撃墜女王
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ステラの声が消えた。
それだけで、宇宙は広すぎた。
黒い。
冷たい。
遠い。
さっきまで、そこには黄色い光があった。
シューティングスターの光。
マーリンの横と後ろを見てくれる光。
「マーリン様」と呼ぶ声。
今はない。
モニターの端には、切れた通信回線だけが残っている。
『シューティングスター、応答ありません』
『イルクート一等候補生の生体反応、確認できません』
確認できません。
その言葉は、ひどく丁寧だった。
丁寧で、冷たくて、何も救わない。
マーリンはリュールの操縦席で、白いソードを握る。
リュールの指も、同じように握る。
強く。
強く。
強く。
「ステラ」
返事はない。
「ステラ」
返事はない。
帰ったら甘いもの。
そう言った。
母の焼き菓子。
父の渋い顔。
兄の照れ隠し。
妹のお土産。
帰る場所があると言った。
マーリンは、帰してあげるはずだった。
あの優しい家族のもとへ。
甘いものが置かれている場所へ。
お土産を待つ妹のところへ。
それなのに、届かなかった。
また。
また、守れなかった。
『ロイス嬢、聞こえていますか』
通信にブライアンの声が混じる。
『帰投してください。リュール単機での交戦継続は危険です』
危険。
危険なら、ステラが言った。
『出力、上げすぎです』
『急旋回しないでください』
『コクピットは避けられます』
『後ろは見ます』
あの声はもうない。
なら、誰が止めるのだろう。
誰が、マーリンを人間の側へ引き戻すのだろう。
『ロイス嬢』
「聞こえています」
マーリンの声は、静かだった。
静かすぎた。
自分の声ではないみたいだった。
『帰投を』
「敵は残っています」
『補給艦隊の退避は完了しています。任務は終了しています』
任務。
終了。
その言葉が、ひどく遠い。
任務は終わった。
補給艦隊は逃げた。
護衛機も離脱した。
なら、ステラはどうして帰れないのか。
任務が終わったなら。
守れたはずなら。
どうして。
「まだ、終わっていません」
マーリンは言う。
白い糸が、リュールの奥へ深く沈む。
《同期率上昇中》
赤い警告が走る。
《過負荷警告》
警告音が鳴る。
うるさい。
とても、うるさい。
ステラの声は聞こえないのに、警告音だけは鳴る。
『ロイス嬢、魔力出力が危険域です。出力を下げてください』
メッサーシュミットの声。
「下げません」
『ロイス嬢』
「下げません」
二度目の声は、ほとんど感情がなかった。
だから余計に、止められない。
リュールの魔力スラスターが白く燃える。
白い。
あまりにも白い。
黒い宇宙の中で、その光だけが鋭く伸びる。
王国側の残存機は、距離を取っていた。
白いリュールが止まった一瞬を、好機だと思ったのだろう。
だが、次の瞬間、彼らは理解する。
止まっていたのではない。
沈んでいただけだ。
怒りの底へ。
リュールが消える。
いや、消えたように見えた。
急加速。
マーリンの身体に負荷がかかる。
胸が潰れる。
骨が軋む。
視界の端が白く焼ける。
それでも、止めない。
ステラなら止めた。
だから、止まらない。
一機目。
王国機が防御姿勢を取る前に、リュールのソードが届く。
武装腕だけではない。
推進器だけでもない。
機体の中心線を、白い刃が通る。
警告表示。
敵機反応、消失。
管制の声が遠く響く。
『敵一機、撃墜』
撃墜。
その言葉が、もう胸に刺さらない。
刺さらないのではない。
刺さる場所が、壊れている。
二機目が逃げる。
マーリンは追う。
シューティングスターなら、退避線を残した。
ステラなら、逃げ道を見た。
コクピットを避ける角度を探した。
今のマーリンは、逃げ道を塞ぐ。
白いリュールが敵機の前へ出る。
敵機が反転しようとする。
遅い。
ソードが振るわれる。
敵機の魔力スラスターが乱れ、機体が割れる。
『敵二機目、撃墜』
三機目。
遠方へ離脱しようとしている。
狙撃機。
ステラを貫いた光の元。
マーリンの視界に、赤い照準表示が重なる。
リュールは本来、近接戦闘機だ。
ソードで戦う人形。
だが、今のリュールは距離を理由に止まらない。
魔力が白い糸となってソードへ流れる。
刃が光を帯びる。
薄くではない。
深く。
濃く。
過剰に。
「あなたが」
マーリンは呟く。
声は誰にも届かない。
「ステラを」
リュールが白い軌跡を引いて突っ込む。
狙撃機が撃つ。
光が走る。
マーリンは避けない。
リュールの左肩を光が削る。
警告。
装甲損傷。
魔力流路異常。
構わない。
届けばいい。
今度こそ。
今度こそ、届けばいい。
白いソードが狙撃機を斬る。
一度では止まらない。
二度。
三度。
機体の反応が消えても、マーリンの手は止まらない。
『ロイス嬢、敵機は沈黙しています!』
ブライアンの声が鋭くなる。
『ロイス嬢、停止を!』
停止。
誰が。
誰が止めるの。
「ステラが」
マーリンの唇が動く。
「止めてくれないもの」
通信の向こうが、一瞬沈黙した。
敵艦が見えた。
王国側の小型戦闘艦。
狙撃機の後方にいた支援艦。
長距離照準を中継していた艦。
艦はすでに反転を始めている。
逃げるつもりだ。
マーリンはそれを見る。
艦には人がいる。
知っている。
通信員。
整備員。
操舵手。
負傷者がいるかもしれない。
知っている。
知っているのに。
ステラのシューティングスターが貫かれた光が、頭の中から消えない。
帰ったら、と言いかけた声が消えない。
マーリン様。
その呼び方が、消えない。
『ロイス嬢、敵艦は戦域離脱中です。追撃は不要です』
メッサーシュミットの声。
正しい。
追う必要はない。
任務は終わっている。
補給艦隊は逃げた。
守るためなら、ここで止まるべきだった。
ステラがいれば、きっと言った。
『追い詰めすぎないでください』
『任務は達成しています』
『帰りましょう、マーリン様』
けれど、言わない。
ステラはもう言わない。
だから、リュールは前へ出た。
白いスラスターが爆発するように燃える。
マーリンの魔力が、リュールの全身を満たす。
警告音が重なる。
《過負荷警告》
《魔力消費、危険域》
《操縦者負荷、危険域》
読める。
読めるけれど、意味がない。
敵艦の砲塔がこちらへ向く。
遅い。
リュールは砲火の間を抜ける。
直線的に。
乱暴に。
ステラがいた頃のような綺麗な進路ではない。
敵を離すための線ではない。
敵へ届くためだけの線。
白いソードが、敵艦の砲塔を切り裂く。
一つ。
二つ。
三つ。
外装が割れる。
火花が散る。
艦の姿勢が崩れる。
まだ止まらない。
リュールは艦腹へ回り込む。
魔力を帯びた刃が、装甲を裂く。
深く。
深く。
艦内の反応炉区画へ届くほどに。
赤い警告が敵艦側にも走る。
艦が退避信号を出す。
マーリンは見ている。
見ているのに、止まらない。
「ステラは」
声が漏れる。
「帰りたかったの」
白い刃が振り下ろされる。
敵艦の中心が光る。
次の瞬間、艦体が内側から裂けた。
黒い宇宙に、白と赤の光が広がる。
音はない。
ただ、敵艦の反応が消えていく。
一つずつ。
まとめて。
完全に。
『敵艦、反応消失』
誰かが呆然と告げた。
『敵艦、撃沈』
撃沈。
撃墜。
撃破。
戦果。
言葉が増える。
ステラの声は、増えない。
戦場は静かになった。
あれほど赤かった警告表示も、少しずつ落ち着いていく。
敵影はない。
残っているのは、白いリュールだけ。
損傷した左肩。
過剰出力で焼けた関節部。
魔力を流しすぎて白く輝くソード。
そして、操縦席のマーリン。
息が浅い。
指先が痺れている。
喉の奥に鉄のような味がする。
それでも、涙は出ない。
泣く場所が分からない。
泣く順番も分からない。
ミハイルの時も、うまく泣けなかった。
帝国が悲しみを案件に変えた。
怒りに変えた。
役割に変えた。
今度は、ステラの死が戦果に変わるのだろう。
イルクート一等候補生、戦死。
リュール、敵部隊殲滅。
敵艦撃沈。
王国側部隊に甚大な損害。
きっとそうなる。
そういう言葉になる。
マーリンはモニターを見る。
シューティングスターの通信回線は、まだ切れたままだ。
「ステラ」
呼ぶ。
返事はない。
「ステラ」
もう一度。
返事はない。
「……甘いもの」
声が崩れた。
「帰ったら、甘いものって」
リュールの手が、ゆっくり開く。
白い指は何も掴んでいない。
敵機は落とした。
敵艦も壊した。
戦場は静かになった。
でも、ステラは戻らない。
何一つ、取り返せていない。
『ロイス嬢』
ブライアンの声が、遠くから届く。
『帰投してください』
今度は、命令ではなく、少しだけ低い声だった。
マーリンは答えない。
『ロイス嬢』
「……帰る場所なんて」
声が漏れる。
誰に向けた言葉でもない。
「どこにあるの」
ミハイルはいない。
ステラはいない。
ロイス家には父がいる。
役割がある。
帝国がある。
帰る場所。
ステラにはあった。
そこへ帰してあげるはずだった。
マーリンは、それも守れなかった。
「リュール」
白い人形は静かに応える。
「帰りましょう」
その言葉は、空っぽだった。
けれどリュールは動く。
白い機体が、ゆっくりと帝国側の帰投線へ向かう。
その背後には、破壊された敵機と、消えた敵艦の残光だけが残った。
格納区画に戻ると、誰もすぐには声をかけなかった。
リュールの損傷が大きかったからではない。
マーリンの顔を見たからだ。
ハッチが開く。
マーリンは立ち上がろうとする。
身体が動かない。
魔力を使いすぎた。
急加速をしすぎた。
過剰な機動を重ねすぎた。
リュールを深く動かしすぎた。
ステラがいれば、止めた。
その事実だけが、繰り返し胸を刺す。
クリスチーナが駆け寄る。
「お嬢様」
マーリンは顔を上げる。
クリスチーナの顔が歪む。
「お嬢様」
もう一度。
マーリンは口を開く。
「クリス」
声がかすれていた。
「はい」
「ステラを」
そこまで言って、止まる。
連れて帰って。
そう言いたかった。
でも、何を。
どこへ。
誰のもとへ。
マーリンは何も言えなくなる。
クリスチーナが膝をつき、マーリンの手に触れる。
その手は冷たかった。
「お嬢様」
マーリンは、笑おうとした。
いつものように。
フルール・デスポワールとして。
ロイス家の令嬢として。
でも、顔が動かない。
「私」
声が震える。
「守れなかったわ」
クリスチーナは何も言わない。
言えないのだろう。
マーリンは続ける。
「また、守れなかった」
ミハイル。
ステラ。
名前で呼んでくれた人。
人として見てくれた人。
マーリンを、役割ではなく、マーリンとして呼んでくれた人たち。
みんな、いなくなる。
マーリンは俯く。
涙は出ない。
泣けた方が、まだよかったのかもしれない。
でも、涙より先に、戦果が来る。
格納区画の向こうで、誰かが言っている。
敵機三機撃墜。
敵艦一隻撃沈。
リュール単機による敵部隊殲滅。
すごい。
圧倒的だ。
まさに撃墜女王だ。
その言葉が、遠くで生まれる。
マーリンは目を閉じる。
違う。
違うのに。
否定する力がない。
帝国は、マーリンの喪失と才能に名前をつける。
撃墜女王。
それは、マーリンの本質ではない。
けれどこの日、その名前は確かに完成してしまった。
ステラのいない戦場で。
守るための白い手が、怒りで敵を壊し尽くした日に。
報告は、作戦会議室で行われた。
白い壁。
白い卓。
白い照明。
何もかも整っている。
その整った場所で、ステラの死も、敵艦の撃沈も、同じ資料の上に並んでいた。
「イルクート一等候補生、戦死」
メッサーシュミットの声は硬かった。
硬く、正しく、軍人の声だった。
「シューティングスター、喪失。敵長距離狙撃機による直撃と推定」
マーリンは椅子に座っている。
座っていなければ、倒れていただろう。
身体はまだ重い。
指先は感覚が薄い。
それでも、耳だけは嫌になるほど拾ってしまう。
イルクート一等候補生。
戦死。
シューティングスター。
喪失。
言葉が整っていく。
ステラという少女が、軍の言葉へ変えられていく。
甘いものが好きだったことは、資料に出ない。
階段で少し走ることも。
父の焼き色の濃い菓子も。
母の焼き菓子も。
兄の照れ隠しも。
妹のお土産も。
何も。
「同戦闘において、リュールは敵人形三機を撃墜。敵小型戦闘艦一隻を撃沈。敵部隊は壊滅しました」
撃墜。
撃沈。
壊滅。
マーリンは膝の上で手を握る。
まだ白いソードの感触がある。
機体の中心を裂いた感触。
逃げる敵艦へ届いた感触。
あれは、本当に自分の手だったのだろうか。
リュールの手だったのだろうか。
それとも、どちらも同じだったのだろうか。
ブライアンが静かに言う。
「ロイス嬢」
マーリンは顔を上げる。
「今回の戦果は、王国側へ大きな衝撃を与えるでしょう」
戦果。
やはり、そう呼ぶ。
「イルクート候補生を失ったことは、痛ましい」
痛ましい。
その言葉は正しい。
けれど、浅い。
「ですが、君は補給艦隊を守り、敵部隊を排除した」
排除。
また言葉が増える。
マーリンは唇を開いた。
「ステラは」
声が掠れる。
「帰りたいと言っていました」
ブライアンは黙る。
メッサーシュミットも、資料を見る手を止める。
「父のところへ。母のところへ。兄のところへ。妹のところへ」
マーリンの声は大きくない。
けれど、白い部屋にはよく響いた。
「帰ったら甘いものを食べると、言っていました」
誰も答えない。
答えられる言葉など、ないのだろう。
それなら、黙っていてほしかった。
なのに、部屋のどこかで書類がめくられる音がする。
戦争は、待たない。
死んだ人の話をしている間にも、次の数字を欲しがる。
マーリンはゆっくり立ち上がろうとした。
身体が揺れる。
クリスチーナが支える。
「お嬢様」
「少し、休むわ」
大丈夫とは言わなかった。
言えなかった。
それだけは、まだ残っている。
ステラが見ていたもの。
ミハイルが嫌ったもの。
クリスチーナが心配していたもの。
大丈夫と笑うことだけは、もうできなかった。
作戦会議室を出る直前、ブライアンの声が背中に届く。
「ロイス嬢」
マーリンは足を止める。
振り返らない。
「撃墜女王という呼び名は、今後さらに広がるでしょう」
そうだろう。
広がるだろう。
王国側は恐れ、帝国側は利用する。
マーリンの喪失も、怒りも、壊した感触も。
すべて、戦場の名前にされる。
「その名は、君を守る盾にもなる」
ブライアンは続ける。
「恐怖は抑止力になります」
正しい。
きっと正しい。
けれど、マーリンは小さく首を振った。
「その盾は」
声が低く落ちる。
「ステラを守ってくれませんでした」
ブライアンは答えなかった。
マーリンは歩き出す。
クリスチーナの手に支えられながら。
白い廊下を、ゆっくり進む。
どこへ向かっているのか、よく分からない。
休憩室か。
医務室か。
自室か。
どこでも同じだった。
そこにステラはいない。
『マーリン様』
もう、聞こえない。
甘いものの包みが、まだどこかに残っているはずだった。
帰ったら食べるはずだったもの。
守れなかった約束。
マーリンは足を止める。
「クリス」
「はい、お嬢様」
「甘いものを」
言いかけて、喉が詰まる。
食べたいわけではない。
見たいわけでもない。
けれど、なかったことにはしたくなかった。
「ステラの包みを、捨てないで」
クリスチーナの手が、ほんの少し強くなる。
「承知いたしました」
その返事は静かだった。
けれど、少し震えていた。
マーリンは頷く。
歩き出す。
背後の作戦会議室では、まだ誰かが数字を整理している。
敵部隊は壊滅した。
敵機は落ち、敵艦は沈んだ。
リュールは圧倒的だった。
マーリンも、圧倒的だった。
だから帝国は称える。
ロイス嬢は戦場を制した。
敵部隊を殲滅した。
撃墜女王の名にふさわしい戦果を上げた。
けれど、マーリンの中に残ったのは勝利ではない。
ステラを帰せなかったこと。
甘いものの約束を守れなかったこと。
名前で呼んでくれる人を、また失ったこと。
そして、自分の手で多くを壊した感触。
死は数字になり、罪悪感は誰にも見えない。
見えないものは、なかったことにされる。
マーリンはそれを、もう知っている。
ミハイルの死もそうだった。
個人の悲しみは、帝国の正しさに編み込まれた。
ステラの死も、きっとそうなる。
若き一等候補生の名誉ある戦死。
リュールの戦果。
撃墜女王の誕生。
綺麗な言葉が並ぶほど、胸の奥は冷えていく。
廊下の窓の向こうに、格納区画の明かりが見えた。
白いリュールが整備用フレームに固定されている。
その隣に、黄色いシューティングスターはいない。
ただ、空いた場所だけがある。
そこに何もないことが、何よりもはっきりしていた。
マーリンは立ち尽くす。
クリスチーナは何も言わない。
「クリス」
「はい」
「私、もう」
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。
もう戦いたくない。
もう失いたくない。
もう戻れない。
もう、マーリンではいられない。
どれも本当で、どれも言葉にならない。
マーリンは口を閉じる。
窓の向こうで、リュールの白い装甲が光を返す。
あの子はまだ動ける。
マーリンが糸を伸ばせば、また応える。
深く。
強く。
痛いほど。
そして帝国は、それを必要とする。
王国は、それを恐れる。
戦場は、それに名前をつける。
撃墜女王。
マーリンは、その呼び名を好きになれない。
受け入れたくもない。
けれど、否定しても、消えない。
ステラのいない戦場で、マーリンは確かにそう戦ってしまった。
守るためではなく。
戻る場所を作るためでもなく。
ただ、届かなかった手の痛みを、敵へ叩きつけるように。
白いリュールは、その痛みに応えた。
応えてしまった。
マーリンは窓に映る自分を見る。
白い髪。
青白い顔。
動かない表情。
そこにいるのは、希望の花ではなかった。
甘いものを食べて少し笑う少女でもなかった。
誰かが恐れる名前を背負わされた、空っぽの人形使いだった。
「ステラ」
廊下の静けさに、声が落ちる。
返事はない。
それでも、マーリンは呼んだ。
もう一度。
「ステラ」
返事はない。
あるのは、白いリュールと、空いた隣の場所だけ。
マーリンは窓から目を逸らす。
歩き出す。
帝国は称賛を用意している。
軍は次の出撃を組む。
王国は白い機体を恐れる。
そのすべてが、マーリンの知らない場所で動き始めている。
撃墜女王という名は、もう戦場を歩き始めた。
マーリンの足音より先に。
マーリン自身よりも、ずっと早く。
そしてその名の下に、これからまた多くの数字が積まれていく。
撃墜数。
撃沈数。
戦果。
けれど、どれだけ数字が増えても。
黄色い光は戻らない。
甘いものの約束も戻らない。
マーリン様、と呼ぶ声も戻らない。
マーリンは、クリスチーナの手に支えられながら、白い廊下を進む。
帰る場所へ向かっているはずなのに。
どこへも帰っていない気がした。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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