第十五話 世界で一番うまいパン屋
裏の倉庫で、ドスンと音がした。
「クルト! 粉袋、静かに置いてって言ってるでしょ!」
「今のは俺の足だ! 袋は置いた!」
覗きに行くと、あいつは樽の縁にぶつけた爪先を押さえていた。竜を倒した男が、倉庫で片足立ちになっている。
笑ったら睨まれた。
「ほら、お茶。座って飲みな」
「笑いながら言うな」
麦茶の木のカップを渡すと、クルトは一息に飲んだ。空になったカップを返しながら、私の髪についた粉を払ってくれる。
慣れたつもりなのに、そういう何でもない手つきで、今でも顔が熱くなる。
あいつが王宮から戻ってきて、三ヶ月が経った。
先月、小さな教会で結婚式を挙げた。クルトの親父さんは「鍛冶屋の道具はいつでも貸す」と言って、花嫁の私より泣いた。父さんたちのお墓へ報告に行く時も、あいつは私の手を離さなかった。
給金と指輪の相談は、ちゃんと二人でした。
あの銀貨は使わず、カウンターの奥に飾ってある。代わりに二人で選んだ細い銀の指輪を、仕事の間は紐に通して襟元へしまっていた。
伯爵家と宰相の件には、判決が出た。
王命を偽った元宰相は、侯爵位と官職を失い、屋敷での終身幽閉を命じられた。息子が爵位を継ぐことも認められず、残された家族の財産と、本人の暮らしは切り分けられたという。
伯爵も軍の職と爵位を剥奪され、領内の屋敷で三年間の監視下に置かれることになった。私への脅迫に軍の権限を使ったことが、決め手だった。
クルトが怖い顔で睨んだから済んだ話ではなかった。私も二度、司法官の前で話をした。預かり証と控え帳を持っていく時には、あいつが隣を歩いてくれた。
最後の審理で見た元宰相の姿は、今も覚えている。
罪状を読み上げられている間、あの人は何度も扉を振り返った。王から使いが来ると思っていたらしい。
判決が言い渡されても、立とうとしなかった。
「陛下は、私から直接お聞きになれば……」
司法官が静かに同じ説明を繰り返した。王への上申は既に読まれ、判決も裁可されていると。
宰相は机の上に両手をついた。指が曲がったまま、なかなか離れなかった。
「三十年だぞ。三十年、私が……」
その先は、声にならなかった。
両脇を支えられて出ていく途中、私を見つけた。何か言おうと口が動いたが、私は頭を下げなかった。
クラウディアが店へ来たのは、それから数日後だった。
護送の馬車で、司法官と一緒だった。一年の謹慎に入る前に、私の店で謝罪をするよう命じられていた。
青いドレスではなく、飾りの少ない灰色の服を着ていた。耳の真珠も、指の宝石もなかった。
「ハンナさん」
私の名前を呼ぶまでに、随分時間がかかった。
背後には粉商と、八百屋のおかみさんがいた。証人として立ち会ってもらったのだ。
「父の権限を使い、あなたの店を奪おうとしました。申し訳、ございませんでした」
途中で声が途切れ、やり直した。頭を下げた時、握った指が白くなっていた。
私は黙って聞き、謝罪を聞いたという書類に署名した。
「これで、よろしいでしょうか」
クラウディアは司法官を見た。彼が頷くと、今度は私に身を寄せた。
「でしたら、謹慎を短くするよう、お口添えを……。父はもう、お金も出してくれませんの。夜会の招待も全部取り消されて、友人に手紙を出しても返事が来なくて」
司法官が止めようとしたが、彼女は続けた。
「このままでは、結婚のお話もなくなります。わたくし、ただクルト卿のお隣に立ちたかっただけですの。あなたなら、お分かりになるでしょう?」
最後の方は泣いていた。
私も一度、このカウンターで泣いた。生まれた家と、働く手と、守ってきた店を、一つずつ汚いと言われた日のことを思い出した。
「分かりません」
私は署名した紙を司法官へ渡した。
「好きな人がいるからって、他の人の暮らしを奪っていいとは思いません。謝罪は聞きました。でも、処分を軽くしてほしいとは頼みません」
クラウディアは口を開き、クルトを探した。
あいつは厨房の入口に立っていた。私が自分で話すと言ったから、そこで待っていてくれたのだ。
目が合うと、あいつは短く言った。
「聞こえただろ」
彼女の顔がくしゃりと歪んだ。床に落ちた涙を拭こうとして、ハンカチを持っていないことに気づいたらしい。袖を握ったまま、震えていた。
「もう、お帰りください。仕込みがありますので」
私が戸を開けると、彼女はようやく顔を上げた。
最初に来た日、薄汚れた店だと言った同じ戸口を、今度は声も出せずに出ていった。馬車の中から、抑えきれない泣き声が聞こえた。
私は最後まで見送らず、店へ戻った。
「大丈夫か」
クルトに聞かれ、頷いた。
「疲れた。ちょっとだけ、くっついてていい?」
返事の代わりに腕が開いた。
胸に顔をつけたら、ようやく息を深く吸えた。
あの日はそれから、クルトが水を運び、おかみさんが店番をしてくれた。私はいつもよりゆっくり生地を捏ねた。
今朝も、その生地が釜の中で膨らんでいる。
「ハンナ、時間だ。開けるぞ」
倉庫から戻ったクルトが、表の扉を押し開けた。
朝の光と一緒に、八百屋の親父の声が飛び込んでくる。
「よっ、英雄様! 今朝のパンは焦げてないか!」
「焦げたのは俺のだ。親父はこっち」
「お前、いいところ取ってるなあ」
「金は置いてけよ!」
向かい合った二人の声に、後ろの客が笑う。
親父が手を伸ばすより先にクルトがトングを差し出した。前は自分も手づかみだったくせに、今では一番うるさい。
週に一度は、ハイツ隊長も顔を出す。
名誉顧問への相談は、朝の混雑が済んでからと決まった。危険な魔物の目撃があればクルトも出るが、普段は店にいる。帰りが遅れる日は、必ず詰所から知らせを寄越す。
何も心配せずに済むわけではない。それでも、どこにいるか分からないまま戸口で待つことは、もうなかった。
「丸パン、あと一籠!」
「はい、今行く!」
私が焼き上がったパンを運ぶと、クルトが空の籠を受け取った。
すれ違いざま、襟元の紐が引っかかって銀の指輪が出てきた。あいつはそれを指で戻し、ついでに私の頬を撫でた。
「何よ」
「粉」
「取れた?」
「おう」
手が離れない。
私は笑って、その指を一度だけ握った。
客足が落ち着いてから、二人で裏口の段に腰を下ろした。
クルトが焦げ目の強いパンを割り、半分を寄越す。大きい方を私にくれるから、少しちぎって返してやった。
「足りなくなるでしょ」
「また食う」
「売り物まで食べないでよ」
そう言ったあとで、私はあいつの横顔を見た。
ちゃんと隣にいる。パンを噛んでいる頬も、短く刈った髪も、私が触れられるところにある。
「クルト」
「ん?」
「好きだよ」
あいつがむせた。
背中を叩いてやると、赤い顔で振り返った。
「食ってる時に言うな!」
「あとで言おうって思うの、もうやめたの」
クルトは言い返しかけて、口を閉じた。
パンを飲み込み、わざわざ手を布巾で拭いてから、私の頬に手を添えた。
「俺も好きだ」
触れるだけのキスだった。すぐ近くで、あいつが笑っている。
表からお客さんの呼ぶ声がした。立とうとすると、手を引かれた。
「もう一回」
「店が開いてるでしょうが」
「あとでにしねえんだろ?」
本当に、余計なことだけよく覚えている。
私は笑って、今度は自分から、あいつの唇に口づけた。




