第三話 銀貨一枚の居座り宣言
薄いガラス窓の向こうで、無数の松明の灯りが揺れていた。
金属の擦れ合う冷たい音。馬の鼻息。
ただのパン屋の前の通りが、まるで戦場のように張り詰めているのが壁越しでも分かった。
「……っ、クルト卿! 中にいらっしゃるのは分かっております!」
怒声というよりは、胃の腑の底から絞り出すような切迫した声だった。
隊長格の男だろう。焦りと苛立ちが痛いほど滲み出ている。
「王宮の祝宴を抜け出すなど、前代未聞の不祥事にございます! 国王陛下もお怒りです! どうか、穏便にお戻り願いたい!」
心臓が早鐘を打つ。
不祥事。その三文字が、私の頭を殴りつけた。
あいつは王宮を脱走して、ここへ来たのだ。
下町の貧乏パン屋の娘と会うために、国の英雄が祝宴を放り出したなんてことが公になれば、あいつの立場はどうなる?
平民出の英雄を引きずり下ろそうと手ぐすね引いている貴族たちにとって、格好の餌になってしまう。
私のせいで、あいつを台無しにするわけにはいかない。
冷たくなった指先で、エプロンを握りしめた。
背後に立つクルトを振り返る。
あいつはといえば、舌打ちを一つしただけで、動じる様子すらなかった。
扉へ向けた目だけが、さっきより険しくなっていた。
「おい、ハンナ。裏口から出るぞ。こんな連中、撒くのはわけねえ」
「馬鹿言わないで!」
私はあいつの前へ回り込んだ。
震える声に力を込めて、正面からクルトの胸元を睨みつける。
「これ以上、騒ぎを大きくしてどうするの! 逃げ回る気!? あそこには騎士団がいるのよ! あんたが背負ってるのは、もう自分の命だけじゃないんでしょ!」
「ハンナ――」
「黙ってて!」
私はあいつの言葉を聞くのが怖くて、背を向けた。
厨房を駆け抜け、表の売り場へと飛び出す。
震える指先で木のかんぬきを外し、重い表扉を押し開けた。
夜の冷気が一気に肌を刺す。
眩しい松明の火に目を細めると、青いマントを羽織った十人ほどの近衛兵と、馬上で眉間を揉んでいる中年の騎士がいた。
松明を持つ兵士は息を切らし、隊長の馬も汗をかいていた。
「娘さん。クルト卿は中にいるな?」
馬上の騎士が厳しい視線で私を見下ろしてきた。部下からハイツ隊長と呼ばれている。
値踏みをされている気がして、私は粉のついたエプロンを握った。
胸がぎゅっと痛む。けれど、ここで引くわけにはいかない。
私は深く、深く頭を下げた。
下町の平民が、身分の高い貴族に対してする、教科書通りの礼だ。
「はい、騎士様。クルト様はこちらにいらっしゃいます。昔の知人である私の店に、戦勝の折にパンの差し入れを所望され、立ち寄られただけでございます」
わざと作った、よそよそしく慇懃な声。
自分の声なのに、耳の奥でひどく浅ましく響いて吐き気がした。
「夜分遅くに、王宮の大切なお方をお引き止めしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。パンのお代は結構ですので……どうぞ、英雄様をお連れ帰りください」
これでいい。
ただの平民の娘が、昔のよしみでパンを恵んだだけ。
色恋でもなんでもない、くだらない偶然の立ち寄り。
そう処理されれば、あいつに傷はつかない。あいつは英雄のまま、私は下町のパン屋のままでいられる。
「おい」
背後から、低く地を這うような声が降ってきた。
振り向く暇もなかった。
私の横を、銀色の甲冑が通り過ぎた。
クルトが一歩前に出て、騎士と向き合う。
「クルト卿!」
ハイツ隊長の顔色が変わる。馬から飛び降りて、歩み寄ろうとする。
だが、クルトが向けた眼光の鋭さに、近衛隊長が一瞬、気圧されて足を止めた。
「ハイツ隊長。夜中にご苦労なこったな」
「クルト卿、まだ祝宴の途中です! 陛下が三日後の叙爵についてお話をされるはずが、ご不在では――」
「ハンナに言うな。出てきたのは俺だ」
クルトの声音が、一段と冷え切った。
あいつは私の前に立ったまま、振り返りもしない。
「ふざけんな。ここは俺が飢え死にしそうだったガキの頃から、ずっと飯を食わせてもらってた店だ。俺の居場所を、俺に断りもなく取り上げるな」
「クルト、やめなさいって……!」
私は後ろからあいつの腰の革帯を引っ張った。
けれど、岩のようにびくともしない。
「ハイツ。俺は脱走した覚えはねえぞ。祝宴の席で『少し風に当たってくる』と言ったはずだ。それが長引いただけだろ」
「長引いたどころの騒ぎではありません! 王宮からここまで走って来られたのでしょう! それに、代金も払わずにパンを所望などと――」
「払うさ。今払うところだったんだよ」
クルトは乱暴に自分の懐へ手を突っ込んだ。
取り出したものを、扉のすぐ内側にある木製カウンターの上に置く。
カラン、と硬い金属音が夜の空気に響いた。
それは、周囲の近衛兵たちが身につけている装飾品に比べれば、あまりにもみすぼらしいものだった。
角が丸くなり、あちこちに細かい傷のついた、一枚の古い銀貨。
王都で流通している、なんの変哲もない銀貨だ。
だけど、私は息を呑んだ。
その銀貨の真ん中には、あいつがガキの頃に小刀で刻んだ、不恰好な傷が残っていたからだ。
「あ」
「二年前のツケだ」
クルトが、私の顔を横目で睨みつけながら言った。
怒りと、意地と、そして泣き出しそうなほどの必死さが混ざり合った、不器用な顔だった。
「あの夜、お前が受け取らなかったパン代だ。戦場でも肌身離さず持ってた。……やっと払えたぞ、店主」
二年間。
化け物と殺し合い、泥水をすすりながら、あいつはずっとこの銀貨一枚を握りしめて戦っていたのか。
私が逃げるように押し付けた、あの焼き立てのパンの代金を払うためだけに。
「な、何を馬鹿な……そんなの、もういいって――」
「よくねえよ」
クルトは隊長に向き直り、銀貨を顎でしゃくった。
「見ただろ、ハイツ隊長。俺はただの客だ。ツケを払いに来て、ついでに夜食を食ってただけだ。……それから、もう一つ言っとく」
あいつの手が、カウンターに置いた私の手に触れた。
騎士たちが見ている。引っ込めようと思ったのに、私は指を動かせなかった。
「俺は明日からも、毎朝ここへ朝飯を買いに来る。どんな命令だろうが、これだけは譲らねえ。文句があるなら陛下にそう言え。『英雄殿は下町のパン屋の飯じゃなきゃ胃が受け付けないそうです』ってな」
「朝食に出られるのは構いません。せめて行き先をお知らせください」
ハイツ隊長は長く息を吐いた。
「我々は卿を幽閉するためにいるのではありません。急に姿が消えれば、誘拐も襲撃も疑います。娘さんも、騒がせて申し訳なかった」
頭を下げられ、今度は私が返事に困った。
「分かった。明日の朝飯の予約をしたら戻る。少し待ってくれ」
クルトはそれだけ言うと、私を振り返った。私はあいつの手を引いて店に戻った。
バタン、と扉が閉ざされ、かんぬきが下ろされる。
外の喧騒が遠のき、静まり返った薄暗い店内で、私は肩で息をしながらあいつを見上げた。
「あんた、本当に大馬鹿だよ」
怒りよりも先に、涙が滲んで視界がぼやけた。
あんなことをしたら、もう後戻りなんてできない。
世間が、貴族たちが、あいつを放っておくはずがないのに。
クルトは握りしめた私の手を離さないまま、気まずそうに、だけど絶対に退かない頑固な目で私を見つめ返した。
「馬鹿で結構だ。話はまだ終わってねえからな」
そう言って、あいつはようやく手を離した。
釣り銭は次でいいと言い残し、今度は表の戸から、待っていた騎士たちと帰っていった。
カウンターの上で、古ぼけた銀貨が一枚、ランプの明かりを浴びて静かに光っていた。




