はあります」


「それも困ります」


ほんの少しだけ、空気が緩む。


笑いにはならない。


けれど、完全な冷たさでもない。


ブライアンは端末を持つ手に目を落とす。


「クロード様は、僕を信用できる部分もあると書いていました」


「ええ」


「なら、その部分だけでも、裏切らないようにします」


マーリンは何も言えなかった。


それは、約束に近かった。


正しさではなく。


手続きでもなく。


少しだけ不器用な、人間の言葉だった。


「お願いいたします」


マーリンはそう言った。


ブライアンは静かに頭を下げる。


「はい」


自室の扉が開く。


香はない。


薄い灯り。


整えられた寝台。


小さな卓。


そこに、香りのない水と、手をつけていない菓子が置かれている。


甘いもの。


ステラの影が、また胸をかすめる。


帰ったら、甘いもの。


その約束は、もう果たせない。


けれど、甘いものを下げられないまま置いておくことだけはできる。


食べられなくても。


忘れないために。


「お嬢様、横になってくださいませ」


クリスチーナが静かに言う。


「ええ」


マーリンは寝台に腰を下ろす。


体が重い。


戦場で過剰機動をした後とも違う重さ。


資料を読んだだけなのに、まるで長い距離を歩いたようだった。


いや、実際に歩いたのかもしれない。


兄の影を追って。


NewEraの入口まで。


「クリス」


「はい」


「お兄様は、私をマーリンだと言ったわ」


「はい」


「私は、まだそう見える?」


クリスチーナはすぐには答えなかった。


軽々しく肯定しない。


その沈黙が、今はありがたい。


「私には、お嬢様はお嬢様でございます」


「役割の名前かもしれないわ」


「違います」


強い声。


「私がそうお呼びするのは、役割だからではございません」


マーリンは顔を上げる。


クリスチーナの目が揺れていた。


けれど、逸らさない。


「私にとって、お嬢様は、初めてお会いした時からずっとお嬢様でございます。ロイス家のためでも、帝国のためでも、リュールのためでもありません」


胸が痛む。


温かい言葉ほど、今は痛い。


「ありがとう」


声が小さくなった。


クリスチーナはそっと頭を下げる。


「お休みくださいませ」


「ええ」


マーリンは横になる。


薄い布が肩にかかる。


目を閉じると、画面の文字が浮かんだ。


NewEra Project。


統治補助AI。


意思決定誤差。


誰の罪にもならない犠牲。


Mへの警告。


お前はマーリンだ。


どれも消えない。


眠りは、すぐには来ない。


けれど、目を閉じていることだけはできる。


それすら少し、休息の形をしている。


クロードが残したものは、答えではなかった。


NewEraの全貌でもない。


けれど、疑念の種としては十分だった。


統治補助AI。


人形部隊の自律運用。


意思決定誤差の補正。


犠牲を最小化するための判断。


人間の迷いを、誤差として扱う思想。


そして、マーリンへ向けた短い警告。


正しさだけの世界に、お前のような子は生きられない。


クロードは、戦争だけを止めようとしていたのではない。


帝国が向かう先そのものを危ぶんでいた。


ブライアンの正しさにも、小さな揺れが生まれる。


けれど、彼はまだNewEraを信じている。


マーリンも、まだ何も断定できない。


吐き気とめまいは軽く残ったまま、胸の奥には別の重さが増えていく。


次に見えるのは、NewEraの核心。


AI。


無人人形。


意識統合。


統治計画。


そして、その開発に関わるフェアチャイルドの名。


マーリンは目を閉じたまま、胸元に手を置いた。


名前のない違和感は、まだそこにある。


クロードの警告も、そこにある。


どちらにも、まだ名前をつけない。


けれど、もう目を逸らすこともできなかった。


知らなかった頃には、戻れない。


そう思った時、マーリンは初めて、自分が檻の奥ではなく、檻の構造そのものを見始めたのだと感じた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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