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公爵の命令

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

ロイス家の廊下は、静かだった。


厚い絨毯が足音を飲む。


壁に並ぶ肖像画は、誰も何も言わない。


磨かれた燭台も、整えられた花も、完璧な位置にある。


少しでも乱れていれば、まだ息がしやすかったかもしれない。


けれどロイス家は、乱れない。


人が死んでも。


戦争が続いても。


マーリンが撃墜女王と呼ばれても。


家は、正しい顔をしている。


マーリンは廊下を歩きながら、ふと口元を押さえた。


香が強い。


廊下に焚かれている、ロイス家特有の香。


昔からあるものだ。


特別なものではない。


来客の前にも、式典の前にも、父の部屋へ向かう時にも、いつも同じ香りがしていた。


それなのに、今は喉の奥に引っかかる。


胃が小さく波打つ。


「お嬢様」


クリスチーナがそっと寄る。


「少しだけよ」


マーリンは言う。


大丈夫とは言わない。


けれど、少しだけと言ったところで、何が変わるわけでもない。


クリスチーナはそれ以上、問い詰めなかった。


ただ、マーリンの歩幅に合わせて一歩後ろを歩く。


いつもの距離。


守れるようで、守りきれない距離。


その距離が、今は妙に心細い。


廊下の奥に、ロイス公爵の部屋がある。


屋敷の最奥。


普段、マーリンが足を向けることは少ない。


父の言葉は、たいてい執事や通信を通して届く。


命令は届く。


父の顔は届かない。


だから、直接呼ばれる時は、いつも何かが決まっている。


マーリンの意思が入る余地のない何かが。


重い扉の前で、マーリンは足を止めた。


扉の向こうから、低い機械音が漏れている。


規則正しく。


冷たく。


生きるための音。


生にしがみつく音。


「お嬢様」


クリスチーナがもう一度呼ぶ。


その声には、止めたい気配があった。


けれど、止める言葉はない。


ここはロイス家で、扉の向こうにいるのはロイス公爵だ。


父であり、当主であり、命令そのもの。


「行きましょう」


マーリンは言う。


声は、思ったよりも静かだった。


扉が開く。


冷たい空気が流れ出した。



ロイス公爵の部屋には、低い機械音が満ちていた。


人工心肺装置の音。


補助循環装置の微かな振動。


生命維持のために動く、いくつもの機械。


それらが重なり、部屋そのものが父の身体の延長のようになっている。


ロイス公爵は執務椅子に座っていた。


寝台ではない。


弱っているところを見せたくないのか、それとも弱っている自覚すら役割の一部に変えてしまったのか。


マーリンには分からない。


肌は薄く、血色は悪い。


指は細く、手首には管が添っている。


けれど、目だけは衰えていなかった。


人間の目というより、命令の中心にある光のようだった。


「参りました、お父様」


マーリンは礼をする。


「座れ」


命令だった。


招く言葉ではない。


マーリンは向かいの椅子に座る。


クリスチーナは一歩後ろに控えようとした。


「アリソンは下がれ」


ロイス公爵が言う。


クリスチーナの肩が、ほんのわずかに揺れた。


「旦那様」


「下がれと言った」


「お嬢様はご体調が」


「医師から報告は受けている」


父の声は乾いていた。


「戦闘負荷による一時的な不調だ。ここで侍女が口を挟むことではない」


クリスチーナは唇を結ぶ。


マーリンは振り返らない。


振り返ったら、止めてしまう。


止めれば、父はさらに冷たくなる。


「クリス」


マーリンは静かに言う。


「少しだけ、外で待っていて」


「……お嬢様」


「お願い」


その言葉で、クリスチーナは頭を下げた。


「承知いたしました」


扉が閉まる。


重い音だった。


それだけで、部屋が狭くなる。


マーリンは指先を握る。


父と二人。


人工心肺装置の音。


香のない部屋のはずなのに、胃の奥がまだ落ち着かない。


「顔色が悪いな」


ロイス公爵が言う。


心配ではない。


確認だった。


「ご心配には及びません」


「心配はしていない」


予想通りの返答。


それでも、胸のどこかが少し痛む。


期待などしていなかったはずなのに。


「体調は管理しろ。お前の身体は、お前一人のものではない」


マーリンは、静かに息を吸う。


「はい」


「撃墜女王の名は、帝国にとって有用だ。リュールはNewEra Projectの価値を示した。お前はその中核だ」


中核。


器より少し大きな言葉。


けれど、意味は同じだった。


「承知しております」


「ならば、余計な揺らぎを持ち込むな」


父の目は、娘を見ていない。


戦果を見ている。


血筋を見ている。


家の未来を見ている。


マーリンの中にある吐き気も、疲労も、眠れない夜も、そこには映らない。


「カーチスライトとの婚約は、正式なものとなる」


「伺っております」


「これは恋愛ではない」


あまりにもはっきりと言われて、マーリンは少しだけ瞬きをした。


「ロイス家とカーチスライト家。軍事と技術。リュールとNewEra。帝国に必要な結合だ」


「……はい」


「お前の感傷は不要だ」


感傷。


ミハイルへの想いも。


ステラへの喪失も。


戦場で積もった罪悪感も。


父の中では、感傷という一語で片づく。


「お父様」


マーリンは、静かに声を出す。


「わたくしは、ブライアン様を嫌っているわけではありません」


「ならば問題はない」


「問題がない、という話では」


「問題はない」


父は言葉を重ねた。


それで終わりだと言うように。


「カーチスライトは有能だ。お前を管理し、支え、帝国にとって有用な形へ整える。お前にはそれが必要だ」


「管理、ですか」


「そうだ」


迷いのない答えだった。


「人間は間違える。感情に流される。失ったものに囚われ、役割を見失う。お前は特にそうだ」


マーリンは黙る。


ステラの名が、出なくても分かる。


ミハイルの名が、出なくても分かる。


父は全部を知っている。


知った上で、不要だと判断している。


「リュールに乗れば、お前は戦場を変えられる。だが、その力はお前の感情で振るうものではない」


マーリンの指先が、少し冷える。


「……わたくしは、感情で戦っていると?」


「違うのか」


父の問いは、刃のようだった。


ステラが死んだ後、マーリンは敵部隊を壊した。


敵艦を沈めた。


守るための戦いは、怒りに変わった。


否定はできない。


否定したところで、戦果記録は残っている。


撃墜数。


撃沈数。


敵部隊壊滅。


その数字は、マーリンの言葉よりずっと強い。


「人間の感情は、制御しなければならない」


ロイス公爵は言う。


「NewEraは、そのための道だ。AIによる最適化。人の過ちを補正し、犠牲を最小化する構造。帝国はそこへ向かう」


犠牲を最小化。


美しい言葉だった。


けれど、その最小化の中に誰が含まれるのか、マーリンにはもう分からない。


ミハイルは含まれたのか。


ステラは含まれたのか。


自分は。


「お前は、まだNewEraをただの軍事計画だと思っている」


父が続ける。


「違うのですか」


「戦争は入口にすぎない」


人工心肺装置の音が、低く鳴る。


「人は統治を誤る。感情で国を歪め、私情で戦争を長引かせ、老いと死で判断を途切れさせる。ならば、統治そのものを最適化すればよい」


「人を、ですか」


「人を含めた構造をだ」


言い換えた。


けれど、マーリンには同じに聞こえた。


人は構造に含まれる。


含まれれば、配置される。


配置されれば、動かされる。


動かされるものは、駒だ。


「お父様は、人間を信じておられないのですね」


「信じる必要がない」


父は即答する。


「信頼ではなく、制御が必要だ」


マーリンは、喉の奥が冷えるのを感じた。


ブライアンは、人間は間違えるから支える仕組みが必要だと言った。


父は違う。


支えるとは言わない。


制御と言う。


その差は、わずかで。


けれど、底がないほど深い。


「マーリン」


父が名を呼ぶ。


「お前はロイスの血を継ぐ者だ」


血。


その言葉が、部屋の空気を少し変える。


マーリンは胸の奥で、また小さな違和感を覚えた。


吐き気ではない。


めまいでもない。


けれど、身体のどこかが静かに反応した気がした。


意味にはしない。


考えない。


ただ、症状だけがある。


「ロイスの血脈を守ることも、お前の役割だ」


ロイス公爵は続ける。


「クロードは失踪した。戦争を止めるなどと愚かな理想を抱き、家から消えた」


お兄様。


マーリンは、思わず指先を強く握る。


「クロードには戦争を止められなかった。家も守れなかった。ロイスの名を背負うべき者が、その責務から逃げた」


「お兄様は、逃げたわけではありません」


言葉が出た。


父の目が、少しだけ細くなる。


「では、何だ」


マーリンは答えられない。


クロードは戦争を止めたかった。


妹を思っていた。


ロイス家を託した。


でも、いなくなった。


結果だけを見れば、父は正しいのかもしれない。


それが悔しい。


「お前は違う」


ロイス公爵は言う。


「お前は逃げるな」


逃げるな。


その言葉は、鎖のように落ちる。


「撃墜女王として戦え。ロイス家の令嬢として婚約を受け入れろ。血脈を守れ。帝国の構造へ接続されろ」


一つずつ。


逃げ道を塞ぐように。


「それが、お前の役割だ」


マーリンは口を開きかける。


香りはない。


なのに、吐き気が戻ってくる。


胃の奥から、ゆっくりと。


父の声。


人工心肺装置の音。


ロイスの血。


クロードの影。


ブライアンとの婚約。


NewEra。


全部が重なって、息が浅くなる。


「顔色が悪い」


ロイス公爵が言う。


「医師に診せろ。必要なら薬を使え。症状で役割を滞らせるな」


症状。


また、名前がついた。


吐き気。


めまい。


香りへの違和感。


それらはすべて、症状。


管理すべき不調。


マーリンは小さく頷く。


「承知いたしました」


言えてしまう。


いつものように。


「婚約の正式発表後、カーチスライトとの同席を増やす。軍にも、お前の運用についてこちらの意向を通す」


「はい」


「リュール搭乗は継続だ。戦線から完全に下げることはない」


「はい」


「ただし、身体を壊すな。壊れた器は使えん」


器。


ついに、言葉が戻った。


マーリンは微笑む。


「承知しております、お父様」


その微笑みは、完璧だった。


父はそれ以上、何も言わない。


用件は済んだ。


娘の心ではなく、命令の伝達が終わっただけだった。


マーリンは立ち上がる。


膝に力が入りにくい。


それでも、姿勢は崩さない。


ロイス家の令嬢として。


撃墜女王として。


父の命令を受けた器として。


深く礼をする。


「失礼いたします」


返事はなかった。


人工心肺装置の音だけが、部屋に残る。


扉へ向かう間、背中に父の視線を感じた。


見送る視線ではない。


測る視線。


まだ使えるか。


まだ壊れていないか。


まだ役割を果たすか。


そう問う視線。


マーリンは振り返らなかった。


扉が開く。


廊下の香が、また喉に触れた。


部屋を出た瞬間、クリスチーナが駆け寄った。


「お嬢様」


マーリンは一歩、足を止める。


今度は耐えきれず、口元を押さえた。


「お嬢様」


「……少し、気分が」


クリスチーナがすぐに体を支える。


「こちらへ」


近くの小部屋へ入る。


椅子に座ると、世界の傾きが少し戻った。


クリスチーナが香のない水を差し出す。


マーリンは一口だけ飲む。


冷たい。


喉を通る感覚だけが、やけにはっきりしている。


「医師を呼びます」


「大げさよ」


「大げさではございません」


強い声だった。


マーリンは顔を上げる。


クリスチーナの目が、少し赤い。


泣いてはいない。


けれど、怒っている。


「クリス」


「旦那様は、何を仰ったのですか」


「命令よ」


マーリンは小さく笑う。


「いつものこと」


「いつものことで済ませてよいはずがございません」


「でも、ロイス家ではいつものことなの」


言ってから、自分で少し嫌になる。


慣れている。


こんなことに。


クリスチーナは唇を噛む。


「お嬢様は、器ではございません」


その言葉に、マーリンは少しだけ目を閉じる。


父の部屋で言われた言葉を、クリスチーナは聞いていない。


それでも、分かるのだ。


「ありがとう」


「お嬢様」


「でも、私が器でないなら、何なのかしら」


問いは軽く出た。


軽すぎるくらいに。


クリスチーナは答えられない。


答えられないことを、マーリンは知っている。


マーリン自身も分からない。


ミハイルがいれば、マーリンだと言っただろう。


ステラがいれば、マーリン様ですと言っただろう。


クリスチーナは、お嬢様と言ってくれる。


それは温かい。


でも、お嬢様もまた役割の名前なのかもしれない。


そう思ってしまう自分が嫌だった。


「ごめんなさい」


「謝らないでくださいませ」


「困らせてばかりね」


「困らせてください」


クリスチーナは即答する。


その声に、マーリンの胸が痛む。


「私に、困らせてください。お嬢様」


マーリンはクリスチーナを見る。


一歩後ろの侍女。


ずっとそばにいた人。


守りたいと言いながら、いつも届かない場所まで一緒に来ようとしてくれる人。


「クリス」


「はい」


「お父様は、お兄様のことを逃げたと言ったわ」


クリスチーナの表情が固まる。


「クロード様は」


「ええ。そうではないわ」


マーリンはゆっくり息を吐く。


「でも、止められなかったのも本当なの。戦争も、ロイス家も、私も」


クロードの影が、また近づく。


戦争を止めたいと願った兄。


失踪した兄。


マーリンにロイス家を託した兄。


彼の優しさも、理想も、今では父の命令に利用される。


逃げた者の代わりに、お前が背負え。


そう言われている。


「私も、逃げたいと思ったら、お兄様と同じなのかしら」


「違います」


クリスチーナは強く言った。


「お嬢様が逃げたいと思うことは、罪ではございません」


「でも、逃げられないわ」


「……はい」


その沈黙が、答えだった。


クリスチーナは救いたい。


でも、救えない。


その事実が、小部屋の空気を重くする。


マーリンは水の入ったコップを見る。


表面が少し揺れている。


手が震えているのか、まだめまいが残っているのか分からない。


「香のない茶にして」


「はい」


「甘いものは、少し置いておいて」


「召し上がれますか」


「分からないわ」


「では、置いておきます」


クリスチーナは、何も聞かない。


それだけで、まだ救われる。


聞かれたら答えなければならない。


答えれば、意味がつく。


意味がつけば、誰かが管理する。


今はまだ、ただの症状でいい。


吐き気。


めまい。


香りへの違和感。


それだけでいい。


その後、医師は呼ばれた。


診断は前と同じだった。


高負荷戦闘の蓄積。


魔力消耗。


睡眠不足。


精神的負荷。


食事の偏り。


どれも正しかった。


間違ってはいない。


「休息が必要です」


医師は言った。


「可能であれば、静養を」


可能であれば。


また、その言葉。


マーリンは微笑む。


「努力いたします」


医師は困った顔をした。


クリスチーナは、もっと困った顔をした。


マーリンは、その二人を見て少しだけ申し訳なくなる。


自分の身体なのに、自分で扱えない。


自分の人生なのに、自分で決められない。



部屋に戻ると、窓の外は夕の色に変わっていた。


帝都の空は赤くない。


戦場の警告表示とは違う。


それなのに、マーリンには少し似て見えた。


「お嬢様」


クリスチーナが背後から声をかける。


「旦那様のお言葉を、すべて背負われる必要はございません」


「背負わなかったら、どこへ行くのかしら」


マーリンは窓の外を見たまま言う。


「ロイス家の言葉は、床に落ちても消えないもの」


「お嬢様」


「拾わなくても、誰かが拾わせるわ」


父が。


ブライアンが。


軍が。


帝国が。


正しい理由をつけて。


家のため。


血脈のため。


帝国のため。


犠牲を最小にするため。


未来を守るため。


正しさは、いくらでも用意されている。


マーリンの逃げ道より、ずっと多く。


「クリス」


「はい」


「私、少し眠りたいわ」


「すぐに支度いたします」


「香は、いらない」


「承知いたしました」


「それから」


マーリンは少し迷う。


「扉の近くにいて」


クリスチーナの目が揺れる。


「はい。おそばに」


「ありがとう」


その言葉を言うだけで、少し疲れた。


マーリンは横になる。


目を閉じる。


人工心肺装置の音が、まだ耳に残っている。


父の声も。


役割を果たせ。


血脈を守れ。


逃げるな。


言葉が、檻の格子になる。


一本ずつ。


静かに。


確実に。


マーリンは眠ろうとする。


けれど、眠りに落ちる直前、胸の奥がまた小さく揺れた。


吐き気とも、痛みとも違う。


名前のない違和感。


マーリンはそれに名前をつけなかった。


つけたくなかった。


ただ、手を胸元に置く。


そこには何も答えがない。


ミハイルの声も。


ステラの声も。


クロードの声も。


届かない。


あるのは、父の命令だけだった。


夜は、思ったより深くならなかった。


眠りは浅く、何度も途切れた。


夢を見たのかもしれない。


けれど、目を開けるたび、何を見たのか思い出せない。


ただ、機械音だけが耳に残っている。


ピ、ピーッ、シュー、シュー。


父の部屋の音。


生きる音。


生き延びる音。


ロイス公爵は、死を受け入れない。


肉体が限界を迎えても、管につながれても、機械に支えられても、それでも命令を出す。


人間の身体を捨てても、意志を残そうとしている。


その意志の中に、マーリンの幸福はない。


あるのは、家。


血脈。


器。


永遠。


マーリンは目を開けた。


部屋は暗い。


扉の近くに、クリスチーナの気配がある。


本当に、そばにいてくれている。


眠っているのか、起きているのかは分からない。


けれど、そこにいる。


それだけで少し呼吸が戻る。


「クリス」


小さく呼ぶ。


すぐに返事があった。


「はい、お嬢様」


起きていた。


「眠っていなかったの?」


「少しだけ」


「嘘ね」


「……少しだけでございます」


マーリンは、ほんのわずかに笑った。


軽いやり取り。


それだけで、部屋の空気が少しだけ人間のものに戻る。


「水を」


「はい」


クリスチーナが明かりを落としたまま近づき、コップを差し出す。


マーリンは受け取る。


手が少し震えた。


クリスチーナは支えようとして、けれどすぐには触れない。


マーリンが自分で持てるように、そっと近くに手を置くだけ。


世話と管理は違う。


クリスチーナは、以前そう言った。


お嬢様がご自分で歩けるように。


その言葉が、胸の奥に残っている。


「クリス」


「はい」


「お兄様の部屋は、まだそのまま?」


クリスチーナの指が止まる。


「はい。手入れは続けております」


「誰も使っていないのね」


「はい」


「お父様は、あの部屋をどうしているのかしら」


「旦那様から、特に処分のご命令はございません」


命令がない。


なら、残っている。


ロイス家では、消す時も残す時も命令がいる。


クロードの部屋が残っているのは、父が忘れたからではない。


消さなかった理由があるのかもしれない。


あるいは、まだ利用価値があると思っているのかもしれない。


どちらにせよ、そこには何かが残っている。


父の命令とは違うもの。


ブライアンの正しさとも違うもの。


クロードが、最後に何を見ていたのか。


何を恐れていたのか。


何を止めようとしていたのか。


「お兄様は、逃げたのではないわ」


マーリンは言う。


クリスチーナは、何も挟まなかった。


「そう信じたいだけかもしれない」


「信じることは、悪いことではございません」


「お父様なら、感情に基づく判断だと言うわ」


「私は、そうは思いません」


クリスチーナの声は静かだった。


「クロード様は、お嬢様を大切に思っておられました」


「置いていかれたわ」


言ってから、胸が少し痛んだ。


本当のことだった。


クロードは優しかった。


でも、いなくなった。


マーリンをロイス家に残して。


「それでも、逃げたとは思いたくないの」


「はい」


「戦争を止めようとしていた。NewEraを止めようとしていた。そういう何かが、あったのなら」


マーリンはコップを見つめる。


水面に、暗い部屋の光が揺れている。


「お父様の言葉だけで、お兄様を終わらせたくない」


クリスチーナは深く頭を下げた。


「お嬢様がそう思われるなら、私はおそばにおります」


「困ることになるわ」


「構いません」


「また、必要?」


クリスチーナは少しだけ困った顔をする。


「はい。必要でございます」


今度の必要は、冷たくなかった。


マーリンはコップを置く。


「眠れそうにないわ」


「お休みになれませんか」


「ええ」


「では、香りのない茶をもう一度お持ちいたします」


「いいえ」


マーリンはゆっくり身体を起こす。


まだめまいはある。


けれど、寝ている方が苦しかった。


「お兄様の部屋へ行きたい」


クリスチーナの目が揺れる。


「今から、でございますか」


「ええ」


「お身体が」


「分かっているわ」


分かっている。


でも、今行かなければ、また父の命令が来る。


婚約の予定。


診察。


療養。


軍との調整。


リュール。


NewEra。


正しい理由が、また逃げ道を塞ぐ。


今なら、まだ夜だ。


ロイス家の廊下は静かで、誰も余計なことを言わない。


クリスチーナは少しだけ迷った。


それから、静かに頷く。


「上着をお持ちいたします」


「止めないのね」


「止めたいです」


正直だった。


「ですが、お嬢様は今、命令ではない方へ歩こうとしておられます」


マーリンは言葉を失う。


クリスチーナは続ける。


「それなら、私はおそばにおります」


胸の奥が、少しだけ温かくなる。


父の命令ではなく。


ブライアンの正しさでもなく。


軍の要請でもなく。


自分が、知りたいと思った。


その小さな意志に、クリスチーナは手を添えてくれる。


マーリンはゆっくり立ち上がる。


足元はまだ頼りない。


けれど、歩ける。


「行きましょう、クリス」


「はい、お嬢様」


扉が開く。


ロイス家の廊下は、やはり静かだった。


厚い絨毯。


並ぶ肖像画。


整えられた燭台。


香は少し薄くなっている。


クリスチーナが先に指示してくれたのだろう。


マーリンは廊下の奥を見る。


父の部屋とは反対側。


屋敷の古い棟。


クロードの部屋がある場所。


閉ざされた扉。


手入れだけは続けられている机。


誰も触れようとしない古い端末。


失踪した日のまま、時間を止めたような空気。


そこには、父の命令とは違うものが残っている気がした。


クロードは、本当に逃げたのか。


それとも、誰にも届かない場所で、戦争を止めるために何かを掴もうとしていたのか。


マーリンは一歩を踏み出す。


ロイス公爵の命令は、まだ胸の奥に残っている。


撃墜女王として戦え。


カーチスライトとの婚約を受け入れろ。


ロイスの血脈を守れ。


NewEraに接続される役割を果たせ。


その言葉は、命令であると同時に、檻の格子だった。


けれど、今だけは。


その格子の隙間から、兄の影が見えた気がした。


マーリンは、その影へ向かって歩く。


扉の外には、クリスチーナがいる。


一歩後ろに。


守れるようで、守りきれない距離に。


それでも、そこにいてくれる距離に。


父の命令ではなく、兄の影へ。


マーリンは静かな廊下を進んだ。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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