守れたはずの日
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撃墜女王。
その呼び名は、戦場の雑音に紛れて届いた。
王国側が勝手につけた名前。
帝国側が、利用価値のある恐怖として扱い始めた名前。
マーリンには、まだ馴染まない。
馴染んでほしくもない。
女王ではない。
誰かの上に立ちたいわけではない。
誰かを跪かせたいわけでもない。
王冠もない。
玉座もない。
白いドレスも、花も、喝采もない。
あるのは、耐Gスーツの締めつけと、喉の奥に残る吐き気と、リュールへ伸びる白い糸だけだった。
リュールに乗るたび、マーリンが思うのはいつも同じだった。
守りたい。
ただ、それだけだった。
それだけのはずだった。
守るために前へ出る。
守るために敵の進路を塞ぐ。
守るためにソードを抜く。
けれど、戦場ではそのすべてが別の言葉に変えられていく。
撃退。
戦果。
撃墜。
そして、撃墜女王。
マーリンが望まない呼び名ばかりが、マーリンの周りに増えていく。
それでも、ステラだけは違った。
『マーリン様』
戦場でも、休憩室でも、格納区画でも。
その呼び名だけは、まだマーリンを人の形へ戻してくれる。
リュールの操縦者ではなく。
帝国の防衛戦力ではなく。
撃墜女王でもなく。
マーリン様。
少し近くて、少し照れくさくて、ほんの少しだけ息がしやすい呼び名。
その声があるから、マーリンはまだ前を見ることができた。
出撃命令は、短かった。
境界宙域の小規模補給拠点が、王国側人形部隊に襲撃された。
帝国側の護衛機が防衛中。
拠点には、負傷者を収容した医療艇が残っている。
退避完了まで、時間が足りない。
時間が足りない。
戦場では、よく聞く言葉になった。
それはつまり、誰かが間に合わないかもしれないという意味だった。
作戦会議室で、マーリンは表示された宙域図を見つめる。
補給拠点。
医療艇。
護衛機。
王国側の人形三機。
線がいくつも重なる。
そこにいる人たちの顔は見えない。
けれど、負傷者という文字だけで、胸の奥が重くなる。
逃げられない人がいる。
置いていけば、死ぬ人がいる。
その人たちにも、帰る場所があるのだろうか。
誰かが茶を用意している場所。
甘いものが置かれている場所。
ただいまと言えば、返事がある場所。
考えた瞬間、ステラの家族の話が胸を過ぎった。
渋い顔をする父。
泣くかもしれない母。
何でもない顔で甘いものを置く兄。
お土産を欲しがる妹。
マーリンは、小さく息を吸う。
「リュールとシューティングスターを投入します」
メッサーシュミットの声は落ち着いていた。
「ロイス嬢、イルクート一等候補生。任務は医療艇の退避支援。敵機の撃破ではなく、接近阻止を優先してください」
撃破ではなく。
その言葉に、マーリンは少しだけ息を吐く。
「承知いたしました」
隣のステラも頷く。
「承知いたしました」
声は硬い。
けれど、弱くはない。
ステラはもう、ただ憧れだけでマーリンの隣に立っているわけではなかった。
怖いと言う。
疲れた顔もする。
甘いものを大切にする。
それでも、逃げない。
マーリンはその横顔を見て、少しだけ胸が痛くなる。
守りたいものが増えるのは、怖い。
でも、増えてしまったものは、もう消せない。
ブライアンが静かに言う。
「ロイス嬢」
「はい、ブライアン様」
「今回の任務は、君たちの連携が最も活きる。君が前を止め、イルクート候補生が退避線を作る」
「分かっています」
「君は、人を守れる」
優しい言葉だった。
けれど、少し怖い言葉でもあった。
守れると言われるほど、守れなかった時のことが重くなる。
誰かの期待は、時々、祈りよりも重い。
マーリンは微笑む。
「努めます」
そう答えるしかなかった。
格納区画では、リュールとシューティングスターが並んでいた。
白と、黄色。
色だけなら、少し明るい組み合わせに見える。
菓子の包みにかけられたリボンと、白い皿みたいだと、ほんの一瞬だけ思う。
けれど、その足元にあるのは戦場だった。
整備員たちは無駄なく動いている。
固定具が外され、魔力導線が確認され、装甲の接続部に光が走る。
リュールは静かだった。
怖いほど静かだった。
眠っているのではない。
待っている。
マーリンが白い糸を伸ばすのを。
マーリンがまた、乗り込むのを。
クリスチーナがマーリンの耐Gスーツの留め具を整える。
胸元。
肩。
腕。
手袋の縁。
いつもより指先が丁寧だった。
丁寧すぎるほどに。
「お嬢様」
「ええ」
「どうか、ご無理は」
「無理をしないために、ステラがいるわ」
マーリンがそう言うと、少し離れた場所で準備していたステラが振り向いた。
「はい! 無理をさせません!」
声が大きい。
整備員の何人かがこちらを見る。
ステラはすぐに顔を赤くした。
「……できるだけ」
マーリンは、ほんの少し笑う。
「できるだけなのね」
「絶対と言うと、アリソン様に怒られる気がしました」
クリスチーナは静かに頭を下げる。
「よくお分かりでございます、イルクート候補生」
ステラがぴしりと背筋を伸ばす。
「はい」
そのやり取りが、少しだけ空気を軽くする。
軽くする。
けれど、軽くなりすぎない。
戦場へ行くのだ。
その事実は変わらない。
マーリンはリュールを見上げる。
白い人形は、何も言わない。
それでも、呼べば応える。
応えてしまう。
「ステラ」
「はい、マーリン様」
「後ろをお願い」
「はい。横も見ます」
「前は私が見るわ」
ステラは頷く。
「では、二人で全部見られますね」
軽い言い方だった。
けれど、マーリンの胸には少し温かく残る。
一人では全部見られない。
だから、二人で見る。
それが二人一組なのだろう。
命を預けること。
弱さを見落とさないこと。
そして、戻るための線を残すこと。
マーリンは頷いた。
「行きましょう」
「はい、マーリン様」
リュールのコクピットに座ると、白い糸はすぐに伸びた。
手にはめたインターフェースに、冷たい感覚が走る。
マーリンの指先から、胸の奥へ。
胸の奥から、リュールの魔力変換炉へ。
白い糸が繋がる。
《機体識別:Nep-001Pt Lueur》
《操縦者リンク確認》
《同期率上昇中》
表示が流れる。
深い。
何度乗っても、慣れない。
慣れてはいけない気もする。
リュールの腕が、マーリンの腕の奥へ重なる。
脚部の重みが、骨の内側へ沈む。
物理ソードの柄の位置が、掌より近く感じる。
怖い。
けれど、モニターの端に黄色い機影が映る。
シューティングスター。
ステラの機体。
『マーリン様、聞こえますか』
ステラの声。
「聞こえています、ステラ」
『こちらも良好です。シューティングスター、出力安定。索敵範囲、開きます』
「緊張している?」
『しています』
即答だった。
マーリンは少しだけ笑う。
「正直ね」
『嘘をつくと、声が上ずります』
「それも正直に言うのね」
『はい』
その短いやり取りだけで、呼吸が少し整う。
管制の声が入る。
『リュール、シューティングスター、発進許可。医療艇の退避完了まで敵機を接近させるな』
「リュール、出ます」
『シューティングスター、続きます』
白と黄色の光が、射出口から放たれた。
補給拠点は、すでに攻撃を受けていた。
外壁装甲の一部が焼け、航行灯が乱れている。
周囲には護衛機が二機。
その後ろに、医療艇。
医療艇の動きは遅い。
負傷者を載せているせいか、機動が鈍い。
進路変更も、加速も、遅れている。
王国側人形は三機。
一機が護衛機を引きつける。
一機が拠点側を牽制する。
残る一機が、医療艇へ向かう。
正しい戦術だった。
嫌になるほど、正しい。
弱いところを突く。
遅いものを狙う。
守る側の迷いを利用する。
戦場では、それが正しい。
だから嫌だった。
「ステラ」
『医療艇へ向かう一機が本命です。ですが、左の牽制機が護衛機を落としに行きます』
「二つ同時ね」
『はい。ですので、分けます』
ステラの声は早い。
けれど、乱れていない。
『マーリン様は医療艇側へ。私は護衛機側の退避線を開けます』
「あなた一人で?」
『一人では止めません。止める必要もありません。目を逸らさせます』
黄色い光が横へ流れる。
シューティングスターが護衛機と王国機の間へ入り込む。
危ない位置。
マーリンは思わず声を上げそうになる。
けれど、ステラは速度を落とさない。
『見ています。大丈夫です』
大丈夫。
マーリンは、その言葉を聞くたび少し怖くなる。
自分が言い続けてきた言葉だから。
でも、ステラの声は違った。
怖いことを隠すためではなく、今できることを伝える声だった。
「無理はしないで」
『はい。マーリン様も』
言われた。
マーリンは小さく息を吐く。
「ええ」
リュールを医療艇側へ走らせる。
敵機がこちらに気づく。
白いリュール。
王国側の動きが一瞬鈍る。
恐れている。
それが分かる。
撃墜女王。
その呼び名が頭をよぎる。
違う。
違うと思いたい。
今は医療艇を守る。
「進路を塞ぎます」
『敵機、右へ逃げます。右下は医療艇の進路です。左へ押してください』
「分かったわ」
リュールが白いソードを抜く。
物理ソードの刃が固定具から解放され、宇宙の黒を細く切る。
敵機は一瞬後退する。
その隙に、医療艇が少しだけ進む。
遅い。
でも進んでいる。
『医療艇、退避線まで残り十二秒』
十二秒。
長い。
とても長い。
敵機が焦れたように突っ込んでくる。
マーリンは真正面に出た。
斬らない。
まず、止める。
白いソードを構える。
敵機が射撃姿勢を取る。
マーリンは射線へ入る。
警告音。
赤い表示。
被弾予測。
リュールの装甲なら、耐えられるかもしれない。
けれど、耐えれば済む話ではない。
魔力変換炉への負荷。
急制動。
身体への反動。
分かっている。
分かっていても、医療艇の後ろには退けない。
『マーリン様、正面で受けないでください。二度、ずらします』
ステラの声。
「二度?」
『一度目、敵の照準を外します。二度目、推進器を開かせます』
「合わせるわ」
『はい』
シューティングスターが横から飛び込む。
黄色い光が敵機の視界を掠める。
敵機の照準がわずかにずれる。
マーリンはリュールを半身だけずらす。
一発目がリュールの肩をかすめる。
衝撃。
白い装甲の表面で火花が散る。
歯を食いしばる。
二発目の直前、ステラが敵機の下を抜けた。
敵機が反応する。
推進器の角度が開く。
そこ。
「止めます」
白いソードが走る。
敵機の推進器が切り裂かれる。
爆発はしない。
ステラが指定した場所だけを、リュールが正確に落とした。
敵機は姿勢を崩し、医療艇への進路から外れる。
『敵機、行動不能。コクピット反応あり』
ステラの声がすぐに続く。
マーリンは息を吐く。
落とした。
でも、殺していない。
たぶん。
「医療艇は」
『退避線に入りました。まだ追撃があります』
「次は」
『左。護衛機が持ちません』
マーリンはリュールを旋回させる。
身体が遅れて悲鳴を上げる。
視界が少し白くなる。
『急旋回しすぎです』
「ごめんなさい」
『謝るより、出力を落としてください』
「はい」
つい返事をしてしまった。
ステラが一瞬だけ黙る。
笑ったのかもしれない。
でもすぐ、戦場へ戻る。
『護衛機の前へ出ます。マーリン様は敵機の武装腕を』
「あなたは」
『横を見ます。後ろも』
「ええ」
二人で全部見る。
マーリンは白い糸を引く。
リュールは敵機へ迫る。
王国機はステラを追おうとした。
だが、その先に白いリュールがいる。
逃げ道は細い。
ステラが作った細い道。
そこへマーリンは刃を入れる。
武装腕だけ。
敵機の腕部が切り離される。
護衛機への射線が消える。
帝国護衛機が離脱する。
『護衛機、退避成功』
管制の声が響く。
まだ終わりではない。
三機目が補給拠点へ火器を向ける。
マーリンは息を吸う。
身体は重い。
でも、ステラがいる。
『マーリン様、三機目は撤退経路を探しています。追い詰めすぎないでください』
「逃がすの?」
『補給拠点から離せれば、任務達成です』
その判断は正しい。
倒す必要はない。
落とす必要はない。
守れればいい。
マーリンは頷く。
「分かったわ」
リュールは正面に出る。
シューティングスターは後方を塞ぐ。
ただし、完全には塞がない。
一つだけ、外へ抜ける道を残す。
王国機はその道へ逃げた。
追わない。
マーリンは白いソードを下ろす。
『敵機、戦域離脱』
管制の声が入る。
『医療艇、退避完了。護衛機二機、離脱成功。補給拠点、生存者収容完了』
生存者収容完了。
その言葉が、胸に落ちる。
マーリンはしばらく何も言えなかった。
守れた。
今度は、守れた。
敵をすべて落とさなくても。
撃墜数を増やさなくても。
王国側に恐れられるためでなくても。
守れた。
『マーリン様』
ステラの声が、少し柔らかい。
『守れました』
言われた瞬間、マーリンの喉が詰まる。
「ええ」
声が少し震えた。
「守れたわ」
黒い宇宙の中で、白と黄色の光が並ぶ。
ほんの短い時間。
けれど、その時だけは。
撃墜女王という呼び名が、少しだけ遠くなった。
帰投後の格納区画は、いつもより騒がしかった。
怒号ではない。
歓声に近かった。
医療艇の退避成功。
護衛機の帰還。
補給拠点の生存者収容。
整備員も、通信員も、どこかほっとした顔をしている。
その空気に、マーリンは少し戸惑う。
戦場から戻った場所なのに。
リュールの装甲には傷があるのに。
自分の身体はまだ重いのに。
誰かが笑っている。
誰かが、肩を叩き合っている。
それは悪いことではない。
むしろ、いいことなのだろう。
誰かが戻った。
誰かが助かった。
だから、笑える。
その当たり前が、マーリンには少し眩しかった。
リュールのハッチが開く。
外の空気が入る。
マーリンは立ち上がろうとして、やはり少しよろめいた。
クリスチーナがすぐに支える。
「お嬢様」
「少し、力が抜けただけよ」
「はい。座ってくださいませ」
「ええ」
素直に座る。
そこへ、護衛機の操縦者が一人、整備員に支えられながら近づいてきた。
顔色は悪い。
腕には固定具。
それでも立っている。
彼はマーリンの前で、深く頭を下げた。
「ロイス嬢。助かりました」
マーリンは言葉に詰まる。
礼を言われることには、まだ慣れない。
撃墜数を褒められるより、ずっと怖い。
けれど、逃げるわけにもいかない。
「無事で、何よりです」
どうにか、それだけ言う。
操縦者はもう一度頭を下げる。
「イルクート候補生にも。あの退避線がなければ、こちらは持ちませんでした」
少し離れていたステラが、慌てて姿勢を正す。
「いえ、私は補助をしただけです」
「その補助で生きています」
ステラが黙る。
顔が赤くなった。
けれど、今度は照れだけではない。
人を救った実感が、ゆっくり届いた顔だった。
マーリンはその横顔を見る。
ステラも、守った。
誰かを。
生きて戻らせた。
それが嬉しくて、同時に怖い。
成功は、人を次へ向かわせる。
守れたのなら、次も守れるかもしれないと思ってしまう。
それは希望だ。
でも、希望は時々、残酷な約束になる。
「ステラ」
マーリンが呼ぶと、ステラは顔を上げた。
「はい、マーリン様」
「あなたの補助で、生きて戻った人がいるわ」
ステラの瞳が揺れる。
「……はい」
その声は小さかった。
いつもの元気な返事ではない。
けれど、確かに受け取った声だった。
マーリンは、もう一度リュールを見る。
白い人形は静かに固定されている。
シューティングスターも、その隣に戻っている。
白と黄色。
二機とも帰ってきた。
その事実が、胸の奥に小さく灯る。
作戦会議室での報告は、いつもより短く済んだ。
戦果よりも、救助成功が先に語られたからかもしれない。
医療艇退避成功。
護衛機二機帰還。
補給拠点生存者収容。
王国側人形、一機行動不能。
一機武装喪失。
一機戦域離脱。
撃墜判定はない。
その事実に、マーリンは少しだけ救われる。
誰も落とさずに済んだ。
少なくとも、この任務では。
メッサーシュミットが言う。
「今回の連携は、非常に良好でした。ロイス嬢の前衛判断と、イルクート一等候補生の退避線構築が噛み合っています」
ステラは緊張した顔で頷く。
「ありがとうございます」
褒められても、胸を張らない。
得意げにもならない。
ただ、少しだけ背筋を伸ばす。
その姿が、ステラらしかった。
ブライアンも静かに続ける。
「ロイス嬢、イルクート候補生。君たちは、撃墜ではなく救助を成立させた」
マーリンは顔を上げる。
撃墜ではなく。
救助。
その言葉は、少しだけ胸に優しかった。
「はい」
マーリンは答える。
「守れたのだと思います」
言ったあと、自分で少し驚く。
守れた。
はっきり口にした。
ステラが隣で小さく笑う。
「はい、マーリン様。守れました」
その声に、マーリンは頷く。
束の間でもいい。
今だけでもいい。
守れた日がある。
その事実を、胸の中に置いておきたかった。
戦場の呼び名が増えても。
撃墜女王という名が遠くで歩き始めていても。
この日は、救助の日だった。
守れた日だった。
ブライアンが資料を閉じる。
「ただし、王国側の人形部隊はリュールとの正面交戦を避ける傾向を強めています。今後は分散、長距離牽制、退避線への干渉が増えるでしょう」
長距離。
その言葉が、かすかに胸へ引っかかった。
理由は分からない。
ただ、小さな棘のように残った。
メッサーシュミットも頷く。
「シューティングスターの索敵範囲をさらに広げます。イルクート一等候補生、次回以降は遠方反応の確認も優先項目に入ります」
「承知いたしました」
ステラは答える。
声は真面目だった。
マーリンは横顔を見る。
ステラは前を見ている。
横と後ろを見る役なのに、今はまっすぐ前を見ている。
その横顔が、なぜか少し遠く見えた。
マーリンはその感覚を振り払う。
今日は守れた。
今は、それだけでいい。
そう思いたかった。
休憩室には、やはり甘いものがあった。
ステラが持ってきていた。
少し崩れた焼き菓子。
砂糖のかかった小さなもの。
包みの端が少し曲がっている。
「また急いだの?」
マーリンが聞くと、ステラは真面目に首を振る。
「今回は急いでいません」
「本当に?」
「少ししか」
「それは急いだのでは?」
「少しです」
マーリンは小さく笑う。
クリスチーナが茶を注ぐ。
「イルクート候補生、走られたのですね」
「廊下では走っていません」
「階段でございますね」
「……はい」
ステラがしゅんとする。
マーリンは思わずまた笑う。
戦場のあとに笑っている。
誰も落とさずに済んだ任務のあと。
それが、どれほどありがたいことなのか分かってしまう。
ステラは焼き菓子を一つ差し出す。
「マーリン様」
「ありがとう」
「守れた後の甘いものです」
「いつもよりおいしそうね」
「はい。きっとおいしいです」
根拠はない。
でも、ステラがそう言うと、そんな気がした。
マーリンは焼き菓子を口にする。
甘い。
戦場の後でも、甘いものは甘い。
撃墜女王と呼ばれても。
リュールに乗っても。
白いソードを振るっても。
甘いものを食べれば、少しだけ少女に戻れる。
「ステラ」
「はい」
「あなたは、帰ったらご家族にこの任務のことを話すの?」
ステラは少し考える。
「詳しくは話せません。でも、誰かを助けられたことは、少しだけ話したいです」
「そう」
「父はたぶん、渋い顔をします。心配しているのに、心配していないふりをします」
「お母様は?」
「泣くかもしれません。怒るかもしれません。両方かもしれません」
「お兄様は?」
ステラは少し笑う。
「何でもない顔をして、甘いものを多めに置いておくと思います」
「妹さんは?」
「すごい、と言ってくれると思います。たぶん。あと、お土産を要求されます」
マーリンは静かに聞く。
父。
母。
兄。
妹。
帰った先に、その人たちがいる。
話せることと、話せないことがある。
それでも、帰る場所がある。
それが、マーリンの胸にそっと刺さる。
痛い。
けれど、嫌ではない痛み。
「素敵ね」
マーリンは言う。
ステラは少し照れた顔で笑う。
「はい。少し騒がしいですが」
「騒がしいのは、あなたに似たのかしら」
「私でしょうか」
「ええ」
「兄にも言われます」
その言葉で、また少し笑う。
軽い。
軽くて、温かい。
けれど、その温かさの奥に、次の話が待っている気がした。
どうしてステラは軍にいるのか。
怖いのに。
戦争が好きではないのに。
甘いものと家族の話をする普通の少女なのに。
マーリンはまだ聞かない。
ステラもまだ話さない。
今はただ、守れた日を壊したくなかった。
「マーリン様」
「何かしら」
「次も、こういう任務がいいです」
ステラは焼き菓子を見つめながら言う。
「誰かを助けて、誰も落とさずに帰ってきて、甘いものを食べる任務です」
「それは、ずいぶん都合のよい任務ね」
「はい。都合がよくて、甘いもの付きです」
マーリンは困る。
困って、少し笑う。
「軍に申請してみる?」
「通るでしょうか」
「難しいと思うわ」
「では、私たちで近づけます」
その言葉は軽かった。
けれど、マーリンの胸に深く入る。
私たちで。
近づける。
撃墜ではなく救助へ。
恐怖ではなく退避へ。
落とすのではなく、離すための戦いへ。
そんなことが、いつまで続くのかは分からない。
けれど、今は信じたいと思った。
「ええ」
マーリンは頷く。
「近づけましょう」
ステラの顔が明るくなる。
「はい、マーリン様」
その声は、まだそこにある。
マーリンを名前で呼ぶ声。
横と後ろを見てくれる声。
甘いものは必要だと、真面目に言い張る声。
マーリンは焼き菓子をもう一つ取る。
「これは、お父様が好きそうな焼き色ね」
「はい。でも、今回はマーリン様用です」
「私用?」
「はい。守れた日の分です」
その言い方が、少し胸に残る。
守れた日。
確かに、そうだった。
でも、守れた日は永遠ではない。
守れたはずの日も、いつか来るかもしれない。
嫌な予感のようなものが、マーリンの胸の奥をかすめる。
長距離。
遠方反応。
索敵範囲。
作戦会議室で聞いた言葉が、薄い影のように戻る。
マーリンはそれを振り払うように、焼き菓子を口にした。
甘い。
とても甘い。
ステラが嬉しそうに笑う。
その笑顔を、マーリンはしっかり見た。
忘れないように。
失うためではなく、守るために。
そう思った。
休憩室の外では、整備員の足音が続いている。
扉一枚の向こうに、リュールがある。
シューティングスターがある。
作戦会議室がある。
撃墜女王という呼び名がある。
ここは戦場から完全に離れた場所ではない。
けれど、完全には呑まれていない。
ティーカップの湯気がある。
焼き菓子の甘さがある。
クリスチーナの静かな手がある。
ステラの少し大きな声がある。
その全部が、今だけはマーリンを人間の側に留めていた。
守れた日には、甘いものの味が少し違う。
戦場のあとでも、甘いものは甘い。
けれど、誰かを落とした日の甘さと、誰かを救えた日の甘さは、同じではなかった。
その差が分かってしまうことを、マーリンは少し怖いと思う。
慣れてしまう。
戦場にも。
撃墜にも。
救助にも。
帰投後に茶を飲むことにも。
本当なら、どれにも慣れたくなかった。
けれど、休憩室でステラが焼き菓子の包みを開くと、マーリンは少しだけ息を吐けた。
「マーリン様、次は母の焼き菓子も持ってきます」
「またお母様が張り切るのではなくて?」
「張り切ると思います」
「止めるのではなかったの?」
「止めます。たぶん」
「たぶん」
「兄にも手伝ってもらいます」
「頼もしいわね」
「はい。こういう時の兄は頼もしいです。普段は少し面倒です」
「それは本人に言っても?」
「言えません。拗ねます」
マーリンは笑う。
ステラも笑う。
クリスチーナが静かに茶を注ぎ足す。
穏やかな時間だった。
穏やかすぎて、怖いくらいに。
マーリンはティーカップを両手で包む。
指先の震えは、少し収まっていた。
ステラはそれに気づいたのか、気づかなかったのか、焼き菓子をもう一つ勧めてくる。
「もう一つ、いかがですか」
「任務後だから?」
「はい。必要です」
「では、必要なら」
ステラが笑う。
その笑顔は、まだそこにある。
マーリンは、それを守りたいと思った。
あの優しい家族のもとへ。
甘いものが置かれている場所へ。
お土産を待つ妹のもとへ。
ステラを帰さなければならない。
そう思えば思うほど、次の出撃が怖くなる。
けれど、戦場は待たない。
白いリュールと黄色いシューティングスターは、また並んで出ることになる。
次も、守れるはずだと信じて。
その手が、届かない場所へ伸びるとも知らずに。
今はただ、守れた日の甘さだけが、休憩室に残っていた。
マーリンはその甘さを、ゆっくり飲み込む。
消えないように。
忘れないように。
次も戻ってこられるように。
ステラがまた、マーリン様と呼んでくれるように。
そう願いながら。
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