第七話 金貨の重さ
開いた戸が壁にぶつかり、棚の皿が鳴った。
クルトはすぐには入ってこなかった。私の顔を見て、握り締めた紙を見て、それからクラウディア令嬢に目を向けた。
「ク、クルト卿! お話はもう済んだのですか」
「名簿に不備なんざなかった。あの文官は、お前の馬車について来たそうだな」
令嬢の扇が止まった。
戸口には、店先に残っていた護衛も立っていた。様子がおかしいと気づき、呼び戻しに行ってくれたらしい。
「お前をここで待たせていいなんて、俺は言ってねえぞ」
「わたくしは、あなたの将来のために」
「ハンナを追い出すのが、俺のためか」
従者の一人がクルトの前に出て、腰の剣に手をかけた。
「手を離せ」
クルトの声が低くなった。
「ここはパン屋だ。抜く場所を間違えるな」
従者は唇を動かしたが、言葉は出なかった。柄から指が離れるまで、クルトは目を逸らさなかった。
怒鳴らないあいつの方が、ずっと怖かった。
「ハンナ。その紙、見せてくれ」
私は差し出した。あいつは最後まで読み、伯爵の署名を確かめると、紙を私に返した。
「粉を卸させない? 軍の仕入れと、こいつの店に何の関係がある」
「忠告ですわ。こちらの方が、きちんとお話を聞いてくださらないから」
「俺が断った縁談を、こいつに飲ませりゃ通ると思ったか」
令嬢の頬が赤くなった。
「伯爵家との縁を、こんな娘のためにお捨てになるのですか!」
「断ったのは俺だ。文句は俺に言え」
クルトは金貨の袋を持ち上げ、従者に差し出した。
従者は慌てて受け取ろうとして、緩んでいた口を下に向けた。数枚の金貨が床に転がる。一枚は戸口の溝にはまり、もう一枚は令嬢の靴先で止まった。
「拾え。金も、そこの足跡も、全部持って帰れ」
従者が膝をついた。
ついさっきまで床を汚いと言っていた令嬢が、金貨を拾う手を待つしかなくなっていた。急かそうと扇を振った拍子に、その先が戸口にぶつかって欠けた。
「その書面は返していただきますわ」
私の手にある紙へ、白い指が伸びてきた。
私は一歩下がった。
「嫌です」
自分でも驚くほど、小さく、はっきりした声だった。
「うちの仕入れを止めるって書いてあるんでしょう。なかったことにはさせません」
「あなた……!」
「お引き取りを」
戸口の護衛が口を挟んだ。
「ここで伺ったことは、ハイツ隊長へ報告します。軍の名を出して商人を脅した件も含めて」
令嬢は護衛とクルトを見比べた。最後に私を睨み、従者に裾を踏まれそうになりながら店を出ていった。
馬車に乗る時、踏み段を一度踏み外した。差し出された手を払い、扉の向こうへ消える。
車輪の音が遠ざかってから、クルトが戸を閉めた。
「怪我はねえか」
私に伸びかけた手を見て、思わず身体が引けた。
あいつはその場で止まった。
「悪い。今は触らねえ」
優しくされると、かえって涙が出た。
助かったのに、あんな女に負けずに済んだのに、手の震えが止まらない。
「あんたが怒ったら、あの人、出ていったね」
「当たり前だ。あんな真似、させてたまるか」
「私が断った時は、出ていかなかった」
クルトの口が閉じた。
「お金は要らないって言ったの。そしたら、粉も薪も止めるって。あんたが来てくれなかったら、私、どうしたらよかったのよ」
紙がくしゃりと鳴った。署名がある場所を潰してしまわないよう、私は手を開いた。
「明日も、その次も? 王宮の人が来るたびに、あんたが走って帰ってきてくれるの? あんたがいない時に店を潰されたら、どうすればいいの」
「隊長に話す。仕入れ先にも、この紙が届く前に」
「うん。そうしなきゃいけないのは分かる。分かるけど……怖いのよ!」
堪えていた声が、最後で裏返った。
「あんたと一緒にいたいって思っただけなのに、何で店を捨てろなんて言われなきゃいけないの! 父さんと母さんの店なのよ。私が一人で、ずっと……!」
その先は言えなかった。
作業台に両手をつき、顔を伏せる。磨いたはずの床に、従者の靴跡がまだ残っていた。
「私、夜会の挨拶なんて知らない。ドレスだって持ってない。隣で笑われても平気だなんて、言えないよ」
クルトは黙って聞いていた。
「お願いだから、簡単に大丈夫だって言わないで」
声を出すと膝まで震えて、私は作業台にもたれたまましゃがみ込んだ。
あいつは護衛に戸を少し開け、短く何か頼んだ。紙は私に持たせたまま、写しを取って隊長へ届けてもらうと言った。
その声が済むと、向かいに座る気配がした。
「大丈夫なんて、言えねえ」
クルトは襟元の留め具に手をかけた。
「俺も、帰ってくりゃ昔に戻れると思ってた。お前の顔を見て、舞い上がってた」
金具が外れる、小さな音がした。
「なあ。俺の話も、少し聞いてくれるか」




