1音 水の音
朝は、いつも通りだった。目が覚めると、台所のほうから音がしていた。
ジャー……
水の音。結衣は布団の中で少しだけ目を開ける。まだ起きるには早い時間だった。水の音は、止まらない。でも強くもない。ただ、そこに“ずっとある”感じだった。
「お母さん?」
小さく呼ぶが、返事はない。いつもなら、朝ごはんの準備の音がしている時間だった。包丁の音とか、食器の音とか。でも今日は違う。水の音だけがする。
ジャー……
結衣はゆっくり起き上がり、リビングに向かう。ドアを開けると、母はいた。いつも通りキッチンに立っている。父も新聞を読んでいる。弟はまだ寝ているのだろう。何も変わっていない。でも水の音だけが、少しおかしかった。シンクから出ているわけじゃない。蛇口も開いていない。母も水を流していない。それでも、音はしている。
ジャー……
「水、出てる?」
結衣が聞くと、母は少しだけ振り向いた。
「出てないわよ」
それだけだった。父も言う。
「どこかの音だろ」
いつものように、終わる会話だった。結衣もそう思おうとした。上の階、隣の部屋、排水、換気。理由はいくらでもつけられる。でも音は、少しずつ違っていた。水音だけ一定だった。
ジャー……
ジャー……
まるで同じ瞬間を繰り返しているように。朝ごはんの時間になっても、音は止まらなかった。母が味噌汁をよそう音と混ざる。父の新聞の音と混ざる。弟の寝息と混ざる。全部が普通なのに。その中にだけ、水がいる。学校へ行く時間になっても、音は続いていた。玄関で靴を履くときも聞こえる。
ジャー……
ドアを閉めると、少しだけ小さくなる。でも消えない。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
普通の朝。でも一つだけ違う。家の外に出た瞬間、水の音は“聞こえなくなる”。完全に消える。結衣は少しだけ振り返る。マンションの5階、窓は閉まっている。そこに、何も異常はない。
「気のせいかな」
そう思う。でも、その言葉を飲み込む前に気づく。“気のせい”にしては、ずっと残っている。
その日の放課後。帰ってきて、玄関のドアを開けた瞬間…また聞こえた。
ジャー……
同じ音だった。朝と同じ。何も変わっていないような音。何も変わっていないように聞こえるのに、結衣は少しだけ足を止める。玄関のドアを閉めると、音が一瞬だけ近くなる。気のせい、のはずだった。リビングに入ると、母はキッチンにいる。父はテレビを見ている。弟はソファでスマホをいじっている。いつも通りの夕方だった。でも、水の音はそこに混ざっていた。
ジャー……
「まだ聞こえる」
結衣が小さく言うと、母は振り向かずに答えた。
「何が?」
「水の音」
母は一瞬だけ手を止める。
「…ああ、上の人じゃない?」
それで終わる話だった。父も弟も気にしていない。家の中で、結衣だけがその音を“意識してしまっている”状態だった。
その夜、夕食のあと。水の音は少し変わっていた。
ジャー……
ジャー……
ジャー……
結衣は気づく。間隔が、ほんの少し短くなっている。でも誰にも言えなかった。言っても、説明できない。夜、部屋に戻り布団に入る。天井を見上げると、水の音はまだする。
ジャー……
今度は、どこから聞こえるのか分からない。台所のほうでもない。浴室でもない。壁の向こうでもない。ただ“家のどこか”から聞こえる。目を閉じる。一瞬だけ、音が止まる。静かになる。その静けさが、逆におかしかった。そして、次の瞬間。
ジャー……
また始まる。今度は、少し違っていた。ひとつじゃない。
ジャー……
ジャー……
ジャー……
ジャー……
重なっている。同じ音なのに、少しずつ違う場所から聞こえるような感じ。結衣は布団の中で息を止める。音は増えていないはずだった。でも、そう感じる。そのとき、廊下のほうで小さな音がした。
カタン
何かが倒れたような音。結衣は体を起こすし、ドアに向かう。ドアの向こうを見ても何も見えない。でも水の音は、少しだけ強くなっていた。
ジャー……
ジャー……
音は、家の中を移動しているように感じる。でも移動している“何か”は見えない。ただ、音だけが残る。
その日は、少しだけ違う朝だった。結衣が目を覚ます前から、音がしていた。
ジャー……
ジャー……
昨日よりもはっきりしている。目を開け、天井を見上げる。部屋はいつも通りだった。カーテンも、机も、何も変わっていない。でも音だけが、“先にある”感じがした。
リビングに行くと、母がキッチンに立っていた。父も新聞を読んでいる。弟も普通に朝ごはんを食べている。いつも通りの朝。ただ1つだけ違う。家の中のどこかに、水の音があるのではなく。家そのものが、水の音の中にあるように感じる。
「まだその音するの?」
弟が何気なく言った。結衣は少し驚く。
「聞こえるの?」
弟は首をかしげる。
「聞こえるっていうか…たまに、するよね」
母がその会話を聞いて言う。
「また気のせいでしょ」
父も同じように笑う。
「どこの家でもあるよ」
その“普通さ”に、結衣は少しだけ言葉を失う。
その日の昼。結衣は気づく。音が、誰にでも同じように聞こえているわけではないと。母は「上の階の音」と言う。父は「どこかの排水」と言う。弟は「たまにする変な音」と言う。でも結衣には違って聞こえている。音は1つではない。同じ音のはずなのに。重なっている。
ジャー……
ジャー……
ジャー……
夜になる。食卓で夕食を食べているとき…突然、弟が言う。
「さっきさ、俺の部屋でも聞こえた」
母が眉をひそめる。
「また、水の音?」
弟は少し真剣な顔になる。
「違う。キッチンじゃなくて、部屋の中」
その瞬間、結衣は気づく。音が“場所に従っていない”。誰が聞いたかで、音の場所が変わっている。結衣の中でだけ、キッチンの音。父の中では、どこかの外の音。弟の中では、自分の部屋の中の音。同じ家なのに、同じ音なのにバラバラだった。
夜、部屋に戻る。水の音は止まらない。
ジャー……
ジャー……
そのとき、廊下で弟の声がした。
「ねえ」
小さな声。結衣がドアを開けると、弟が立っている。少しだけ不安そうな顔。
「今、誰かいた?」
結衣は首を振る。
「いないよ」
弟は一瞬黙る。そして言う。
「でも、さっきからさ…部屋の中に、誰かいる感じするんだよね」
その瞬間、水の音が少しだけ止まる。静かになる。完全な静けさではない。“何かが息を止めたような静けさ”。そして次の瞬間。
ジャー……
今度は、すぐ近くで聞こえた。弟の部屋の中からだ。結衣は息を止める。弟はその場で固まっている。何も見えない。誰もいない。でも音だけが、そこに“いる”。弟が小さく言う。
「……いる?」
その問いは、誰に向けたものか分からなかった。




