第十二話 受け取らない褒賞
王宮へ戻った俺は、着替えより先にハイツ隊長を探した。
召喚状を見せると、隊長は眉をひそめ、すぐに王の侍従へ取り次いだ。伯爵の書面も既に届いているという。
「卿、一つお願いがあります」
「剣なら抜かねえ。約束してきた」
隊長は俺の顔を見たあと、頷いた。
「では、言葉で済むようにいたしましょう」
宰相へ知らせる前に、侍従が書類を持って玉座の奥へ消えた。
待っている間にパンの残りを食った。ハンナの顔を思い出したら、喉につかえていたものが少し下りた。
大広間に通されると、既に貴族どもが並んでいた。
玉座の老王は、俺の草だらけの靴を見ても何も言わなかった。その脇には宰相ヴァルデン侯爵。少し下がった列には、アウエルスバッハ伯爵と娘がいた。
伯爵は俺を見て口元を歪めた。娘の方は、目が合う前に扇で顔を隠した。
「これより、救国の英雄クルト卿への叙爵の儀を執り行う!」
儀典官の声が響いた。
宰相は一歩前に出て、巻物を広げた。
「邪竜討伐の功により、筆頭公爵の爵位、ならびに東部三州の領地を下賜される。また、王室との結びつきを強固にするため、カテリーナ殿下との御婚儀を」
「受けねえ」
声が止まった。
俺は玉座を見上げた。
「陛下。爵位も領地も縁談も、辞退する。俺が結婚したい相手は決まってる。下町のパン屋のハンナだ」
「卿、今この場で」
「昨日、陛下にも断ったぞ、宰相。なのに、俺が了承したみてえに話を進めるな」
宰相の指が巻物を握った。
伯爵が列から進み出た。
「恩知らずめ! 王家の御命令を、平民の娘のために踏みにじるつもりか!」
「伯爵」
老王の声だった。
伯爵は俺を睨んだまま、王へ頭を垂れた。
「はっ。陛下、この者の無礼は看過できません」
「余は、誰に誰との婚姻を命じたというのだ」
伯爵の顔が上がった。
宰相が口を開くより早く、侍従がハンナの召喚状を差し出した。老王はそれを広げ、宰相へ向けた。
「この署名は、そなたのものか」
「左様でございます。ですが、それは婚姻についてご相談するための」
「王命による婚姻、とあるな」
静かな声だった。後ろの列で誰かが靴を動かし、その音だけがやけに大きく響いた。
「余が命じたのは、双方の意向を確かめることだ。王弟からは既に、クルトが望まぬなら別の縁を求めると返事があった。そなたも読んだはずだが」
宰相は、すぐには答えなかった。
「陛下。英雄を貴族社会へ迎え入れるには、確かな後ろ盾が不可欠です。あの娘は、卿の情に訴えて」
「訴えたのはてめえだろ」
俺は腰に伸びかけた手を開いた。
ハンナが紙を持って震えていた。そこを思い出すと、頭の中が熱くなる。
それでも、剣は抜かなかった。
「俺と一緒にいたら国が割れる、謀反になる。そう言って、ハンナから俺を諦めさせようとした。店を畳めって脅した伯爵と、何が違う」
「それは娘の受け取り方に」
「書面に残したのは、そなただ」
王が遮った。
宰相は白くなった唇を閉じた。そこで初めて、持っていた巻物の下端が小刻みに震えた。
「ハイツ。報告を」
隊長が進み出た。伯爵の署名がある書面、店の前にいた護衛の証言、娘についてきた文官の供述。それぞれ短く読み上げられた。
文官は、存在しない名簿の不備で俺を店から離すよう命じられたと認めていた。
「違う! あれは娘が勝手に持ち出したものだ!」
伯爵が叫んだ。
クラウディアが扇を落とした。
「お父様!? 署名してくださったではありませんか! わたくしが嫁げば英雄の力を家に取り込めると、だからあの女を」
「黙れ!」
声が広間に響き、誰も続けなかった。
父親は娘を睨み、娘は父親を見つめていた。助け合うつもりで出た言葉が、互いの逃げ道を塞いでいた。
王は書面を侍従へ返した。
「軍の物資を預かる者が、その権限を娘の縁談に使ったのか。粉商への指図がまだ出ておらぬことだけは、救いだな」
伯爵が膝をついた。
「お許しください! 実害は、何も! 娘が少々行き過ぎただけでございます!」
「仕入れを止めると脅して、署名を取ろうとした。それを実害がないで済ませるつもりか」
王は近衛へ目を向けた。
「伯爵の軍需調達の権限を今この場で停止する。印章と帳簿を押さえよ。娘と文官も含め、司法官の調べを受けさせる」
近衛が伯爵の腕を取った。
腰から印章の箱を外されると、伯爵は子供のように手を伸ばした。掴み返そうとした指を押さえられ、顔が歪む。
「お待ちを! これを失えば、商人どもが……おい、誰か、陛下に申し上げてくれ!」
さっきまで隣にいた貴族が、一歩下がった。
伯爵は別の顔を探した。誰も目を合わせなかった。口を開いたまま、助けを求める先をなくしていた。
クラウディアも連れ出されかけて、俺の前で足を止めた。
「クルト卿。わたくし、あの方にお詫びします。ですから、お父様だけでも」
「ハンナに言え。俺が代わりに許す話じゃねえ」
「そんな! あの娘の一言で、わたくしたちが……!」
言いかけて、彼女は口を押さえた。
近衛の手を振りほどこうとしても離れない。ドレスの裾が足に絡み、伯爵の背中へすがるようについていった。
宰相はまだ壇上にいた。
王がその胸の職章を見た。
「ヴァルデン。そなたもだ。宰相を解任し、王命を偽った件を司法官へ渡す」
「陛下、私は三十年、この国に!」
初めて声が崩れた。
宰相は胸元を押さえた。差し出された侍従の手に、なかなか職章を渡さなかった。
「国のために必要な婚姻でした。私欲ではございません。どうか、それだけは」
「余に相談すれば、退けられると思ったか」
宰相の喉が動いた。
「だから、余の名を使って平民の娘を黙らせた。そのような者に、国の名を預けてはおけぬ」
金具が外れた。
職章を受け取られた宰相は、胸に手を当てたまま立っていた。隣に誰も控えていないと気づくと、ひどく年を取った顔になった。
近衛に退室を促され、俺の横で足を止めた。
「卿からも、一言」
「ハンナもそうやって、誰かに助けてほしかっただろうな」
それ以上は言わなかった。
宰相は俺を見た。怒る顔を作りかけ、結局、何も言わずに目を伏せた。
扉が閉じると、王は深く息を吐いた。
「クルト。余が臣下のしたことを知らなかったでは済まぬ。娘には、王からも詫びを届けよう」
「今後、あの店に手を出させないでくれ。俺がいねえ時もだ」
「承知した。書面にする」
王は儀典官が持ったままの目録を見た。
「爵位を受けぬ気持ちに変わりはないか。婚姻の条件はつけぬ」
「ねえ。領地の治め方も知らねえ俺に、三州も任せるな。俺はパン屋で働く」
後ろで誰かが息を漏らした。笑いたけりゃ笑えばいい。
「ただ、竜の残党が王都へ来るなら放っとけねえ。あそこには、俺の知ってる奴らも住んでる」
「では、王都下町警備隊の名誉顧問を頼む。登庁の義務も、兵を率いる権限もない。非常時の助力のみだ。居住も婚姻も妨げぬ」
「それなら受ける。普段の飯代は、自分で稼ぐ」
王は初めて口元を緩めた。
「働き口は決まっておるのか」
「これから頼む」
「断られぬとよいな」
俺は胸に拳を当て、頭を下げた。
廊下へ出ると、膝が少しだるかった。竜と向き合うより、よほど長く立っていた気がする。
書面ができるのを待ち、隊長からハンナの召喚状を返してもらった。伯爵の原本は証拠として預かるという。代わりに、受理したと記した紙を受け取った。
どれも折れないよう、胸元にしまった。
「卿、馬車を」
「走った方が早え」
隊長に手を上げ、階段を下りた。
昼の鐘はもう鳴り終わっていた。ハンナはまた、腹を空かせた俺の分までパンを残しているのだろう。
帰ったらまず顔を見て、それから、今度こそ最初に好きだと言ってやろうと思った。




