戦場の呼び名
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戦場には、名前が増えていく。
艦名。
部隊名。
作戦名。
損耗率。
撃墜数。
そして、人の呼び名。
マーリンは、それがあまり好きではなかった。
ロイス嬢。
希望の花。
リュールの操縦者。
帝国の防衛戦力。
どれも、誰かがマーリンにつけた名前だった。
マーリン自身が選んだものではない。
けれど戦場は、選ばせてくれない。
リュールに乗れば、白い糸が伸びる。
白い糸が伸びれば、リュールは応える。
リュールが動けば、敵機は落ちる。
守るために。
そう思っていても、落ちる。
ステラが正式なバディになってから、リュールの出撃回数は増えた。
白いリュール。
黄色い魔力スラスターを引くシューティングスター。
二機一組。
前衛と補助役。
マーリンが前へ出る。
ステラが横と後ろを見る。
その形は、軍が思っていたより早く戦場に馴染んでしまった。
馴染んでしまった。
マーリンには、そのことが少し怖い。
初めは、戻るための形だった。
リュールが深く沈みすぎないように。
マーリンが急加速しすぎないように。
白い糸が遠くへ伸びすぎた時、黄色い光が横から呼び戻してくれるように。
けれど、戦場はそういう優しい意味だけを残してはくれない。
白と黄色。
前衛と支援。
逃げ道を塞ぐ二機。
そういう見方も、同時に増えていく。
『マーリン様、右上、囮です。本命は下方です』
『承知しました』
『退避線、開けます。三秒後』
『合わせます』
『敵機、魔力変換炉付近に損傷。そこは避けてください』
『ええ。腕部を落とします』
ステラの声は、戦場でよく通った。
明るい声ではない。
甘いものの話をしている時とも違う。
短く、正確で、必要な言葉だけを置いていく。
その声があると、マーリンは少しだけ無理をしなくて済む。
急旋回を選ばなくてよい。
過剰に加速しなくてよい。
相手のコクピットを狙わなくてよい。
ステラが、止められる場所を探してくれる。
マーリンはそこへリュールを動かす。
白いソードが敵機の武装腕を切り落とす。
スラスターを裂く。
脚部を止める。
姿勢制御を奪う。
なるべく、操縦者を殺さない場所を。
なるべく、帰れる可能性が残る場所を。
けれど、戦場の判定は冷たい。
『敵一機、撃墜判定』
『敵二機、行動不能』
『リュール、戦果確認』
撃墜。
戦果。
その言葉は、何度聞いても胸に馴染まない。
けれど、聞くたびに少しずつ慣れていく自分もいる。
それが、一番怖かった。
怖いのに、身体は次の進路を探す。
喉の奥が詰まっても、指は白い糸を引く。
敵機の姿勢が崩れれば、すぐ次の脅威へ視線が動く。
嫌だと思う心と、動いてしまう身体が、少しずつ別のものになっていく。
その間を、ステラの声が繋いでいた。
『マーリン様、深追いしないでください』
『分かっています』
『いえ、今の声は分かっていない時の声です』
『……ステラ』
『右に退避線があります。そこへ戻れます』
戻れる。
その言葉は、戦場ではとても小さい。
けれど、マーリンには必要だった。
戻れる場所。
戻るための声。
白い糸の先で、リュールはもっと前へ行けると応える。
もっと速く。
もっと深く。
もっと確実に。
でも、黄色い光が横にいる。
『マーリン様』
ただ名前を呼ばれるだけで、リュールの奥へ沈みすぎた意識が少し戻る。
マーリンは、そのたびに思う。
これは、ただの戦術単位ではないのかもしれない。
二人一組。
重い言葉を、少しだけ分け合う形。
作戦会議室には、いつも数字が並ぶ。
補給艦隊防衛成功。
救難艇退避完了。
護衛機損耗軽微。
王国側人形部隊、撃退。
そして、リュールの撃墜数。
マーリンはその数字を見ないようにしている。
見ないようにしても、耳に入る。
誰かが読み上げる。
誰かが褒める。
誰かが次の運用を語る。
白い壁。
整った卓。
軍の管理施設特有の、余白のない照明。
そこに並べられる数字は、いつも清潔だった。
血の匂いもしない。
宇宙の黒さもない。
吐き気も、震えも、誰かが救難信号を出していた時の小さな雑音もない。
ただ、結果だけが残る。
「ロイス嬢とイルクート候補生の連携は、想定以上です」
メッサーシュミットが言う。
「リュール単機運用時に比べ、機体負荷も操縦者負荷も抑えられています。シューティングスターの支援が、過剰機動を減らしている」
ステラはまっすぐ座っている。
褒められているのに、少し緊張している。
その膝の上で、指が小さく動いていた。
怖いのだろう。
それでも、ステラは前を見る。
マーリンはその横顔を見て、胸が少し痛くなる。
ステラは明るい。
甘いものが好きで、少し声が大きくて、父の不器用さや兄の照れ隠しを楽しそうに話す。
けれど、もう戦場を知っている。
敵機が落ちる音も。
救難信号の雑音も。
撃墜判定の冷たい声も。
その全部を聞いてしまった。
マーリンの隣に立ったから。
「戦果としても申し分ありません」
別の軍人が言う。
戦果。
また。
マーリンは静かに口を開く。
「敵操縦者の救難信号は、確認されていますか」
部屋の空気が、少しだけ止まる。
メッサーシュミットが答える。
「確認できたものはあります。すべての回収までは把握できていません」
「そうですか」
マーリンは頷く。
それ以上は言えない。
戦場で敵操縦者の生死ばかり気にするな、と言われても仕方がない。
分かっている。
でも、気になる。
白いソードで落とした機体の中に、人がいる。
王国兵。
敵。
帝国から見れば、倒すべき相手。
けれど、人だ。
ミハイルを奪った王国側好戦派を、マーリンは許せない。
和平を壊し、彼を死なせた者たちを許したくない。
胸の奥には、まだ熱い怒りがある。
それでも、目の前の操縦者すべてを憎めるわけではなかった。
誰かの父かもしれない。
誰かの兄かもしれない。
甘いものを待つ妹がいるかもしれない。
そう考えた瞬間、ステラの家族の話が胸をよぎる。
優しい母。
不器用な父。
照れ隠しをする兄。
甘いもので機嫌が直る妹。
王国側にも、そういう食卓があるのだろうか。
あるのだろう。
きっと。
その曖昧さを、戦場は許してくれない。
ブライアンが静かに言う。
「ロイス嬢。君が迷うからこそ、イルクート候補生がいる」
マーリンは顔を上げる。
ブライアンは穏やかに続ける。
「敵操縦者の生存可能性を残しつつ、味方を守る。その判断は、君一人では負荷が大きい。イルクート候補生の補助は、そのためにも有効です」
正しい。
とても正しい。
けれど、マーリンは思う。
正しさは、いつも少し冷たい。
正しい言葉は、道を作ってくれる。
けれど、歩く足の痛みまでは肩代わりしてくれない。
ステラが隣で小さく息を吸う。
「私は」
声は少し硬い。
「マーリン様が守りたいものを見落とさないために、後ろを見ます」
部屋の視線がステラへ向く。
ステラは少し頬を赤くしたが、目は逸らさなかった。
「撃墜するためだけなら、私でなくてもいいかもしれません。でも、マーリン様が狙いたくない場所を避けるためには、私が見ます」
マーリンは黙る。
喉の奥が少し熱い。
ステラの言葉は、軍の言葉ではなかった。
戦果ではない。
運用価値でもない。
守りたいもの。
その言葉を、作戦会議室の真ん中に置いてくれた。
「ありがとう、ステラ」
マーリンが言うと、ステラは少しだけ笑った。
「はい、マーリン様」
その呼び方が、まだ救いになる。
ロイス嬢でもない。
リュールの操縦者でもない。
帝国の防衛戦力でもない。
マーリン様。
少し近くて、少し照れくさくて、まだ人の形をしている呼び名。
その声だけは、戦場の数字からマーリンを少し離してくれる。
だが、王国側はそう見ない。
境界宙域の戦闘が重なるにつれ、傍受される通信に似た言葉が混じるようになった。
『白い機体だ』
『黄色い随伴がいる。迂回路を潰されるぞ』
『正面に出るな。腕を持っていかれる』
『あれは、落としに来る』
落としに来る。
マーリンはその音声を聞かされた時、指先が冷えた。
作戦会議室の空気は静かだった。
傍受音声は荒く、雑音が多い。
王国側の通信だから、ところどころ途切れる。
それでも、恐怖だけはよく聞こえた。
白い機体への恐怖。
速さへの恐怖。
逃げ道を塞がれることへの恐怖。
そして、ひときわ低い声が雑音の奥で言った。
『撃墜女王だ。白いやつに近づくな』
撃墜女王。
その言葉が、部屋に落ちた。
軽い音ではなかった。
冷たい金属のような音だった。
マーリンは、最初それが自分のことだと分からなかった。
撃墜。
女王。
どちらも、自分から遠い言葉だったから。
女王などではない。
王冠もない。
玉座もない。
あるのは耐Gスーツと、白い糸と、吐き気だけ。
それなのに、王国側はそう呼んだ。
白い人形に乗り、敵機を落とす女。
撃墜女王。
ステラが隣で息を止める。
クリスチーナの手も、わずかに動いた。
ブライアンは表情を変えない。
メッサーシュミットも、軍人の顔を崩さない。
「王国側で、そう呼ばれ始めているようです」
誰かが言う。
「心理的効果は大きいでしょう」
心理的効果。
マーリンはゆっくり視線を上げる。
「効果」
声が小さくなる。
「そう評価するのですね」
その場の誰も、すぐには答えなかった。
ブライアンが静かに口を開く。
「恐れは、戦場では抑止力になります」
「私は、恐れられたいわけではありません」
「分かっています」
「本当に?」
その問いは、思ったより鋭かった。
ブライアンの目がわずかに細くなる。
マーリンはすぐに言い直そうとした。
ロイス家の令嬢らしく。
帝国の希望らしく。
場を乱さないように。
でも、言葉は戻らない。
ステラが、机の下でそっと手を動かした。
触れはしない。
ただ、そこにいると知らせるように。
マーリンは息を吸う。
「私は、守るために戦っています」
「ええ」
ブライアンは頷く。
「ですが、守る力は相手から見れば脅威です」
正しい。
また、正しい。
守るために敵を止める。
敵から見れば、それは落とされる恐怖になる。
間違っていない。
間違っていないから、逃げ場がない。
マーリンは唇を結ぶ。
撃墜女王。
その呼び名は、マーリンが望んだものではない。
けれど、戦場はもうそれを使い始めている。
名前が増える。
自分の知らないところで。
自分の手が届かない場所で。
マーリンという名前の上に、別の名が重ねられていく。
希望の花。
防衛戦力。
撃墜女王。
どれも、誰かが見たいものをマーリンに貼りつけた言葉だった。
その下にいる少女の震えなど、戦場は見ない。
見てくれるのは、隣のステラだけだった。
次の出撃でも、その呼び名は尾を引いた。
マーリンはリュールのコクピットで、白い糸を伸ばす。
リュールが深く応える。
胸の奥がきしむ。
《機体識別:Nep-001Pt Lueur》
《操縦者リンク確認》
《同期率上昇中》
モニターに表示が走る。
いつもの表示。
いつもの怖さ。
リュールの腕が自分の腕に近づいてくる。
リュールの脚が、自分の脚の奥へ重なる。
ソードの位置が、指先よりも近く感じる。
白い糸は、戦場へ向かうほど迷いをなくす。
それが怖い。
マーリン自身は迷っているのに。
『マーリン様、聞こえますか』
ステラの声。
『聞こえています、ステラ』
『呼吸、少し浅いです』
『分かるの?』
『はい。声が少し硬いです』
ステラは後ろを見る。
それは敵のことだけではない。
マーリン自身のことも、いつの間にか見ている。
『平気よ』
言いかけて、マーリンは止まる。
ステラは何も言わない。
ただ待つ。
通信の向こうで、黄色い機影が静かに隣へつく。
マーリンは息を吐く。
『少し、怖いだけ』
『はい』
短い返事。
否定しない。
励ましすぎない。
それがありがたかった。
『甘いものは帰ってからです』
『そこなの?』
『はい。そこです』
マーリンは少しだけ笑う。
黒い宇宙へ出る前に、ほんの少しだけ。
その笑いで、白い糸の震えがわずかに収まる。
『リュール、シューティングスター、発進許可』
『リュール、出ます』
『シューティングスター、続きます』
白と黄色の光が、宇宙へ走る。
戦闘は短かった。
王国側の人形部隊は、リュールを見るなり散開した。
以前より距離がある。
正面から来ない。
恐れている。
それが分かった瞬間、マーリンの胸は重くなった。
近づかないで済むなら、よいことのはずだった。
敵が距離を取れば、味方の被害は減る。
補給艦も逃げやすい。
恐れは抑止力。
ブライアンの言葉がよぎる。
けれど、恐れられているのはマーリンだ。
白いリュールだ。
王国側から見れば、そこにいるのは守りたい少女ではない。
落とす女王だ。
『ステラ』
『はい』
『敵が、私を避けている』
『はい。ですが、右の一機は補給艦へ向かっています』
ステラの声が引き戻す。
マーリンは視線を切る。
考えるのは後。
今は守る。
『進路は?』
『私が塞ぎます。マーリン様は左から。推進器だけを狙えます』
『分かったわ』
ステラのシューティングスターが黄色い光を引いて先へ出る。
敵機はそれを避けようとする。
逃げ道は細い。
マーリンには、その細い線が見える。
白いリュールが滑り込む。
敵機が撃とうとする。
間に合わない。
白いソードが推進器を裂く。
敵機の魔力光が乱れ、機体が回転する。
『敵機、行動不能』
管制の声。
まだ撃墜ではない。
そう思った直後、機体が別の敵機と接触し、破片が散った。
『敵一機、撃墜判定』
マーリンの息が止まる。
狙ったのは推進器だけだった。
落とすつもりではなかった。
けれど、落ちた。
『マーリン様』
ステラの声が入る。
『救難信号、出ています。コクピット反応あり』
その情報を、ステラはすぐに探してくれる。
マーリンが聞く前に。
『ありがとう』
声がかすれる。
『はい。次、来ます』
戦場は待たない。
敵の二機目が、補給艦の護衛機へ迫る。
マーリンはリュールを動かす。
身体が重い。
でも動く。
動いてしまう。
ステラが進路を作る。
マーリンが止める。
敵機が落ちる。
守る。
落ちる。
守る。
落ちる。
その繰り返しが、白い糸を通して身体に刻まれていく。
帰投命令が出る頃、マーリンの指先は冷たくなっていた。
リュールの感覚がまだ腕の奥に残っている。
白いソードを振るった重み。
推進器を裂いた感触。
落とすつもりではなかった機体が、撃墜判定になる瞬間の息苦しさ。
それでも、補給艦は守られた。
味方の退避は完了した。
戦場の書類には、成功と書かれるのだろう。
そして撃墜数が増える。
マーリンの知らない名前が、また少し濃くなる。
帰投後、マーリンはしばらく立てなかった。
クリスチーナが支える。
「お嬢様」
「……少し、足が」
「座ってくださいませ」
「ええ」
椅子に座る。
耐Gスーツの締めつけが苦しい。
吐き気はある。
指先も冷たい。
けれど、もっと重いのは別のものだった。
撃墜女王。
その呼び名が、頭から離れない。
ステラも隣に座る。
彼女の顔色も悪い。
でも、マーリンを見ると無理に笑おうとした。
マーリンはそれを止める。
「ステラ」
「はい」
「笑わなくていいわ」
ステラの表情が、少し崩れる。
「では、少しだけ怖い顔をしてもよろしいですか」
「ええ」
ステラは眉を寄せた。
とても真剣に、怖い顔を作る。
少し変だった。
マーリンは一瞬だけ、息を漏らす。
「それは、怖い顔なの?」
「努力しています」
「努力は認めるわ」
そのやり取りで、少しだけ呼吸が戻る。
クリスチーナが茶を置く。
手が震えて、マーリンはすぐには取れない。
ステラがそれを見て、ティーカップを少しだけ近づけた。
触れすぎない距離。
ありがたかった。
「マーリン様」
「何かしら」
「王国側が何と呼んでも、私はマーリン様と呼びます」
マーリンはティーカップを見る。
湯気が薄く上がる。
「それは、少し心強いわ」
「はい。かなり心強いです」
「自分で言うのね」
「はい」
ステラの声は少し震えていた。
でも、まっすぐだった。
「撃墜女王ではなく、マーリン様です」
その言葉が胸に触れる。
痛い。
けれど温かい。
マーリンは目を伏せる。
「私は、女王なんかではないわ」
「はい」
「王冠もないもの」
「必要ありません」
「玉座も」
「座り心地が悪そうです」
「そうね」
軽いやり取り。
でも、その奥に重いものがある。
マーリンは小さく息を吐く。
「私は、守りたいだけなの」
「はい」
「でも、落としている」
「はい」
「その両方が、本当なのね」
ステラは少しだけ黙った。
それから頷く。
「はい。どちらも、本当です」
優しい嘘は言わない。
マーリンには、それがありがたかった。
落としていません、とは言わない。
悪くありません、とも簡単には言わない。
ただ、守りたいことも本当だと認めてくれる。
二つの本当が、胸の中でぶつかる。
守った。
落とした。
助けた。
恐れられた。
そのどれか一つだけなら、きっとまだ楽だった。
でも、全部がある。
全部が、マーリンの中に残る。
「ステラ」
「はい」
「甘いものは、ある?」
ステラの目が少しだけ丸くなる。
それから、鞄に手を伸ばす。
「あります」
「用意がいいのね」
「必要ですので」
そう言って、ステラは小さな菓子包みを取り出した。
少し崩れた焼き菓子。
戦場のあとに食べるには、あまりにも普通のもの。
でも、その普通さに救われる。
マーリンは一つ受け取る。
甘い。
甘さは、撃墜数を消してくれない。
戦場の呼び名も消してくれない。
それでも、少しだけ人間に戻してくれる。
撃墜女王ではなく。
リュールの操縦者でもなく。
甘いものを口にして、少しだけ泣きそうになる少女に。
「ステラ」
「はい」
「これ、少し崩れているわ」
「はい。出撃前に少し急いで詰めました」
「廊下は走っていない?」
「走っていません」
「本当に?」
「階段で少しだけ」
「ステラ」
「申し訳ありません」
マーリンは笑う。
今度は、少しだけ長く。
ステラも笑った。
クリスチーナは静かに目を伏せる。
部屋の外では、次の報告が動いている。
撃墜数が増えたこと。
王国側が白い機体を恐れていること。
帝国側がその恐怖を利用しようとしていること。
そういうものが、今もどこかで紙に整えられている。
けれど、この部屋には焼き菓子がある。
ティーカップの湯気がある。
ステラの少し大きな声がある。
クリスチーナの静かな手がある。
そのどれも、戦場の呼び名を消すほど強くはない。
でも、マーリンがその名だけになってしまうことを、少しだけ遅らせてくれる。
それで十分とは言えない。
けれど、今はそれに縋るしかなかった。
王国側からの呼び名は、さらに広がっていく。
白い機体。
リュール。
撃墜女王。
マーリンが望まない名前が、戦場で力を持ち始める。
帝国側は、それを利用価値のある恐怖として見る。
王国側は、それを近づいてはいけない脅威として見る。
けれどステラだけは、戦場の中でも言い続ける。
『マーリン様』
その呼び名だけが、マーリンを人の形につなぎ止める。
次の任務では、二人の連携がさらに噛み合った。
白と黄色の光が、味方を救う。
守れた。
そう思える日が来る。
それが、束の間の成功だとしても。
マーリンは、まだその先を知らない。
守るための戦いが、いつか守れなかった喪失へ変わることを。
ステラの黄色い光が、いずれ胸の奥で消えない傷になることを。
今はまだ、知らない。
知らないまま、マーリンはティーカップを両手で包む。
指先は少し震えていた。
ステラが気づく。
何も言わず、焼き菓子の包みを少し近づける。
「もう一つ、いかがですか」
「任務後だから?」
「はい。必要です」
マーリンは小さく頷く。
「では、必要なら」
ステラが笑う。
その笑顔は、まだそこにある。
マーリンは、その眩しさを見つめる。
守りたいものがまた一つ増えている。
それは怖い。
怖くて、温かい。
だからマーリンは、焼き菓子を受け取った。
戦場の呼び名がどれほど増えても。
今だけは、ステラが呼ぶ名に返事をしたかった。
マーリン様。
その声のする方へ、まだ戻れる気がしたから。
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