婚約の通知
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帝都へ戻る航路は、静かだった。
静かすぎた。
戦場から離れているはずなのに、マーリンの耳にはまだ警告音が残っている。
赤い表示。
白いソード。
敵機の反応消失。
撃墜数。
そして、聞こえない声。
『マーリン様』
ステラの声は、もう通信には入らない。
シューティングスターの黄色い光も、リュールの隣にはない。
移送艦の窓から帝都星の光が見えた時、周囲の士官たちは少しだけ安堵した顔をした。
帰還。
勝利した者が戻る場所。
そういう空気だった。
マーリンは窓の外を見る。
帝都星は美しい。
整えられた光。
規則正しい航行灯。
巨大な軌道施設。
帝国の中心。
そこには、戦場の破片も、王国機の残骸も、ステラの声もない。
だから、余計に苦しい。
「ロイス嬢」
向かいに座っていたブライアンが声をかける。
「気分が優れませんか」
マーリンは顔を上げる。
ブライアンはいつも通りだった。
整った制服。
静かな目。
正しい姿勢。
戦場を見てきたはずなのに、彼は乱れない。
乱れないようにしているのかもしれない。
その違いは、今のマーリンには分からなかった。
「少し、揺れが気になっただけです」
「医師の診察を受けた方がいい」
「大げさですわ、ブライアン様」
微笑む。
作れてしまう。
ブライアンは少しだけ眉を動かした。
「大げさではありません。君は出撃を重ねている。魔力消耗も、機動負荷も、通常の操縦者とは比較にならない」
正しい。
だから、逃げ場がない。
「承知いたしました。必要なら、診察を受けます」
「必要です」
即答だった。
マーリンは少しだけ目を伏せる。
必要。
その言葉は、いつからこんなに重くなったのだろう。
ステラが言う「必要」は、もっと軽かった。
甘いものは必要です。
そう言って、真面目な顔で焼き菓子を差し出してきた。
その軽さが、いつも少しだけマーリンを救った。
ブライアンの必要は違う。
正しい。
重い。
逃げ道を塞ぐ。
同じ言葉なのに、まるで別のものだった。
「ロイス嬢」
「はい」
「帝都到着後、ロイス公爵閣下との面会が予定されています」
「承知しております」
「その後、僕とも少し時間をいただきたい」
マーリンは視線を上げた。
ブライアンは変わらない。
けれど、その変わらなさの奥に、何か整えられたものがある。
用意された言葉。
決められた話。
そういう気配がした。
「重要なお話ですか」
「ええ」
「帝国にとって?」
ブライアンは一拍置いた。
「君にとっても」
その答えは、少し優しかった。
けれど、優しいだけではない。
マーリンは窓へ視線を戻す。
帝都の光が近づいてくる。
美しく、規則正しく、冷たい光。
そこへ戻る。
戻るのに、帰る気がしない。
ロイス家の屋敷はある。
部屋もある。
名前もある。
けれど、ステラが話していたような帰る場所とは違う。
父の渋い顔。
母の焼き菓子。
兄の照れ隠し。
妹のお土産。
そういうものは、ロイス家にはない。
あるのは、役割。
通達。
命令。
そして、まだ聞かされていない重要な話。
マーリンは膝の上で指を重ねる。
指先は冷たい。
戦場では、敵機を落とす時には震えなかった。
けれど、帝都の光を見ると、少しだけ震える。
おかしな話だった。
宇宙よりも、帝都の方が怖いのかもしれない。
帝都軍港では、歓迎の準備が整っていた。
凱旋というほど派手ではない。
けれど、誰もが分かる程度には飾られている。
白い花。
帝国旗。
軍の標章。
整列した士官たち。
光沢のある床。
磨かれた金属の手すり。
帝都らしい、隙のない美しさ。
白いリュールの帰還。
撃墜女王の帰還。
ロイス家令嬢の帰還。
そういう意味を、場全体が帯びていた。
マーリンが降りると、拍手が起きた。
控えめに。
上品に。
しかし、確かに。
マーリンは微笑む。
白い髪。
整えられた制服。
完璧な姿勢。
撃墜女王として。
帝国の希望として。
拍手に応える。
その場にいる誰も、マーリンの手が冷たいことを知らない。
ティーカップを持つと震えることも。
吐き気が消えないことも。
甘いものの包みを見るだけで、ステラを思い出すことも。
誰も知らない。
拍手は、そういうものを消すのが上手だった。
称える音は、個人の痛みをきれいに覆う。
マーリンは、ゆっくりと歩く。
足取りは乱さない。
笑みも崩さない。
戦場で壊れたものが、帝都では飾りに変わる。
撃墜数。
撃沈数。
戦果。
その数字を背負って歩く少女を、人々は美しいと思うのだろう。
強いと思うのだろう。
希望だと思うのだろう。
マーリンは、そう見えるように歩いた。
見えてしまうように。
クリスチーナが一歩後ろにいる。
彼女だけは気づいている。
マーリンの呼吸。
指先。
目の奥。
けれど、この場では何も言えない。
クリスチーナの沈黙が、マーリンには一番痛かった。
「ロイス嬢」
軍港の責任者が礼をする。
「ご帰還を歓迎いたします。リュールの戦果は、すでに帝都中枢にも伝達済みです」
「過分なお言葉です」
マーリンは答える。
言葉が口から自然に出る。
戦場で敵の進路が見えるのと同じくらい、こういう場の言葉は体に染みついていた。
「わたくしは、与えられた任を果たしただけです」
「それが容易ではないことを、我々は承知しております」
本当だろうか。
マーリンは思う。
彼らが知っているのは、リュールの出力と撃墜数だ。
操縦者負荷。
魔力消耗。
戦果。
その数字の裏で、ステラの声が消えたことを、どれだけ知っているのだろう。
いや、知っているのかもしれない。
イルクート一等候補生、戦死。
そういう一行として。
マーリンは微笑みを保つ。
その一行の外にあるステラを、ここで語ることはできない。
軍港の空気は、あまりにも整いすぎていた。
整った場で乱れることを、マーリンの体は許さない。
フルール・デスポワール。
希望の花。
その仮面は、まだ壊れていない。
壊れていないことが、少しだけ怖かった。
ロイス家の屋敷へ向かう車内で、マーリンは口元を押さえた。
急に、香りがきつくなった。
車内に焚かれた香。
革張りの座席。
窓の外を流れる帝都の空気。
普段なら気にならない。
むしろ、ロイス家の車にふさわしい落ち着いた香りだった。
それが、喉の奥に引っかかる。
胃が持ち上がる。
マーリンは顔をそらす。
「お嬢様」
クリスチーナの声が小さくなる。
「大丈夫……」
言いかけて、止まる。
もう、その言葉は簡単に言えない。
ミハイルが嫌った言葉。
ステラが見抜いた言葉。
クリスチーナがずっと心配してきた言葉。
マーリンは小さく息を吸う。
「少し、気分が悪いだけよ」
「お屋敷に着き次第、医師を」
「ええ」
素直に頷いた。
それだけで、クリスチーナの表情が少しだけ揺れる。
以前なら、きっと断っていた。
迷惑をかけたくない。
ロイス家の令嬢として弱さを見せたくない。
戦場から戻ったばかりなのだから、この程度で騒ぐべきではない。
いくらでも理由を並べられた。
けれど、今は断る気力すら薄い。
マーリンは窓の外を見る。
帝都の光が流れていく。
綺麗だ。
とても綺麗。
でも、どこにも帰ってきた感じがしない。
帝都は変わらない。
人が死んでも、街は整っている。
ミハイルが死んだ時も。
ステラが死んだ時も。
マーリンが敵艦を沈めた時も。
航行灯は規則正しく瞬き、貴族街の窓は美しく輝き、ロイス家の車は決められた道を滑るように進む。
正しいものは、いつも止まらない。
止まらないから、怖い。
「お嬢様」
「何かしら」
「香を止めさせます」
「……ええ。お願い」
クリスチーナが運転席へ短く指示を出す。
香りが薄まるまで、少し時間がかかった。
その間、マーリンは膝の上で手を握っていた。
指先が冷たい。
その冷たさの奥で、ほんの少しだけ違う感覚がある。
戦場の吐き気とは違う。
魔力切れのめまいとも違う。
うまく名前をつけられない、小さな違和感。
マーリンは、それに気づかないふりをした。
今はまだ。
気づいてはいけない気がした。
ロイス公爵は、寝台ではなく執務椅子にいた。
人工心肺装置の低い音が、部屋の奥で規則的に鳴っている。
呼吸の代わりのような音。
生きている音。
生にしがみつく音。
機械の管が、父の身体へ伸びている。
肌は血色を失い、指先は細く、目だけが冷たく残っていた。
肉体は限界に近い。
それでも、この部屋の支配者はロイス公爵だった。
病人の部屋ではない。
執務室。
指示を出す部屋。
家族を駒として動かす場所。
マーリンは父の前に立つ。
「ただいま戻りました、お父様」
「戦果は聞いている」
ロイス公爵は、娘の帰還より先にそれを言った。
マーリンは表情を変えない。
「身に余る評価をいただいております」
「余らせるな。使え」
父の声は乾いている。
人工心肺装置の音の合間に、短く落ちる。
「撃墜女王の名は、帝国にとって有用だ。王国側への抑止力にも、国内への象徴にもなる」
撃墜女王。
父が口にすると、その名はいっそう冷たくなる。
「……わたくしは、その名を望んだわけではありません」
「名は、望んだ者にだけ与えられるものではない」
ロイス公爵は、機械音の隙間で言う。
「役割が先だ。名は後からつく」
マーリンは黙る。
役割。
また、それだ。
父は続ける。
「リュールの戦果により、NewEra Projectの価値は大きく示された。人間の判断は揺らぐ。だが、適切に管理された力は戦場を制する」
「わたくしは、人間です」
「だから管理が必要なのだ」
即答だった。
マーリンの胸の奥が、冷える。
父にとって、自分は娘ではない。
役割の器。
ロイス家の駒。
リュールを動かす魔力。
帝国の未来へ接続される部品。
分かっていた。
ずっと前から。
それでも、言葉にされるたびに痛む。
「戦場で揺らぐな、マーリン」
ロイス公爵は言う。
「喪失に足を取られるな。死者は戻らない。だが、死者が残した効果は使える」
マーリンは目を伏せそうになった。
しかし、伏せなかった。
「ミハイル様の死も、ステラの死も、ですか」
父の表情は変わらない。
「そうだ」
ためらいがなかった。
「ルフトハンザの死は、和平幻想を断ち切った。イルクートの死は、お前の戦闘能力をさらに引き出した。どちらも帝国にとって意味がある」
意味。
マーリンは、唇の内側を噛む。
痛みがある。
まだ、自分の身体だと思える痛み。
「お前個人の感情は問わない」
ロイス公爵は続ける。
「感情は揺らぐ。揺らぐものを中心に置けば、判断は誤る」
「お父様は、何を中心に置かれるのですか」
「継続だ」
その答えは、あまりに乾いていた。
「家の継続。帝国の継続。支配構造の継続。人間は死ぬ。感情も消える。だが、構造は残る」
人工心肺装置が低く鳴る。
生きている音。
生き延びようとする音。
「だから、NewEraが必要なのだ」
マーリンは、父を見る。
この人は、本当に人間なのだろうか。
そう思った瞬間、自分が恐ろしくなった。
父は生きている。
肉体の限界にしがみつきながら。
管につながれ、機械音に包まれながら。
それでも、生きている。
だが、その中に人間らしい温度はどれだけ残っているのだろう。
「マーリン」
ロイス公爵が名を呼ぶ。
けれど、その呼び方はミハイルとも、ステラとも違う。
温度がない。
「お前とカーチスライトの婚約が決まった」
一瞬、部屋の音が遠くなる。
人工心肺装置の低い音だけが残る。
「……婚約、ですか」
「そうだ」
父は淡々と言う。
「ロイス家とカーチスライト家の結合。リュールの操縦者と、NewEraを支える技術・政治基盤の結合。帝国にとって、最も効率がよい」
効率がよい。
恋ではなかった。
祝福でもなかった。
未来でもなかった。
政治と軍事の結合。
白いリュールと、カーチスライト家の正しさを結びつけるための鎖。
「ブライアン様は」
「承諾している」
そうだろう。
ブライアンは正しい人だ。
帝国に必要なら、受ける。
ロイス家に必要なら、整える。
マーリンが何を失ってきたかも、きっと知っている。
知った上で、正しい判断をする。
「お前に拒否権はない」
ロイス公爵が言う。
「分かっております」
マーリンは答える。
声は静かだった。
静かに作れてしまった。
「ロイス家の名を損なわぬよう、務めます」
父は満足そうでも、不満そうでもなかった。
ただ、処理が一つ済んだような顔をした。
「婚約通知は、近日中に正式発表される。お前は療養名目で帝都に留まる。その間に必要な調整を済ませる」
「承知いたしました」
「体調不良が報告されている」
「戦闘負荷によるものかと」
「ならば検査を受けろ。リュールの操縦者として、状態管理は義務だ」
娘の体を案じる言葉ではない。
資産の稼働状態を確認する言葉。
それでも、間違ってはいない。
間違っていないから、痛い。
「承知いたしました」
マーリンは礼をする。
退室の許可が出る。
部屋を出る直前、父の声が追ってきた。
「マーリン」
「はい、お父様」
「お前はよくやっている」
褒め言葉。
そう呼べる形の言葉。
けれど、マーリンの胸には届かなかった。
「ありがとうございます」
礼を返す。
扉が閉じる。
人工心肺装置の音が、分厚い扉の向こうに遠ざかる。
その瞬間、マーリンは足を止めた。
廊下が少し傾いた気がした。
胸の奥から、吐き気が上がる。
「お嬢様」
クリスチーナが支える。
「少し、めまいが」
「すぐにお部屋へ」
「ええ」
歩こうとした瞬間、甘い香りがした。
廊下の先で、使用人が茶菓子を運んでいる。
焼き菓子。
ステラが好きだったものとは違う。
違うのに、似た香りがする。
マーリンは口元を押さえる。
「お嬢様」
「ごめんなさい、クリス」
謝る必要はない。
それでも、謝ってしまう。
身体が自分のものではないみたいだった。
戦場でリュールを動かす時より、ずっと扱いにくい。
クリスチーナの腕に支えられながら、マーリンは廊下を進む。
壁に飾られた肖像画が、こちらを見ている。
歴代のロイス家当主たち。
どの顔も正しい。
どの目も冷たい。
その中で、マーリンだけが少しずつ息を失っていく。
自室に戻ると、医師が呼ばれた。
診察は短くはなかった。
脈。
体温。
魔力残量。
睡眠時間。
食事量。
リュール搭乗後の身体負荷。
医師は眉を寄せる。
「度重なる高負荷機動と魔力消耗の影響でしょう。急加速、急旋回、過同期状態が続けば、吐き気、めまい、嗜好の変化、倦怠感は起こり得ます」
「嗜好の変化」
「香りに敏感になることもあります。特に疲労時には」
マーリンは静かに聞く。
医師の言葉は理にかなっていた。
戦闘負荷。
魔力消耗。
睡眠不足。
精神的な緊張。
どれも、マーリンの中にある。
説明としては十分だった。
十分すぎるほど。
それでも。
マーリンは自分の腹部に、ほんの少しだけ意識を向ける。
違う。
そんな気がした。
吐き気は、リュールの負荷だけではないのではないか。
疲労とは違う何かが、奥で静かに息をしているのではないか。
ありえないことではない。
ミハイルと過ごした夜の記憶が、淡く胸をかすめる。
帝都の夜景。
重なった影。
不器用に留められた髪飾り。
マーリンは指を握る。
言えない。
まだ、言葉にできない。
言葉にすれば、壊れてしまう気がした。
医師は続ける。
「現時点では、戦闘後症状として扱うのが妥当です。しばらく安静を。可能であれば、リュール搭乗間隔を空けるべきです」
可能であれば。
その言葉だけで、答えは見えている。
マーリンは微笑む。
「承知いたしました」
医師は頭を下げて退室する。
クリスチーナだけが残る。
部屋は静かだった。
「お嬢様」
「戦闘の影響ですって」
「……はい」
「納得できるわ。実際、戦いすぎているもの」
マーリンはそう言って、椅子に座る。
自分を納得させるように。
戦闘の影響。
魔力消耗。
心身の負荷。
それなら、まだ役割の範囲に収まる。
処理できる。
でも、もし違うなら。
もし、あの夜の小さな未来が、自分の中に残っているのなら。
マーリンは胸元を押さえる。
ミーシャ。
呼んでも、返事はない。
返事のない名前だけが、部屋に残る。
クリスチーナは静かに茶を用意する。
香りの薄いものだった。
焼き菓子はない。
その気遣いが分かる。
分かるから、余計に胸が痛い。
「クリス」
「はい」
「私、少し変かしら」
クリスチーナの手が止まる。
「変、とは」
「自分の身体が、自分のものではないみたいなの」
戦場でリュールと繋がりすぎた時も、そう思った。
腕がリュールの腕になる。
脚がリュールの脚になる。
白いソードの重さが、掌の中に沈む。
けれど、今の違和感は少し違う。
自分の中に、自分だけではない静けさがある。
小さすぎて、まだ形にならない何か。
クリスチーナは答えない。
すぐに否定もしない。
その沈黙が、優しかった。
「医師は、戦闘負荷だと言いました」
「ええ」
「きっと、そうね」
「お嬢様」
クリスチーナの声が少し揺れる。
「それでも、気になることがございましたら」
マーリンは小さく首を振る。
「まだいいわ」
「……はい」
「まだ、言葉にしたくないの」
クリスチーナは深く頭を下げる。
「承知いたしました」
その返事だけで、マーリンは少し救われる。
追及しない。
否定しない。
ただ、そばにいる。
クリスチーナはいつもそうだった。
だから、彼女を失うことなど考えたくもなかった。
ブライアンとの面会は、少し遅れて行われた。
ロイス家の応接室。
花は整えられている。
茶器も正しい位置にある。
カーテンの落ち方まで、計算されているように見える。
ここには、何も乱れがない。
乱れがない場所ほど、今のマーリンには苦しかった。
マーリンは椅子に座り、ブライアンを迎えた。
「ブライアン様」
「ロイス嬢」
彼は礼をする。
婚約が決まった相手にしては、変わらない距離だった。
近づきすぎない。
離れすぎない。
正しい距離。
「ロイス公爵閣下から、お聞きになりましたか」
「はい」
「急な話になり、申し訳ない」
謝る言葉はある。
けれど、撤回の言葉はない。
「ブライアン様が謝ることではありません」
「いいえ。僕も承諾した」
マーリンは、少しだけ目を上げる。
ブライアンは静かに続ける。
「この婚約には意味があります。ロイス家、カーチスライト家、軍、NewEra。君とリュールを中心に動き始めたものを、安定させる意味がある」
意味。
また、意味。
「わたくしたちの感情は、どこに置かれるのでしょう」
マーリンは聞いた。
静かな声だった。
ブライアンはすぐには答えない。
その沈黙だけで、答えは分かる。
「後から、整えられます」
彼は言う。
残酷なほど正しく。
「感情は無視すべきものではありません。ただ、帝国が動く時、感情を中心には置けない」
「ミハイル様の時も、そうでしたね」
ブライアンの目がわずかに揺れる。
マーリンは微笑む。
「ステラの時も」
「ロイス嬢」
「二人とも、意味になりました」
言ってしまった。
ミハイルの死は、和平破綻と王国への怒りの意味になった。
ステラの死は、撃墜女王の完成とリュールの戦果の意味になった。
そして今、マーリン自身も意味になる。
婚約という形で。
ブライアンは静かに言う。
「君を守るためでもあります」
「守る?」
「婚約により、君は政治的にも保護される。ロイス家だけでなく、カーチスライト家の影響下にも入る。軍も無茶な扱いはしにくくなる」
正しい。
本当に、正しい。
ブライアンは嘘をついていない。
この婚約には、マーリンを守る面もある。
だが同時に、逃がさない檻でもある。
守ることと囲うことは、とても似ている。
「ブライアン様は、優しいのですね」
マーリンは言う。
ブライアンは少し目を伏せる。
「優しさだけではありません」
「ええ。知っています」
だから怖い。
優しいだけの人なら、まだ拒めたかもしれない。
けれどブライアンは正しい。
役に立つ。
場を整える。
帝国に必要な道を選ぶ。
そして、その道からマーリンを逃がさない。
「ロイス嬢」
「はい」
「僕は、君を軽んじるつもりはありません」
「分かっています」
「君の喪失も、負荷も、理解しようとしている」
「はい」
「それでも、君の力は必要です」
必要。
マーリンは静かに笑う。
「分かっています」
その言葉は、もう何度も使った。
必要なら。
戦います。
応じます。
務めます。
必要なら。
そのたびに、人としての場所が少しずつ狭くなる。
ブライアンは、テーブルの上に置かれた書類へ視線を向けた。
「正式な婚約通知は、両家の調整後に発表されます。公表文には、戦時下における両家の結束と、帝国防衛への貢献を記載する予定です」
「わたくしの意思は?」
「ロイス公爵閣下は、了承済みと判断しています」
「ブライアン様は?」
「君が拒否しないことを、理解しています」
優しい声だった。
けれど、その優しさは刃のようだった。
マーリンは拒否しない。
拒否できない。
それを、ブライアンは分かっている。
だから正しく手続きを進める。
「ずるい方ですね」
マーリンが言うと、ブライアンは目を伏せた。
「そうかもしれません」
否定しなかった。
そのことが、少しだけ意外だった。
「僕は、正しいと思う道を選びます」
「ええ」
「ですが、その正しさが誰かを傷つけないとは言えない」
「ミハイル様のことで、そう学ばれたのですか」
ブライアンの表情がわずかに固まる。
「ロイス嬢」
「責めているわけではありません」
本当に、そうだった。
責めたい気持ちがないわけではない。
けれど、今のマーリンには、責める力も薄かった。
ただ、確かめたかった。
ブライアンの正しさは、自分をどこへ連れていくのか。
「正しい道は、いつも人を救うわけではありません」
マーリンは言う。
「それでも、選ぶのですね」
ブライアンは静かに頷く。
「選ばなければ、もっと多くを失うことがあります」
多く。
また、その言葉。
多くを守るために。
多くを失わないために。
一人の感情は後ろへ置かれる。
一人の恋は意味に変えられる。
一人の死は戦果に数えられる。
そして一人の婚約は、帝国の安定になる。
「ブライアン様」
「はい」
「わたくしは、あなたを憎めばいいのでしょうか」
ブライアンは息を止めた。
ほんのわずかに。
「憎んでも構いません」
「構わないのですか」
「僕が選んだことです」
「それも、正しい答えですね」
マーリンは笑う。
今度の笑みは、少しだけ崩れていた。
「困るわ」
「ロイス嬢」
「あなたが正しすぎるから、わたくしは逃げ道を見失う」
ブライアンは黙る。
マーリンはテーブルの花を見る。
白い花。
整えられた花。
枝の向きまで、決められている。
「婚約の件、承知いたしました」
声は静かだった。
「ロイス家の令嬢として、務めます」
ブライアンは頭を下げる。
「ありがとう」
感謝されるようなことではない。
そう思った。
けれど、マーリンは何も言わなかった。
婚約の通知は、正式に整えられた。
ロイス家とカーチスライト家。
帝国の名門同士の結びつき。
撃墜女王と、NewEraを支える家の結合。
外から見れば、完璧だった。
ミハイルの名は出ない。
ステラの名も出ない。
マーリンの体調の変化も、戦闘負荷として処理される。
すべてが正しく並んでいく。
正しすぎて、息が苦しい。
夜、マーリンは自室で一人、窓の外を見た。
帝都の夜景。
あの夜の光に似ている。
けれど、同じではない。
ミハイルはいない。
ステラもいない。
ブライアンはいる。
正しい婚約者として。
クリスチーナは一歩後ろにいる。
守ろうとしてくれる。
でも、扉の外にはロイス家がある。
その向こうに帝国がある。
さらに奥に、NewEraがある。
マーリンはそっと腹部に手を当てる。
戦闘の影響。
医師の声を思い出す。
そうなのだろう。
そうであってほしい。
そう思うことが、少しだけ怖い。
もし違うなら。
もし、自分の中にまだ名前のない何かがあるのなら。
それすら、帝国は意味に変えるのだろうか。
ロイス家の血。
ルフトハンザの影。
リュールの操縦者。
撃墜女王。
婚約者。
まだ名前もないものにまで、役割を与えるのだろうか。
マーリンは手を離す。
考えてはいけない。
今はまだ、考えない。
「ミーシャ」
小さく呼ぶ。
返事はない。
「ステラ」
やはり、返事はない。
マーリンを名前で呼んでくれる声は、遠くなった。
代わりに近づいてくるのは、婚約者の名と、撃墜女王の名と、ロイス家の役割。
正しさは、檻の形をしていた。
まだ扉は閉まりきっていない。
けれど、鍵の音だけは、もう聞こえ始めていた。
クリスチーナが静かに近づく。
「お嬢様、冷えます」
「ええ」
マーリンは頷く。
窓から離れる。
部屋の中には、温かな灯りがある。
整った寝台。
香りを抑えた茶。
クリスチーナの気配。
それでも、心は休まらない。
「クリス」
「はい」
「婚約って、もう少し嬉しいものだと思っていたわ」
クリスチーナは答えない。
答えられないのだろう。
マーリンは少しだけ笑う。
「変ね。笑うところではないのに」
「お嬢様」
「分かっているわ。これは必要なこと。ロイス家にも、帝国にも、リュールにも」
言葉を並べる。
必要。
効率。
安定。
保護。
結束。
どれも正しい。
どれも間違っていない。
「でも、私のためではないのね」
クリスチーナの表情が、かすかに歪む。
「お嬢様のためでも、あるはずでございます」
「ブライアン様もそう言ったわ」
「……はい」
「守るためだと」
マーリンは寝台の端に腰を下ろす。
「守ることと囲うことは、似ているのね」
クリスチーナは、そこで初めて少しだけ強く言った。
「お嬢様は、物ではございません」
その声に、マーリンは顔を上げる。
クリスチーナの目が揺れている。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと、切実なもの。
「お嬢様は、お嬢様でございます」
以前も聞いた言葉。
けれど、今は少し違って聞こえた。
クリスチーナが、必死にマーリンを人間の側へ留めようとしている。
ミハイルがいなくなり、ステラがいなくなり。
今、そう言ってくれるのはクリスチーナだけだ。
「ありがとう、クリス」
マーリンは言う。
それ以上言うと、声が崩れそうだった。
クリスチーナは頭を下げる。
部屋の外で、遠く足音がする。
使用人のものか、警備のものか、分からない。
ロイス家は眠らない。
帝国も眠らない。
NewEraも、きっと眠らない。
正しいものたちが、マーリンの周りで静かに形を作っていく。
婚約。
療養。
検査。
リュールの再調整。
次の出撃。
そのどれもが、マーリンのためだと言われるのだろう。
帝国のためだと言われるのだろう。
必要だと言われるのだろう。
マーリンは目を閉じる。
まぶたの裏に、帝都の夜景が残る。
その奥に、ミハイルの声がある。
ステラの声がある。
でも、どちらも遠い。
手を伸ばしても届かない。
代わりに近いのは、人工心肺装置の低い音。
ブライアンの正しい声。
婚約通知の白い紙。
マーリンはゆっくり息を吐く。
吐き気は、少しだけ治まっていた。
けれど、胸の奥の違和感は消えない。
戦闘負荷。
そう呼べば済むものかもしれない。
まだ名前を持たない何かかもしれない。
分からない。
分からないまま、夜は深くなる。
マーリンとブライアンの婚約は、恋ではなかった。
ロイス家とカーチスライト家。
リュールとNewEra。
戦場の象徴と、帝国の管理思想。
政治と軍事を結びつける、正しい判断だった。
ブライアンは優しい。
マーリンの負荷を見ている。
喪失も理解しようとしている。
守ろうともしている。
けれど、その優しさはマーリンを役割から逃がさない。
医師は、マーリンの吐き気とめまいを戦闘負荷と判断する。
マーリンもそう納得する。
納得したかった。
ほんのわずかに胸の奥で別の可能性が揺れても、まだ名前にはしない。
帝都の夜景の向こうで、ロイス家とカーチスライト家とNewEraが静かに並ぶ。
次にマーリンを待つのは、優しく正しい檻。
ブライアンの正しさが、マーリンをさらに囲い込んでいく。
マーリンは灯りを落とした部屋で、もう一度だけ窓の外を見た。
帝都は美しい。
美しいまま、誰かの感情を呑み込んでいく。
その光の中で、婚約通知は静かに整えられていく。
一文字も乱れずに。
一つの感情も、こぼさないように。
正しく。
冷たく。
逃げ道のない形で。
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