2音 扉の気配
その日は、朝から少しだけ変だった。玄関のほうで、音がした。
カチ……
ドアノブが動くような、小さな音。結衣が気づいたときには、もう止まっていた。誰も玄関には行っていない。父も母もキッチンにいる。弟はまだ部屋で寝ている。それでも、その音だけが残っていた。
「今、玄関の音しなかった?」
結衣が聞くと、母は振り返る。
「してないでしょ」
父も同じように首を振る。
「風じゃないか」
そのまま朝は終わるはずだった。でも、違った。昼前、また同じ音がした。
カチ……
今度は、もっとはっきりしていた。玄関のほうからだ。でも誰もそこにいない。結衣は玄関に近づく。ドアは閉まっているし、鍵もかかっている。何もおかしくない。なのにドアの内側から、もう一度音がした。
カチ
今度は、“開いたような気配”がした。結衣は一歩下がる。でもドアは動いていない。ただ、そう感じる。「今、開いた」そう思ってしまう。
その日の夕方、弟がリビングに来て言う。
「さっきさ、玄関開いてた気がする」
母が眉をひそめる。
「開いてないわよ」
父も笑う。
「ちゃんと閉めたろ」
でも弟は少しだけ真剣だった。
「いや、音したんだって」
結衣は気づく。また同じだ。音はの聞こえ方が違う。"また同じ"だと思うが、前回何があったか結衣は思い出せない。思い出せないことは"大した事じゃない"そう思うことにした。
夜、リビングでテレビがついている。でも音は、テレビより少しだけ大きく聞こえる。
カチ……
また玄関だ。音が聞こえる場所に、誰も行かない。誰も見に行かない。でも結衣は気づいてしまう。音がするたびに、家の中の“気配”が増えている。誰かがいるわけじゃない。でも“いる感じ”だけが増える。その夜、結衣は眠る前に一度だけ玄関のほうを見た。ドアは閉まっている。鍵もかかっている。それなのに、音はした。
カチ……
小さく、でも確かに。ドアノブが動いたような音。結衣は布団の中で息を止める。何も起きていないし、誰もいない。でも“誰かが入ってきた気がする”。
次の日の朝、母が先に気づいた。
「昨日、夜中に玄関の音しなかった?」
結衣は固まる。
「…音…聞こえてたの?」
父は新聞をめくりながら言う。
「風じゃないか」
弟が口を挟む。
「いや、したよ。何回も」
その瞬間、結衣は気づく。同じ音なのに、少しずつ“回数”が違う。母は一回。弟は何回も。父は気づいていない。でも父以外が「何かはあった」と言っている。
その日の昼、また音がした。
カチ……
今度は玄関ではなかった。廊下、リビングの奥、キッチンの横。音が“場所を変えている”。でも誰も動いていない。結衣は気づく。これは扉の音ではない。“扉が開いた気配”が家の中を移動している。
夕方、弟が玄関の前で立っている。じっとドアを見ている。
「さっきさ」
弟が言う。
「ここ、開いたよね」
結衣は首を振る。
「開いてないよ」
でも弟は続ける。
「開いた“感じ”がした」
その言葉に、結衣は少しだけ嫌な感覚を覚える。“感じ”という言葉が、現実より強くなっている。
夜、家族がそれぞれの部屋に戻る。静かになった、そのとき。
カチ……
玄関ではない。今度は、弟の部屋の中だった。結衣はすぐに立ち上がる。ドアを開け、弟の部屋に向かう。部屋に入ると、弟はベッドに座っている。弟は言う。
「今、誰か入ってきた気がした」
結衣は部屋を見回す。誰もいない。ドアも閉まっている。でも音だけが残っている。
カチ……
今、弟はその音を聞いている。結衣も聞いている。父と母は気づいていないのか寝室から出てこない。同じ家なのに、同じ音なのに、また少しだけズレる。
その日は、朝から音がしていた。
カチ……
玄関のほうではない。リビングの奥でもない。ただ家のどこかで、ずっと鳴っている。結衣はもう、"どこで鳴っているか"を考えるのをやめかけていた。考えるたびに、場所が変わる気がしたからだ。
朝食のとき、母が言う。
「昨日の夜、また変な音した気がするのよね」
父は新聞をめくる。
「またか、風だろ」
弟はスプーンを動かしながら言う。
「いや、玄関の音だった」
結衣は、そのやりとりを黙って聞いている。また同じだ。誰も同じ場所を見ていない。でも、同じ“何か”は感じている。
その日の昼。家の中で、最初の異変が起きる。玄関のドアが─…開いている“気がした”。誰も開けていない。誰も触れていない。それでも、玄関の前に立つとそう感じる。
「開いてるよね」
弟が言う。結衣は首を振る。
「閉まってるよ」
でも弟はドアを見つめたまま動かない。その瞬間。
カチ……
音がした。ドアの中ではない。ドアの“後ろ側でもない”。家の中全体から。次の瞬間だった。廊下で同じ音、キッチンで同じ音、リビングで同じ音。
カチ。
カチ。
カチ。
弟が小さく言う。
「これ、全部同じドア?」
結衣は答えられない。でも“違うドアがある気がする”とは思えなかった。あるのは1つの玄関だけのはずだった。それなのに…家の中に“開いた気配”が増えている。
夜、弟が部屋から出てくる。少しだけ顔が青い。
「さっきさ…」
弟が言う。
「俺の部屋、誰か出てった」
結衣は固まる。
「誰も入ってないよ」
弟は首を振る。
「でも、ドア開いた」
その瞬間。
カチ……
音がした。今度は、結衣の部屋の中だった。結衣は自分の部屋に走る。ドアを開けるが、誰もいない。でも、“誰かが出ていった後の空気”だけが残っている。
カチ……
廊下でも鳴る。リビングでも鳴る。玄関でも鳴る。家全体が、少しずつ“開いている”。でも何に対して開いているのかは分からない。弟が小さく言う。
「この家、ずっと誰か出入りしてない?」
結衣は答えられない。ただ1つだけ思う。出ていっているのは、人じゃない。“開いた気配”だけが、家の中を増えている。
そしてその夜。
カチ……
ジャー…
音はもう、1つではなかった。




