帰る場所
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守れた日には、甘いものの味が少し違う。
戦場のあとでも、甘いものは甘い。
けれど、誰かを落とした日の甘さと、誰かを救えた日の甘さは、同じではなかった。
その差が分かってしまうことを、マーリンは少し怖いと思う。
慣れてしまう。
戦場にも。
撃墜にも。
救助にも。
帰投後に茶を飲むことにも。
本当なら、どれにも慣れたくなかった。
慣れてしまえば、次も行けてしまう。
白い糸を伸ばし、リュールに乗り、敵機の進路を塞ぎ、帰ってきて、茶を飲む。
その流れが当たり前になっていく。
当たり前になってはいけないものほど、戦場では早く当たり前の顔をする。
けれど、休憩室でステラが焼き菓子の包みを開くと、マーリンは少しだけ息を吐けた。
「今回は崩れていません」
ステラが胸を張る。
包みの中には、小さな焼き菓子がきちんと並んでいた。
丸いもの。
砂糖のかかったもの。
端だけ焼き色の濃いもの。
どれも少しずつ形が違う。
けれど、前のように欠けたり、粉になったりはしていなかった。
ステラにしては、かなりの成果なのかもしれない。
「急がなかったの?」
マーリンが尋ねると、ステラは少しだけ視線を逸らした。
「急ぎました」
「正直ね」
「ですが、廊下では走っていません」
「階段は?」
「……少し」
クリスチーナが静かに茶を注ぐ。
「イルクート候補生」
「はい、アリソン様」
「階段も廊下でございます」
「そうなのですか」
「はい」
ステラは真剣に考え込む。
「では、次から気をつけます」
「ぜひ」
そのやり取りが、休憩室の空気を少しだけ柔らかくする。
戦場から戻ったばかりなのに。
リュールの白い糸は、まだ指先に残っているのに。
シューティングスターの黄色い光も、まぶたの裏に残っているのに。
それでも、甘いものの前では少しだけ普通に戻れる。
少なくとも、戻ろうとすることは許される。
マーリンは焼き菓子を一つ手に取る。
「いただくわ」
「はい、マーリン様」
マーリン様。
その呼び方にも、少し慣れてきた。
ロイス様より近い。
ミーシャが呼んだ「マーリン」とは違う。
クリスチーナの「お嬢様」とも違う。
それでも、名前に近い場所にある。
ステラがそう呼ぶたびに、マーリンは少しだけ人の形に戻される気がした。
撃墜女王でもなく。
リュールの操縦者でもなく。
帝国の防衛戦力でもなく。
ただ、マーリン様。
少し照れくさくて、少し遠慮が残っていて、それでも確かに近づいてくる呼び名。
「この焼き色の濃いものは、お父様用ではなくて?」
マーリンが尋ねると、ステラは目を丸くした。
「よくお分かりですね」
「前に聞いたもの。お父様は端の焼き色が濃いものを選ぶと」
「はい。父は認めませんが、実はそれが好きです」
ステラは嬉しそうに笑う。
「母は、素直に好きと言えばよいのにと言います。父は、別に好きではないと言います。でも結局、毎回そこを取ります」
「分かりやすい方なのね」
「とても。本人は隠せているつもりです」
その顔が、柔らかい。
ステラが家族の話をする時、声は少しだけ丸くなる。
訓練中の鋭さとは違う。
戦場での正確さとも違う。
伯爵家の娘。
一等候補生。
マーリンのバディ。
そのどれでもない、ただの娘の声になる。
「お母様は?」
「母は、甘いものを用意するのが上手です。自分はあまり食べないのですが、人に食べさせるのが好きで」
「素敵ね」
「はい。少しだけ量が多いですが」
「少しだけ?」
「たぶん、母の中では少しです」
ステラは焼き菓子を見つめ、少し笑う。
「兄は何も言わずに食べます。甘いものは子どもっぽいと言うくせに、疲れている時は一番食べます」
兄の名前は出ない。
けれど、その存在は会話の中で温かい。
口うるさい兄。
照れ隠しをする兄。
何でもない顔で甘いものを多めに置く兄。
マーリンの胸に、クロードの影が過ぎる。
お兄様。
優しかった。
戦争を止めたいと言っていた。
マーリンにロイス家を託して、いなくなった。
兄という言葉は、いつも少しだけ古い傷を押す。
まだ血は出ない。
けれど、触れれば痛い。
「妹さんは?」
マーリンは、痛みを隠すように尋ねる。
ステラの顔がぱっと明るくなる。
「妹は、お土産を要求します」
「そこは予想通りね」
「はい。今回も、何かないのかと聞かれると思います」
「任務帰りの姉に?」
「任務帰りの姉に」
二人は少しだけ笑う。
その笑いが軽いほど、マーリンには刺さる。
帰れば、そういう会話がある。
お土産は、と聞く妹がいる。
渋い顔で甘いものを食べる父がいる。
多すぎる菓子を用意する母がいる。
何も言わずに気にかける兄がいる。
帰る場所。
その言葉が、マーリンの胸の奥で静かに重くなる。
ロイス家にも屋敷はある。
広い食堂も、磨かれた銀器も、正しく並べられた皿もある。
けれど、それは帰る場所だっただろうか。
広すぎる食堂で、一人で食事をする場所。
屋敷の奥には、人工心肺装置の低い音とともに生きるロイス公爵がいる。
父の気配は、温かな皿と一緒には来ない。
届くのは通達。
命令。
役割。
役割を果たせ。
私情を挟むな。
器であれ。
それは、家の言葉だった。
けれど、帰る場所の言葉ではなかった。
マーリンは焼き菓子の端を指先でなぞる。
砂糖が少しだけ手袋についた。
「ステラ」
「はい」
「あなたは、軍人になりたかったの?」
何気なく聞いたつもりだった。
けれど、ステラの手が止まる。
ほんの少し。
本当に小さな変化。
それでも、マーリンには見えた。
戦場で横と後ろを見るようになってから、マーリンもまた、ステラの小さな変化を見るようになっていた。
触れてはいけない場所だったのかもしれない。
「答えにくければ、いいの」
マーリンがすぐに言うと、ステラは首を振った。
「いいえ」
少しだけ考えるように、ティーカップを見る。
湯気が細く上がっている。
その湯気の向こうで、ステラの空色の瞳が少し揺れた。
「なりたかったわけでは、ありません」
声は静かだった。
いつもの元気な返事ではない。
マーリンは黙って待つ。
ステラは、焼き菓子を包み直すように指先で触れた。
「私は、最初から軍人を目指していたわけではありません。人形使いとしての適性があると知らされて、それで……家族に言われたんです」
「ご家族に」
「はい」
ステラは笑おうとした。
けれど、少し失敗した。
「イルクート伯爵家にも、できることをしなければならないと。帝国のために。家のために。私には適性があるから、と」
家のため。
帝国のため。
その言葉は、マーリンにはあまりにも馴染み深い。
馴染み深くて、嫌になるほどだ。
「あなたは、断れなかったのね」
マーリンが言うと、ステラは少し驚いた顔をした。
それから、目を伏せる。
「はい」
その返事は小さかった。
「父も母も、私を嫌ってそう言ったわけではありません。兄も、妹も、皆、私を大切にしてくれます」
「ええ」
「でも、期待されました」
期待。
それは柔らかい言葉の形をした重しだ。
「適性があるなら、役に立てる。伯爵家の娘として、帝国のために働ける。家族の誇りになる」
ステラは言葉を一つずつ置く。
「そう言われて……私は、嫌だと言えませんでした」
マーリンはティーカップを見つめる。
ステラの言葉が、自分の中の遠い声と重なる。
役割を果たせ。
私情を挟むな。
器であれ。
ロイス公爵の声。
家族を駒として扱う父。
ステラの家族は、きっと違う。
彼らは優しい。
ステラを愛している。
甘いものを用意し、心配し、帰りを待っている。
それでも、ステラは押し出された。
優しい手でも、人は戦場へ押し出される。
そのことが、マーリンには痛かった。
「軍人には、なりたくなかったの?」
マーリンは静かに聞く。
ステラは少しだけ笑う。
「はい」
短い答え。
「怖かったです。今も怖いです。人形に乗るのも、戦場へ出るのも。訓練は好きです。上手く動けると嬉しいです。でも、それと戦場へ出たいかは別です」
その正直さが、胸に染みる。
マーリンは、ステラを見た。
ステラは、強い。
でも、戦いたかったわけではない。
マーリンと同じように。
違う形で、同じ場所へ押し出された少女だった。
「自分から志願したわけではないのね」
「はい。書類には、私の署名があります。だから、形としては私が選んだことです」
ステラは少しだけ苦笑する。
「でも、本当は、家族に言われたからです。期待されて、頼まれて、泣かれて……断れませんでした」
泣かれて。
その言葉が、やけに人間らしくて重い。
命令ではない。
脅しでもない。
愛情と不安と期待が混ざった、優しい圧力。
それもまた、断りにくい。
ロイス公爵の命令なら、冷たいと分かる。
怖いと分かる。
逃げられなくても、そこに刃があることだけは分かる。
けれど、愛する人の涙は違う。
刃ではない。
だから余計に、心の深い場所へ入ってくる。
「ご家族を、恨んでいる?」
マーリンは尋ねる。
ステラはすぐには答えなかった。
ティーカップを両手で包む。
指先が少し白い。
「困ったことはあります」
以前も聞いた答え。
けれど、今はもう少し深い。
「苦しいと思ったこともあります。どうして私なのだろう、とも思いました」
マーリンは黙って頷く。
ステラは続ける。
「父は、私を誇りだと言いました。とても硬い顔で。母は泣きました。止めたいのか、送り出したいのか、自分でも分からないような顔でした。兄は怒りました。私にではなく、たぶん父と母に。でも最後には、何も言わずに訓練用の手袋を選んでくれました」
「お兄様らしいわね」
「はい。面倒な人です」
ステラはそう言って、少しだけ笑う。
「妹は、よく分かっていませんでした。すごいね、と言いました。お土産を持って帰ってきてね、とも」
マーリンは、焼き菓子を持つ手を止めた。
お土産。
小さくて、何気ない言葉。
でも、それは帰ってくることを前提にした言葉だった。
帰ってきてね、と言う代わりに、お土産をねだる。
それが妹らしさなのだろう。
眩しい。
あまりにも。
「その時、私は思いました」
ステラの声が少し低くなる。
「帰らなければ、と」
マーリンは息を止める。
「家族に言われたから軍へ入りました。断れなかったから、署名しました。怖かったです。今も怖いです。でも、私は家族を恨んでいません」
ステラは顔を上げた。
空色の瞳が、まっすぐマーリンを見る。
「父も、母も、兄も、妹も、私を大切にしてくれます。心配してくれます。帰ったら叱られます。甘いものも置いてくれます。だから」
そこで、少しだけ言葉が詰まる。
「だから、私は帰りたいんです」
帰りたい。
その言葉が、マーリンの胸に深く刺さった。
帰りたい場所がある。
戦場から戻って、叱られて、甘いものを食べて、妹にお土産をねだられて、父が渋い顔をして、母が菓子を出しすぎる場所。
ステラには、それがある。
軍人になりたかったわけではない。
戦場に出たかったわけでもない。
けれど、帰りたい場所があるから、出ている。
守りたい家族がいるから、怖くても戦っている。
マーリンは、自分の胸元に手を当てる。
帰る場所。
ロイス家の屋敷はある。
部屋もある。
名前もある。
家も、爵位も、役割もある。
けれど、あそこは帰る場所だろうか。
父は、マーリンを器と呼ぶ。
家は、マーリンを役割で測る。
帝国は、マーリンを希望と呼ぶ。
戦場は、マーリンを撃墜女王と呼び始めている。
どこへ戻れば、マーリンでいられるのだろう。
ミハイルの隣なら、帰る場所だったかもしれない。
あの庭。
あの小さな鳥。
あの声。
マーリン、と呼ぶ声。
けれど、その場所はもうない。
ミーシャ。
胸の中で呼んでも、返事はない。
「マーリン様」
ステラの声で、マーリンは我に返る。
「お顔が、少し」
ステラはそこで止める。
弱っている、と言いかけたのかもしれない。
マーリンは微笑もうとした。
いつものように。
ロイス家の令嬢らしく。
帝国の希望らしく。
けれど、うまくいかなかった。
「ごめんなさい」
「謝らないでください」
ステラの声が少し強くなる。
「私は、マーリン様を責めているわけではありません」
「分かっているわ」
「でも、今の顔は、責められた時の顔でした」
マーリンは黙る。
ステラは、よく見ている。
前だけではなく、横も後ろも。
そして、マーリン自身のことも。
「帰る場所があるのは、よいことね」
マーリンは静かに言った。
「はい」
ステラは頷く。
「とても、よいことだと思います」
「羨ましいわ」
言ってしまった。
以前、家族の話を眩しいと言った時より、もっと深い場所から出た言葉だった。
その言葉は、少しだけみっともなかった。
ロイス家の令嬢らしくない。
帝国の希望らしくない。
けれど、ステラは笑わなかった。
からかいもしなかった。
ただ、ほんの少し悲しそうな顔をした。
「マーリン様にも、あります」
「あるかしら」
「アリソン様がいらっしゃいます」
クリスチーナが一歩後ろで、わずかに息を止める。
マーリンは振り返らない。
振り返ったら、泣きそうだった。
「ええ」
クリスはいる。
クリスチーナは、いつも待ってくれる。
手袋を整え、茶を注ぎ、震えに気づく。
大丈夫と言いかけた口を、静かに見ていてくれる。
けれど、クリスチーナだけにすべてを背負わせてしまうことも、マーリンには怖い。
「それから」
ステラは少し迷って、続ける。
「私も、帰ってきてほしいです」
マーリンはステラを見る。
ステラは顔を赤くしていた。
でも、目は逸らさない。
「私は、マーリン様に帰ってきてほしいです。一緒に甘いものを食べたいので」
最後の一言だけ、少し慌てて付け足したようだった。
マーリンは一瞬、言葉を失う。
それから、ほんの少し笑った。
「そこなの?」
「はい。そこです」
ステラは真剣な顔で頷く。
「甘いものは大切です」
「あなたは、本当にそればかりね」
「はい」
その返事に、マーリンは少しだけ息を吐く。
軽い。
とても軽い。
けれど、その軽さに救われる。
重すぎる約束ではなく。
必ず戻ると断言する言葉でもなく。
甘いものを一緒に食べたいという、小さな願い。
それなら、少しだけ受け取れる。
「私も」
マーリンは言う。
「あなたに帰ってきてほしいわ、ステラ」
ステラの顔が、ぱっと明るくなる。
けれど、すぐに少し泣きそうな顔になる。
「はい」
「一緒に甘いものを食べるために」
「はい」
「それから、ご家族の話の続きを聞くために」
「はい」
ステラは何度も頷く。
マーリンは、その様子を見て胸が痛くなる。
この子には帰る場所がある。
この子は、帰りたいと言える。
だから、守りたい。
どうしても。
その思いは、温かい。
けれど同時に、ひどく怖い。
守りたいものは、失うものになる。
マーリンはそれを、もう知っている。
ミハイルを失った。
ミーシャの声は、もう返らない。
それなのに、また守りたいものが増えている。
ステラの黄色い光。
少し大きな声。
甘いものは必要です、と真面目に言う顔。
帰ったら叱られると言って、少し嬉しそうにする横顔。
そのすべてが、いつの間にかマーリンの中に入っている。
怖い。
けれど、拒めない。
「ステラ」
「はい」
「あなたのご家族は、優しいのね」
「はい」
ステラは少しだけ考えてから頷く。
「優しいです。でも、優しいだけではありません」
「そうなの?」
「はい。父は頑固です。母は心配すると少し怖いです。兄は面倒です。妹はお土産に厳しいです」
「お土産に厳しい」
「はい。前に小さな焼き菓子を一つだけ持って帰ったら、少ないと言われました」
「厳しいわね」
「とても」
ステラは真剣に頷く。
マーリンは笑う。
笑って、それから少しだけ目を伏せる。
優しい家族。
でも、優しいだけではない家族。
それはきっと、本当の家族の形なのだろう。
きれいなだけではない。
正しいだけでもない。
時々重くて、時々面倒で、それでも帰りたい場所。
マーリンは、そういう場所を知らない。
知らないから、余計に眩しい。
「お母様は、あなたが戦場に出ることを今も心配している?」
「はい。とても」
「お父様は?」
「渋い顔をします」
「いつものことね」
「はい。でも、最近は焼き色の濃い菓子を私の分にも残しておいてくれます」
「それは、心配の表現なの?」
「たぶん」
ステラは少し笑う。
「父は不器用なので」
マーリンは焼き色の濃い菓子を見る。
端が少し硬そうで、香ばしい色をしている。
ステラの父が選ぶ場所。
それを、ステラの分にも残す。
言葉にしない心配。
不器用な愛情。
マーリンは、それを指先で持ち上げた。
「これは、あなたが食べるべきではなくて?」
「いいえ」
ステラは首を振る。
「今回は、マーリン様用です」
「私用?」
「はい。守れた日の続きです」
その言い方が、少し胸に残る。
守れた日。
確かに、そうだった。
でも、守れた日は永遠ではない。
守れたはずの日も、いつか来るかもしれない。
嫌な予感のようなものが、マーリンの胸の奥をかすめる。
マーリンはそれを振り払うように、焼き菓子を口にした。
甘い。
とても甘い。
端の焼き色の濃いところは、少しだけ香ばしい。
ステラが嬉しそうに笑う。
その笑顔を、マーリンはしっかり見た。
忘れないように。
失うためではなく、守るために。
そう思った。
休憩室の外では、軍の足音が絶えず続いている。
戦争は止まらない。
守れた日があっても。
甘いものを分け合っても。
帰る場所の話をしても。
次の出撃は来る。
そのことを、二人とも知っている。
だからこそ、今はこの小さな休憩室が少しだけ遠い場所に思えた。
白い壁。
温かい茶。
焼き菓子。
ステラの家族の話。
それらは、戦場からほんの少し離れた場所にある。
でも、完全には離れていない。
扉一枚の向こうに、リュールがある。
シューティングスターがある。
作戦会議室がある。
撃墜女王という呼び名がある。
ステラが包みを少しだけ整える。
「マーリン様」
「何かしら」
「次に帰ったら、妹に何か持っていこうと思います」
「お土産?」
「はい。戦場のものではなくて、ここの焼き菓子を。母のものではありませんが、妹は文句を言いながら食べると思います」
「文句を言うのね」
「言います。でも食べます」
ステラの声は柔らかい。
帰る先の光景を、もう目の前に見ているようだった。
マーリンは、その横顔を見つめる。
「では、壊れないように包まないと」
「はい。階段では走りません」
「廊下でも」
「はい」
「本当に?」
「努力します」
「ステラ」
「申し訳ありません」
マーリンは少し笑った。
ステラも笑う。
その笑顔が、白い部屋の中で小さく灯る。
戦場の光ではない。
スラスターの光でも、警告灯でもない。
ただ、人が笑う時の、温度のある光。
マーリンはその光を守りたいと思った。
ステラを帰さなければならない。
あの優しい家族のもとへ。
甘いものが置かれている場所へ。
お土産を待つ妹のもとへ。
心配していないふりをする父のもとへ。
泣いて怒る母のもとへ。
何も言わずに甘いものを多めに置く兄のもとへ。
帰さなければならない。
そう思えば思うほど、次の出撃が怖くなる。
けれど、戦場は待たない。
白いリュールと黄色いシューティングスターは、また並んで出ることになる。
次こそも、守れるはずだと信じて。
その手が、届かない場所へ伸びるとも知らずに。
今はまだ、ステラの笑顔がそこにある。
「マーリン様、もう一ついかがですか」
「任務後だから?」
「はい。必要です」
「では、必要なら」
ステラが嬉しそうに包みを差し出す。
マーリンは焼き菓子を受け取る。
小さくて、軽い。
けれど、その軽さが胸の奥で重くなる。
帰る場所がある少女の手から渡された、甘いもの。
マーリンはそれを、ゆっくり口に運んだ。
甘かった。
守れた日の甘さとは、少し違う。
帰りたいと言った少女の、願いの味がした。
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