↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あいつが英雄になる前に、告白しておけばよかった  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/15

第十四話 二年前の夜の本当の返事

 下町の宴がようやくお開きになったのは、夜半近くだった。


 樽酒を飲み干した職人たちは千鳥足で帰っていき、八百屋の親父は「明日も早えからな!」と叫びながら妻に耳を引っ張られて去っていった。

 喧騒の残骸を片付け、表の扉を閉めてかんぬきを下ろすと、店の中には嘘のような静けさが戻ってきた。


 パチ、とランプの芯が小さく爆ぜる。

 薄暗い厨房の中で、私はエプロンを締め直し、水樽から汲んだ水でボウルを満たした。


「おい、ハンナ。こんな時間からまだ働く気かよ」


 厨房の丸椅子に座っていたクルトが、呆れたように声をかけてきた。

 あいつの頬は酒で少し赤く染まっていて、朝から着ていたシャツの襟元がだらしなく開いている。

 英雄様と呼ぶにはあまりにも隙だらけで、でも、息が詰まるほど愛おしい姿だった。


「当たり前でしょ。宴会騒ぎで明日の仕込みが遅れちゃったんだから。下町のみんなに朝飯を食べさせなきゃいけないの」


「少しは休めよ」


「明日から従業員が一人増えるんだから、今のうちに仕事を覚えてもらわないとね」


「へーへー、すみませんでしたね」


 口先では憎まれ口を叩きながらも、クルトは立ち上がると、大股で私の背後に歩み寄ってきた。

 私が作業台でライ麦の粉に水を混ぜ、体重をかけて捏ね始めた、その時だった。


 ふわりと、温かい重みが背中を包み込んだ。


「……っ、クルト?」


 あいつの太い腕が、私の腰に後ろから回された。

 粉まみれのエプロンの上から、ぎゅっと抱きしめられる。

 クルトは私の肩口に顎を乗せ、首筋に深く顔を埋めてきた。

 首筋に当たる熱い息と、少しだけ酒の匂いのする吐息に、心臓が跳ね上がる。


「邪魔……手、止まっちゃうんだけど」


「あと少しだけ」


 低く掠れた声が、耳たぶを擽る。

 あいつの手のひらが、私の腹のあたりを包み込むように力を込めた。

 背中越しに伝わってくる体温があまりにも温かくて、私は捏ねかけの生地から手を離し、脱力するようにあいつの胸板に体重を預けた。


「ねえ、クルト」


「ん?」


「二年前のあの言葉、もう一度、ちゃんと聞かせて」


 静かな厨房に、私の問いかけが溶けていく。

 嫁になってくれと言いたかったのだと、あいつは話してくれた。今度はその言葉を途中で遮らず、答えまで返したかった。


 クルトは腕を解いた。二人で手を洗い、あいつから布巾を受け取って向かい合った。

 それから私の顔を見て、少し照れくさそうに口を開いた。


「ガキの頃から、ずっと考えてたんだ」


「何を?」


「いつか一人前の鍛冶屋になって、親父の店を継いだら、お前の親父さんに頭を下げて、お前を嫁にもらうんだって」


 あいつの手が、私の左手をそっと取った。

 洗ったばかりの指先に、あいつの硬い指が絡んだ。


「それなのに、急に神託だの聖剣だのって連れて行かれちまってよ。戦場に行ったら、二度と戻れないかもしれねえって分かってた。……だからあの夜、お前の顔を見て言おうとしたんだ。『生きて帰ったら、俺の嫁になってくれ。誰にも渡したくねえから、俺だけを待っててくれ』ってな」


 あいつの声が、微かに震えていた。


「けど、口を開きかけたところで、お前が笑ってパンを押し付けてきやがった。……扉を閉められた時、俺は世界が終わったような気がしたよ。お前にとって、俺はただの悪ガキの幼馴染で、待つ価値すらない男なんだって思っちまった」


「今度は閉めないよ」


 私はあいつの手のひらを、ぎゅっと握り返した。


「あんたがいなくなるのが怖くて、先に逃げた。もう、同じことはしない」


「もういいよ」


 クルトは私の耳元で優しく囁いた。

 あいつの唇が、私の首筋に、そっと触れる。

 火傷しそうなほど熱い口づけが落とされるたびに、背筋が甘く震えた。


「俺は帰ってきた。だから、今の俺から言う。ハンナ、俺と結婚してくれ」


 あいつが腰をかがめ、私の顔を覗き込んだ。

 悪戯っぽくて、けれど祈るように真剣な瞳。


 私は深呼吸をして、あいつへ半歩近づいた。

 至近距離で、傷だらけの愛しい顔を見上げる。

 もう、迷いも引け目も、何一つ残っていなかった。


「うん。私、あんたのお嫁さんになる」


「おう」


「ただし、朝寝坊はさせないからね」


 私はあいつの首に両手を伸ばし、引き寄せるようにして額を合わせた。


「一生、私のそばにいなさい、クルト。朝は私のパンを食べて、夜は私の隣で眠りなさい。誰にも渡さないから、覚悟しなさいよ」


 言ってやった。

 下町のパン屋の娘からの、世界で一番強欲なプロポーズだ。


 クルトは一瞬、呆気に取られたように目を見開いた。

 そして、喉の奥からククッと低い笑いを漏らした。


「言われなくても、離れねえよ」


 あいつの唇が、私の唇に重なった。

 あいつが少し顔を離すたび、今度は私から近づいた。

 二年間失われていた時間を埋めるように、何度も、優しく、慈しむように重ねられる。


「ん……クルト……」


「ハンナ……愛してる」


 何度言ってもらっても、慣れそうになかった。

 涙が零れ落ちて、あいつの頬を濡らす。

 あいつはそれを自分の指で拭いながら、さらに深く、私の息を奪っていった。


 作業台の隅に置かれたランプの明かりが、カウンターの上に飾られた一枚の古い銀貨を照らしていた。

 傷だらけの、擦り切れた銀貨。

 店の帳面では、とっくに支払いの済んだ銀貨だ。それでも明日、磨いて置く台を探そうと思った。


 夜が明ければ、またいつもの慌ただしい朝がやってくる。


「で、俺は何すりゃいい」


 名残惜しそうに手を離したクルトが、ボウルを指した。


「そこの水、半分だけ入れて。全部じゃないよ」


「分かってる」


 分かっていない手つきだったので、私は慌ててあいつの手に自分の手を添えた。

 明日のパンは、少しだけ形が悪くなるかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。