第八話 傷跡の向こう
クルトは上着を椅子に掛け、シャツのボタンを順に外した。
灯りの下に、右肩から胸へ続く傷が現れた。
「それ、首のところだけじゃなかったの……?」
「肩もだ。上着が硬えと、まだ擦れる」
火傷の痕は赤黒く、皮膚が引きつれていた。脇腹には縫い目に沿った細い傷があり、そのすぐ上に、丸く窪んだ痕があった。
目を逸らしてしまい、すぐに戻した。あいつは私の反応を確かめるように、じっと待っていた。
「痛むの?」
「普段は平気だ。急に冷えたり、寝返りを打ったりすると、たまにな」
私は肩を見た。昨日、あんなに重い甲冑を着て走ってきた肩だった。
「無茶するから」
「おう」
いつもなら言い返してくるのに、今日はそれだけだった。
私は手を伸ばしかけて止めた。
「触ってもいい?」
クルトが頷いた。
傷を避けて、鎖骨の下にそっと指を置いた。温かかった。そこだけは、よく知っているあいつの肌だった。
「竜にやられた時、もう駄目だと思った。治療の奴が来るまで、腹を押さえてたんだが、手が冷えてくのが分かってよ」
私の指の下で、胸がゆっくり上下した。
「その時に、パンのことを考えた」
「こんな時まで?」
「お前の作る、底だけ焦げたやつ。食いてえなって。それで、まだ帰ってねえじゃねえかって腹が立った」
少し笑おうとして、あいつの口元が歪んだ。
「生き残ったら、ここへ来ようと思ってた。嫌がられたって、顔を見て、それから考えようって」
私は黙って頷いた。返事をしたら泣いてしまいそうだった。
「昨日、お前が頭を撫でようとしただろ」
「見てたの」
「目の前だぞ。分かるわ」
あいつは膝の上で指を組んだ。
「あれ、嬉しかった。けど引っ込められて、王宮に帰れって言われて、何言えばいいのか分かんなくなった。大声出して悪かった」
私は唇を噛んだ。
爵位がどうとか、名誉がどうとか、その言い訳ばかりが先に口から出た。目の前で困っているクルトに、帰ってきて嬉しいとさえ言わなかった。
「私も、ごめん。迷惑って言ったの、嘘」
「おう」
「でも、さっき怖かったのは本当だからね。あの紙を出された時、あんたのことまで嫌いになれたら楽なのにって思った」
クルトが顔を上げた。
「なれなかった。全然」
堪えきれずに泣くと、あいつは困った顔で片腕を開いた。
今度は、私から膝を進めた。傷に触れないよう腕を回すと、クルトは背中を抱き、顎を私の肩に載せた。
「よく帰ってきたね」
ようやく言えた。
「おかえり、クルト」
背中の手が止まった。しばらく返事がなくて、肩に額が押しつけられた。
「ただいま」
声が詰まっていた。聞こえないふりをして、私は黒い髪を撫でた。
二年前より少し短くて、切り方が雑だった。耳の上だけ長さが揃っていない。誰が切ったのか、今度聞こうと思った。
しばらくして、床の冷たさで足が痺れてきた。
「クルト、立てる?」
「俺は立てる。お前が乗ってんだろ」
「そうだった」
変な声で笑ってしまった。クルトも私の肩に額をつけたまま笑った。
何も片付いていない。それでも、さっきまで一人で押さえていた胸の苦しさが、少しだけ緩んだ。
戻ってきた護衛に、私たちは伯爵の書面を見せた。護衛は店の控え帳に文面を書き写し、原本はハイツ隊長へ提出するために預かると言った。
私は控えを何度も読み直した。間違いがないと頷くと、彼は預かり証を切ってくれた。
「先ほどの文官は、粉商への指示はまだ出していないと申しています。今夜のうちに隊長から商人にも確認を入れます」
閉めた店の向こうで、いつもの粉商の荷車が通る音がした。あの音を明日も聞けるだろうか。そう思ってしまう自分が、まだ悔しかった。
クルトは王宮へ戻る時間になるまで残り、私がいつも使う包丁を研いだ。
何かしていないと落ち着かないらしい。私は横で明日の生地を仕込み、時々、水を替えてやった。
帰り際、あいつは裏口で振り向いた。
「明日は、午前中に討伐の報告がある。朝には寄るが、そのあとは遅くなる」
「分かった」
「誰か来たら、一人で追い返そうとすんな。角の詰所へ人をやれ。隊長にも言っとく」
私は頷き、明朝用に取り分けたパンをあいつの手に一つ載せた。
「お腹が空いたら食べな」
「明日も食いに来るぞ」
「分かってるってば」
今度は、あいつが角を曲がるまで戸を閉めなかった。
翌朝、クルトが朝食を済ませて帰ってから、一台の黒塗りの馬車が店先に停まった。
扉には獅子の紋章があった。降りてきた白髪の紳士は、宰相閣下の主席補佐官と名乗った。
「ハンナ殿。昨日の件について、閣下が直接お話を伺いたいと申しております」
封蝋のついた書状を渡された。
事情を尋ねる手紙だと思ったのに、そこには『英雄クルト卿の王命による婚姻について』と書かれていた。
「王命……?」
「詳しくは閣下より」
昨日の紙を写した帳面が、作業台の上に開いている。
私はそれを閉じ、戸口にいた八百屋のおかみさんを呼んだ。
「王宮へ行ってくる。クルトが先に戻ったら、そう伝えて」
おかみさんの顔が曇った。私は書状をエプロンのポケットへ入れ、着替えるために階段を上った。




