第一話 凱旋パレードと、焦げたパンの匂い
窓の外から聞こえてくる歓声は、地鳴りみたいだった。
「英雄様だ! クルト様が通られるぞ!」
「竜殺しの英雄万歳! 王国の守護神万歳!」
大通りを埋め尽くした群衆が、紙吹雪を撒き散らしながら喉をからしている。
私はといえば、粉だらけのエプロンの端で両手を拭いながら、下町の薄暗い店の軒先から背伸びをして、そのパレードの端っこを眺めていた。
見えたのは、ほんの一瞬だった。
背の高い白馬にまたがった男の、黒い髪と、銀色に光る分厚い甲冑の肩当て。
二年前まで、擦り切れた革の上着を着て、うちの店の裏口で「ハンナ、腹減った。昨日の残りの硬いパンくれ」と喚いていたあいつの面影は、遠目には見つけられなかった。
ただ、遠くからでもわかるほど眉間に深い皺を寄せて、大通りを埋める貴族や民衆の熱狂を、ひどく冷え切った目で見下ろしていた。
その不機嫌そうな横顔だけが、私の知っているクルトだった。
「あいつ、絶対肩凝ってるな」
そう呟いてから、誰にも聞かれていないか左右を見た。
なにを言っているんだろう、私は。
あいつはもう、下町の鍛冶屋の倅じゃない。
邪竜を討ち果たし、国王陛下から直々に爵位を賜る予定の『英雄様』なのだ。
あいつが英雄になる前に、ちゃんと好きだって言っておけばよかった。
胸の奥に、針で刺されたような痛みが走る。
二年間、毎朝パンを捏ねるたびに、嫌というほど繰り返してきた後悔だった。
二年前の、土砂降りの夜のことだ。
教会からの神託が下り、クルトが『聖剣に選ばれた者』として王宮に連れて行かれる前夜、あいつはずぶ濡れの姿で店の裏口にやってきた。
明日には王都を発ち、二度と生きて戻れないかもしれない戦場へ行く。そんな切羽詰まった空気の中、クルトは珍しく視線を泳がせながら、ボロボロの革袋から何かを取り出そうとしていた。
そして、何かを言いかけたのだ。
『ハンナ、俺、お前に――』
だけど私は、あいつの言葉を遮った。
怖かったのだ。
聖剣の勇者なんてものに選ばれてしまったクルトと、ただの貧乏パン屋の娘である私。
もしあそこで決定的な言葉を交わしてしまったら、あいつの足枷になってしまう。それ以上に、身分違いの恋なんて抱え込んで、手の届かない場所へ行ってしまったあいつに捨てられるのが、死ぬほど怖かった。
だから私は、わざとらしく明るい声を張り上げて、あいつの手の中に焼き立てのライ麦パンを押し付けた。
『頑張ってきなよ、クルト! 英雄様になっても、たまには下町のパンの味を思い出しなよね!』
引きつった笑顔でそう言って、あいつの顔も見ずに裏口の扉をバタンと閉めた。
かんぬきを下ろした瞬間、膝から崩れ落ちて、朝まで声を押し殺して泣いた。
あいつはしばらく扉の向こうに立っていた気配がしたけれど、やがて重い足音を立てて去っていった。
それっきりだ。
あいつは本当に英雄になり、私は相変わらず、朝の四時から小麦粉をこねる生活を続けている。
遠征軍への手紙を預かる窓口には、何度か行った。けれど、宛名だけを書いた紙を結局一度も渡せなかった。生きているかと尋ねる手紙さえ、返事が来ないのが怖かった。
パレードを見送って店に戻ると、下町の通りは静まり返っていた。
みんな大通りへ英雄の姿を見に行っているから、店には客の一人も来ない。
「よし、片付けるか」
頬を両手で叩いて、気合を入れ直す。
もう関係ない世界の話だ。
帰還を祝う式は、王宮で夜まで続くという。このあとには、大貴族たちを集めた祝宴もあるそうだ。
美しく着飾った公爵令嬢や伯爵令嬢たちが、こぞってクルトの隣を奪い合っているのだろう。あいつは口が悪いし無骨だけど、黙っていれば顔だけは整っているから、貴族の娘たちにもさぞかし持て囃されていることだろう。
胸の奥がぎゅっと縮んで、酸っぱい水が喉まで上がってきそうになる。
いけない。早く手を動かそう。
厨房に戻り、釜の灰を掻き寄せて、明日の仕込みのためにライ麦の粉をボウルに計り入れた。
水樽から水を汲む。
夜の帳が下りて、厨房の中はランプの油の匂いと、冷めかけたパンの匂いだけが満ちていく。
この匂いの中で手を動かしていれば、少しは余計なことを考えずに済んだ。
その時だった。
ドンドン! ドンドン!
店の裏口の木戸が、乱暴に叩かれた。
建て付けの悪い戸がビリビリと震えるほどの力だ。
「えっ?」
思わず粉のついた手を止める。
時計を見れば、もう夜の九時を回っている。
裏路地は街灯も少ない。こんな時間に裏口を叩くなんて、パレードに浮かれて酒を飲みすぎた酔っ払いか、たちの悪いゴロツキくらいのものだ。
「あの、もう閉店しました! パンなら明日の朝に来てください!」
声を張り上げて追い返そうとした。
けれど、戸を叩く音は止まらない。それどころか、蝶番が軋むほど勢いを増した。
ドカン! ドカン!
「おい、開けろハンナ! 俺だ!」
低くて、ひどく掠れていて、息の上がった声。
だけど、聞き間違うはずのない声だった。
「は?」
手に持っていた計量スプーンを取り落とした。
乾いた音を立てて床を転がる。
空耳だ。そんなはずがない。あいつは今頃、王宮のきらびやかな大広間で、極上のワインを飲んでいるはずなのだから。
「ハンナ! いるんだろ、明かりが見えてんぞ! 頼むから開けてくれ!」
大声ばかりで、名乗るのが遅いところも昔のままだ。
私は足をもつれさせながら裏口へ駆け寄り、震える手で木のかんぬきを引き抜いた。
ギィ、と鈍い音を立てて木戸が開く。
夜の冷たい空気と一緒に飛び込んできたのは、ひどい汗の匂いと、鉄の錆びた匂いだった。
「ハァ、ハァ……っ」
路地裏の暗がりに立っていたのは、幽霊でも幻でもなかった。
パレードで見かけたあの銀色の甲冑は、あちこちに泥が跳ねて薄汚れていた。
マントの裾は破れ、肩が激しく上下している。
王宮からここまで、馬も使わずに全力で走ってきたとしか思えない形相だった。
黒い髪は汗で額に張り付き、整った顔を台無しにするほど歪めて、そいつは私の顔を睨みつけていた。
「クルト……? なんで、あんた……」
声が震えて、まともに出ない。
王宮の祝宴はどうしたのか。近衛兵はどうしたのか。
何より、なんでこんな、下町の薄汚れたパン屋の裏口なんかに立っているのか。
呆然と立ち尽くす私を見下ろして、クルトは乱暴に自分の前髪をかき上げた。
肩で息をしながら、ギリッと奥歯を噛み鳴らす。
「祝宴なんざ知るか。貴族どもがうるせえから、窓から抜け出してきた」
「はぁ!? あんた、正気なの!?」
「正気じゃねえよ。二年間、ずっと正気じゃなかった」
クルトは一歩、ずいと厨房の中に足を踏み入れてきた。
泥だらけのブーツが、さっき掃き清めたばかりの床を汚す。文句を言おうとしたけれど、その前に、あいつの大きな手が私の手首を掴んでいた。
熱い。
戦場をくぐり抜けてきた男の、固いタコだらけの手のひら。
痛いくらいの力で握りしめられる。
「クルト、痛いってば!」
あいつは弾かれたように手を離した。私の手首に目を落とし、伸ばしかけた手を握り込む。
「悪い。力、入れすぎた」
低くて、切迫した声だった。
見上げると、クルトの黒い瞳が、痛々しいほど激しい光を宿して私を射抜いていた。
さっきまで戸を叩いていた男が、今は私の次の言葉を怖がっているように見えた。
「ハンナ。あの夜の話、まだ終わってねえぞ」
静まり返った下町の厨房に、あいつの掠れた声だけが、重く響いた。




