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あいつが英雄になる前に、告白しておけばよかった  作者: 九葉(くずは)


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第五話 あの夜、言えなかった言葉の正体

 夕方の仕込みの時間、西日が差し込む厨房で、私は粉をふるいにかけていた。

 サラサラと落ちる白い粉の音だけが、静かな店内に響く。


 あいつは本当に、夕方にまたやってきた。


 今度は木箱に座ることもなく、裏口からぬっと入ってきて、勝手知ったる調子で作業台の端に寄りかかっていた。

 豪奢な上着の袖をまくり、逞しい腕を組んで、私の手元をじっと見ている。粉をふるい終え、水を足して生地を捏ね始めても、動こうとしない。


「やりづらいんだけど。あっち行っててよ」


「嫌だ。行くところなんかねえ」


「王宮に自分の部屋くらいあるでしょ。宮殿よ、宮殿。ふかふかのベッドがあるんじゃないの」


「広すぎて落ち着かねえ。扉も三つある。どこが鳴ったのか、寝てると分かんなくなる」


 ぶっきらぼうな答えに、生地をこねる手が止まりそうになる。

 あいつは、本当に神経をすり減らしてきたのだ。

 敵の気配に怯え、いつ寝首を掻かれるか分からない泥沼の戦場で二年間を過ごして、今度は権謀術数が渦巻く王宮に放り込まれた。

 昔は店の隅でも居眠りしていたあいつが、扉を数えて眠れずにいる。


 胸が痛む。

 だけど、だからこそ、私は二年前のことを思い出さずにはいられなかった。


「ねえ、クルト」


「なんだ」


「あんた、二年前の夜のこと……なんで今さら蒸し返すのよ」


 生地についた指をこすりながら、私は顔を上げずに言った。

 作業台に落ちる夕日の影が、わずかに揺れる。


「あの夜の話って、何のこと? あんたは何も言ってなかったじゃない。私がパンを渡して、戸を閉めた。それだけよ」


「そうだな。最後まで言えてねえ」


 クルトの声が低くなった。

 私の手元を見ていた目が、ゆっくり上がった。


「俺はあの夜、お前に言おうとしてたんだよ。『待っててくれ』って。『生きて帰ったら、俺の嫁になってくれ』ってな」


 ドクン、と心臓が跳ね上がった。

 分かっていた。

 薄々感づいていたからこそ、あの夜、私は逃げたのだ。


「……っ、そんなの、言われなきゃ分かるわけないでしょ!」


「言おうとしただろうが! 口を開きかけたところで、お前が引きつった顔でパンを押し付けて、俺の目の前で扉をバタンと閉めたんじゃねえか!」


 クルトが作業台をドンと叩いた。

 小麦粉がふわっと舞い上がる。

 見上げると、あいつの黒い瞳が、怒りと悔しさに濡れていた。


「俺がどんな思いで王都を出たと思ってんだよ。戦場に向かう馬の上で、お前のあの引きつった笑顔と、叩きつけられた扉の音ばっかり頭の中で反芻してたんだぞ」


「クルト……」


「俺は振られたのか? それとも、ただ引き止める価値もねえ男だと思われたのか? それとも……俺が英雄なんて厄介者になっちまったから、関わりたくなくて捨てられたのか?」


 吐き出すような言葉の一つひとつが、胸を抉った。

 そんな風に思わせていたなんて。

 振られたのだと思わせたまま、命懸けの戦場へ送り出してしまった。


「違う……! そんなんじゃない!」


 私は堪えきれずに叫んでいた。

 こねかけのパン生地を放り出し、粉のついた手で自分の胸元をぎゅっと掴む。


「あんたを振ったんじゃない! 捨てたわけでもない! ……怖かったのよ!」


「何がだよ!」


「あんたの足枷になるのが怖かったの! 聖剣に選ばれた英雄様よ!? これから国中の期待を背負って戦いに行く男に、下町のパン屋の娘が『行かないで』なんて言えるわけないじゃない! でも、待ってるって約束したら、きっと引き止めてしまうと思ったの!」


 喉が張り裂けそうだった。

 二年間、誰にも言えずに自分の腹の底に溜め込んできた感情が、溢れ出していく。


「それに……それだけじゃないわよ! 私だって狡いの! あんたが遠い雲の上の人になって、いつか私なんかのこと忘れちゃうのが怖かった! 生きて帰ってきても、綺麗な貴族の娘さんと結婚して、私との約束なんてなかったことにされるのが……死ぬほど怖かったのよ!」


 言ってしまった。

 美談なんかじゃない。

 あいつのためを思って身を引いた聖女なんかじゃない。

 ただ自分が傷つきたくなくて、みじめな思いをしたくなくて、先に扉を閉めてあいつを拒絶したのだ。

 そんな浅ましくて臆病な女が、私だった。


「だから、あんたが英雄になる前に……」


 声が掠れて、涙がポロポロとこぼれ落ちて作業台の粉を濡らした。


「あんたがただの鍛冶屋の悪ガキだった時に、好きだって言っておけばよかったって、ずっと後悔してたのよ」


 静寂が、夕暮れの厨房を包み込んだ。

 私は顔を覆って、子供みたいに泣きじゃくった。

 全部ぶちまけてしまった。これで終わりだ。こんな情けない本音を聞かされたら、あいつだって幻滅して、二度とここへは来なくなる。


 けれど。


 クルトが作業台を回り、私の肩に手を添えた。顔を上げると、あいつが腕を開いた。

 私が寄りかかると、その腕が背中へ回った。

 私の粉だらけの顔が、あいつの上等なシャツに押し付けられる。

 クルトは私の後頭部に大きな手を回し、何度も抱き直した。シャツが粉だらけになるのも構わなかった。


「ばーか」


 頭の上から降ってきた声は、怒っていなかった。

 ひどく震えていて、掠れていた。


「足枷だなんて、誰が言ったよ。重荷だなんて、誰が思うかよ。……俺にとっては、命綱だったんだよ」


「クルト……」


「忘れられるわけねえだろ。何度もお前に手紙を書こうとした。けど、もう来るなって返事が来たらと思うと、書けなかった」


「あんたも?」


「なんだよ。お前もか」


 笑おうとして、二人とも変な息が漏れた。


「帰ってきたんだ。今度は途中でやめたくねえ」


 あいつの心臓が、私の耳のすぐ側で、痛いくらいに激しく打っていた。

 温かい。

 二年間、ずっと欲しくてたまらなかった温度が、今ここにある。

 思わずあいつの背中に手を回しかけた――その時だった。


 ガラガラガラ……と、下町の通りには似合わない、重々しい車輪の軋む音が店の前に響いた。


 一頭立ての荷馬車じゃない。

 重い馬車の車輪に、何頭分もの蹄の音が重なっている。


 ピタリと店の前で馬車が止まり、若い女の声が、裏口まで届いた。


「こちらですか。ずいぶんと薄汚れた店ですこと」


 私たちは同時に表の方を見た。

 抱きしめ合っていた私たちの空気が、一瞬で凍りついた。

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