第十一話 大馬鹿野郎の激怒
「ふざけんな」
クルトは立ち上がった。
私は反射的に肩をすくめた。あいつはそれに気づき、一度口を閉じて、長く息を吐いた。
「悪い。怒鳴るところだった」
それでも声は震えていた。
折れた召喚状を私に見せ、王命という文字を指す。
「俺は昨日、陛下に会った。討伐の報告のあと、縁談を受ける気はないと言った。陛下は、まず褒賞の話を済ませようって、それだけだったぞ」
「でも、宰相様が」
「それなら、そのあと決めたのかもしれねえ。だから確かめる。俺に何も言わず、お前だけを呼ぶのがおかしいだろ」
私は召喚状を見つめた。
王宮へ行くと決めた時から、私には分からないことばかりだった。だから、知っている顔で話すあの人の言葉を、そのまま信じてしまった。
「王命だったら? 本当に、断れなかったら?」
「断る。剣なんか抜かねえ。俺が結婚したいのはお前だって、自分の口で言う」
「それであんたが罰せられたら、私……」
「ハンナ!」
今度は声が大きくなった。
丘の下で護衛が顔を上げる。クルトは掌を見せて制し、それから私を見た。
「じゃあ俺が、別の女と並んでりゃ安心できるのか。お前はここで、よかったって笑えんのかよ」
答えられなかった。
さっき口にしたばかりなのに、あいつが知らない女の手を取るところを思い浮かべただけで、息が苦しくなった。
「できない」
「俺もだよ」
クルトは額に手を当てた。指の間から、赤くなった目が見えた。
「公爵になったって、誰も俺を殴らなくたって、お前がいなきゃ帰ってきた気がしねえんだよ。俺の幸せを願うなら、そこを勝手になかったことにすんな」
私は手にしていたパンを見た。さっきからずっと握っていて、端が潰れていた。
これを食べさせて、好きだと言って、それから手放す。うまくできるはずがなかった。
「一昨日、あんたに怖いって言った時、ちゃんと聞いてくれたのにね」
「おう」
「私も、聞けばよかった。あんたがどうしたいのか」
クルトは私の前にしゃがんだ。目の高さが揃う。
「お前の店で暮らしたい。朝は一緒に起きて、粉を運んで、腹減ったら一緒に飯を食いたい。貴族の屋敷なんざ、どうでもいい」
「あんた、パン焼けないじゃない」
「覚える。釜の金具なら直せるし、薪も割れる。客に愛想振りまくのは、ちょっと無理だが」
そんなところだけ正直に言うから、涙が出ているのに笑ってしまった。
あいつも、少しだけ息を緩めた。
「俺は言ったぞ。お前はどうしたい」
風が吹いて、膝の上の包み紙がめくれた。私は手で押さえた。
王宮の方は見なかった。すぐ目の前にいる男の顔を見た。
「一緒にいたい」
言ってしまうと、止まらなくなった。
「帰ってきてくれて嬉しかった。あんたが毎朝来るの、来なくていいって言いながら待ってた。朝飯の分、一番いいところを取っておいたの」
「知ってる」
「知らなくていいの、そこは!」
あいつが笑った。腹が立って、嬉しくて、私はシャツの胸元を軽く引いた。
「他の人と結婚しないで。私に、毎朝あんたのパンを焼かせて」
クルトは笑うのをやめた。
私の手の上に自分の手を重ね、何か確かめるように握った。
「それでいいんだな」
「うん。さっきのは取り消し。一つも、置いていかないで」
あいつの顔が近づいた。
今度は逃げなかった。目を閉じる前に私から少し背伸びをすると、クルトの唇が触れた。
思っていたより、ずっと慎重だった。
ほんの少し離れたところで止まるから、私はあいつの襟をもう一度引いた。
「もう一回」
「お前な」
「嫌なの?」
「嫌なわけあるか」
二度目は、あいつの腕の中だった。
頬に触れる手は熱くて、指先だけ少し震えていた。私だけが緊張しているんじゃないと分かって、胸がいっぱいになった。
唇が離れても、すぐには顔を上げられなかった。
「大馬鹿野郎」
「今度は何だよ」
「帰ってきた時、最初に好きだって言ってくれればよかったのに」
「お前、口開くたび帰れって言っただろうが」
言った。間違いなく言った。
私はあいつの胸に額をつけた。
「じゃあ、今言って」
少し間があった。照れている顔を見ようとしたら、先に背中を抱き寄せられた。
「好きだ。ずっと、お前が好きだった」
「私も」
今度こそ、間を置かずに返せた。
やがてクルトは腕を緩め、召喚状を折り畳んだ。
「これ、借りていいか」
「王様に見せるの?」
「ああ。それと伯爵の紙も、隊長に用意してもらう。怒鳴って追い払うだけじゃ、またお前が困るからな」
立ち上がったあいつに、私は残りのパンを渡した。
「剣は抜かないって、約束して」
「約束する」
「お腹も空かせないで。あんた、空くと余計に機嫌が悪いんだから」
クルトはパンを口に入れた。ちゃんと飲み込むまで見ていると、呆れたように鼻で笑った。
「帰ったら、続きな」
「何の?」
あいつは私の唇を指で軽くなぞった。
顔が熱くなる。ここで言い負けるのが悔しくて、私はその手を握った。
「何回でもしてあげるから、ちゃんと帰ってきなさいよ」
クルトは耳まで赤くして、少しだけそっぽを向いた。
それから私の手を引き、丘を下り始めた。




