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エピローグ 数字の向こう側

エピローグ 数字の向こう側


初夏の風が街を吹き抜けていた。


青空の下、新都市メルカティアは今日も活気に満ちている。


中央市場では朝から人々の声が響いていた。


「焼きたてだよ!」


「甘い苺はいかがですか!」


「南方産の香辛料が入荷したぞ!」


香ばしいパンの匂い。


焼き肉の匂い。


果物の甘い香り。


様々な匂いが風に乗って流れていく。


広場の噴水では子どもたちが水しぶきを上げながら遊んでいた。


若い母親たちは笑顔で見守っている。


老人たちは木陰のベンチで将棋のような盤遊びを楽しんでいた。


誰もが当たり前のように暮らしている。


だが、その当たり前は簡単に手に入ったものではなかった。


新庁舎の最上階。


大きな窓の前にアルティナは立っていた。


白いブラウスに紺色のロングスカート。


細い銀縁の眼鏡。


机の上には帳簿が広げられている。


数字が整然と並んでいた。


しかし彼女は数字ではなく窓の外を見ていた。


コンコン。


扉が叩かれる。


「どうぞ」


入ってきたのは若い女性だった。


栗色の髪を後ろで束ねている。


「アルティナ様」


「どうしました?」


「学校の新設申請です」


女性は一枚の書類を差し出した。


「北地区の人口増加で教室が足りません」


アルティナは目を通す。


そして微笑んだ。


「いいことですね」


「はい」


「予算は確保されています」


「ありがとうございます!」


女性は嬉しそうに頭を下げた。


彼女が部屋を出る。


入れ替わるように別の職員が入ってきた。


「診療所の増築が完了しました」


「問題は?」


「ありません」


「素晴らしいですね」


報告が終わる。


また別の職員が来る。


橋の補修。


水路の整備。


孤児院への支援。


どれも前向きな話ばかりだった。


アルティナは一つ一つ確認していく。


そして全ての書類に署名した。


昼になる。


セドリックがやってきた。


「昼飯だ」


「もうそんな時間ですか」


兄は笑った。


「仕事中毒は相変わらずだな」


二人は庁舎内の食堂へ向かった。


窓際の席。


テーブルには温かな料理が並ぶ。


焼きたての白パン。


香草で煮込んだ鶏肉。


じゃがいものスープ。


色鮮やかな野菜のサラダ。


果実のタルト。


湯気が立ち上る。


セドリックはパンをちぎった。


「昔のお前なら机で食べてたぞ」


アルティナは苦笑した。


「反省しています」


「成長したな」


「お兄様に言われたくありません」


二人は笑う。


穏やかな時間だった。


食事を終えた帰り道。


アルティナは広場を通った。


すると一人の老人が近づいてくる。


見覚えのある顔だった。


元バルトロメウス領の農夫である。


老人は帽子を取った。


「アルティナ様」


「お元気そうですね」


「おかげさまで」


老人は目を細めた。


「孫が学校へ通っております」


「それは良かった」


「診療所にも世話になりました」


「そうですか」


老人は少し考え込む。


そして頭を下げた。


「昔は分かりませんでした」


アルティナは黙って聞く。


「税金が高いと思っていました」


「祭りを減らすのは意地悪だと思っていました」


風が吹く。


広場の花々が揺れた。


老人は続ける。


「でも違った」


「冬を越えるためだったんですね」


アルティナは小さく笑った。


「皆で越えるためです」


老人の目に涙が浮かぶ。


「ありがとうございました」


深く頭を下げる。


アルティナも静かに頭を下げた。


その日の夕方。


執務室へ戻ったアルティナは一冊の古い帳簿を取り出した。


バルトロメウス領時代の帳簿だった。


革表紙は少し擦り切れている。


懐かしい数字が並んでいた。


あの日々は決して楽ではなかった。


理解もされなかった。


罵倒もされた。


だが無駄ではなかった。


コンコン。


再び扉が叩かれる。


今度はセドリックだった。


「まだ仕事してるのか」


「少しだけ」


兄は窓際へ歩く。


夕日が街を黄金色に染めていた。


市場の灯りが一つずつ灯る。


人々が家路につく。


家族の笑い声が聞こえる。


セドリックは静かに言った。


「いい街になったな」


「はい」


「お前が作ったんだ」


アルティナは首を振った。


「違います」


「皆で作りました」


兄は苦笑する。


本当に変わらない。


手柄を欲しがらない。


だがだからこそ信頼されるのだ。


しばらく二人は景色を眺めていた。


やがてセドリックが言う。


「帳簿って不思議だな」


「どうしてです?」


「数字しか書いてない」


「はい」


「なのに人の人生が詰まってる」


アルティナは窓の外を見つめた。


市場で働く商人。


学校帰りの子どもたち。


診療所へ向かう老夫婦。


工房で汗を流す職人。


数字の向こうにはいつも人がいる。


彼女は静かに答えた。


「数字は人を裁くためのものではありません」


「人を守るためのものです」


夕日が最後の光を街へ降り注ぐ。


その光はまるで祝福のようだった。


かつて冷たいと言われた帳簿。


血が通っていないと言われた数字。


だが今、その数字は学校になり、病院になり、仕事になり、人々の笑顔になっている。


アルティナは帳簿を閉じた。


その音は静かだった。


けれど確かに未来へ続く音だった。


そして今日もまた、新しい一ページが記されていくのである。


【完結】


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