第四話 木箱に座る英雄様
昨夜の騒ぎは、夢だったんじゃないか。
そう思いたかった。
朝の四時。まだ夜の冷気が残る下町の空気の中、私は釜に薪をくべながら、ぼんやりと炎を見つめていた。
カウンターの上には、あいつが叩きつけていった擦り切れた銀貨が一枚、ぽつんと置かれている。指先で触れると、ひんやりと冷たかった。
「あんな大見得切ったって、どうせ来れるわけないでしょ」
国王陛下に謁見して、貴族たちから詰め寄られて、お説教を食らって軟禁でもされているに決まっている。
相手は国の英雄で、近衛騎士団が総出で監視しているのだ。
下町のパン屋に通い詰めるなんて暴挙、王宮が許すはずがない。
五時を過ぎた。来ないならその方がいいと自分に言い聞かせながら、焼き上がったばかりの丸パンを籠に並べ、店の表の扉を開けた。
朝一番の青白い光が通りに差し込んでくる。
そして――私は持っていたパンの籠を取り落としそうになった。
「なんでいるのよ」
店の前の通り。
魚屋が使うような、塩の染み込んだ粗末な木箱の上に、どっかりと腰を下ろしている大男がいた。
仕立てのいい黒い上着を着ているけれど、甲冑はつけていない。
長い足を窮屈そうに折り曲げ、木箱に座って、不機嫌そうに腕を組んでいる。
少し離れた大通りの角には、一台の豪奢な馬車と、こちらを見守る二人の近衛兵が見えた。一人は馬の鼻先を撫で、もう一人は門の時計を見ていた。
「遅えぞ、開店」
クルトは私の顔を見るなり、開口一番そう吐き捨てた。
目の下にうっすらと隈がある。昨夜、王宮で散々絞られたのは間違いなさそうだった。
「あんた、本気で来たわけ……!? 監視がついてるじゃないの!」
「行き先を言って、朝のうちに戻る約束もした。今度は文句ねえだろ」
クルトは立ち上がると、大股で店の中に入ってきた。
相変わらず無駄に背が高くて、うちの狭い店がさらに狭く感じる。
あいつはカウンターに並んだ焼きたてのパンを値踏みするように見下ろし、一番焦げ目の強い、不格好なやつを素手でひっつかんだ。
「これだ。二つ寄越せ」
「ちょっと、トング使いなさいよ! 行儀が悪い!」
「昔から手づかみだろ。あちっ……うめえ」
熱々のパンを両手で割って、湯気が立ち上る生地をそのまま口に放り込む。
あいつは目を細め、喉をごくりと鳴らした。
その顔を見ていたら、朝から張り詰めていた肩の力が抜けて、どっと疲れが押し寄せてきた。
「代金は昨日の銀貨のお釣りから引いとくからね」
「おう」
クルトはパンを片手に店を出ると、またさっきの木箱に腰を下ろした。
王国の最高戦力、竜殺しの英雄様が、下町の薄暗い路地裏で、木箱に座ってパンをかじっている。
向かいの八百屋の看板と妙に馴染んでいて、昨夜の騒ぎが馬鹿みたいだった。
そして、下町の朝は早い。
通りには、ぽつぽつと仕込みや仕事に向かう近所の人々が出始めていた。
「あれっ……? おい、ハンナのところの前にいるの、もしかして……」
「嘘だろ、昨日のパレードの……英雄様じゃねえか!?」
「おいおい、なんでこんなとこに!?」
ひそひそ声があっという間に広がり、通りのあちこちから顔が覗く。
しまいには、向かいの八百屋の親父が、葱の束を抱えたまま恐る恐る近寄ってきた。
「あ、あの……クルトの坊主……いや、英雄様でいらっしゃいますかい……?」
クルトはパンを口にくわえたまま、親父をぎろりと睨みつけた。
「親父、うるせえ。坊主でいい」
「ぶ、無事だったんだな、クルトぉぉぉ!」
八百屋の親父が叫ぶと、それを合図にしたように、近所のおばちゃんや鍛冶屋の職人たちがわらわらと集まってきた。
下町の人間の距離感の近さは、相手が英雄だろうとお構いなしだ。
「なんだよ、錦を飾って帰ってきたってのに、相変わらず愛想がねえな!」
「王宮の綺麗なごちそうに飽きて、ハンナのパンが恋しくなったのかい?」
「おいクルト! うちに来た酒屋が言ってたぞ。祝宴で縁談を持ちかけられて、全部断ったんだってな!」
ドッと下品な笑い声が路地裏に響く。
クルトはパンを飲み込むと、耳の付け根まで真っ赤にして顔を背けた。
「朝からうるせえ連中だな。あっち行け」
「照れてやがるぞ、こいつ!」
「昔っからハンナのケツばっかり追いかけてたもんなあ!」
「てめえら、ぶっ飛ばすぞ!」
英雄様が木箱から立ち上がり、八百屋の親父を追うふりをする。
親父たちは大笑いしながら逃げていく。
二年前と、何ひとつ変わらない光景だった。
あいつがどれだけ偉くなっても、この下町ではただの「悪ガキのクルト」なのだ。
そのやり取りを店の奥から見つめながら、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
……けれど、同時に。
冷たい影が、心の端っこに落ちる。
大通りの角に停まった、豪奢な馬車。
近衛兵が帳面を閉じ、王宮の方を見た。そろそろ戻る時間なのだろう。
下町の人たちは笑っている。
クルトも、ここでは息が吸えているように見える。
でも、あいつがいるべき場所は、本当はここじゃない。
人波が引けた後、クルトは最後のかけらを口に放り込み、空になった両手を叩いて立ち上がった。
そして、カウンター越しに私を見下ろしてくる。
「ハンナ。今日の夕方、また来る」
「来なくていいってば。あんた、本当に縁談を全部断ったの?」
我慢できずに尋ねてしまった。
クルトは眉をひそめ、あからさまに不機嫌そうな顔をした。
「断った。名前も知らねえ女房なんかもらって、誰が喜ぶんだよ」
「侯爵家の令嬢とか、王家の血を引く人だっているんでしょ。あんたの将来のためには、そういう後ろ盾があった方が――」
「言わせんな」
クルトが低く遮った。
その目が、真っ直ぐに私を射抜く。
怒っているわけじゃない。だけど、絶対に譲らないという、頑固で硬い光だった。
「勝手に俺の嫁を決めんな、ハンナ」
「なっ……! 私はあんたの心配をして――」
「心配してくれるなら、俺に聞けよ。どこで、誰と暮らしたいのか」
あいつは背を向け、大通りで待つ馬車へと歩き出した。
その背中を見送りながら、私は唇をぎゅっと噛み締めた。
あいつは今、意地を張っているだけだ。
戦場から戻ったばかりで、気が立っていて、昔の日常にしがみついているだけ。
時間が経てば、いずれ正気に戻る。
貴族の世界の華やかさと、自分の手に入れた権力の大きさに気づいて、こんな粉臭い下町の店のことなんて忘れていくはずなのだ。
忘れてくれなきゃ、困るのに。
そう自分に言い聞かせる胸の奥で、泣き叫びたいほどの痛みが広がっていくのを、私は止めることができなかった。




