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家の中にいる音  作者: 伊丹 宝


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4/11

4音 壁の向こうの静けさ

その朝、結衣は目が覚めたときから違和感があった。静かすぎる。そう感じた。でも実際には、いつも通り音はあった。冷蔵庫の低い音、時計の秒針、遠くの車の音。全部、いつも通り。それなのに、“家の中の音だけが足りない”。


リビングに行くと、母がいつも通り朝食を作っていた。父も新聞を読んでいる。弟も座っている。何も変わっていない。ただ1つだけ。壁の向こうから、音がした。



コト……



何かが置かれるような音。結衣は振り向くが、そこは壁だった。リビングの隅…何もない。


「今の聞こえた?」


結衣が言うと、母は首をかしげる。


「何もしてないわよ」


父も新聞から目を上げない。


「また、気のせいだろ」


弟だけが少しだけ顔をしかめる。


「…なんか、いた気がする」


その言葉が、結衣には引っかかる。“気がする”が、家の中で普通に使われ始めている。



その日の昼。壁の向こうから音が増える。



コト……


カタン……


コト……



規則性はない。でも、確かに“誰かの動き”のようだった。結衣は壁に近づいて触れてみるが、冷たい。何もないはずの壁なのに、少しだけ“向こうがある感じ”がする。弟が後ろから言う。


「ねえ、それさ…向こうに誰かいたりする?」


結衣は振り返る。


「いないよ」


でも弟は続ける。


「でも、いる感じがする」


その言葉で、結衣は気づく。まただ。“いる感じ”が、家の中で共通言語になっている。



夜、電気を消した部屋。壁の向こうから音がする。



コト……



今度ははっきりと聞こえた。何かが“動いている”。結衣は布団の中で息を止める。そして気づく。音は壁の向こうではない。壁そのものの中にある。



コト……



弟の部屋からも同じ音。父の寝室からも同じ音。母の部屋からも同じ音。家のすべての壁が、同じ“何か”を内側に抱えている。その日から、壁の向こうの音は『毎日あるもの』になっていった。最初は気のせいの延長だったはずの音が、いつの間にか“前提”のように存在している。



コト……


カタン……


コト……



朝でも夜でも関係なく、同じような間隔で鳴る。規則的でもなく、不規則でもない。ただ『続いている』というだけの音。結衣は、もう壁を見ても驚かなくなっていた。でも安心もしていない。



その日の昼、母がふと呟く。


「最近さ、隣の人静かよね」


結衣は手を止める。


「隣?」


母は少し考えてから言う。


「いや…違うかも。上の階かも」


その言葉に、結衣は違和感を覚える。“どこの隣か”"上の階"なのかが曖昧になっている。父も言う。


「そうだな、音が減ったな」


弟が首をかしげる。


「減った?」


「いや、増えた気もする」


その瞬間、結衣は気づく。全員が同じ家にいるのに、見えている“隣”が違っている。



夜、電気を消したあと。壁の向こうの音は少し変わった。



コト……


コト……


コト……



一定ではないのに、リズムだけはある。結衣は布団の中で耳を澄ます。すると気づく。音の「速さ」が少しずつ違う。部屋ごとに、違う速度で聞こえている。弟の部屋では速い。父の部屋では遅い。母の部屋では途切れている。そして結衣の部屋は……


一番“近い”。


結衣は息を止める。壁の向こうは同じはずだった。でも今は違う。“向こう”が複数あるように感じる。


夜、廊下で小さな足音がした。



コト……



弟の部屋のドアが少しだけ開く。結衣はすぐに起き上がり、弟の部屋へ向かった。すると弟が廊下に立っていた。廊下に出たまま、壁を見ている。


「何してるの?」


結衣が小さく聞く。弟は答えない代わりに、壁を向いたまま言う。


「ここ、向こうに何かある」


結衣は固まる。


「どこ?」


弟は壁を指さす。


「ここの中」


その瞬間、壁の向こうから音が少し強くなる。



コト……



まるで反応しているように。弟は一歩近づく。結衣が止める。


「やめて」


でも弟は止まらない。壁に手を当てる。その瞬間、音が止まる…完全に。静かになる。逆に怖い静けさだ。弟が小さく言う。


「今、向こう……見えた気がする」


結衣は弟の手を引く。そのとき気づく、壁は変わっていない。でも“向こうがある前提”で見えている。



深夜、家の中は異様に静かだった。コト……という音は、途中から一度途切れたまま戻ってこない。それがかえって不安だった。結衣は布団の中で目を開けている。時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。隣の部屋からは何も聞こえない。弟の気配もない。父も母も、眠っているはずだ。なのに、家の中が「空いている感じ」がしない。むしろ逆だった。何かが“詰まっている”ような感覚。そのときだった。



コト……



ほんの1回だけ。でも、その1回がはっきりしていた。壁の向こうではない。部屋の中だった。結衣は体を起こし、音のした方向を見る。壁ではない、部屋の隅。そこに、わずかな“違和感の濃さ”がある。形はない。でも、空気が少しだけ歪んでいるように見える。そこから、もう一度。



コト……



今度は近い。結衣は息を止める。そして気づく。“向こう”が壁の外にあるのではない。部屋の中に、少しずつ入り込んでいる。そのとき、廊下から弟の声がした。


「ねえ…」


小さい声。結衣は起き上がり、ドアを開ける。弟が立っていた。顔が少しだけ強張っている。


「今さ」


弟が言う。


「俺の部屋、向こうにあった…?」


結衣は言葉を失う。


「向こうって?」


弟はうまく説明できない顔をする。


「壁じゃない…でも、壁の“こっちじゃない方”にあった」


その言葉は、理解できないのに分かってしまう種類の言葉だった。その瞬間、リビングの方で音がした。



コト……



今度は父のいる方。



コト……



母のいる方。



コト……



家の中のあちこちで、同時に起きている。結衣は気づく。壁の向こうは1つではない。部屋ごとに違う“向こう”がある。そしてそれらが、今この家の中に重なっている。弟が小さく言う。


「ここ、もう同じじゃないよね」


結衣は答えられない。でも、否定もできない。そのときだった。弟が一瞬だけ、動きを止める。目線がずれる。


「今…俺、向こうにいた気がした」


結衣はすぐに弟の腕を掴む。冷たい。でも確かに“そこにいる”。ただ、ほんの少しだけ遅れているような感覚。弟が小さく笑う。


「…戻ってきた」


その言葉が怖かった。戻る、という概念がもう曖昧だったからだ。その夜、結衣は思う。この家は壊れているのではない。最初から「1つではなかった」のかもしれない。


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