第二話 英雄の胃袋は、あの頃のまま
「あの夜の話って、なんのことよ」
私は手首をエプロンに隠しながら、どうにか声を出した。
触れられたところに、まだあいつの体温が残っている。
「とぼけんな。二年前の夜だ。俺が喋ってる途中でパンを押し付けて、戸を閉めやがっただろうが」
「あ、あれはあんたが翌朝には出発するから、気合を入れてあげようと――」
「嘘つけ」
間髪容れずに低く遮られた。
至近距離で睨みつけられて、喉が詰まる。
クルトは口下手で言葉足らずのくせに、私のくだらない誤魔化しだけは絶対に逃さなかった。
グゥゥゥゥ……。
張り詰めた空気を切り裂いて、気の抜けた重々しい音が厨房に響いた。
あいつの腹の底からだった。
「……」
「あんたねえ」
私はため息をついた。
クルトは自分の腹を押さえ、気まずそうに視線を横へ逸らしている。
英雄様だろうが竜殺しだろうが、腹が減れば間抜けな音を立てる。その拍子抜けするほどの変わらなさに、張り詰めていた肩の力がわずかに抜けた。
「とにかく座りな。誰かに見られたらどうすんのよ。あの豪勢な祝宴で、美味しいご馳走をたらふく食ってきたんじゃないわけ?」
「食えるか、あんなもん」
クルトは吐き捨てるように言って、泥だらけの甲冑をガチャガチャと鳴らしながら厨房の隅にある丸椅子に腰掛けた。
下町の安酒場で使われているような、脚のぐらつく粗末な木製の椅子だ。
白銀の甲冑を着た男が座ると、今にもへし折れそうに見える。
私は裏口の戸を閉めてかんぬきを差し込むと、ため息交じりに釜の横の棚を開けた。
「ご馳走なんてないよ。昼の売れ残りのライ麦パンと、夕飯の豆の煮込みしかないよ。火を落としたから、少し待って」
「なんでもいい。早く寄越せ」
釜に残った熾火で小鍋を温め、豆のスープを器によそった。木の皿にパンの端切れを並べ、テーブルに置く。
スプーンを添えると、クルトはそれをひったくるように奪い、パンをスープの汁に無理やり浸して口へ運んだ。
がつがつと、まるで何日も飯を食わされていない野良犬みたいな勢いだった。
パンを噛み砕く鈍い音が厨房に響く。
喉が詰まりそうになりながら、あいつは器に残った汁まで一滴残らず啜り上げた。
「うめえ」
ふう、と長い息を吐き出して、クルトが呟いた。
その顔は、パレードで大通りを行進していた時の冷酷な顔とはまるで別人の、ひどく疲れ切った青年の顔だった。
「あんたねえ、王宮の料理って言ったら、子羊のローストだの最高級のワインだの、山ほど出たでしょ。なんで下町の売れ残りのパンなんかで泣きそうな顔してんのよ」
「食ってる暇がねえんだよ」
クルトは空になった器を見つめたまま、忌々しそうに吐き捨てた。
「皿が来るたびに誰かが挨拶に来る。立って握手して、娘を紹介されて、座ったらまた次だ。気がついたら肉が冷えてやがった。腹は減ってんのに、食おうとすると気持ち悪くてよ」
淡々とした声だったけれど、その奥にどれだけの疲弊と嫌悪が溜まり込んでいるかが痛いほど伝わってきた。
世間はあいつを『奇跡の英雄』と持て囃す。
だけど、クルトはただの平民の鍛冶屋の倅だったのだ。
神託なんてものに選ばれ、ろくに礼儀作法も知らないまま戦場へ放り込まれ、死線をくぐり抜けて帰ってきたら、今度は金と権力に群がる貴族たちの玩具にされかけている。
あいつの黒い髪の隙間から覗く首筋には、甲冑の擦れ跡と、生々しい火傷の痕が残っていた。
戦場で、どれだけの地獄を見てきたのか。
触れたい、と思ってしまった。
無意識に、右手が伸びていた。
昔みたいに、粉のついた手であいつのくしゃくしゃの黒髪を撫でて、「大変だったね、よく帰ってきたね」と言ってやりたかった。
だけど。
指先があいつの髪に触れる寸前で、私の頭の中に冷や水がぶっかけられた。
『英雄様万歳! 竜殺しの英雄万歳!』
昼間の、耳をつんざくような大歓声が蘇る。
白馬の上で、手の届かない高みにいたあいつの姿が。
もうすぐ国王から爵位を授かり、国の中枢を担うはずの男。
それに対して、私は粉まみれのエプロンをつけた、下町のパン屋の娘だ。
あいつが弱っているからといって、昔の距離感で甘えていいはずがない。
ここで私が情に流されたら、あいつの足枷になる。
平民の娘に現を抜かしているなんて噂が立てば、せっかく命懸けで勝ち取ったあいつの名誉が傷つくのだ。
私は伸ばしかけた手を、ぎゅっと握りしめて引っ込めた。
エプロンの後ろに隠すようにして、一歩、後ろへ下がる。
「あ」
息を呑む音がした。
見上げると、クルトが私の手を、そして後ずさった私の顔を見つめていた。
クルトは何か言いかけて、口を閉じた。私が引っ込めた手を、まだ見ていた。
「ハンナ。あんた、今」
「クルト。もう遅いよ。早く王宮に戻りなさい」
あいつの言葉を遮って、私はわざと冷淡な声を作った。
声が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて押し殺す。
「抜け出してきたなんて知れたら大問題になるわ。あんたはもう、下町で泥遊びしてた頃のガキじゃないんだから。……これ以上ここにいたら、迷惑よ」
迷惑。
その二文字を口にした瞬間、クルトの顔からすっと表情が消えた。
あいつの肩が、微かに震える。
「迷惑、だと?」
低く、地を這うような声だった。
立ち上がったクルトは、私よりも頭二つ分背が高くなっていた。
私がもう一歩下がると、あいつは足を止めた。空の器に添えた手だけが、妙に固く握られている。
「俺が命がけで帰ってきた場所を、迷惑の一言で片付ける気かよ。お前、本当に俺が……なんのためにあの地獄から生きて戻ってきたと思ってんだ」
「クルト、声、大きいよ」
「だったら聞けよ! 俺はな――」
その時だった。
ジャリ、ジャリ、ジャリ。
統制の取れた、硬い金属の靴音が、夜の路地裏に響き渡った。
一人や二人ではない。何人もの兵士が駆けてくる。
馬が嘶き、店のすぐ外で蹄の音が止まった。
次の瞬間、外から張り詰めた男の怒声が響き渡った。
「裏路地にも灯りを回せ! クルト卿、こちらにおいでですか! 近衛騎士団がお迎えに上がりました!」
店の薄い窓ガラスがビリビリと震えた。
私は血の気が引いていくのを感じながら、青ざめた顔で店の表を見つめた。




