第九話 宰相の呼び出し
馬車に揺られている間、車窓から見える景色がどんどん変わっていった。
泥と埃にまみれた下町の路地裏から、整然とした石畳の職人街へ。そして、白亜の豪邸が建ち並ぶ貴族街を抜けて、天を突くようにそびえ立つ王宮の正門へ。
私が着ていたのは、母の形見である、年に一度の収穫祭の時にしか着ない一番上等なワンピースだった。
けれど、すれ違う王宮の衛兵や侍女たちの豪奢な衣装の前では、粗末な麻布の切れ端にしか見えなかった。
身が縮む思いで案内されたのは、重厚な樫の木の扉に守られた、薄暗い執務室だった。
「急な呼び出しに応じてくれて感謝する、ハンナ殿」
部屋の奥、山積みにされた羊皮紙のデスクから顔を上げたのは、銀髪を後ろに撫で付けた細身の老人だった。
この国の政治を一手に握る男、宰相ヴァルデン侯爵。
クラウディア令嬢のように派手な香水の匂いはしない。ただ、冷え切ったインクと古い紙の匂いだけが漂っていた。
「座りなさい。茶を入れるよう言いつけてある」
「あ、いえ……結構でございます。立ち話で……」
「そうか。ならば、手短に済ませよう」
宰相は羽ペンを置くと、細い指を組み、灰色の瞳で私を見つめた。
怒ってはいないようだった。それで、少しだけ安心してしまった。
「昨夕、アウエルスバッハ家の娘が君の店で無礼を働いたそうだな。まずは国を代表して詫びよう。愚かな娘だ。金で人の心を買い叩けると思っている」
「え……」
予想もしなかった謝罪に、私は目を丸くした。
だが、宰相は表情一つ変えずに言葉を続けた。
「伯爵の書面は近衛が預かっている。調査をさせよう。君の店への納入も止めさせない。その点は安心したまえ」
「ありがとうございます。では、この召喚状にある、王命というのは……」
私が書状を出すと、宰相はちらりと目を落とした。
宰相は私を座らせることもなく、話を続けた。
「単刀直入に言おう。クルト卿には、筆頭公爵の地位と、東部の広大な直轄領が与えられる。そして、王弟殿下の息女であるカテリーナ様と結婚していただく。陛下のご意向だ」
「王弟殿下の……」
「うむ。平民の出である彼に、血統の正統性を与えるための国策だ。竜を倒した力と、王家の血筋。この二つが揃って初めて、戦乱で疲弊した民は安心し、隣国への抑止力が完成する。……彼は、この国の平和の『要石』なのだよ」
宰相は立ち上がり、ゆっくりと窓辺へ歩み寄った。
窓の外には、王都の広大な街並みが一望できていた。
遠く、煙を上げる下町の屋根まで、すべてが彼の足元に広がっている。
「彼が君に執着している理由は聞いている。幼馴染であり、戦場で彼の心の支えであったこともね。……だが、ハンナ殿。現実を見たまえ」
振り返った宰相の目が、私を真っ直ぐに貫いた。
「公爵家の婚姻には王家と貴族院の承認が要る。君との結婚を貴族院が認めるとは考えにくい。……では、側室や愛人として彼に囲われるかい? 君自身の誇りがそれを許すかな? 何より、あの愚直で頑固なクルト卿が、愛する女を日陰者にして平気でいられると思うかね?」
「それは……」
言葉に詰まる。
愛人になれと言われることなど、考えたこともなかった。
クルトは絶対に私を日陰者にはしない。
私に愛人になれと言われたと知ったら、あいつはどれほど怒るだろう。
王命まで出ているなら、それに逆らえばどうなるのか。店の帳面をつける知識では、何も答えられなかった。
「彼は類稀なる武人だが、政治を知らん。辞退するだけだと考えて剣を抜けば、謀反を疑う者も出る。君なら、彼が何をしかねないか分かるだろう」
「では、剣を抜かずにお断りすれば?」
「既に王命が出ている。明日の儀式を覆せば、陛下の顔に泥を塗ることになる」
私の手元には、宰相の署名と封蝋がある書状が残っていた。嘘だと疑うより先に、間に合わない、と思った。
宰相はデスクに戻り、書類を揃えて私に差し出した。
金貨の袋ではない。それは、王立の穀物商の鑑札と、王都から遠く離れた温暖な港町の一等地の権利書だった。
「君を脅すつもりはない。君が彼を想う気持ちを嘲笑う気もない。……ただ、一人の老人として、国を預かる者として、君の良識に縋りたいのだ」
宰相は、私のような平民の小娘に向かって、浅く頭を下げた。
「どうか、彼を解放してやってくれないか。彼を真の栄光と平穏へ送り出すのが、彼の命を繋いだ君の……最後の役目ではないのかね」
頭を下げられた瞬間、視界が真っ白になった。
罵られたなら、怒鳴り返すこともできた。
金を叩きつけられたなら、投げ捨てることもできた。
でも、この人は私に店を守ると約束し、その同じ口で、私といればクルトが破滅すると言った。
どこまでが本当なのか分からない。分からないまま、あいつが剣を抜くところだけが目に浮かんだ。
昨夜、肩に額を押しつけて「ただいま」と言ったクルトの声が浮かぶ。
あいつは私を選ぼうとしてくれている。
昨日は、私が怖いという話を最後まで聞いてくれた。あの時と同じように、この話も落ち着いて聞いてくれるだろうか。
でも……私はあいつに、世界を敵に回させていいのか?
あいつが血を吐く思いで守ったこの国から、あいつ自身を追い出していいのか?
「書類は、受け取れません」
私は震える拳をぎゅっと握りしめ、かろうじて声を絞り出した。
「私は……店を捨てる気も、王都を出ていく気もありません」
「ほう……?」
宰相が眉をわずかに動かした。
「でも……閣下のおっしゃることは、よく分かりました」
私は深く、深く一礼した。
あいつを二年間待ち続けた一人の女として。
「クルトには、私から話します。あいつに隠して、決めたくありません」
宰相は返事をせず、机上の権利書を引き寄せた。私は召喚状を畳み、鞄へ戻した。
宰相の執務室を出た時、王宮の長い廊下に差し込む陽光が、痛いくらいに眩しかった。
足元がふらつく。
帰宅してから、私はクルトへ短い手紙を書いた。明日の朝、式の前に会いたい。静かな場所で話したい。
角の詰所に預けると、夜になってあいつの返事が届いた。
『朝、いつもの時間に行く』
私はその紙を枕元に置いた。何と言えばあいつを傷つけずに済むのか、一晩考えても分からなかった。




