4音 壁の向こうの静けさ
その朝、結衣は目が覚めたときから違和感があった。静かすぎる。そう感じた。でも実際には、いつも通り音はあった。冷蔵庫の低い音、時計の秒針、遠くの車の音。全部、いつも通り。それなのに、“家の中の音だけが足りない”。
リビングに行くと、母がいつも通り朝食を作っていた。父も新聞を読んでいる。弟も座っている。何も変わっていない。ただ1つだけ。壁の向こうから、音がした。
コト……
何かが置かれるような音。結衣は振り向くが、そこは壁だった。リビングの隅…何もない。
「今の聞こえた?」
結衣が言うと、母は首をかしげる。
「何もしてないわよ」
父も新聞から目を上げない。
「また、気のせいだろ」
弟だけが少しだけ顔をしかめる。
「…なんか、いた気がする」
その言葉が、結衣には引っかかる。“気がする”が、家の中で普通に使われ始めている。
その日の昼。壁の向こうから音が増える。
コト……
カタン……
コト……
規則性はない。でも、確かに“誰かの動き”のようだった。結衣は壁に近づいて触れてみるが、冷たい。何もないはずの壁なのに、少しだけ“向こうがある感じ”がする。弟が後ろから言う。
「ねえ、それさ…向こうに誰かいたりする?」
結衣は振り返る。
「いないよ」
でも弟は続ける。
「でも、いる感じがする」
その言葉で、結衣は気づく。まただ。“いる感じ”が、家の中で共通言語になっている。
夜、電気を消した部屋。壁の向こうから音がする。
コト……
今度ははっきりと聞こえた。何かが“動いている”。結衣は布団の中で息を止める。そして気づく。音は壁の向こうではない。壁そのものの中にある。
コト……
弟の部屋からも同じ音。父の寝室からも同じ音。母の部屋からも同じ音。家のすべての壁が、同じ“何か”を内側に抱えている。その日から、壁の向こうの音は『毎日あるもの』になっていった。最初は気のせいの延長だったはずの音が、いつの間にか“前提”のように存在している。
コト……
カタン……
コト……
朝でも夜でも関係なく、同じような間隔で鳴る。規則的でもなく、不規則でもない。ただ『続いている』というだけの音。結衣は、もう壁を見ても驚かなくなっていた。でも安心もしていない。
その日の昼、母がふと呟く。
「最近さ、隣の人静かよね」
結衣は手を止める。
「隣?」
母は少し考えてから言う。
「いや…違うかも。上の階かも」
その言葉に、結衣は違和感を覚える。“どこの隣か”"上の階"なのかが曖昧になっている。父も言う。
「そうだな、音が減ったな」
弟が首をかしげる。
「減った?」
「いや、増えた気もする」
その瞬間、結衣は気づく。全員が同じ家にいるのに、見えている“隣”が違っている。
夜、電気を消したあと。壁の向こうの音は少し変わった。
コト……
コト……
コト……
一定ではないのに、リズムだけはある。結衣は布団の中で耳を澄ます。すると気づく。音の「速さ」が少しずつ違う。部屋ごとに、違う速度で聞こえている。弟の部屋では速い。父の部屋では遅い。母の部屋では途切れている。そして結衣の部屋は……
一番“近い”。
結衣は息を止める。壁の向こうは同じはずだった。でも今は違う。“向こう”が複数あるように感じる。
夜、廊下で小さな足音がした。
コト……
弟の部屋のドアが少しだけ開く。結衣はすぐに起き上がり、弟の部屋へ向かった。すると弟が廊下に立っていた。廊下に出たまま、壁を見ている。
「何してるの?」
結衣が小さく聞く。弟は答えない代わりに、壁を向いたまま言う。
「ここ、向こうに何かある」
結衣は固まる。
「どこ?」
弟は壁を指さす。
「ここの中」
その瞬間、壁の向こうから音が少し強くなる。
コト……
まるで反応しているように。弟は一歩近づく。結衣が止める。
「やめて」
でも弟は止まらない。壁に手を当てる。その瞬間、音が止まる…完全に。静かになる。逆に怖い静けさだ。弟が小さく言う。
「今、向こう……見えた気がする」
結衣は弟の手を引く。そのとき気づく、壁は変わっていない。でも“向こうがある前提”で見えている。
深夜、家の中は異様に静かだった。コト……という音は、途中から一度途切れたまま戻ってこない。それがかえって不安だった。結衣は布団の中で目を開けている。時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。隣の部屋からは何も聞こえない。弟の気配もない。父も母も、眠っているはずだ。なのに、家の中が「空いている感じ」がしない。むしろ逆だった。何かが“詰まっている”ような感覚。そのときだった。
コト……
ほんの1回だけ。でも、その1回がはっきりしていた。壁の向こうではない。部屋の中だった。結衣は体を起こし、音のした方向を見る。壁ではない、部屋の隅。そこに、わずかな“違和感の濃さ”がある。形はない。でも、空気が少しだけ歪んでいるように見える。そこから、もう一度。
コト……
今度は近い。結衣は息を止める。そして気づく。“向こう”が壁の外にあるのではない。部屋の中に、少しずつ入り込んでいる。そのとき、廊下から弟の声がした。
「ねえ…」
小さい声。結衣は起き上がり、ドアを開ける。弟が立っていた。顔が少しだけ強張っている。
「今さ」
弟が言う。
「俺の部屋、向こうにあった…?」
結衣は言葉を失う。
「向こうって?」
弟はうまく説明できない顔をする。
「壁じゃない…でも、壁の“こっちじゃない方”にあった」
その言葉は、理解できないのに分かってしまう種類の言葉だった。その瞬間、リビングの方で音がした。
コト……
今度は父のいる方。
コト……
母のいる方。
コト……
家の中のあちこちで、同時に起きている。結衣は気づく。壁の向こうは1つではない。部屋ごとに違う“向こう”がある。そしてそれらが、今この家の中に重なっている。弟が小さく言う。
「ここ、もう同じじゃないよね」
結衣は答えられない。でも、否定もできない。そのときだった。弟が一瞬だけ、動きを止める。目線がずれる。
「今…俺、向こうにいた気がした」
結衣はすぐに弟の腕を掴む。冷たい。でも確かに“そこにいる”。ただ、ほんの少しだけ遅れているような感覚。弟が小さく笑う。
「…戻ってきた」
その言葉が怖かった。戻る、という概念がもう曖昧だったからだ。その夜、結衣は思う。この家は壊れているのではない。最初から「1つではなかった」のかもしれない。




