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家の中にいる音  作者: 伊丹 宝


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8/11

8音 最後の同調


「次の時間では、全員が正しく揃います」


その言葉のあと、放送は途切れた。途切れたはずなのに、終わった感じがしない。むしろ、家の中に残っている。結衣は玄関に立っていた。父もいる、母もいる、弟もいる。でも、その“いる”はもう安心できる形ではない。



コト……



誰かの足音が聞こえる。でも誰も動いていない。動いていないのに、音だけがある。弟が小さく言う。


「もう俺、どれが俺か分かんない」


結衣は弟を見る。弟は確かにそこにいる。でも同時に、ほんの少し離れた場所にも“同じ弟”がいるように見える。母が玄関のドアに手をかける。



カチ……



鍵の音。でもその音は“今”ではない。すでに何度も鳴っている音の1つにすぎない。父が言う。


「出るぞ」


その言葉に誰も疑問を持たない。ただ“そうなることになっている”から。結衣は思う。これは脱出ではない。何かから離れる行為ではない。ただ、“揃う”という状態に向かっているだけ。その瞬間だった…放送の音が聞こえる。今度は、家の中から聞こえる。



サー……



そして、はっきりとした声。


「確認します」


結衣は息を止める。


「結衣」


呼ばれる。でもそれは名前ではない。“状態”としての結衣だった。


「父」

「母」

「拓実」


次々に呼ばれる。そして最後に…。


「未確定の個体」


結衣は固まる。その言葉だけが、他と違う。弟が結衣を振り返る。


「それ、誰?」


結衣は答えられない。自分のことなのか、弟のことなのか、もう分からない。そのとき、玄関の外が少しだけ明るくなる。でも外ではない。“外だった場所”が明るくなっているだけ。放送が続く。


「これより、同調を行います」


同調……結衣はその言葉の意味を知らないのに、分かってしまう。揃えること、ずれを消すこと。でもそれは“消える”ことと同じではない。弟が一歩後ろに下がる。その瞬間。弟の姿が2つに分かれる。1つは玄関の中。もう1つは、ほんの少しだけ“遅れている”。どちらも弟。どちらも違う弟。


「ねえ、どっちが本物?」


結衣は答えられない。その問い自体が成立しない。放送が静かに言う。


「揃えます」

「揃えます」

「揃えます」

「揃えます」

「揃えます」

「揃えます」


その言葉のあと、家の中の空気が変わった。静かになったわけではない。むしろ、音が“整列”し始めた。



コト……


カタン……



バラバラだった音が、少しずつ同じ方向に揃っていく。結衣は気づく。これは止まっていない。整っているだけだ。父が一歩前に出る。その動きに、わずかに遅れてもう1人の父が動く。どちらも同じ。でも、少しだけ違う。母が玄関を見る。その視線にも、二重に重なっている。今の母と、今になる前の母。弟が小さく言う。


「これさ…揃ってるって、どっちが?」


結衣は答えられない。揃うとは、どれか1つになることではない。同じ形に“固定されること”だ。放送が続く。


「未確定個体の確認を行います」


結衣は息を止める。“未確定”…それはさっきの自分の名前だった。でも今は違う気がする。弟が結衣を見る。その視線の中にも、わずかなズレがある。


「ねえ…」


弟が言う。


「結衣って、さっきからどこにいる?」


結衣は答えようとして、やめる。“どこ”がもう意味を持たない。そのときだった。結衣の中に、もう1つの感覚が生まれる。自分が立っている場所と、少しだけ遅れて立っている場所。どちらも自分。でも、どちらも完全ではない。放送が言う。


「同調対象:拓実」


結衣は顔を上げる。弟が固まる。


「俺?」


その瞬間、弟の影が揺れる。1人ではない。でも、2人でもない。“揃えられる途中の形”になっている。父が一歩近づく。母も動く。その動きに、家全体が反応する。


玄関

廊下


すべてが同じ方向に向き始める。結衣は理解する。これは救いではない。整えることは、残すことではない。余白をなくすことだ。弟が小さく言う。


「これ、終わるの?」


放送が答える。


「終わりではありません。完了です」

「同調対象:拓実」


その言葉が落ちたあと、家の中の空気は一瞬だけ止まった。止まったというより、“次の形を待っている状態”だった。弟は玄関の前に立っている。結衣のすぐ隣にいるはずなのに、少しだけ距離が違う。同じ弟が2人いる。そのどちらも、今ここにいる。母が小さく言う。


「やめて!もう、やめて!」


でも、その声はもう遅い。放送が続く。


「揃えます」


その瞬間だった。弟が一歩、動く。



カタン。



音が鳴る。その音と同時に、弟“2人”が重なり始める。1つに戻るのではない。重なって、ズレが消えていく。結衣はその様子を見ているのに、目が追いつかない。どこまでが今で、どこまでが先だったのか分からない。弟が言う。


「結衣。これ、痛くない」


その声は2つある。でも感情は同じだった。放送が静かに続ける。


「未確定個体の処理を開始します」


結衣はその言葉に反応する。未確定…それは自分のことだ。でも、怖さは薄い。代わりにあるのは“まだ残っている感じ”だけ。弟の輪郭が揃っていく。バラバラだった時間が、ひとつに集まる。



コト……



最後の音。そして、弟は“弟として”1つになる。そこに、ズレはない。ただ1人の弟。その瞬間、放送が言う。



「同調完了」



静かになる。家の中から、音が消える。でもこれで終わりではない。“整った状態の静けさ”だった。父が言う。


「行くぞ」


母も頷く。結衣は立っている。弟もいる。全員が揃っている。でも結衣だけが、ほんの少しだけ違う。まだ“未確定”のまま。玄関が開く。外は、いつも通りの朝に見える。でも、その朝はもう“前の世界”ではない。家族は外へ出る。1人ずつ。結衣も歩く…最後に振り返る。家は、何も変わっていない。ただ静かに、そこにある。そのときだった。結衣の名前が、どこからか聞こえる。



「結衣」



優しい声。もう放送ではない。家でもない。でも確かに、そこにある。結衣はベランダを見る。


ー5階ー


そこに、人が立っている。知らないのに、知っている顔。穏やかに笑って、手を振っている。怖くない。むしろ、ずっとそこにいたような顔。結衣は一瞬だけ止まる。でも父が言う。


「早く、行くぞ」


結衣は歩き出す。振り返らない…ただ、最後に思う。あの家には、最初から何かがいた。そして今も、ちゃんとそこにいる。



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