第六話 香水と絹の靴
「クルト卿! いらっしゃいますね!? 宰相閣下より至急の命でございます!」
女の声に続いて、店の表から文官の甲高い声が響いた。
抱きしめ合っていた私たちの体温が、引き裂かれるように離れる。
「チッ……あいつら、ここまで嗅ぎつけてきやがったか」
クルトが舌打ちをして、忌々しそうに眉を跳ね上げた。
表の通りからは、護衛たちが誰かを問いただす声も聞こえた。文官は「討伐軍の負傷者名簿に不備が」と繰り返している。
「クルト、行きなよ。宰相様なんでしょ……?」
「負傷兵の給金を止める気か、あいつら。すぐ確認してくる」
クルトは扉を開け、外にいた護衛に「店も見といてくれ」と言い置いて出ていった。
外から、クルトの怒鳴り声と、文官が必死に宥める声、そして馬の移動する音が大通りの方へと遠ざかっていく。
文官が資料を積んだ車へ案内しているらしい。店先には護衛が一人残った。
けれど、店の前の馬車は動いていなかった。
コツ、コツ、コツ。
石畳を叩く、硬くて高い靴音が近づいてくる。
下町の人間が履くような、すり減った革靴の音じゃない。仕立ての良い、薄い絹と革で作られた靴の音だ。
カラン、と店の呼び鈴が頼りなく鳴った。
開いた扉の隙間から、噎せ返るような薔薇の香水が店内に流れ込んでくる。
鼻の奥がむずむずして、私は一度息を止めた。
「まあ。本当に、こんな不衛生な場所でパンを焼いていらっしゃるのね」
入ってきたのは、豪奢な青いドレスを纏った若い女性だった。
外套の裾をつまみ上げ、床の粉や埃に触れないよう、露骨に眉をひそめている。
透き通るような白い肌に、結い上げられた金色の髪。耳元には、下町の人間が一生働いても買えないような大粒の真珠が揺れていた。
後ろには、険しい顔をした初老の従者が二人、無言で控えている。
「あの……お客様、もう今日の分は売り切れてしまいまして……」
エプロンで手を拭きながら、かろうじて声を絞り出した。
女は私を頭の先から爪先まで、値踏みするように冷たい視線で見下ろした。その瞳に浮かんでいたのは、純粋な嫌悪と蔑みだった。
「パンを買いに来たわけではありませんわ。……あなたが、ハンナという娘ね」
「はい」
「わたくしはクラウディア。アウエルスバッハ伯爵の娘です」
アウエルスバッハ。
下町の私でも知っている、王都の軍部を牛耳る名門貴族の家名だ。
クラウディア令嬢は、カウンターの前に立つと、指先一つ触れようとせずに私を見つめた。
「手短に言いますわ。クルト卿に付きまとうのは、今日限りでおやめなさい」
氷のように冷たい声だった。
「付きまとうだなんて……私は、そんなつもりは――」
「つもりがあろうとなかろうと、現に彼は王宮の重要な行事を放り出し、このような掃き溜めに通い詰めているではありませんか」
掃き溜め。
父と母が遺してくれて、私が毎日夜明け前から火を焚き、守ってきたこの店を、彼女は何のためらいもなくそう呼んだ。
反論しようと口を開きかけたけれど、喉の奥が引きつって声が出ない。
「彼はね、ただの平民ではありませんのよ。神託を受け、竜を殺し、王国を救った英雄です。彼にはこれから、貴族としての名誉ある家名と領地が与えられ、王家の血筋に連なる令嬢を娶り、国の盾として生きる義務があるのです」
クラウディア令嬢は、扇の先で私の胸元を軽く指した。
「分かりますこと? 彼が背負うべき未来の重さが。……あなたのような、文字もろくに読めない、粉と煤にまみれた平民の娘が、彼の隣に並べると思って? 夜会で挨拶一つできず、社交界で彼に恥をかかせるだけですわ」
帳面も値札も読める。けれど、王宮で使うような難しい言葉は知らない。
その違いを口にするだけの余裕がなかった。彼女の言う通り、隣に立った私を見てクルトまで笑われたら。そこを考えると、悔しいのに声が出なくなる。
私は、自分の手を見下ろした。
赤切れだらけで、爪の間に小麦粉が入り込み、手のひらはタコだらけ。
目の前に立つ彼女の、白く透き通るような滑らかな手とは、まるで違う生き物の手だった。
「彼はいま、戦場から戻ったばかりで混乱しているだけです。昔の記憶に縋りついているだけ。それをいいことに、幼馴染という立場を利用して英雄様を囲い込もうなど……浅ましいにもほどがありますわ」
クラウディア令嬢は従者に目配せをした。
従者が一歩進み出て、ずっしりと重みのある革袋をカウンターの上に置いた。
紐の隙間から、鈍い黄金の輝きが覗いている。
「これを受け取りなさい。この店を畳んで、王都から出ていくには十分すぎる額です。彼の輝かしい経歴に、下町の汚点を残さないでちょうだい」
金貨の袋。
カウンターの上に置かれたそれは、私の人生そのものを買い叩くような重みを持っていた。
悔しさと、みじめさで、視界が歪む。
あいつがただの鍛冶屋の倅だったなら、こんな令嬢にお金を叩きつけられることもなく、二人で笑っていられたのに。
どうして、あいつは英雄になんてなってしまったんだろう。
どうして、私はこんなにも無力なんだろう。
「……っ、お金は、受け取れません」
私は拳を握りしめ、震える声で絞り出した。
「私は……クルトを囲い込もうとなんてしていません。あいつが来たいと言って来ているだけで――」
「聞き分けのない娘ね」
クラウディア令嬢の目が、すっと細められた。
「平民の分際で、伯爵家の施しを拒むというの?」
彼女は金貨の袋の下から、折り畳んだ書面を抜き出した。伯爵家の紋章と、太い署名が見える。
「父は軍の食糧調達を預かっています。王都の粉商も薪商も、父との取引は失いたくないでしょうね。この店へは卸さないようにと、頼むだけで済みますわ」
私は紙を受け取った。店の名前に続いて、粉と燃料の納入を止めるという文言があった。
「こちらへ商売を譲り、立ち退くと署名すれば、その指示は出しません。簡単なことでしょう」
手が震えた。金を断るだけでは終わらない。明日から焼くパンそのものを奪うつもりなのだ。
その時だった。
バァァァンッ!!
すさまじい轟音とともに、店の表扉が蹴破らんばかりの勢いで跳ね開いた。
「誰の店を潰すって?」
店の空気が一瞬で凍りついた。
夕闇を背負って立っていた男の全身から、濃密な殺気が噴き出していた。




