第十四話 二年前の夜の本当の返事
下町の宴がようやくお開きになったのは、夜半近くだった。
樽酒を飲み干した職人たちは千鳥足で帰っていき、八百屋の親父は「明日も早えからな!」と叫びながら妻に耳を引っ張られて去っていった。
喧騒の残骸を片付け、表の扉を閉めてかんぬきを下ろすと、店の中には嘘のような静けさが戻ってきた。
パチ、とランプの芯が小さく爆ぜる。
薄暗い厨房の中で、私はエプロンを締め直し、水樽から汲んだ水でボウルを満たした。
「おい、ハンナ。こんな時間からまだ働く気かよ」
厨房の丸椅子に座っていたクルトが、呆れたように声をかけてきた。
あいつの頬は酒で少し赤く染まっていて、朝から着ていたシャツの襟元がだらしなく開いている。
英雄様と呼ぶにはあまりにも隙だらけで、でも、息が詰まるほど愛おしい姿だった。
「当たり前でしょ。宴会騒ぎで明日の仕込みが遅れちゃったんだから。下町のみんなに朝飯を食べさせなきゃいけないの」
「少しは休めよ」
「明日から従業員が一人増えるんだから、今のうちに仕事を覚えてもらわないとね」
「へーへー、すみませんでしたね」
口先では憎まれ口を叩きながらも、クルトは立ち上がると、大股で私の背後に歩み寄ってきた。
私が作業台でライ麦の粉に水を混ぜ、体重をかけて捏ね始めた、その時だった。
ふわりと、温かい重みが背中を包み込んだ。
「……っ、クルト?」
あいつの太い腕が、私の腰に後ろから回された。
粉まみれのエプロンの上から、ぎゅっと抱きしめられる。
クルトは私の肩口に顎を乗せ、首筋に深く顔を埋めてきた。
首筋に当たる熱い息と、少しだけ酒の匂いのする吐息に、心臓が跳ね上がる。
「邪魔……手、止まっちゃうんだけど」
「あと少しだけ」
低く掠れた声が、耳たぶを擽る。
あいつの手のひらが、私の腹のあたりを包み込むように力を込めた。
背中越しに伝わってくる体温があまりにも温かくて、私は捏ねかけの生地から手を離し、脱力するようにあいつの胸板に体重を預けた。
「ねえ、クルト」
「ん?」
「二年前のあの言葉、もう一度、ちゃんと聞かせて」
静かな厨房に、私の問いかけが溶けていく。
嫁になってくれと言いたかったのだと、あいつは話してくれた。今度はその言葉を途中で遮らず、答えまで返したかった。
クルトは腕を解いた。二人で手を洗い、あいつから布巾を受け取って向かい合った。
それから私の顔を見て、少し照れくさそうに口を開いた。
「ガキの頃から、ずっと考えてたんだ」
「何を?」
「いつか一人前の鍛冶屋になって、親父の店を継いだら、お前の親父さんに頭を下げて、お前を嫁にもらうんだって」
あいつの手が、私の左手をそっと取った。
洗ったばかりの指先に、あいつの硬い指が絡んだ。
「それなのに、急に神託だの聖剣だのって連れて行かれちまってよ。戦場に行ったら、二度と戻れないかもしれねえって分かってた。……だからあの夜、お前の顔を見て言おうとしたんだ。『生きて帰ったら、俺の嫁になってくれ。誰にも渡したくねえから、俺だけを待っててくれ』ってな」
あいつの声が、微かに震えていた。
「けど、口を開きかけたところで、お前が笑ってパンを押し付けてきやがった。……扉を閉められた時、俺は世界が終わったような気がしたよ。お前にとって、俺はただの悪ガキの幼馴染で、待つ価値すらない男なんだって思っちまった」
「今度は閉めないよ」
私はあいつの手のひらを、ぎゅっと握り返した。
「あんたがいなくなるのが怖くて、先に逃げた。もう、同じことはしない」
「もういいよ」
クルトは私の耳元で優しく囁いた。
あいつの唇が、私の首筋に、そっと触れる。
火傷しそうなほど熱い口づけが落とされるたびに、背筋が甘く震えた。
「俺は帰ってきた。だから、今の俺から言う。ハンナ、俺と結婚してくれ」
あいつが腰をかがめ、私の顔を覗き込んだ。
悪戯っぽくて、けれど祈るように真剣な瞳。
私は深呼吸をして、あいつへ半歩近づいた。
至近距離で、傷だらけの愛しい顔を見上げる。
もう、迷いも引け目も、何一つ残っていなかった。
「うん。私、あんたのお嫁さんになる」
「おう」
「ただし、朝寝坊はさせないからね」
私はあいつの首に両手を伸ばし、引き寄せるようにして額を合わせた。
「一生、私のそばにいなさい、クルト。朝は私のパンを食べて、夜は私の隣で眠りなさい。誰にも渡さないから、覚悟しなさいよ」
言ってやった。
下町のパン屋の娘からの、世界で一番強欲なプロポーズだ。
クルトは一瞬、呆気に取られたように目を見開いた。
そして、喉の奥からククッと低い笑いを漏らした。
「言われなくても、離れねえよ」
あいつの唇が、私の唇に重なった。
あいつが少し顔を離すたび、今度は私から近づいた。
二年間失われていた時間を埋めるように、何度も、優しく、慈しむように重ねられる。
「ん……クルト……」
「ハンナ……愛してる」
何度言ってもらっても、慣れそうになかった。
涙が零れ落ちて、あいつの頬を濡らす。
あいつはそれを自分の指で拭いながら、さらに深く、私の息を奪っていった。
作業台の隅に置かれたランプの明かりが、カウンターの上に飾られた一枚の古い銀貨を照らしていた。
傷だらけの、擦り切れた銀貨。
店の帳面では、とっくに支払いの済んだ銀貨だ。それでも明日、磨いて置く台を探そうと思った。
夜が明ければ、またいつもの慌ただしい朝がやってくる。
「で、俺は何すりゃいい」
名残惜しそうに手を離したクルトが、ボウルを指した。
「そこの水、半分だけ入れて。全部じゃないよ」
「分かってる」
分かっていない手つきだったので、私は慌ててあいつの手に自分の手を添えた。
明日のパンは、少しだけ形が悪くなるかもしれない。




