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家の中にいる音  作者: 伊丹 宝


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3/11

3音 呼ばない声

その朝、結衣は自分の名前を呼ばれた気がした。



「結衣」


はっきりとした声だった。でも、誰も呼んでいない。母はキッチンにいる。父は新聞を読んでいる。弟はまだ起きていない。家の中に、“呼んだ人”はいなかった。結衣は一瞬だけ立ち止まる。聞き間違いかもしれない。そう思おうとする。でも、その後だった。また聞こえた。



「結衣」



今度は、少し違う場所からだった。廊下のほうからだ。結衣はゆっくり廊下を見るが、誰もいない。でも、声だけが残っている。母が後ろから言う。


「今、呼んだ?」


結衣は振り向く。


「え?何も言ってないけど…」


母は首をかしげる。


「名前、聞こえた気がしたのよ」


その瞬間、結衣は少しだけ寒くなる。同じ“声”を、聞いている。でも、どこからかは分からない。朝食のあと、弟がリビングに来て、寝ぼけた顔のまま言う。


「今さ、誰か俺の名前呼ばなかった?」


結衣は動きを止める。父が笑う。


「寝ぼけてるんだろ」


でも弟は真顔だった。


「違うって。部屋の中だったけど、呼ばれたから起きたんだよ」


結衣は気づく。また同じだ。場所や聞こえ方が違う。でも“呼ばれた”という事実だけが残っている。その日の昼、家の中で初めて“会話のズレ”が起きる。母がキッチンで言う。


「今、結衣呼ばれてたわよ」


結衣は振り向く。


「呼ばれてないよ?」


少し間があく。母は少し困った顔をする。


「でも、返事したでしょ」


結衣は答えられない。返事をした記憶がない。でも“返事をした気がする”感じはある。そのとき、弟が小さく言う。


「さっきからさ…この家、ずっと誰かしゃべってない?」


結衣はその言葉で気づく。声は“呼ばれるため”ではなく、最初から家の中にあったみたいに聞こえている。



夕方、リビングに誰もいない時間。テレビも消えている。なのに、声がする。



「結衣」



今度は、はっきりした声で呼ばれる。でも誰の声か分からない。結衣はゆっくり立ち上がる。リビングを見渡すが、誰もいない。でも声は続く。



「結衣」



今度は、少し優しい声だった。怒っていない、怖くもない。ただ、そこにいるだけの声。弟が後ろから言う。


「今の、誰?」


結衣は振り返らない。答えられないからだ。そしてその瞬間。声が少しだけ増える。



「結衣」


「結衣」


「結衣」



家の中のどこか全部から、同じ名前が呼ばれる。




その日の夜。テレビも消えていて、誰も大きな声を出していない。それなのに、家の中は静かではなかった。



「結衣」



また、聞こえた。でも今度は、さっきより近くで。廊下ではない。リビングでもない。結衣は自分の部屋にいる。その部屋の中で、声がした。



「結衣」



結衣はゆっくりと顔を上げる。誰もいない。机の上も、ベッドの周りも、何も変わっていない。でも、声だけがそこにある。母がドアの外から声をかける。


「ずっと呼ばれてるわよ。返事くらいしたら?」


結衣はすぐに否定する。


「呼ばれてない」


少しの沈黙。そして母は言う。


「でも、ずっと声聞こえない?あ、返事やっとしたわね。やっぱり呼ばれてるじゃない」


結衣は固まる。返事をした記憶がない。でも、“返事をした後の空気”だけはある。その後、弟が部屋から出てくる。少しだけ顔が青い。


「さっきさ」


弟が言う。


「俺、ずっと呼ばれてた気がする」


結衣は弟を見る。


「どこで?」


弟は少し迷ってから言う。


「全部」


その言葉に、結衣は嫌な感覚を覚える。全部。その言い方は、場所ではない。不安を抱えながら、とりあえず部屋に皆戻った。部屋に入ると、また声がする。



「結衣」



今度は、はっきり聞こえた。でも“呼ばれている感じ”だけが強い。結衣は布団の中に潜りこんで、目を閉じる。すると気づく。声は“耳で聞いている”わけではない。家の中にいると、最初からそこに存在しているように感じる。



翌朝、母が朝食を出しながら言う。


「昨日の夜、結衣の声聞こえた気がするんだけど」


結衣は止まる。


「私、何も言ってないよ」


母は少し困った顔をする。


「私、返事してたわよ」


結衣は何も言えない。そのとき、弟が言う。


「俺も聞いた」


結衣は弟を見る。弟は続ける。


「結衣の声、部屋の中から」


結衣は気づく。声はもう、“誰かが出すもの”ではない。家の中で、“そう聞こえるようになっているもの”になっている。




昼、誰もいない廊下で、また声がする。



「結衣」



今度は、少しだけ優しい。まるで、呼んでいるというより、そこにいることを確かめているような声。弟が小さく言う。


「ねえ、これさ…ずっと誰かいる?」


結衣は答えられない。でも、結衣も少しだけ思う。“いる”のではないかと。“そう感じさせられている”のかもしれない。ただ、そう聞こえる家になっている。



その朝は、最初からおかしかった。目が覚めた瞬間から、声がしていた。



「結衣」



まだ誰も起きていないはずの時間だった。でも、家の中にはもう声がある。結衣は布団の中で動けなかった。声は1つではない。



「結衣」

結衣

「結衣」

結衣

「結衣」



重なっている。でも、誰かが複数いるわけではない。ただ“呼ばれ方”だけが増えている。リビングに行くと、母がすでに起きていた。キッチンで朝食の準備をしている。父も新聞を広げている。弟も眠そうに椅子に座っている。いつも通りの朝。でも、空気だけが違う。


「今…」


弟が小さく言う。


「ずっと呼ばれてない?」


母が振り向く。


「誰が?」


「名前、結衣って」


その言葉で、空気が少しだけ止まる。父は新聞から目を上げない。


「寝ぼけてるんだろ」


でも、誰も否定しきれない。そのときだった。



「結衣」



はっきりとした声。今度はリビングの中だった。全員が同時に止まる。母も聞いている、父も聞いている、弟も聞いている。そして結衣も聞いている。同じ声なのに、少しずつ違う場所から聞こえている。



「結衣」



今度はキッチンのほう。



「結衣」



今度は廊下。



「結衣」



今度は玄関。声は移動しているのではない。家の中に“同時にいる”。弟が立ち上がる。少しだけ顔が強張っている。


「これ、出る?」


結衣は答えられない。出る、という言葉がもう現実的ではない。どこに出るのか分からないからだ。そのときだった。弟の名前が呼ばれた。



拓実たくみ



弟は固まる。


「今の……誰?」


誰も答えない。でもまた声がする。



「拓実」



今度は、弟のすぐ後ろ。弟は振り返るが、何もいない。でも、そこに“いる感じ”だけが残る。弟が一歩後ずさる。その瞬間、結衣は気づく。声がするたびに、その人の“位置”が少しだけズレている。立っていた場所が、ほんの少しだけ“思い出せなくなる”。弟がもう一度呼ばれる。



「拓実」



その瞬間、弟は廊下のほうに倒れ込むように動く。母が叫ぶ。


「ちょっと!」


でも声は止まらない。


「結衣」


「お母さん」


「お父さん」


「拓実」


家族全員の名前が、同時に呼ばれる。そして気づく。呼ばれているのではない。家の中が、そう“呼ぶ形になっている”。弟が小さく言う。


「ここ、どこ?」


結衣は答えられない。家は家のままだ。でも、もう“同じ場所”ではない。


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