第十三話 身軽になった男
釜の中でパチパチと薪が爆ぜる音だけが、店内に響いていた。
あれから、何時間が過ぎただろう。
陽はとっくに天頂を過ぎていた。
私は粉まみれのエプロンをつけたまま、釜の前にしゃがみ込み、何度も何度も膝の上で拳を握りしめていた。
クルトは本当に王宮へ乗り込んでいった。
あの頑固で、一度言い出したらテコでも動かない男だ。
国王様や貴族たちを相手に、一体どんな無茶をやらかしているのか。
下手をすれば不敬罪で地下牢に叩き込まれているんじゃないか、あるいは騎士たちに囲まれて刃傷沙汰になっているんじゃないか――。
剣は抜かないと約束した。それを何度も思い出しては、入口を見た。
(……神様、どうかあいつを無事に帰してください)
私が願うのは、それだけだった。
英雄じゃなくていい。公爵じゃなくていい。
ただ生きて、あの不機嫌そうな顔で「腹減った」と戻ってきてくれさえすれば、他には何もいらない。
その時だった。
表の大通りの方から、地鳴りのようなざわめきが聞こえてきた。
怒号じゃない。歓声と、どよめきと、笑い声が混ざり合った、下町特有の騒がしさだ。
「おい、クルトじゃねえか!」
「クルトだ、戻ってきたぞ!」
「そんなに走ると転ぶぞ!」
バタバタと何人もの足音が店の前に近づいてくる。
私は心臓を跳ね上がらせながら立ち上がり、売り場へと駆け出した。
バタンッ!!
表の扉が勢いよく開いた。
「ハァ、ハァ、ハァッ……」
午後の日差しを背負って、店の入り口に突っ立っていたのは、一人の男だった。
白銀の甲冑はどこにもなかった。
破れたマントも、近衛兵の護衛もない。
着ていたのは、朝と同じシャツとズボンだった。腰にある聖剣だけが、どうにも場違いだった。
汗だくで、前髪を額に張り付かせ、肩で激しく息を乱している。
王宮から下町までの数キロの道のりを、本当に全力で走ってきたらしかった。
「クルト?」
私は呆然と立ち尽くした。
あまりの姿に、声が上擦る。
あいつは乱暴に袖で額の汗を拭うと、肩を揺らしながら、大股で店の中に足を踏み入れてきた。
そして、カウンターに手をついて、私を見下ろした。
その顔には、今朝まであった険しさがなかった。
悪ガキの頃の、憎たらしいほど晴れやかな笑みを浮かべている。
「好きだ、ハンナ」
「は?」
息を切らした顔で、いきなり言われた。後ろには近所の人たちまでいる。
「それと、全部、断ってきた」
「全部って?」
「公爵位も、東部の領地も、カテリーナ様との縁談もだ。断ってきた。王命なんざ、最初から出てなかったぞ」
耳を疑った。
頭の中が真っ白になって、言葉が出ない。
この男は、今、なんと言ったのか。
「断って、帰してもらえたの? 剣、抜いてないでしょうね!?」
「抜いてねえよ。約束したろ。名誉顧問って肩書きは残ったが、普段は自由だ」
クルトは胸元から書類を出した。私にも読める言葉で、婚姻も居住も妨げないと書かれていた。
「それと、あの爺さんと伯爵には調べが入る。お前の出した紙が役に立った。隊長から詳しい話が来る」
私は書類を両手で持ち直した。王の署名がある。さっきまで分からなかった昼の暖かさが、急に背中へ戻ってきた。
「軍の給金は少し残ってる。だが、仕事は今日から探すことになる」
クルトは悪びれもせずに胸を張り、不恰好に口の端を吊り上げた。
「雇ってくれるか、店主。力仕事ならいくらでもやるぞ。……飯は、お前の焼いたパンだけでいい」
呆れ返るほどの大馬鹿野郎だった。
世界中の人間が喉から手が出るほど欲しがる富も、名誉も、権力も。
受け取らずに帰ってきた。私に会って、ここで働きたいと言うために。
あんぐりと開いた口が塞がらなかった。
けれど、次の瞬間。
胸の奥から、熱い塊が爆発するように込み上げてきた。
「……っ、大馬鹿野郎!!」
私はカウンターを飛び越える勢いで、あいつの胸元に飛び込んだ。
「うおっ!?」
クルトがよろめきながら、私の身体をがっしりと受け止める。
あいつの首に両腕を回し、汗と埃の匂いが染み付いたシャツに顔を埋めた。
涙が溢れ出して、止まらない。
あいつの身体から、甲冑の冷たい鉄の匂いはもうしなかった。汗と、朝の丘でついた草の匂いがした。
「あんたって人は! 本当に昔から! 手のつけられない大馬鹿だよ……っ!」
「おい、ちょっと苦しい」
「あ、ごめん。でも、公爵様を断るなんて、あんた以外に聞いたことないよ!」
腕を緩めると、クルトは笑って私を抱き直した。
「お前が一生パンを食わせてくれるっつったからだろ」
クルトは低く笑いながら、私の背中に大きな手を回し、ぎゅっと抱きしめ返してきた。
私が苦しくならないところで、腕の力が緩んだ。
あいつの心臓が、すぐ胸の向こうで、力強く、誇らしげに脈打っているのが伝わってきた。
その時だった。
「おいおい、見せつけるねえ!」
「やりやがったぞ、あの馬鹿野郎!!」
「英雄様が、パン屋に雇ってくれってよ!!」
開け放たれた店の扉の向こうから、割れんばかりの歓声と野次が飛んできた。
見れば、通りには八百屋の親父を筆頭に、鍛冶屋の職人たちや近所のおばちゃん連中が鈴なりになって覗き込んでいた。
「おいハンナ! 逃がすんじゃねえぞ!」
「クルト、男だねえ! よくやった!」
「おい野郎ども、樽酒持ってこい! 今夜は宴だぁぁぁ!!」
ドッと下町中が湧き上がった。
八百屋の親父が酒屋へ走り、おかみさんが椅子を運び出した。仕事を終えた人から集まって、日暮れには路地いっぱいの宴会になった。
クルトは勧められるまま木の椀を受け取り、今度は自分から酒を飲んだ。
私はクルトの腕の中で、涙を拭いながら笑った。
クルトも真っ赤になった顔を背けながら、でも決して私を離そうとはしなかった。
夕闇が下町を包み込んでいく中、クルトは向かいの職人と何か言い合いながらも、椅子を私の隣から動かさなかった。




