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届かない手

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

その任務も、最初は守るためのものだった。


境界宙域の端。


帝国の補給艦隊が、王国側の人形部隊に追われている。


艦隊には、戦闘要員だけが乗っているわけではない。


整備班。


通信員。


負傷者を後送する医療区画。


補給物資を管理する者。


艦内を走って、破損区画を塞ぐ者。


誰かの帰還を待っている者。


守る理由は、十分すぎるほどあった。


作戦会議室で、メッサーシュミットは短く告げる。


「リュールとシューティングスターを投入します」


白い作戦会議室には、いつもどおり余白がない。


卓上には宙域図。


補給艦隊の進路。


護衛機の位置。


王国側人形部隊の推定進路。


赤と青の線が、整った顔で重なっている。


そこには、誰の恐怖も描かれていない。


誰が怪我をしているのかも。


誰が家に帰りたいのかも。


ただ、護衛対象と敵影と、残り時間だけがある。


マーリンは頷いた。


「承知いたしました」


隣でステラも頷く。


「承知いたしました」


声は少し硬い。


けれど、前ほど震えてはいなかった。


怖くなくなったわけではない。


マーリンには分かる。


ステラは、怖いまま前に出る。


甘いものの話をして、家族の話をして、帰る場所があると言って。


それでも、戦場に出る。


だからこそ、強い。


恐れないからではない。


逃げないから、強い。


ステラは膝の上で指を小さく握っていた。


訓練中も、出撃前も、彼女は時々そうする。


緊張を整えるように。


震えそうになる手を、ちゃんと自分の手だと思い出すように。


マーリンはその指先を見て、胸の奥が少し痛くなる。


この子を帰さなければならない。


父のもとへ。


母のもとへ。


兄のもとへ。


妹のもとへ。


焼き菓子が置かれている、騒がしくて温かい場所へ。


「マーリン様」


ステラが小さく声をかける。


「何かしら」


「今回も、後ろを見ます」


「ええ」


「横も」


「お願い」


「はい」


ステラは少しだけ笑う。


「帰ったら、甘いものです」


「それは任務内容に含まれるの?」


「はい。私の中では」


マーリンはほんの少し笑う。


「では、重要任務ね」


「重要です」


ステラは真面目に頷いた。


その軽いやり取りが、胸に残る。


小さな約束。


帰ったら甘いもの。


戻ると断言するより、少しだけ息がしやすい約束。


マーリンはそれを受け取る。


今度も守れる。


そう思いたかった。


そう思わなければ、リュールには乗れなかった。



格納区画では、白いリュールと黄色いシューティングスターが並んでいた。


二機一組。


何度も聞いた言葉。


最初は不思議だった。


今は、その言葉の重さを知っている。


一人では全部見られない。


前だけを見ていれば、横が欠ける。


横を見ていれば、後ろが空く。


全部を一人で見ようとすれば、いずれ何かを見落とす。


だから、二人で見る。


マーリンが前を見る。


ステラが横と後ろを見る。


そうすれば、守れる。


少なくとも、そう信じていた。


クリスチーナがマーリンの耐Gスーツを整える。


胸元。


肩。


腕。


手袋の縁。


いつもどおり丁寧で、いつもより少しだけ遅い。


止めたいのだろう。


けれど、止めない。


止められない。


「お嬢様」


「ええ」


「お戻りくださいませ」


その言葉は、もう何度も聞いた。


それでも、毎回少し痛い。


戻る。


約束するには重すぎる。


黙るには残酷すぎる。


マーリンはほんの少し考えた。


「戻るつもりで行くわ」


それが、今も言えるぎりぎりだった。


クリスチーナは頭を下げる。


「はい」


少し離れた場所で、ステラも耐Gスーツの確認を受けていた。


白い顔。


引き結ばれた口元。


けれど、目は逃げていない。


大きな空色の瞳は、リュールではなく、マーリンを見ていた。


マーリンが視線を向けると、ステラは敬礼しかけて、途中で少し迷い、結局小さく手を振った。


正式な場ではない。


けれど、格納区画で手を振るのも違う。


それが本人にも分かっている顔だった。


マーリンは小さく笑う。


「ステラ」


「はい、マーリン様」


「走らずに乗って」


「はい。階段もありませんので」


「そういう問題かしら」


「たぶん違います」


「よろしい」


ステラは少しだけ頬を緩めた。


このやり取りも、もう何度目だろう。


戦場へ行く前に、甘いものや階段の話をする。


怖さが消えるわけではない。


けれど、怖さだけにならずに済む。


ステラは、そういう余白を持ってきてくれる。


マーリンはリュールを見上げる。


白い人形は、静かに待っている。


眠っているようで、眠っていない。


マーリンの魔力が伸びるのを待っている。


「行きましょう」


「はい、マーリン様」


リュールのコクピットに入ると、球状の空間が閉じた。


全周囲モニターが起動する。


手にはめたインターフェースに、冷たい感覚が走る。


マーリンは指を開いた。


白い糸が伸びる。


リュールは、すぐに応えた。


《機体識別:Nep-001Pt Lueur》


《操縦者リンク確認》


《同期率上昇中》


表示が流れる。


いつもより早い。


いつもより深い。


リュールは、戦場を覚えている。


マーリンの身体も覚えている。


急加速の圧。


白いソードの重さ。


敵機が落ちる瞬間の、嫌な軽さ。


あの軽さだけは、何度繰り返しても慣れたくなかった。


でも、身体は覚えていく。


指は迷わず糸を引く。


視界は敵の進路を探す。


恐怖より先に、リュールが応える。


そのことが怖い。


『マーリン様、聞こえますか』


ステラの声が入る。


「聞こえています、ステラ」


『こちら、シューティングスター。出力安定。索敵範囲、開きます』


声は落ち着いている。


いつものステラ。


甘いものの前では少し騒がしい少女。


家族の話をすると声が丸くなる少女。


けれど戦場では、必要な言葉だけを置く、マーリンのバディ。


『緊張は?』


マーリンが尋ねると、通信の向こうでステラが少し息を詰めた。


『しています』


「正直ね」


『嘘をつくと声が上ずりますので』


「ええ。知っているわ」


『では、正直に緊張します』


「それは宣言するものなの?」


『はい。確認は大切です』


マーリンは少しだけ笑った。


黒い宇宙へ出る前に。


白い糸が深く沈みすぎる前に。


ステラの声がある。


それだけで、まだ人間の側にいられる気がした。


管制の声が入る。


『リュール、シューティングスター、発進許可。補給艦隊の退避完了まで敵機を接近させるな』


『リュール、出ます』


『シューティングスター、続きます』


白と黄色の光が、黒い宇宙へ伸びた。



戦闘は激しかった。


王国側の人形は四機。


二機が補給艦隊へ回り込み、一機が護衛機を引きつけ、残る一機が遠くから射線を作る。


正面から来ない。


撃墜女王と呼ばれ始めた白い機体を、王国側はもう正面から相手にしない。


それが分かる。


距離を取り、散らし、逃げ道を潰す。


マーリンを恐れている。


けれど、その恐れは味方を守る盾にはならない。


王国機の一機が、補給艦の側面へ回り込む。


『マーリン様、右下が本命です。護衛機では間に合いません』


「進路は」


『私が塞ぎます。マーリン様は上から。武装腕だけを落とせます』


「分かったわ」


シューティングスターが黄色い光を引いて先へ出る。


ステラの動きは、前より鋭い。


無理をしていない。


けれど、迷いが少ない。


怖いまま前に出る人の動きだった。


マーリンはリュールを上へ走らせる。


急加速。


胸が潰れる。


歯を食いしばる。


『出力、少し高いです』


「ええ」


『下げられますか』


「少しだけ」


『十分です』


ステラの声が、マーリンを引き戻す。


リュールがほんの少し速度を落とす。


そのわずかな余裕で、マーリンは敵機のコクピットを避ける角度を取れた。


白いソードが走る。


物理ソードの刃が、敵機の武装腕を切り離す。


火花が散る。


敵機は姿勢を崩し、補給艦への射線から外れる。


『敵機、武装喪失。補給艦への射線、消えました』


「次は」


『左。護衛機が追われています』


「ステラ、後ろは」


『見ています』


短い返事。


怖い時のステラは、言葉が短くなる。


マーリンはそれを知っている。


だから、胸が少しざわつく。


「無理をしないで」


『はい。マーリン様も』


言い返される。


マーリンは、少しだけ笑いそうになった。


こんな時に。


けれど、その声があるから前を見られる。


リュールは護衛機の前に出る。


シューティングスターは敵機の逃げ道を半分だけ塞ぐ。


完全には塞がない。


逃げ道を残す。


落とすためではなく、離すため。


ステラが作ったその線を、マーリンはなぞる。


敵機は補給艦隊から離れる。


さらに一機。


推進器を裂く。


脚部を止める。


武装腕を落とす。


殺さない場所を選ぶ。


守るための戦い。


ステラがいる間、マーリンはそこに留まれていた。


人間の側に。


ぎりぎりで。


『補給艦隊、退避線に入りました』


管制の声が入る。


『護衛機、離脱開始』


マーリンは息を吐く。


まだ終わりではない。


けれど、大きな山は越えた。


『マーリン様、敵残存二機。撤退傾向です』


ステラの声も少しだけ柔らかくなる。


「追わないわ」


『はい。任務は補給艦隊の退避支援です』


「ええ」


撃墜数を増やす必要はない。


敵をすべて落とす必要もない。


守れたなら、それでいい。


そう思えた。


その瞬間だった。


『長距離反応』


ステラの声が入る。


短い。


冷たい。


マーリンの背筋が凍る。


「どこ」


『遠方、補足しきれません。高エネルギー収束――』


警告が赤く走る。


だが、遅い。


マーリンの視界の端で、一本の光が宇宙を裂いた。


とても静かな光だった。


音もなく。


ためらいもなく。


黄色い魔力スラスターの光へ、まっすぐ届いた。


シューティングスターの胴体を貫いた。


『マーリン様、帰ったら――』


通信が途切れた。


黄色い光が、消えた。


マーリンは、手を伸ばした。


リュールの白い腕も伸びる。


けれど、そこにあるはずのコクピットブロックは、もうなかった。


一瞬、何も分からなかった。


宇宙は黒い。


警告は赤い。


リュールのモニターには、切れた通信回線が表示されている。


それだけ。


それだけなのに、世界の形が変わっている。


「ステラ」


声が出た。


返事はない。


「ステラ」


もう一度呼ぶ。


通信は沈黙したまま。


『シューティングスター、応答ありません』


管制の声が遠い。


『機体反応消失。イルクート一等候補生の生体反応、確認できません』


確認できません。


その言葉は、あまりにも整っていた。


嘘みたいに整っていた。


マーリンはモニターを見つめる。


さっきまで、そこにいた。


『後ろは見ます』と言った。


『甘いものです』と言った。


『マーリン様』と呼んだ。


帰ったら、と言いかけた。


それだけだった。


その続きを言う時間さえ、なかった。


ステラは、自分が死んだことにも気づかなかったのではないか。


帰ったら。


その言葉の続きを、まだどこかで言おうとしているのではないか。


「ステラ」


リュールの手が、届かない宙域を掴む。


何も掴めない。


白い指は、黒い宇宙を握るだけだった。


あれほど近かった黄色い光が、どこにもない。


横を見てくれる人がいない。


後ろを見てくれる人がいない。


マーリン様、と呼ぶ声がない。


マーリンの胸の奥で、何かが軋む。


ミーシャ。


その名前が、不意に重なる。


和平に向かった人。


戻らなかった人。


マーリンと呼んでくれた人。


そして今。


マーリン様と呼んでくれた少女。


また。


また、守れなかった。


「……嫌」


小さな声だった。


自分でも聞こえたか分からないほど。


「嫌よ」


リュールの白い糸が震える。


胸の奥から、痛いほど引かれる。


『ロイス嬢、帰投してください』


誰かの通信。


『リュール、現宙域に長距離狙撃の危険あり。撤退を』


撤退。


帰投。


言葉が届かない。


ステラを帰さなければならなかった。


父のところへ。


母のところへ。


兄のところへ。


妹のところへ。


甘いものがある場所へ。


帰ったら、何を言うつもりだったのだろう。


母の焼き菓子。


父の渋い顔。


兄の照れ隠し。


妹のお土産。


そのどれにも、ステラはもう帰れない。


マーリンが、帰せなかった。


『マーリン様』


もう聞こえない。


その呼び方が、黒い宇宙の中で消えた。


マーリンはまた、名前で呼んでくれる人を失った。


敵機が動く。


王国側の残存機が、撤退ではなく再接近に転じた。


シューティングスターを落とした光が、彼らにも何かを告げたのかもしれない。


白いリュールが止まっている今なら、と。


マーリンはゆっくり顔を上げる。


モニターに敵機の影が映る。


一機。


二機。


遠くに、狙撃した機影もいる。


ステラを撃った機影。


守れたはずだった。


任務は成功していた。


補給艦隊は退避していた。


護衛機も離脱していた。


ステラも帰れるはずだった。


甘いものを食べるはずだった。


「ステラ」


返事はない。


白い糸が、今度は静かになる。


震えではない。


凪いだように。


怖いくらいに。


『ロイス嬢、撤退を。ロイス嬢』


ブライアンの声が混じる。


『ロイス嬢、聞こえていますか』


聞こえている。


たぶん。


でも、遠い。


マーリンは白いソードを握る。


「聞こえています」


声は静かだった。


静かすぎた。


自分の声ではないようだった。


『帰投してください。イルクート候補生の反応は――』


「言わないで」


通信が止まる。


「それ以上、言わないでください」


マーリンは、まだステラの死を言葉にされたくなかった。


言葉にしたら、本当に戻らなくなる。


もう戻らないのに。


分かっているのに。


「リュール」


白い人形が応える。


深く。


深く。


痛いほど。


白い糸が、指先から全身へ広がる。


腕。


肩。


胸。


背骨。


呼吸の奥。


リュールが近い。


近すぎる。


今までは、その近さをステラの声が引き戻してくれた。


『出力、少し高いです』


『急旋回しすぎです』


『追い詰めすぎないでください』


『帰りましょう、マーリン様』


もう、聞こえない。


敵機が近づく。


マーリンは動かない。


ステラなら、言っただろう。


『出力、上げすぎです』


『急旋回しないでください』


『コクピットは避けられます』


『後ろは見ます』


もう、その声はない。


後ろを見る人はいない。


横を見る人もいない。


マーリンは一人で全部を見る。


前も。


横も。


後ろも。


失った場所も。


『ロイス嬢、リュールの魔力出力上昇!』


誰かが叫ぶ。


『危険域です!』


危険。


それが何だというのだろう。


マーリンは白いソードを構える。


まだ斬らない。


まだ。


でも、次に動いた時、止める人はいない。


ステラはいない。


人間の側へ引き戻す声が、消えた。


「……守れなかった」


声が漏れる。


「また」


リュールの魔力スラスターが白く燃える。


宇宙が、その光で薄く染まる。


敵機が一瞬、動きを止めた。


撃墜女王。


その呼び名が、遠くで生まれていた。


けれど今、それはまだ完成していない。


完成するのは、この次だ。


ステラの死を飲み込めないまま。


マーリンが、守るための手を怒りに変える時に。


モニターの端で、切断された通信回線が点滅している。


シューティングスター。


応答なし。


ステラ。


応答なし。


それでも、マーリンはもう一度だけ呼んだ。


「ステラ」


黒い宇宙は返事をしない。


ただ、白いリュールだけが応える。


深く。


暗く。


どこまでも、マーリンの痛みに寄り添うように。


それが救いではないことを、マーリンはまだ知らない。


リュールの白い指が、ソードを握り直す。


かつて守るために伸ばした手。


届かなかった手。


その手が、今度は何を掴もうとしているのか。


マーリン自身にも、まだ分からなかった。


ただ一つだけ、はっきりしていた。


ステラは、帰れなかった。


甘いものの約束も。


母の焼き菓子も。


父の渋い顔も。


兄の照れ隠しも。


妹のお土産も。


すべて、黒い宇宙の向こうへ置き去りになった。


マーリンの白い手は届かなかった。


ミハイルに続いて、ステラも失った。


マーリンを名前で呼んでくれた人が、また消えた。


そしてリュールは、まだ動ける。


白い糸は切れていない。


魔力は尽きていない。


ソードは握られている。


『ロイス嬢、撤退を』


通信の声が、また届く。


遠い。


あまりにも遠い。


マーリンは答えない。


答えの代わりに、リュールのスラスターが白く燃えた。


守るために伸ばしたはずの手が、次に何を掴むのか。


ステラのいない戦場で、マーリンはもう誰にも止められない。


黒い宇宙の中で、黄色い光だけが消えている。


そこだけが、ぽっかりと空いている。


マーリンは、その空白へ手を伸ばしたまま。


何もない場所を、握りしめた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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