エピローグ 忘却のための静けさ
家を出てから、最初の数日は普通だった。普通、というのは正確ではない。ただ「考えないようにしていれば成立する日常」だった。
新しい場所
新しい朝
新しい音
それでも、時々だけ思い出す。あの家のことを。でも思い出そうとすると、輪郭が少しずつ曖昧になる。どの部屋だったのか、どの音だったのか、誰がいたのか。全部、少しずつズレていく。弟の顔ははっきりしているはずなのに、どこか一瞬だけ違う表情が混ざる。父と母も同じだった。“ちゃんといた”はずなのに、“ちゃんとした形”で思い出せない。
ある日、結衣はふと気づく。思い出しているのではなく、思い出そうとしている自分が残っているだけだ。それでも夜になると、たまに耳の奥が静かになる瞬間がある。その静けさの中で、何かが呼ぶ。
「結衣」
でも声はもう怖くない。とても穏やかで、どこか懐かしい。結衣は思い切って振り返る。あの家があった方向を…そこには、もう何もない。
ただの建物
ただの距離
でもその瞬間だけ、5階のベランダが見えた気がした。誰かが立って、手を振っている。穏やかに笑いながら。結衣は立ち止まる。怖くはない。ただ、少しだけ胸が痛い。あれが誰だったのかは分からない。でも“知っている”という感覚だけが残る。結衣は目をそらし、そして歩き出す。
もう振り返らない
その夜、結衣は夢を見た。音のない家。でも、確かに生活している気配。そこには誰かがいて、誰かがいて、誰がいた?そして最後に、静かに声がする。
「まだ、ここにいる」
結衣は目を開ける。朝になっている。部屋には何もない。ただ、少しだけ静かすぎる朝。でもその静けさはもう怖くない。結衣は思う。あの家は壊れたのではない。ただ、形を変えただけだ。誰かを守るために。誰かを揃えるために。そして、誰かを残すために。結衣はそっと目を閉じる。もう一度、あの声が聞こえる。でも今度は答えない。ただ、聞いている。
それでいいと思える程度には、音が遠くなっている。




