数字になる死
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死は、数字になった。
敵機三機撃墜。
敵艦一隻撃沈。
王国側部隊、壊滅。
帝国側補給艦隊、退避完了。
そして。
イルクート一等候補生、戦死。
ステラの名前は、そこで止まった。
その後ろに、母の焼き菓子は続かない。
父の渋い顔も、兄の照れ隠しも、妹のお土産も続かない。
帰る場所があったことも。
軍人になりたかったわけではないことも。
怖いまま、マーリンの横と後ろを見てくれたことも。
数字にはならない。
だから、誰も数えない。
作戦会議室の白い卓に、資料が並んでいる。
戦闘記録。
損耗一覧。
敵影分析。
リュールの出力推移。
操縦者負荷。
戦果。
どれも整っていた。
整いすぎていた。
ステラの死も、同じ紙の上に並んでいた。
イルクート一等候補生、戦死。
一行。
たった一行。
あの子が笑っていた時間も、焼き菓子を持ってきた回数も、通信越しにマーリン様と呼んだ声も、全部その一行の外に落ちている。
マーリンは、資料を見つめた。
文字は読める。
意味も通る。
けれど、胸の中へは入ってこない。
あまりに綺麗に整っているから、かえって嘘のようだった。
ステラは、こんなに短く終わる子ではなかった。
少し声が大きかった。
敬礼は正しかった。
甘いものは必要だと言い張った。
階段を少しだけ走った。
怖いと言った。
でも、逃げなかった。
それらは、どこにも書かれていない。
「ロイス嬢」
メッサーシュミットの声がした。
マーリンは顔を上げる。
「はい」
「本戦闘の記録確認を続けます」
「承知いたしました」
声は出た。
まっすぐに。
ロイス家の令嬢らしく。
帝国軍に協力する人形使いらしく。
撃墜女王らしく。
その言葉が胸の奥で冷たく沈む。
撃墜女王。
ステラのいない戦場で完成してしまった名前。
メッサーシュミットは資料へ視線を落とす。
「リュール単機による敵人形三機撃墜。敵小型戦闘艦一隻撃沈。補給艦隊への被害は軽微。作戦目的は達成されました」
作戦目的は達成されました。
マーリンは膝の上で指を握る。
作戦目的。
補給艦隊は守った。
護衛機も離脱した。
帝国側の被害は少ない。
なら、これは成功なのだろう。
成功した戦闘。
成功した任務。
成功した喪失。
そんなものがあるはずがないのに、資料の上では、それが成立していた。
「リュールの瞬間出力は、従来記録を上回っています」
メッサーシュミットは続ける。
「操縦者負荷は危険域に達していましたが、機体反応速度、撃破速度ともに大幅に上昇しています」
上昇。
大幅に。
マーリンは、その言葉を聞きながら、白いソードの感触を思い出す。
敵機の中心線を断った時の、嫌な軽さ。
敵艦の装甲へ刃を入れた時の、手応え。
艦体が裂けた時、リュールの白い糸が静かに震えた。
あれは怒りだったのか。
悲しみだったのか。
それとも、ただの反応だったのか。
もう、よく分からない。
「ロイス嬢の戦闘能力は、ステラ……いえ、イルクート一等候補生喪失後も低下していません」
誰かが言いかけ、言い直した。
ステラ。
その名を、途中で消された。
イルクート一等候補生。
正しい呼称。
けれど、マーリンの中にいたのはステラだった。
甘いものが好きで。
少し声が大きくて。
「マーリン様」と呼んだ少女。
マーリンは、少しだけ目を伏せる。
怒るべきだったのかもしれない。
その名を消さないで、と。
でも、口は動かなかった。
怒りは戦場で使い果たしたのかもしれない。
あるいは、まだ深いところで燃えていて、言葉になる場所まで上がってこないのかもしれない。
メッサーシュミットが資料を閉じる。
「むしろ、瞬間出力と撃破速度は上昇しています」
上昇。
数字は便利だ。
壊れたものまで、性能として扱える。
ブライアンは静かにマーリンを見る。
「ロイス嬢」
「はい、ブライアン様」
「君の働きで、複数の補給線が維持されました。帝国軍の損耗も抑えられています」
「そうですか」
「君は、多くを守っている」
多く。
その言葉は大きすぎる。
マーリンには、誰の顔も見えない。
守った補給線。
維持された戦線。
救われた帝国軍。
どれも正しい。
けれど、ステラは帰らない。
ミハイルも帰らない。
「ロイス嬢」
ブライアンの声が少し低くなる。
「君の罪ではない」
マーリンは顔を上げる。
ブライアンは、いつも通り正しい顔をしていた。
穏やかで、礼儀正しく、隙がない。
「イルクート候補生の死は、王国側の攻撃によるものです。君はその後、敵部隊を制圧し、味方を守った」
「制圧」
「ええ」
「壊した、ではなく?」
ブライアンはすぐには答えなかった。
それから、静かに言う。
「戦場では、同じ意味になることがあります」
正しい。
また、正しい。
マーリンは微笑む。
「そうですね」
その微笑みは、きれいに作れた。
きれいに作れてしまった。
ブライアンの目が、ほんのわずかに揺れる。
それが何の感情なのか、マーリンには読み取れない。
後悔か。
警戒か。
憐れみか。
それとも、次の手を考えている目なのか。
どれでもよかった。
どれであっても、ステラは帰らない。
ステラがいなくなってから、リュールの出撃回数は増えた。
シューティングスターの固定架は、しばらく空いたままだった。
白いリュールの隣。
黄色い機体がいるはずだった場所。
整備員たちは、そこを見ないようにしている。
マーリンも見ない。
見たら、そこにステラがいないことを確認してしまう。
確認できません。
あの言葉がまた戻ってくる。
「お嬢様」
クリスチーナが、耐Gスーツの留め具を整える。
「きつくはございませんか」
「ええ」
マーリンは答える。
「平気よ」
言ってから、少しだけ止まる。
大丈夫ではない。
平気でもない。
けれど、もう言い直す声がない。
『平気ではないでしょう』と眉をひそめるミハイルもいない。
『声が硬いです』と通信越しに気づくステラもいない。
クリスチーナは気づく。
気づいて、何も言えない顔をする。
それがつらい。
だから、マーリンは微笑む。
「行ってくるわ、クリス」
「お嬢様」
「戻るつもりで」
そこで言葉が止まる。
戻る。
帰る。
その言葉は、ステラのものだった。
帰ったら甘いもの。
帰ったら家族に話す。
帰ったら妹にお土産を持っていく。
帰る場所がある少女の言葉。
マーリンは口元だけで笑う。
「任務を果たします」
クリスチーナの手が、ほんの少し震えた。
「はい」
その返事は小さかった。
リュールは、以前より深く応えるようになった。
白い糸を伸ばす前から、待っている気配がある。
手にはめたインターフェースに指を通す。
胸の奥から、糸が伸びる。
リュールの魔力変換炉がそれを飲み込む。
《機体識別:Nep-001Pt Lueur》
《操縦者リンク確認》
《同期率上昇中》
表示はいつも通り。
けれど、同期の深さだけが違う。
ステラがいた頃は、白い糸の端を誰かが持ってくれていた気がする。
出力が上がりすぎれば止める。
急旋回しすぎれば叱る。
敵を追いすぎれば、任務は達成していますと言う。
今は、糸の端がない。
どこまでも伸びる。
どこまでも深く沈む。
『ロイス嬢、聞こえますか』
メッサーシュミットの声。
「聞こえています」
『任務は境界宙域の敵人形部隊排除。補給線への接近を許さないこと』
「承知いたしました」
『単機運用です。過剰な追撃は避けてください』
「承知いたしました」
言葉は正しい。
返事も正しい。
けれど、マーリンの中には別の声がある。
失わないため。
返すため。
奪われる前に壊す。
奪ったものへ返す。
それが正しいのかどうかは、もう分からない。
ただ、リュールは動く。
マーリンが望めば、白い人形は応える。
『リュール、発進許可』
「リュール、出ます」
白い光が、格納区画から黒い宇宙へ伸びた。
黄色い光は、続かない。
戦闘は短くなる。
以前は、ステラが敵機の逃げ道を残していた。
補給艦隊から離せればいい。
武装を落とせばいい。
推進器を裂けばいい。
コクピットは避けられる。
そういう戦いだった。
今は違う。
敵が近づく。
リュールが進む。
白いソードが届く。
それだけで終わる。
『敵一機、撃墜』
管制の声。
マーリンは次を見る。
『ロイス嬢、右方に敵二機。補給艦への進路を取っています』
「落とします」
『接近阻止で十分です』
「落とします」
言葉の温度がない。
自分の声なのに、自分の声ではないみたいだった。
リュールが加速する。
警告が走る。
《操縦者負荷警告》
胸が痛む。
喉が詰まる。
指先が冷える。
それでも、止めない。
敵二機が散開する。
一機は囮。
一機が本命。
ステラがいれば、先に言った。
『本命は下です』
マーリンには、もう分かっている。
見えている。
見えてしまう。
リュールは本命の前へ出る。
白いソードが振るわれる。
武装腕だけではない。
推進器だけでもない。
敵機の中心を断つ。
『敵二機目、撃墜』
囮だった機体が逃げる。
マーリンは追う。
『ロイス嬢、敵機は戦域離脱中です。追撃不要』
追撃不要。
それは、守るためなら正しい。
でも、逃がせばまた来る。
また誰かを狙う。
また誰かの帰る場所を奪う。
また「確認できません」という言葉が増える。
「不要ではありません」
リュールがさらに加速する。
敵機が振り返る。
遅い。
白い刃が届く。
『敵三機目、撃墜』
戦場が静かになる。
マーリンの息だけが、コクピットの中で浅く響く。
勝った。
守った。
落とした。
どれも本当で、どれも違う。
「……ステラ」
名前を呼ぶ。
通信は返らない。
切れた回線すら、もう表示されない。
シューティングスターの識別表示は、戦闘画面から消されていた。
きれいに。
最初から、そこに何もなかったみたいに。
作戦会議室では、数字が増えていく。
リュール単機による敵人形部隊排除。
補給線防衛成功。
敵機三機撃墜。
帝国側被害軽微。
別の任務では、敵機五機。
その次は、敵機二機と小型戦闘艦一隻。
さらに、王国側前線基地の防衛部隊を突破。
数字はきれいに並ぶ。
並ぶと、死ではなくなる。
戦果になる。
マーリンは、その変化を毎回見ていた。
敵機が落ちる。
通信が途切れる。
救難信号が薄れていく。
それが作戦会議室へ戻ると、敵機一、敵機二、敵艦一になる。
王国兵の顔はない。
名前もない。
帰る場所もない。
数字だけがある。
そして、それはステラも同じだった。
イルクート一等候補生、戦死。
その後ろに続くものは、資料にはない。
「ロイス嬢の戦闘能力は安定しています」
メッサーシュミットが言う。
「単機運用での負荷は高いものの、現状、リュールの戦術価値はむしろ増しています」
戦術価値。
また、価値。
マーリンは膝の上で手を重ねる。
その手は、まだ少し痺れている。
「むしろ、瞬間出力と撃破速度は上昇しています」
上昇。
便利な言葉。
壊れたものまで、性能として扱える。
ブライアンは静かにマーリンを見る。
「ロイス嬢」
「はい、ブライアン様」
「君は、少し休むべきです」
休む。
その言葉が、妙に遠かった。
休めば、何が戻るのだろう。
削れた魔力は戻るかもしれない。
震える指先も、いくらかは落ち着くかもしれない。
リュールの再調整も終わるだろう。
けれど、黄色い光は戻らない。
「必要なら」
マーリンは答える。
「休みます」
ブライアンの目が、ほんの少し細くなる。
「必要です」
即答だった。
その言い方が、少しだけステラに似ていた。
甘いものは必要です。
そう言って胸を張る顔が、ふいに浮かぶ。
マーリンは目を伏せる。
「……承知いたしました」
ステラなら、そこで何か言っただろう。
休むのも任務です、とか。
甘いものも必要です、とか。
マーリン様が帰ることも必要です、とか。
でも、ブライアンは言わない。
彼は正しい休息を語る。
戦闘負荷を下げ、魔力消耗を管理し、リュールの運用効率を保つための休息。
それも必要なのだろう。
本当に必要なのだろう。
けれど、マーリンが欲しいのは、それではなかった。
欲しかったのは、帰ったら甘いものを食べましょうという声だった。
帝国では、マーリンとリュールの名が称えられた。
白いリュール。
ロイス家の令嬢。
帝国の希望。
撃墜女王。
いつの間にか、王国側の呼び名まで、帝国の中で飾りに変わっている。
恐れられる名。
戦場を制する名。
敵に絶望を与える名。
人々はそう言った。
マーリンは、称えられるたびに少しずつ遠くなる。
自分が。
どこかへ。
手袋をはめた手を見る。
この手で、何機落としたのだろう。
何隻沈めたのだろう。
その中に、帰る場所がある人は何人いたのだろう。
母が菓子を用意している人。
父が心配している人。
兄が何も言わず待っている人。
妹が土産を欲しがっている人。
ステラと同じように。
そう考えると、吐き気がする。
けれど、次の瞬間には別の声が来る。
その人たちがまた誰かを奪うかもしれない。
ミハイルのように。
ステラのように。
だから、落とす。
失わないため。
返すため。
守るための言葉と、壊すための言葉が、同じ場所で混ざっていく。
マーリンには、もううまく分けられなかった。
王国側の通信でも、その名は定着していった。
『白い機体だ』
『撃墜女王が来た』
『近づくな。進路を塞がれる』
『違う、もう塞ぐだけじゃない。落とされる』
『黄色い随伴は?』
『いない』
『なら、もっと悪い』
雑音混じりの傍受音声。
マーリンはそれを聞かされる。
作戦会議室の中で、軍人たちは王国側の恐怖を分析する。
撃墜女王の出現による士気低下。
白いリュールへの過剰警戒。
前線機動の乱れ。
王国側護衛部隊の消極化。
恐怖は抑止力。
ブライアンが前に言った言葉。
その通りになっている。
マーリンが戦場へ出るだけで、敵は乱れる。
敵が乱れれば、帝国は勝ちやすくなる。
勝ちやすくなれば、称賛される。
称賛されれば、次も出る。
きれいな輪だ。
きれいで、息ができない輪。
「ロイス嬢」
メッサーシュミットが言う。
「敵側での呼称定着は、今後の作戦にも影響します。リュールの投入だけで、敵部隊の判断を鈍らせられる」
「それは、よいことなのですか」
「戦術的には」
戦術的には。
マーリンは頷く。
「承知いたしました」
それ以上は聞かない。
聞けば、また正しい答えが返ってくる。
正しい答えは、マーリンを救わない。
出撃が続く。
白いリュールは、戦場で目印になる。
王国機は距離を取る。
散開する。
逃げる。
マーリンはそれを追う。
以前なら残した退路を、今は潰す。
以前なら避けた中心線へ、今は刃を通す。
敵艦が火器を向ければ、砲塔だけでは止まらない。
艦ごと沈黙させる。
過剰。
誰かがそう思っているのかもしれない。
でも、誰も強く止めない。
結果が出ているから。
帝国側の損害が減っているから。
マーリンが壊せば、味方は守られるから。
『敵部隊、壊滅』
『敵艦、反応消失』
『リュール、帰投してください』
マーリンは帰投する。
毎回、帰る。
けれど、帰る場所にステラはいない。
格納区画に戻るたび、白いリュールの隣は空いている。
シューティングスターがいた場所。
マーリンは見ない。
見ないまま、ハッチを開く。
身体は重い。
魔力は削れている。
喉には鉄の味。
指先は冷たい。
クリスチーナが支える。
「お嬢様」
「ええ」
「お休みください」
「少しだけ」
少しだけ。
嘘ではない。
少しだけ休んで、また出るのだから。
マーリンは椅子に座る。
クリスチーナが手袋を外そうとする。
その時、手の震えが見えた。
マーリンの手。
敵を落とす時には震えない。
白いソードを振るう時も震えない。
帰ってきて、ティーカップを持つ時に震える。
それを誰も数字にしない。
魔力消耗。
操縦者負荷。
同期率。
撃墜数。
震えの意味は、どこにも載らない。
「クリス」
「はい、お嬢様」
「私、まだ人に見える?」
クリスチーナの手が止まる。
マーリンは笑おうとした。
軽い冗談のように。
けれど、うまくいかない。
「お嬢様は、お嬢様でございます」
クリスチーナはそう言った。
少しだけ声が震えていた。
マーリンは目を伏せる。
「そう」
それは救いだった。
でも、足りなかった。
ミーシャ。
ステラ。
二人の声がない場所で、自分が何に見えるのか分からない。
人なのか。
人形使いなのか。
帝国の希望なのか。
撃墜女王なのか。
どれも自分につけられた名前で、自分が選んだものではない。
クリスチーナが茶を用意する。
温かい湯気が立つ。
マーリンはティーカップに手を伸ばした。
指が震える。
小さな音が鳴る。
かつてなら、ステラが気づいた。
『マーリン様、指先が震えています』
そう言って、言いすぎたと慌てたかもしれない。
そして、甘いものを差し出しただろう。
任務後ですので。
必要ですので。
マーリンはティーカップを置く。
「甘いものは」
言いかけて、止まる。
クリスチーナが静かに見る。
「お持ちいたしましょうか」
マーリンは首を振る。
食べたいのではない。
食べられないのでもない。
ただ、その言葉を出した瞬間、ステラがいないことだけが大きくなった。
「いいわ」
「承知いたしました」
クリスチーナはそれ以上聞かない。
それがありがたい。
ありがたくて、痛い。
帝国の称賛は、さらに整っていく。
ロイス家の令嬢がリュールを駆り、王国側人形部隊を撃破。
撃墜女王の名は、敵味方双方に浸透。
リュールの戦略的価値は増大。
NewEra Projectの有効性を示す一例。
NewEra。
その名が出るたび、マーリンは少しだけ息苦しくなる。
リュールは人形だ。
でも、ただの人形ではない。
帝国が夢見る新しい時代。
人間の間違いを、AIと統御で正そうとする計画。
その中に、マーリンの魔力と喪失が組み込まれていく。
ミハイルの死。
ステラの死。
マーリンの怒り。
リュールの性能。
すべてが、帝国にとって意味を持つ。
意味を持ってしまう。
ブライアンは、作戦会議室で静かに言う。
「ロイス嬢。君は今、帝国に必要な存在です」
必要。
その言葉は、もう重い。
甘いものに使った「必要」とは違う。
ステラが笑いながら言った必要とは、まったく違う。
「必要なら、戦います」
マーリンは答える。
その言葉を、誰も止めない。
誰も。
ステラがいれば、何か言ったかもしれない。
甘いものも必要です、と。
休むことも必要です、と。
マーリン様が帰ることも必要です、と。
でも、ステラはいない。
だから、マーリンは戦う。
失わないために。
奪われたものを返すために。
そして、そのたびに罪悪感を積み上げていく。
誰にも見えない場所に。
自分でも、ときどき見失うほど深い場所に。
帝都への帰還命令が出たのは、その少し後だった。
休息。
再整備。
政治的調整。
軍はそう説明した。
言葉はやはり整っていた。
リュールの損耗確認。
操縦者の魔力検査。
ロイス家およびカーチスライト家との協議。
NewEra関連部署への報告。
その中に、ステラの名はない。
もう、過去の損耗一覧に入っている。
マーリンは移送艦の窓から、格納区画を見る。
白いリュールが固定されている。
隣には、何もない。
黄色い機体がいた場所は、整備用の機材置き場に変わっていた。
便利だ。
空いた場所は、すぐ別の用途を与えられる。
人も、きっとそうなのだろう。
ステラのいた場所。
ミハイルのいた場所。
空いたところへ、役割が入る。
撃墜女王。
婚約者。
帝国の象徴。
NewEraの成果。
名前が増えるほど、マーリン自身は薄くなる。
「お嬢様」
クリスチーナが一歩後ろから声をかける。
「ご気分は」
「少し、平気ではないけれど」
マーリンは言い直す。
「歩けるわ」
クリスチーナの目が、わずかに和らぐ。
平気ではない。
それを言えたことだけが、ほんの小さな抵抗のようだった。
移送艦が帝都へ向かう。
戦場から離れていくはずなのに、マーリンの耳にはまだ警告音が残っている。
赤い表示。
白いソード。
敵機の反応消失。
撃墜数。
そして、聞こえない声。
『マーリン様』
ステラの声は、もう通信には入らない。
シューティングスターの黄色い光も、リュールの隣にはない。
艦内の窓から帝都星の光が見えた時、周囲の士官たちは少しだけ安堵した顔をした。
帰還。
勝利した者が戻る場所。
そういう空気だった。
マーリンは窓の外を見る。
帝都星は美しい。
整えられた光。
規則正しい航行灯。
巨大な軌道施設。
帝国の中心。
そこには、戦場の破片も、王国機の残骸も、ステラの声もない。
だから、余計に苦しい。
「ロイス嬢」
向かいに座っていたブライアンが声をかける。
「気分が優れませんか」
マーリンは顔を上げる。
ブライアンはいつも通りだった。
整った制服。
静かな目。
正しい姿勢。
戦場を見てきたはずなのに、彼は乱れない。
乱れないようにしているのかもしれない。
その違いは、今のマーリンには分からなかった。
「少し、揺れが気になっただけです」
「医師の診察を受けた方がいい」
「大げさですわ、ブライアン様」
微笑む。
作れてしまう。
ブライアンは少しだけ眉を動かした。
「大げさではありません。君は出撃を重ねている。魔力消耗も、機動負荷も、通常の操縦者とは比較にならない」
正しい。
だから、逃げ場がない。
「承知いたしました。必要なら、診察を受けます」
「必要です」
即答だった。
マーリンは少しだけ目を伏せる。
必要。
その言葉は、もうどこまでも追ってくる。
必要なら。
戦う。
診察を受ける。
休む。
式典に出る。
微笑む。
そして、きっと。
結婚もする。
まだ告げられていないはずの何かが、帝都の光の向こうにある気がした。
ロイス家。
カーチスライト家。
軍。
NewEra。
すべてがマーリンの周りで、静かに輪を作り始めている。
撃墜数は増えた。
撃沈数も増えた。
帝国は、マーリンとリュールを称えた。
王国は、白いリュールを恐れた。
撃墜女王。
その名は、もう戦場の噂ではなくなっていた。
けれど、その名の奥にいる少女の罪悪感を、誰も見ない。
マーリン自身でさえ、戦い続けなければ見ずに済む。
だから出撃する。
だから落とす。
だから壊す。
失わないために。
返すために。
そうして積み上がった戦果を抱えたまま、マーリンは帝都へ戻る。
待っているのは休息ではない。
ロイス家。
カーチスライト家。
軍。
政治。
そして、マーリンとブライアンの婚約通知。
恋ではない。
それは、撃墜女王と帝国の未来を結びつけるための、静かな鎖だった。
移送艦の窓に、マーリンの顔が映る。
白い髪。
整った表情。
疲れた目。
その奥で、聞こえない声がまだ残っている。
マーリン様。
マーリンは、窓に映る自分を見つめた。
「ステラ」
声には出さない。
出せば、また返事を待ってしまう。
だから、胸の中だけで呼んだ。
返事はない。
帝都の光が近づいてくる。
美しく、規則正しく、冷たい光。
マーリンはその光の中へ戻っていく。
どこにも帰っていないまま。
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