第10話 人を幸せにする帳簿
第10話 人を幸せにする帳簿
春の風が街を吹き抜けていた。
かつてバルトロメウス領と呼ばれた土地は、今や王国中の商人たちが憧れる場所になっている。
朝日が昇ると同時に市場が開く。
焼きたてのパンの香ばしい香り。
果物を並べる商人の威勢のいい声。
魚を売る店主の笑い声。
工房から聞こえる金槌の音。
学校へ向かう子どもたちの楽しそうな話し声。
街全体が生きていた。
そして豊かだった。
中央広場には大きな噴水がある。
その周囲には花壇が整備され、色とりどりの花が咲いていた。
かつて荒れ果てていた石畳は綺麗に整備されている。
街路樹も植えられた。
病院も建った。
学校も増えた。
診療所には薬が揃い、図書館には子どもたちが集まる。
誰もが笑顔だった。
「先生、おはようございます!」
「おはよう」
若い教師が手を振る。
制服を着た子どもたちが駆けていく。
その姿を見ながら老婆が目を細めた。
「昔は学校なんてなかったねえ」
隣の老人も頷く。
「病院もな」
「風邪ひいたら祈るしかなかった」
二人は笑う。
今は違う。
未来がある。
安心がある。
そして仕事がある。
それが何より大きかった。
街の外れ。
新しく開墾された農地では一人の男が鍬を振っていた。
春の日差しが降り注ぐ。
額から汗が流れる。
手は荒れ、爪の中には土が詰まっている。
昔なら考えられなかった姿だった。
レナード・バルトロメウス。
かつての辺境伯爵である。
今はただの開拓農民だった。
粗末な麻のシャツ。
擦り切れたズボン。
泥だらけの長靴。
伯爵時代の豪華な衣装は一着も残っていない。
昼休みになる。
彼は木陰に腰を下ろした。
布に包まれた昼食を開く。
黒パン。
チーズ。
塩漬け肉。
玉ねぎのスープ。
決して豪華ではない。
だが温かい。
彼は静かにスープを飲んだ。
昔なら文句を言っただろう。
しかし今は違う。
働いて食べる。
それだけでありがたかった。
隣で働いていた若い農夫が笑う。
「今年は豊作になりそうですね」
「そうだな」
「灌漑設備のおかげですよ」
レナードは畑を見渡した。
整備された水路。
管理された土壌。
計画的な輪作。
全てが計算されている。
昔の自分なら退屈だと思っただろう。
数字ばかりだと。
だが今は分かる。
だからこそ作物が育つ。
だからこそ人は食べられる。
彼は小さく呟いた。
「俺は間違っていた」
誰に聞かせるでもない。
ただ風に消えていく独り言だった。
その頃。
街の中心にそびえる新庁舎の最上階では。
アルティナが窓辺に立っていた。
白いブラウス。
紺色のロングスカート。
胸元には小さな銀のブローチ。
派手さはない。
だが凛とした美しさがあった。
窓の外には街が広がっている。
市場。
学校。
病院。
工房。
住宅街。
人々の暮らし。
全てが見える。
ドアが開いた。
セドリックが入ってくる。
「見ていたのか」
「はい」
兄は笑った。
「今日の人口統計だ」
書類を渡す。
アルティナは目を通す。
人口増加。
出生率上昇。
税収増加。
雇用増加。
黒字。
綺麗な数字だった。
だが彼女が見ているのは数字だけではない。
その向こう側にいる人々だった。
「病院の増築は?」
「来月完成だ」
「学校は?」
「新校舎を建設中」
セドリックは窓の外を見る。
広場では子どもたちが走り回っていた。
屋台ではパンが売られている。
老夫婦がベンチに座っている。
穏やかな午後だった。
兄はふと尋ねた。
「なあ」
「何でしょう」
「冷たい帳簿だったかな?」
アルティナは少し驚いた。
その言葉は遠い記憶を呼び起こす。
婚約破棄の日。
舞踏会。
嘲笑。
あの日、確かに言われた。
『君の帳簿には血が通っていない』
彼女はしばらく考えた。
そして微笑んだ。
優しい微笑みだった。
「いいえ」
窓から春風が吹き込む。
花の香りが漂う。
広場からは子どもたちの笑い声。
市場からは焼きたてのパンの香り。
遠くでは鐘が鳴っている。
アルティナは静かに言った。
「帳簿は人を幸せにするためにあります」
セドリックは何も言わなかった。
ただ頷く。
それだけで十分だった。
夕日が街を黄金色に染めていく。
屋根が輝く。
窓が輝く。
人々の笑顔が輝く。
この街を支えているのは魔法ではない。
奇跡でもない。
毎日の仕事。
誠実な契約。
正確な記録。
そして未来を見据えた計画。
一冊の帳簿だった。
数字は冷たくない。
数字は嘘をつかない。
だからこそ人を守れる。
だからこそ人を幸せにできる。
アルティナは夕日に照らされた街を見下ろした。
その瞳に映るのは利益ではない。
人々の暮らしだった。
そしてその景色こそが、彼女が積み上げてきた数字の答えだったのである。




