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クロードの影

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

クロードの部屋は、ロイス家の奥に残されていた。


使われていない部屋。


けれど、捨てられてはいない部屋。


定期的に掃除はされている。


机の上に埃はない。


本棚も整えられている。


窓辺の布も、季節に合わせて替えられている。


それなのに、誰もそこへ入ろうとしない。


ロイス家では、触れてはいけないものほど丁寧に保存される。


壊すのではなく、閉じ込める。


マーリンは、その扉の前に立っていた。


廊下の香は薄い。


クリスチーナが気を利かせて、香の少ない道を選んでくれたのだろう。


それでも、喉の奥に少しだけ違和感が残る。


胃が浅く揺れる。


大きく崩れるほどではない。


ただ、身体のどこかが静かに拒んでいる。


「お嬢様」


一歩後ろで、クリスチーナが声をかける。


「ご無理は」


「少し見るだけよ」


そう言って、マーリンは扉に触れる。


少し。


その言葉は便利だった。


休む時も、戦う時も、嘘をつく時も、まだ耐えたい時も使える。


ミハイルなら、信用しなかった。


ステラなら、顔を覗き込んだ。


クリスチーナは、信用しないまま黙って寄り添う。


今、ここにいるのはクリスチーナだけだった。


「クリス」


「はい」


「お兄様は、逃げたと思う?」


クリスチーナは、すぐには答えなかった。


その沈黙は、軽々しく答えたくないからだ。


「クロード様は、逃げる方ではなかったと存じます」


「ええ」


マーリンは小さく頷く。


「私も、そう思いたいわ」


ロイス公爵は逃げたと言った。


戦争を止めるなどという理想を抱き、家から消えたと。


その言葉は、命令よりも深く刺さった。


家を背負え。


血脈を守れ。


兄が果たせなかった責務を果たせ。


父はそう言ったのだ。


だが、マーリンの中のクロードは、逃げた人ではなかった。


優しい兄。


妹を心配する兄。


戦争を止めたいと、本気で願っていた兄。


ロイス家の空気には似合わないほど、人間らしい人だった。


「開けるわ」


「はい」


クリスチーナの返事は短い。


止めたいのだろう。


止めたいけれど、止めない。


マーリンは扉を開ける。


蝶番は音を立てなかった。


部屋の中は、少しだけ懐かしい匂いがした。


紙。


古い革。


乾いたインク。


整えられすぎた空気。


マーリンは一歩入って、すぐに足を止めた。


胸の奥が、きゅっとなる。


吐き気ではない。


いや、少しはある。


けれど、それだけではない。


ここには、クロードがいた。


もういない人の気配が、静かに残っている。


ミハイルのいない庭園とは違う。


ステラのいない格納区画とも違う。


ここは、いなくなった人を待ち続けている部屋だった。


机の上には、整えられた筆記具がある。


本棚には、政治史、軍事学、魔力工学、帝国法、王国史。


クロードらしい。


広すぎる。


興味の向く先が、まっすぐではない。


戦争を止めたい人は、戦争だけを見ない。


たぶん、人を見ようとする。


マーリンは本棚の前に立つ。


背表紙に指を滑らせる。


「お兄様は、よく叱られていたわ」


「クロード様が、でございますか」


「ええ。お父様に。余計なものを見るな、と」


クリスチーナが静かに目を伏せる。


「旦那様らしいお言葉でございます」


「そうね」


マーリンは少しだけ笑う。


「お父様は、必要なものだけを見なさいと言う方だもの」


必要なもの。


役に立つもの。


家に残るもの。


帝国に利益をもたらすもの。


血脈を守るもの。


それ以外は、余計なもの。


クロードは、きっと余計なものを見ていた。


戦場の向こう側。


王国の事情。


帝国の正しさの影。


AIによる最適化の先。


父なら切り捨てるもの。


ブライアンなら整えようとするもの。


クロードは、それを切らず、整えず、見ようとしていたのかもしれない。


マーリンは一冊の本を抜いた。


帝国統治構造史。


硬い題名だ。


子どもの頃のマーリンなら、三行で眠くなっただろう。


クロードは、こういう本を平気な顔で読んでいた。


しかも、読み終えたあとで難しい顔をするのではなく、少し困ったように笑った。


マーリンには、それが不思議だった。


賢い人は、答えを知っているのだと思っていた。


でも、クロードは読むほどに迷っていた。


今なら、その理由が少しだけ分かる。


答えが欲しくて読んでいたのではない。


答えを疑うために、読んでいたのだ。


本を開くと、中に何かが挟まっていた。


落ちたのは、小さな紙片だった。


署名はない。


日付もない。


ただ、短い言葉が残っている。


――人間は間違える。だが、間違いを消すために人間そのものを消してはならない。


マーリンは息を止める。


短い一文。


それだけなのに、部屋の空気が変わった気がした。


ブライアンの言葉と似ている。


人間は間違える。


けれど、続く場所が違う。


ブライアンは補正が必要だと言った。


父は管理が必要だと言った。


帝国は最適化へ向かっている。


クロードは、消してはならないと書いていた。


「お嬢様?」


クリスチーナがそっと覗き込む。


マーリンは紙片を見せる。


クリスチーナの表情が変わる。


「クロード様が……?」


「分からないわ」


分からない。


けれど、マーリンには兄の声に聞こえた。


優しくて、少し頑固で、父とは違う方向を向いている声。


「お兄様は、何を見ていたのかしら」


その問いに、部屋は答えない。


マーリンは紙片を指でそっと押さえた。


小さな紙だ。


こんなもの、破ってしまえば終わる。


燃やしてしまえば、何も残らない。


それなのに、残っていた。


この部屋で。


閉じ込められるように。


待たされるように。


「人間そのものを消してはならない」


マーリンは小さく繰り返す。


言葉にした瞬間、胸の奥が重くなる。


撃墜女王。


帝国の希望。


ロイス家の令嬢。


リュールの操縦者。


ブライアンの婚約者。


ロイスの血脈。


最近のマーリンには、名前が増えすぎていた。


増えるほど、マーリンという人間は薄くなる。


もし、人間そのものを消すということが、殺すことだけを意味しないのなら。


役割で覆うことも。


数字に変えることも。


症状として処理することも。


戦果として称えることも。


全部、少しずつ人間を消していく方法なのかもしれない。


そう思った瞬間、マーリンは少しだけ寒くなった。


「お嬢様、少しお座りください」


クリスチーナが言う。


「顔色が」


「まだ見られるわ」


「お座りくださいませ」


珍しく、強い声だった。


マーリンは紙片を手にしたまま、机の椅子に座る。


椅子は、クロードの体格に合わせたものだった。


少しだけ高い。


座ると、足元の感覚が遠くなる。


子どもの頃、こっそり座ったことがあった。


その時も、床が遠かった。


クロードに見つかって、怒られると思った。


けれど兄は怒らなかった。


「座るなら、本も読め」


そう言って、薄い本を一冊渡された。


表紙だけは覚えている。


帝国航路史の入門書。


退屈だった。


途中で眠った。


目を覚ましたら、兄の上着が肩にかかっていた。


あの頃は、ロイス家の奥にも温かいものが残っていた気がする。


今は、どこへ行ってしまったのだろう。


「クリス」


「はい」


「お兄様は、私に何も言わなかったわね」


「クロード様は、お嬢様を巻き込みたくなかったのかもしれません」


「それは優しさ?」


「はい」


「それとも、私を信用していなかったのかしら」


「違います」


即答だった。


マーリンは少しだけ笑う。


「早いわね」


「違いますので」


その言い方が、少しだけ可笑しい。


可笑しいと思える自分が、まだいた。


けれど、すぐに胸が重くなる。


「ミーシャも、ステラも、私を置いていったわけではないのよね」


クリスチーナは何も言わない。


「お兄様も」


「はい」


「でも、残された方は、置いていかれたみたいに感じるの」


僅かな手の震えが、紙片を少しだけ揺らす。


人間そのものを消してはならない。


その言葉が、マーリンの目に入る。


「お兄様は、何を止めようとしていたのかしら」


戦争。


それだけなら、分かりやすい。


王国との戦いを止める。


和平を探す。


犠牲を減らす。


けれど、もしNewEraの中にもっと大きな問題があるのなら。


帝国そのものが、人間を管理対象へ変えていく構造なら。


クロードが止めようとしていたものは、戦場だけではなかったのかもしれない。


マーリンは机へ視線を向けた。


引き出しは、いくつか封がされていた。


ロイス家の管理印。


簡単に開けるべきではない。


簡単に開けてはいけない。


そういう顔をしている。


マーリンはしばらく見つめる。


クリスチーナが一歩近づいた。


「お嬢様」


「承知しているわ」


「旦那様のお許しなく触れれば」


「叱られるでしょうね」


「叱られるだけで済めばよろしいのですが」


それは冗談ではなかった。


ロイス家の奥に残されたもの。


失踪した嫡男の痕跡。


NewEraに関わるかもしれない何か。


マーリンが触れるには、危うい。


けれど、父が隠したがるものほど、知る必要がある気もした。


「私は、もう子どもではないわ」


マーリンは言う。


「けれど、お父様にとっては器なの」


クリスチーナは何も言えない。


「器なら、中に何を注がれるかくらい知りたいものね」


軽く言ったつもりだった。


でも、軽くならなかった。


マーリンは封のない引き出しを開ける。


そこには、古い端末と、いくつかの認証カードが入っていた。


端末は、軍用でも学園用でもない。


ロイス家の研究棟で使われる型に近い。


金属の端が少し擦れている。


何度も使われたものだ。


大切に扱われていたのに、急に置き去りにされたような佇まいだった。


認証カードの一枚には、薄く文字が残っている。


NewEra関連施設。


初期閲覧権限。


クロード=ロイス。


マーリンの指が止まる。


NewEra。


また、その名だ。


父の部屋で聞いた名。


ブライアンの思想につながる名。


リュールの奥にある計画。


そして、クロードが触れていたらしい名。


「お兄様は、NewEraに関わっていたの?」


マーリンの声は小さかった。


クリスチーナは、端末を見つめる。


「クロード様は、旦那様のお仕事に近い場所におられた時期がございます」


「知っていたの?」


「詳しいことは存じません。ただ、旦那様と意見が合わなくなってから、クロード様は研究棟へ近づかなくなったと聞いております」


「誰から?」


「屋敷の者たちの噂でございます」


噂。


ロイス家にも噂はある。


声を潜め、廊下の角で消えるもの。


マーリンはあまり気にしたことがなかった。


気にしないようにしていた。


気にすれば、家の中のひび割れが見えてしまうから。


「お兄様は、戦争を止めようとしていた」


マーリンは言う。


「それだけではなかったのかもしれないわ」


NewEra。


人間は間違える。


だが、人間そのものを消してはならない。


その二つが、静かにつながる。


まだ何も知らない。


資料も見ていない。


端末も開いていない。


ただ、痕跡があるだけ。


けれど、影は確かにそこにあった。


クロードの影。


父が逃げたと呼んだ兄は、もしかすると逃げたのではなく、何かから離れたのかもしれない。


あるいは、何かへ近づきすぎたのかもしれない。


その時、マーリンの胃がまた小さく揺れた。


強い香りはない。


部屋の空気も静かだ。


それでも、急に視界の端が白くなった。


マーリンは机に手をつく。


「お嬢様」


クリスチーナがすぐに支える。


「少し、めまいがしただけ」


「お休みください」


「もう少しだけ」


「お嬢様」


強い声。


マーリンはクリスチーナを見る。


その顔は、怒っているようで、泣きそうでもあった。


「……承知したわ」


珍しく、マーリンは引いた。


本当に少し気分が悪かったからかもしれない。


それとも、クリスチーナの顔をこれ以上曇らせたくなかったからかもしれない。


椅子に深く座る。


クリスチーナが窓を少し開けた。


冷たい空気が入る。


マーリンはゆっくり息を吸う。


夜の空気は、ロイス家の香よりずっとましだった。


冷たくて、少し乾いていて、遠くの帝都の光を含んでいる。


「クリス」


「はい」


「お兄様の端末、ここで開けると思う?」


クリスチーナはすぐには答えなかった。


視線が端末から、扉へ向かう。


廊下。


屋敷の管理網。


父の命令。


それらを一瞬で測った顔だった。


「危険かと」


「ええ」


「ロイス家の端末でございます。接続すれば、旦那様の側へ知られる可能性がございます」


「開かなくても、ここに来たことは知られるかもしれないわ」


「はい」


「ロイス家は、静かだけれど耳が多いものね」


クリスチーナは否定しなかった。


マーリンは端末に触れる。


古い金属の冷たさが、指先に移る。


「お兄様は、これを残したのかしら」


「意図して、でしょうか」


「分からないわ」


本当に分からない。


急いで出ていったのかもしれない。


隠したつもりだったのかもしれない。


いつか取りに戻るつもりだったのかもしれない。


マーリンに見つけてほしかったのかもしれない。


どれも、都合よく思えてしまう。


残された側は、何にでも意味を探す。


そうしなければ、置いていかれたことに耐えられないから。


「ミーシャの時も、そうだったわ」


マーリンは呟いた。


「何か言い残した意味を探していた。ステラの時も。帰ったら、の続きを探していた」


クリスチーナは黙って聞いている。


「お兄様にも、同じことをしているのかもしれない」


「それでも、探してよいと思います」


「そう?」


「はい」


「どうして?」


「お嬢様が、探したいと思っておられます」


答えはとても単純だった。


単純すぎて、胸に沁みる。


父なら必要かどうかを問う。


ブライアンなら危険と利益を比べる。


クリスチーナは、マーリンが望んだことを見てくれる。


それが、同じ世界の言葉とは思えないほど温かかった。


「ありがとう、クリス」


「私は、何も」


「いてくれるわ」


クリスチーナの目が揺れる。


マーリンは紙片をそっと本に挟み直した。


ただし、元の場所ではない。


落ちないように、少しだけ奥へ。


失くしたくなかった。


けれど、持ち出す勇気もまだない。


この部屋に残す。


閉じ込めるためではなく、また戻るために。


「端末は」


クリスチーナが尋ねる。


マーリンは少し迷う。


机に置いたままにするか。


持ち出すか。


どちらも危険だ。


置いていけば、父が先に回収するかもしれない。


持ち出せば、マーリンが触れた証拠になる。


証拠。


その言葉が、まだ起きていない何かを連れてくる気がした。


マーリンは端末を見つめる。


「持っていくわ」


「お嬢様」


「ここに置いておいて、お父様に消される方が怖い」


「では、せめて布に包みます。直接お持ちにならないでくださいませ」


「ええ」


クリスチーナが棚から柔らかな布を取る。


クロードの部屋に用意されていた保管布だ。


彼女は端末を慎重に包む。


まるで壊れ物を扱うように。


いや、壊れ物なのだろう。


金属の端末ではなく、そこに残っているかもしれない兄の意志が。


「お嬢様、今はここまでにいたしましょう」


「そうね」


マーリンは立ち上がる。


少し足元が頼りない。


クリスチーナがすぐに支える。


「ゆっくりで構いません」


「ええ」


その時、扉の外に気配がした。


足音。


使用人のものより整っている。


軍人ほど硬くはない。


けれど、ただの屋敷の者でもない。


クリスチーナが端末を包んだ布を机の影へ寄せる。


扉が叩かれた。


軽い音。


「ロイス嬢」


ブライアンの声だった。


早い。


とても早い。


正しさは、いつも足が速い。


クリスチーナがマーリンを見る。


マーリンは小さく頷いた。


「どうぞ」


扉が開く。


ブライアンは部屋の入口で足を止めた。


「こちらにいらしたのですね」


「ええ」


マーリンは椅子に座り直す。


立ったままでは、膝が少し頼りない。


「お兄様の部屋を見たくなりました」


ブライアンの視線が、部屋の中を静かに巡る。


机。


本棚。


椅子。


そして、布に包まれた端末の端。


一瞬だけ。


本当に一瞬だけ。


けれど、マーリンは見逃さなかった。


「ブライアン様は、この端末をご存じですか」


クリスチーナの肩がわずかに強張る。


ブライアンは、すぐには答えなかった。


その沈黙は、知らない人のものではない。


「クロード様が使用していたものかもしれません」


「NewEra関連施設の認証カードもありました」


ブライアンの表情はほとんど変わらない。


だが、目だけが少し深くなる。


「見つけたのですね」


「はい」


「開きましたか」


「いいえ」


マーリンはまっすぐ答える。


「まだ」


まだ。


その言葉に、ブライアンは反応した。


「ロイス嬢」


「開くな、と仰いますか」


「今の君が深く触れるべきではありません」


「体調のことですか」


「それもあります」


「それ以外は?」


ブライアンは部屋へ一歩入る。


クリスチーナが一歩下がる。


けれど、マーリンのそばからは離れない。


「君はすでに、ロイス家、軍、NewEraの中心に近い。クロード様の痕跡に触れれば、さらに引き込まれます」


「もう十分に引き込まれている気がします」


「まだ戻れる場所を残すべきです」


戻れる場所。


その言葉に、マーリンは少しだけ笑いそうになる。


どこに。


ミハイルはいない。


ステラはいない。


ロイス家は檻だ。


帝国は役割を求める。


戻れる場所は、どこに残っているのだろう。


「ブライアン様は、私を守りたいのですね」


「はい」


「では、知らないまま守られるべきだと?」


ブライアンは答えない。


マーリンはゆっくりと息を吸った。


香は薄い。


それでも、胃の奥は少し揺れている。


「私は、もう守られるだけの令嬢ではありません」


マーリンは言う。


「リュールに乗りました。敵を落としました。ステラを失いました。撃墜女王と呼ばれています」


その名を口にすると、胸が冷える。


「それでも、知らないままでいろと言われるのですか」


ブライアンは静かに息を吐いた。


「知ることは、君を救わないかもしれません」


「知らないことも、救ってはくれませんでした」


部屋が静かになる。


クリスチーナの手が、マーリンの腕を支えている。


その手だけが温かい。


ブライアンは、もう止めなかった。


「クロード様がNewEraの初期構想に疑念を抱いていたことは、聞いています」


初期構想。


疑念。


言葉が増える。


マーリンの胸が静かに冷える。


「なぜ、それを私に言わなかったのですか」


「君を巻き込むべきではないと判断されたからです」


「誰が」


「クロード様ご自身が」


ブライアンの答えは静かだった。


それが本当かどうか、マーリンには判断できない。


けれど、嘘にも聞こえなかった。


嘘より厄介だった。


「お兄様は、戦争を止めようとしていたのですよね」


「はい」


「NewEraも、止めようとしていたのですか」


ブライアンはすぐには答えない。


「NewEraは、帝国に必要な計画です」


「それは答えではありません」


「ロイス嬢」


「答えてください、ブライアン様」


マーリンの声は、思ったより強かった。


クリスチーナがそばで息を止める。


ブライアンは、マーリンをまっすぐ見る。


「クロード様は、NewEraの進む先に危うさを見ていました」


危うさ。


やはり。


「ですが、彼の方法は危険でもありました」


「危険」


「帝国の中枢に触れすぎた。ロイス公爵閣下とも対立した。戦争を止めたいという理想は理解できますが、理想だけでは帝国は動かせません」


正しい。


ブライアンの言葉は、いつも正しい。


けれど今は、その正しさがやけに硬い。


「では、お兄様は間違っていたのですか」


「すべてが間違いだったとは思いません」


「すべてではない」


「ええ」


その答えだけで、マーリンには十分だった。


クロードは何かを掴んでいた。


何かを見ていた。


父が逃げたと呼び、ブライアンが危険だと呼ぶものを。


マーリンは机の上の本を見る。


そこに挟まれた紙片を思い出す。


人間そのものを消してはならない。


「ブライアン様」


「はい」


「NewEraは、人を守るための計画ですか」


「そうです」


「人を管理するためではなく?」


ブライアンは、少しだけ目を伏せる。


「守ることと管理することは、時に分けられません」


正直だった。


やはり、彼は嘘をつかない。


その正直さが、檻の鍵のように冷たかった。


「お兄様は、それを危ういと思ったのですね」


「おそらく」


「ブライアン様は、危うくないと思っている」


「危うさはあります」


マーリンは顔を上げる。


「認めるのですね」


「認めます。仕組みは、使う者次第で人を守りも、縛りもする」


「なら、なぜ進めるのですか」


「進めなければ、今ある犠牲を減らせないからです」


犠牲。


また、その言葉。


ミハイル。


ステラ。


戦場で落とした敵機。


沈めた敵艦。


名前のある人も、名前のない人も、みんなその言葉の中に入っていく。


犠牲。


小さく、便利で、大きすぎる言葉。


「お兄様は、犠牲を減らすために人間を消してはならないと考えた」


マーリンは言う。


「ブライアン様は、犠牲を減らすために仕組みが必要だと考えている」


「はい」


「お父様は、犠牲を管理すればよいと考えている」


ブライアンは答えなかった。


その沈黙が、今回も答えに近かった。


マーリンは小さく息を吐く。


「本当に、皆様は正しいのですね」


「ロイス嬢」


「正しいことが三つもあると、どれを信じればよいのか困ります」


少し軽く言った。


でも、軽くはならなかった。


ブライアンは端末を回収しようとはしなかった。


代わりに、静かに言う。


「端末を開くなら、慎重に」


「協力してくださるのですか」


「条件次第です」


「正しいですね」


「そうありたいので」


マーリンは小さく笑う。


今度も軽くはならない。


けれど、少しだけ呼吸ができた。


クロードの影は、逃げ道ではない。


むしろ、もっと深い檻へ続く道かもしれない。


それでも、父の命令だけを聞いているよりはましだった。


兄は、逃げたのではない。


たぶん。


まだ、そう信じられる。


それだけで、マーリンは端末を見つめることができた。


クロードの部屋には、閉じ込められた時間が残っていた。


古い端末。


NewEra関連施設の認証カード。


短い一文。


人間は間違える。


だが、間違いを消すために人間そのものを消してはならない。


ロイス公爵が逃げたと呼んだ兄は、ただ家から逃げたのではないかもしれない。


戦争を止めようとしていた。


そして、NewEraの進む先にも危うさを見ていた。


マーリンはまだ、何も知らない。


端末も開いていない。


資料の中身にも触れていない。


ただ、兄の影が父の命令とは違う方向を指していることだけを知る。


吐き気も、めまいも、まだ軽く残っている。


けれど、それよりも今は、胸の奥に別のざわめきがある。


ブライアンは部屋の入口近くに立っている。


クリスチーナは一歩後ろにいる。


そして、机の上には、布に包まれた端末がある。


三つの気配。


正しさ。


寄り添い。


影。


マーリンは、そのどれにも完全には預けられない。


それでも、手を伸ばす先は決まっていた。


クロードが残したもの。


NewEraへの最初の疑念。


そこに触れれば、戻れなくなるかもしれない。


けれど、知らなかった頃には、もう戻れない。


マーリンは布の上に指を置く。


端末の冷たさは、布越しにも伝わってきた。


お兄様。


胸の中で呼ぶ。


返事はない。


それでも、今だけは。


その沈黙が、逃げた人のものではない気がした。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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