第十話 外れの丘、冷めたパン
翌朝、私は店の表扉に一枚の札を掛けた。
『本日休業』
父が亡くなって店を継いでから、病気で倒れた日以外、一度も休んだことのない店だった。
薄暗い朝の五時。遠くから聞こえてくる重い足音に耳を澄ませる。
やがて、いつも通り角を曲がってきた黒い人影が、札を見てピタリと足を止めた。
「おい、店まで休む話なのか? 具合でも悪いのかよ」
クルトが血相を変えて戸を開けようとした瞬間、私が中から扉を開けた。
手には、布を掛けた小さなバスケットを提げている。
いつもの粉まみれのエプロンではなく、昨日のよそ行きのワンピースを着た私を見て、クルトは目を丸くした。
「あんた、式まで少し時間ある?」
「昼前には戻る。話、ここじゃ駄目なのか」
「丘に行きたい。ここだと、お客さんが来ちゃうから」
私はあいつの大きな腕を軽く引っ張って、歩き出した。
大通りの角で待機していた近衛の馬車と護衛たちがギョッとして動き出そうとしたけれど、クルトが行き先を伝え、「話の間は離れててくれ」と頼んだ。
護衛たちは困惑しながらも、一定の距離を保って遠巻きに監視する姿勢をとった。
向かったのは、王都の北側にある、なだらかな草の生い茂る丘だった。
子供の頃、悪ガキだったクルトが喧嘩で鼻血を出した時や、私がパンの焼き加減を失敗して親父に怒られた時、いつも二人で駆け込んできた秘密の場所だ。
丘の上に立つと、朝焼けの光を浴びて金色に輝く王都が一望できた。
天を突く白亜の宮殿、整然とした貴族街、そして遠く、煙突から細い煙を吐き出し始めた下町の屋根瓦。
「懐かしいな。十年ぶりくらいか」
クルトが草の上にどっかりと座り込み、深く息を吐き出した。
朝露を含んだ冷たい風が、あいつの黒い髪を揺らす。
私も少し離れた場所に腰を下ろし、バスケットから紙に包んだ丸パンを取り出した。
「ほら、朝飯。これ食べに来たんでしょ」
「おう」
クルトは受け取ると、いつものように豪快に半分に引き裂いた。
素朴なライ麦の香りが朝の空気に広がる。
あいつは一口かじり、ふと手を止めてパンの断面を見つめた。
「これ、二年前の夜のやつと同じか?」
「よく覚えてるね」
「忘れるかよ。上は薄い色なのに、底だけ焦げてんだ。あの晩も釜の火が片寄ってたろ」
そう言って、あいつは噛み締めるようにゆっくりと咀嚼した。
火の片寄りなんて、焼いた私でも忘れていたのに。
胸の奥がじんわりと熱くなって、視界がかすみそうになる。
私は膝を抱え、遠くの王宮を見つめながら口を開いた。
「クルト」
「ん?」
「私ね……ずっと、後悔してたの」
風の音に紛れそうなほど小さな声だった。
クルトがパンをかじる手を止め、横顔をこちらに向ける気配がした。
「あんたが英雄になる前に、告白しておけばよかったって。二年前のあの夜、あんたの言葉を遮って扉を閉めた瞬間から……毎朝、粉をこねるたびに、毎晩、冷たいベッドに入るたびに、そればっかり考えて泣いてた」
もう、嘘をつくのはやめようと思った。
みじめさで取り繕うのも、意地を張るのも、全部おしまいにする。
「あんたが好きだったよ、クルト。ガキの頃から、無口で不器用で、泥だらけでパンをかじってるあんたが、ずっとずっと好きだった」
「ハンナ……」
クルトの息を呑む音が聞こえた。
あいつが身を乗り出し、私の手を取ろうとする。
クルトの口元が緩んだ。私の次の言葉を待っている。
だけど。
私は静かに首を横に振った。
伸ばされたあいつの手を、包み込むように両手で押し戻す。
「でも、あんたが帰ってきてくれたのに、今度は私のせいで牢屋に入れられたらって思うと、怖くて」
「あ?」
クルトの顔から、さっと色が引いた。
「昨日ね、宰相様とお話ししてきたの。王命で、結婚が決まってるって言われた」
「なっ……! あの野郎、お前に何吹き込みやがった!?」
「お金も土地も、何も受け取ってない。ただ、これを渡されたの」
鞄から召喚状を出すと、クルトは黙って開いた。王命の文字を指でなぞり、唇を結ぶ。
私は立ち上がり、朝陽を浴びてそびえ立つ王宮を指差した。
「私には、あの人に言い返せなかった。あんたはね、クルト。もう下町の鍛冶屋の倅じゃないの。国中の何十万人もの命を救った、奇跡の英雄なの。あんたの血と骨と傷跡で、この国の平和が成り立っているの」
「そんなもん知るか! 俺がいつ国を背負いたいなんて言った――」
「言わなくても、背負っちゃったのよ!」
私はあいつの言葉を遮った。
泣かないと決めていたのに、声が震える。
「あんたが怒って剣を抜いたら、謀反になるって。私のためにそんなことになったら嫌なの! だからって、黙って王都からいなくなるなんて、もっと嫌だった!」
「ハンナ、俺は――」
「もう二年前みたいに、何も言わずに扉を閉めたくないの。だから聞いて。最後まで聞いてよ」
私は一歩、後ろへ下がった。
朝風が私のワンピースの裾を激しく煽る。
真っ直ぐに、あいつの黒い瞳を見つめ返した。
「あんたを愛してるから。あんたがどれだけの地獄をくぐり抜けてきたか、その傷跡を見たからこそ……あんたには、もう誰にも傷つけられずに生きてほしいのよ」
自分で言いながら、あいつの目を見ていられなくなった。
これから口にする言葉で、今まさにあいつを傷つけようとしている。
「行って、クルト。王家の血を引く方と結婚して、公爵になって、立派な英雄として生きて。……私のことは、この丘に置いていって」
言い終えた瞬間、私の頬を冷たい涙が滑り落ちた。
だけど、口元には精一杯の笑顔を浮かべた。
うまく笑えなかった。言ったばかりの言葉を取り消したくて、喉が詰まった。
静寂が、丘の上を支配した。
クルトは微動だにしなかった。
足元に落ちたパンの欠片が、風に転がっていく。
あいつの肩が、小刻みに震えていた。
手の中で、召喚状の端が折れた。
「置いていけ、だと?」
掠れた声だった。
クルトはゆっくり顔を上げた。
握り潰しかけた書状を広げ、膝の上で丁寧に皺を伸ばす。その手つきが、かえってあいつの怒りを伝えていた。




