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家の中にいる音  作者: 伊丹 宝


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5/11

5音 誰かの生活

その朝、結衣はまず“匂い”に違和感を覚えた。いつもの朝の匂いではない。パンでも味噌汁でもない。何か、別の生活の気配。


リビングに行くと、母がすでに朝食を作っていた。父は新聞、弟はスマホ。いつも通り、でも音と匂いだけが違う。



カタン……


ジャリ……


コト……



どれも家族の動きの音ではないように感じる。結衣はキッチンを見る。母は普通に立っている。でもその足元から、別の音が混ざっているように聞こえる。


「今の音、何?」


結衣が聞く。母は振り向かない。


「包丁の音でしょ」


でも違う。包丁の音ではない。もっと“何かを置く音”に近い。弟が言う。


「なんかさ、昨日から変な生活音するよね」


母が少しだけ止まる。


「生活音?」


弟はうなずく。


「誰かいるみたいなやつ」


その言葉に、リビングの空気が一瞬だけ固くなる。誰も否定しない。でも肯定もしない。ただ“そういう話題”として成立してしまう。



その日の昼、結衣は気づく。音が増えているのではない。音の“種類”が増えている。コップを置く音、椅子を引く音、水が注がれる音。どれも家族のものではない。でも家族の中に混ざっている。結衣は廊下に出る。誰もいない…なのに、すぐそばで音がする。



ジャリ……



靴を脱ぐような音。でも誰も帰ってきていない。そのとき、弟が後ろから言う。


「さっきさ……俺の部屋、誰かいた」


結衣は振り返る。


「見たの?」


弟は首を振る。


「見てない。でも、いた」


その言い方が怖かった。見ていないのに“いる”と分かる状態が。



夜、家族全員がリビングに集まる。音が止まらない。



コト……


カタン……


ジャリ……



誰の動きでもない音が、ずっと続いている。母が小さく言う。


「誰か、いるのかしら」


父は何も言わない。弟は天井を見ている。結衣は気づく。この家はもう「家族の音」だけではできていない。何かが混ざっている。でも、それが何かは分からない。ただ1つだけ確かなのは、生活が増えている。その日から、音は“重なる”ようになった。ひとつの音に、別の音がかぶさる。それは最初、ほんのわずかだった。例えば朝、母が皿を置く音。



カタン。



そのすぐあとに、もう一つ同じ音がする。



カタン。



ずれているのに、同じ。結衣はその違和感に気づいてしまう。リビングに行くと、父が新聞をめくっている。弟はスマホ。母はキッチン。何も変わっていない。でも音だけが、少しだけ多い。



コト……


カタン……


コト……



誰の動きとも一致しない音が混ざる。結衣は母を見る。母は普通に料理をしている。でもその背後で、もう1つ同じ動きがあるように聞こえる。“誰かが同じことをしている”…そんな感覚。弟が突然言う。


「今さ、俺の部屋で誰か座ってた」


結衣は顔を上げる。


「見たの?」


弟は首を振る。


「見てない。でも音した」


椅子がきしむ音、座る音。その言葉に、結衣は気づく。音はもう「誰かがいる証拠」ではない。誰かがいる“状態”そのものになっている。



昼、家の中を歩くと、足音が増えている。



コト……


コト……


コト……



同じ場所なのに、違うリズム。まるで複数の人が同じ廊下を歩いているようだ。でも誰もいない。結衣は立ち止まる。そのとき、後ろから弟の声。


「…ねえ」


振り向くと、弟がいる。でも、少しだけ違和感がある。“遅れている”。言葉と動きが、ほんの一拍ずれている。


「今、誰かとすれ違った気がした」


弟はそう言う。結衣は廊下を見る。誰もいない。でも確かに、空気だけが揺れている。



夜、家族がそれぞれの部屋に戻る。結衣は布団の中で考える。この家には“1つの家族の生活”しかないはずがない。いくつもの生活が、重なったまま一緒に動いている。そして気づく。家族の人数を数えようとすると、必ず途中で分からなくなる。その夜は、最初からおかしかった。リビングに集まったとき、結衣は一瞬だけ迷った。誰が先にそこにいたのか分からなかった。父は新聞を読んでいる、母はキッチンに立っている、弟は椅子に座っている、そして自分もいる。でも、その“いる”が確かじゃない。



コト……


カタン……


ジャリ……



音はもう、どこからでもする。でも同時に、どこからでも“しない”ようにも感じる。母が皿を置く。



カタン。



その少しあとに、同じ音。



カタン。



弟が立ち上がる。



コト。



その少し前にも、同じ動きの音。



コト。



結衣は気づく。今、家の中には“同じ動き”が2つある。1つは見えている。もう1つは見えていない。でも、どちらも“いる”。弟が突然言う。


「今さ…俺、もう1回立った気がした」


結衣は息を止める。


「もう1回?」


弟はうなずく。


「でも、俺立ち上がってから座ってないのに…」


その言葉で、結衣は理解する。“いる”が1つではない。同じ人間の中に、同じ動きがもう1つある。



夜が深くなる。家の中の音は、もう分けられない。誰の足音か分からない。誰の声か分からない。誰の動きか分からない。…ただ、動きだけがある。そのときだった。結衣は気づいてしまう。自分が立ち上がった瞬間、同じ動きが“もう1つ”遅れて起きている。遅れているのに、確かに同じ。結衣は自分の手を見る。今動かしているのか、すでに動かしたのか分からない。弟が小さく言う。


「ねえ……俺、今ここにいる?」


結衣は答えられない。その問いは場所の話ではない。“どの自分がここにいるのか”の話だった。父が新聞を置く音。



カタン。



でも、その少し前にも同じ音。



カタン。



母が振り返る。でも、その振り返る動作音も2つある。結衣は思う。この家には「1人」同じ人が、少しずつズレて存在しているだけ。そして、そのズレが重なって、“家族”になっている。弟がもう一度言う。


「ここ、俺じゃない俺もいる」


その言葉の意味を、誰も否定できない。




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