第9章 空を捨てた男
第9章、伊藤の過去に触れます。
航空自衛隊出身の彼が、なぜ空を離れ、泥臭い連華に乗ることになったのか。
第6章から続いている「帰還」というテーマを、伊藤の過去と連華三号機を通して描いていきます。
伊藤二尉は、空を捨てた男だと言われていた。
本人は、その言い方を訂正しなかった。
訂正するには、説明しなければならない。
説明するには、思い出さなければならない。
思い出すには、まだ少し早かった。
だから伊藤は、黙っている。
空を捨てた。
航空自衛隊の一部では、そういう噂になっている。
少数精鋭の戦闘機乗り。
反応速度も判断力も、操縦の精度も高い。
上層部からも目をかけられていた。
それなのに、陸自の泥臭い機械化部隊へ出向した。
しかも、二足歩行重機。
連華。
空から地面へ。
翼から足へ。
速さから重さへ。
それを、挫折と呼ぶ者もいた。
逃げたと呼ぶ者もいる。
狂ったと呼ぶ者もいた。
伊藤は、どれも否定しなかった。
否定しない方が、楽だった。
真実を話すより、誤解されたままの方が、ずっと静かに済む。
地下第三区画の旧滑走試験室は、朝でも夜でも同じ色をしていた。
白い照明。
灰色の床。
黒い油染み。
壁に貼られた手書きの注意書き。
固定架に拘束された連華三号機。
伊藤は、その前でブースター改修案を見ていた。
紙の上には、何度も線が引かれている。
主推力。
補助推力。
固定ボルト。
姿勢制御用の小型噴進器。
非常切離し手順。
月華回収時の接近角。
どの線も、現実に対して少し足りない。
推力が足りない。
強度が足りない。
燃焼時間が足りない。
操縦者の体が足りない。
それでも、線は引かなければならなかった。
線を引かない限り、帰り道は存在しない。
「三号機、背部補強材の仮組み完了」
整備員が報告した。
若い整備員だった。
声に少し緊張がある。
伊藤は図面から目を上げた。
「四番ボルトの座面を見せてください」
「はい」
整備員がパネルを外す。
伊藤は近づき、ライトを当てた。
微細な傷がある。
前回の干渉圏突入時についたものか、訓練中のものか、輸送時のものか。
傷は小さい。
だが、ブースターの燃焼中には小さくない。
「交換です」
「許容範囲内では」
「交換です」
伊藤は同じ声で言った。
整備員は少しだけ顔を曇らせた。
「部品在庫が」
「優先順位を上げてください」
「二号機の砲架補修にも同型材を」
「では、二号機と相談します」
整備員は困った顔をした。
「機体とですか」
「搭乗者とです」
その時、背後から声がした。
「僕と相談する話ですか」
奥山だった。
医務室へ戻れと言われたはずの人間が、いつものように戻っていなかった。
ただ、顔色はまだ悪い。
訓練で一度怖さを失った人間の顔だった。
伊藤は彼を見た。
「二号機の補修材を、三号機のブースター補強へ回す可能性があります」
「嫌な相談ですね」
「はい」
「二号機の砲架が壊れたら、僕が困ります」
「三号機のブースターが壊れたら、私が死にます」
「もっと嫌な相談にしないでください」
奥山は顔をしかめた。
それから少し考えた。
「どっちが先に必要ですか」
「作戦内容によります」
「つまり、分からない」
「はい」
「最悪ですね」
「はい」
奥山は二号機の方角を見た。
ここからは見えない。
それでも、彼は少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「半分、回せますか」
整備員が驚いて奥山を見た。
伊藤も少しだけ眉を動かした。
「二号機の補修が遅れます」
「遅れるだけなら」
「火力試験に影響します」
「僕、できれば撃ちたくないので」
「理由としては不適切です」
「ですよね」
奥山は苦笑した。
だが目は逃げなかった。
「でも、三号機が帰れないのは嫌です」
伊藤は、すぐには返事をしなかった。
その言葉は軽い。
奥山らしく、ほとんど情けない。
だが軽い言葉ほど、時々深い場所へ落ちる。
「助かります」
伊藤は言った。
「伊藤さんが素直にお礼を言うと、怖いですね」
「怖がってください」
「はい。得意です」
奥山はそう言って、少しだけ笑った。
笑えている。
それを見て、伊藤は少し安心した。
安心したことを、表には出さない。
伊藤が初めて空を見上げた記憶は、基地祭の滑走路だった。
まだ小学生だ。
父に手を引かれ、熱いアスファルトの上を歩いた。
人が多く、音が大きく、屋台の匂いがして、母は耳を押さえながら笑っていた。
戦闘機が滑走路の端で待っている。
銀色ではない。
灰色。
実用的で、冷たく、飾り気がない。
それが伊藤には美しかった。
機体が加速する。
音が体を通り抜ける。
地面が震える。
機首が上がる。
車輪が離れる。
その瞬間、伊藤は思った。
人間は、地面から離れられる。
それは幼い感動だった。
だが、幼い感動ほど長く残る。
空は遠かった。
だから行きたい。
空は広かった。
だから迷わないと思った。
空は地上よりきれいに見える。
だから、そこでは人間の汚さも少し薄まるのだと思っていた。
間違っていた。
そのことを知るまでに、伊藤は長い時間をかけた。
航空学生時代の伊藤は、よく褒められた。
姿勢がいい。
反応が速い。
手順を間違えない。
感情を操縦に混ぜない。
教官は言った。
「お前は冷たいな」
伊藤は、はい、と答えた。
冷たいことが悪いとは思わなかった。
空では、熱くなる方が危険だ。
怒りも恐怖も、喜びも焦りも、操縦桿には余計な力を入れる。
余計な力は機体を乱す。
機体の乱れは、死につながる。
だから伊藤は、感情を整理した。
不要なものは畳む。
必要なものだけ残す。
高度。
速度。
針路。
燃料。
僚機位置。
帰投可能距離。
帰投。
その言葉だけは、訓練の早い段階から頭に残った。
飛ぶことよりも、帰ること。
教本には何度もそう書かれていた。
任務を果たす。
機体を保全する。
搭乗者を帰還させる。
当たり前のことだ。
だが、空へ憧れている者ほど、その当たり前を忘れる。
伊藤は忘れなかった。
忘れなかったつもりだ。
彼には同期がいた。
倉田真司。
伊藤より声が大きく、よく笑い、教官に怒られる回数も多かった。
操縦は荒い。
だが、勘が良かった。
雲の形を見る。
風の匂いを言う。
計器より先に、機体の嫌がり方を読む。
伊藤は最初、倉田を苦手だと思った。
感覚で飛ぶ人間は危ない。
そう考えていた。
倉田は、伊藤のことを面白がった。
「お前、飛んでる時も葬式みたいな顔してるよな」
「操縦中に顔芸は不要です」
「顔芸って言うな」
「では、表情操作」
「もっと嫌だ」
倉田はよく笑った。
伊藤はあまり笑わない。
それでも、二人はよく組まされた。
伊藤が手順を整える。
倉田が状況の変化を先に拾う。
合わないようで、合った。
地上ではくだらない会話をし、空では互いの沈黙を信じた。
ある日、倉田は伊藤に言った。
「お前、空好きだろ」
「嫌いならここにいません」
「そうじゃなくてさ」
倉田は格納庫の外で、夕焼けを見ていた。
「空に何か期待してる顔してる」
「顔の話が好きですね」
「見えるんだから仕方ない」
伊藤は返事をしなかった。
倉田は笑った。
「期待しすぎるなよ」
「あなたに言われるとは思いませんでした」
「俺は期待してない。好きなだけだ」
その違いを、伊藤は当時よく分からなかった。
今なら少し分かる。
好きなものは、壊れても好きでいられる。
期待したものが壊れると、人は自分まで壊れる。
事故は、事故として処理された。
正確には、事故でなければならなかった。
白い飛翔体が現れる前のことだ。
夜間訓練。
洋上。
悪天候ではなかった。
視界も悪くない。
機体状態も、出発時点では正常。
伊藤機と倉田機は、二機編隊で訓練空域へ入った。
高度。
速度。
針路。
燃料。
すべて問題なし。
無線も明瞭。
倉田はいつものように軽口を叩いた。
『伊藤、今度の休暇どうする』
「訓練計画を確認します」
『休暇って言葉、知ってるか』
「制度としては」
『人生として知れ』
伊藤は答えなかった。
答えようとした時、倉田機の姿勢がわずかに乱れる。
ほんのわずかだった。
普通なら、見逃す。
だが伊藤は見た。
「倉田、姿勢」
『分かってる』
声はまだ軽かった。
次の瞬間、倉田機の灯火が揺れた。
計器に異常は出ていない。
少なくとも、伊藤の機体から見える範囲では。
『操縦系、重い』
倉田の声が変わった。
軽さが消えた。
「離脱しろ」
『してる』
「高度を捨てろ」
『捨ててる』
倉田機が降下する。
伊藤は追った。
追ってはいけない距離まで近づいた。
教本なら、距離を取る。
救難信号を出し、管制へ報告し、手順に従う。
だが倉田機はそこにいた。
目の前に。
落ちていく。
『伊藤』
「脱出しろ」
『まだ戻せる』
「脱出しろ」
『まだだ』
倉田は機体を捨てなかった。
その判断が誤りだったのか、正しかったのか、今でも分からない。
後からなら、誰でも言える。
脱出すべきだった。
高度を捨てすぎている。
判断が遅れた。
機体保全に固執した。
だが、その時の空には後からの声はない。
倉田の呼吸だけがあった。
伊藤の手は、操縦桿を握っていた。
強く。
強すぎるほど。
「倉田、聞け」
『聞いてる』
「帰投可能距離を切る」
『うるさい』
「脱出しろ」
『お前が言うと、本当に終わりみたいだな』
その声は、少し笑っていた。
次の瞬間、倉田機の灯火が海面へ吸い込まれた。
爆発は小さかった。
映画のような光ではない。
夜の海に、短い火が点いただけだった。
無線が途切れる。
伊藤は叫ばなかった。
管制へ報告した。
救難周波数を開いた。
捜索手順へ移った。
燃料残量を確認した。
旋回半径を計算した。
海面を見た。
見続けた。
何もなかった。
燃料警告が出た。
管制が帰投を命じた。
伊藤は従わなかった。
一度だけ。
従わなかった。
『伊藤機、帰投せよ』
「捜索を継続します」
『燃料限界だ』
「捜索を継続します」
『伊藤』
管制の声が、命令ではなく名前になった。
その時、伊藤は初めて自分の手が震えていることに気づいた。
燃料計の針。
帰投可能距離。
海。
倉田。
何もない。
帰らなければ、自分も落ちる。
帰れば、倉田を置いていく。
伊藤は旋回した。
基地へ帰る。
着陸は完璧だった。
教官は後でそう言った。
記録にもそう残った。
伊藤二尉、燃料限界内で帰投。
機体損傷なし。
着陸姿勢良好。
搭乗者異常なし。
異常なし。
その言葉を見た時、伊藤は報告書を閉じた。
異常がないはずがない。
倉田は戻らなかった。
海は何も返さなかった。
空は、何もなかったように青くなった。
事故調査は長く続く。
機体の一部は回収された。
原因は複合的とされた。
操縦系統の一時的な不具合。
整備記録上の微細な見落とし。
夜間訓練下での判断遅れ。
搭乗者の脱出判断。
責任は薄く広く分けられた。
誰か一人が悪いわけではない。
だから、誰も救われなかった。
倉田の家族へ説明に行った時、伊藤は制服の襟を何度も直した。
倉田の母は泣かない。
父は伊藤に礼を言った。
最後まで見てくれてありがとう、と。
伊藤は、その言葉を受け取れなかった。
最後まで見た。
だが連れて帰れない。
見ることと、帰すことは違う。
その差が、伊藤の中に残った。
空を捨てたのは、その後だった。
正確には、空に期待することをやめた。
空は美しい。
空は広い。
空は速い。
だが、空は人を帰してはくれない。
帰るのは、人間の手順だ。
燃料計だ。
判断だ。
臆病さだ。
そして、時には誰かが無理やり引き戻す力だ。
伊藤は、華計画の資料を読んだ。
連華。
月華。
烈火。
電子が死ぬ空域。
精神接続。
干渉波。
帰還不能。
その文字を見た時、彼は出向を受け入れた。
空を捨てるためではない。
空へ行く者を、二度と空だけに任せないために。
現在。
地下第三区画で、連華三号機のブースター地上燃焼試験が行われた。
地上燃焼といっても、地下だった。
旧滑走試験室の分厚い隔壁が閉じられ、排気用の古いトンネルが開かれる。整備員たちは耳当てをつけ、紙のチェックリストを手に持ち、各所に散った。
伊藤は操縦殻へ入った。
三号機の中は狭い。
連華の操縦殻はどれも狭いが、三号機は背部ブースターの追加系統がある分、さらに窮屈だった。肩の後ろに非常切離しレバー。左手側に推力偏差計。足元に姿勢補助用の機械式ペダル。視界は光学窓と補助鏡だけ。
戦闘機とは何もかも違う。
美しくない。
速くない。
軽くない。
だが、手が届く。
壊れた時に、どこが壊れたか分かる。
それは伊藤にとって、奇妙な安心だった。
『三号機、状態』
加藤の声が有線に入った。
「圧正常。リンク正常。背部固定、四番から九番まで再確認済み」
『心拍』
「正常範囲内」
『自己申告か』
「針も同意しています」
奥山の声が別回線に入った。
『針って同意するんですか』
「少なくとも、あなたより静かです」
『ひどい』
短い笑いが整備員たちの間に広がった。
伊藤はその音を聞いた。
地下の音。
人間の音。
空にはない音だった。
『燃焼試験、十秒』
榊原の声。
『主推力、低出力。姿勢制御補助、手動。異常時は即時切離し』
「了解」
『三』
カウントが始まる。
『二』
伊藤は息を吐いた。
『一』
点火。
背中で火が生まれた。
衝撃が操縦殻を叩く。
三号機の固定架が軋む。
推力偏差計の針が跳ねる。
右へ。
戻す。
左脚へ荷重。
肩を下げる。
背中を逃がす。
機体が飛びたがる。
いや、飛びたがっているのは機体ではない。
火だ。
火は上へ行きたがる。
鉄は地面へ残りたがる。
人間は、その間で引き裂かれる。
「推力偏差、右二」
『許容内』
「補正」
『必要ありません』
「必要です」
伊藤は補助ペダルを踏んだ。
三号機の姿勢がわずかに整う。
固定架の軋みが落ち着く。
十秒。
停止。
火が消えた。
地下に、燃焼後の重い沈黙が落ちた。
『三号機、状態』
加藤の声。
「生きています」
『機体状態を訊いた』
「三号機も生きています」
伊藤は答えた。
言ってから、自分で少し驚いた。
機体を生きていると言うのは、荻野博士の影響かもしれない。
まだ会ってもいないのに、厄介な男だと思った。
隔壁の向こうで、整備員たちが動き出す。
点検。
ボルト。
排気口。
固定架。
油圧管。
紙に記録。
声で確認。
伊藤は操縦殻の中で、しばらく手を開かなかった。
戦闘機なら、十秒の燃焼など短い。
だが連華で背負う火は違う。
速さを得るというより、重さに火をつける感覚だった。
不格好で、危険で、非合理的だ。
そして、必要だった。
試験後、伊藤は格納庫の片隅で柏木亮と会った。
柏木はまだ包帯を巻いていた。
電子が死ぬ空から帰ってきた戦闘機乗り。
第1部で、伊藤に「怖い空から帰る方法」を言葉ではなく顔で伝えた男。
彼は防衛庁の聞き取りに呼ばれていた。
正規の面会ではない。
廊下で偶然会った、という形だった。
地下第七区画では、偶然にも許可が必要だ。
「三号機の音、聞こえました」
柏木が言った。
「不快でしたか」
「懐かしかった」
「戦闘機とは違います」
「でも、火の音です」
柏木は少し笑った。
顔には疲れがある。
だが目は、前に会った時より落ち着いていた。
「飛ぶんですか」
「飛ぶというより、跳ぶに近い」
「それでも空へ行く」
「必要なら」
柏木は伊藤を見た。
「怖いですか」
伊藤は少し黙った。
この問いを、以前なら合理的に処理しただろう。
リスクは高い。
成功率は低い。
恐怖は判断へ影響するため、管理すべき心理反応である。
だが今は違った。
「怖いです」
伊藤は言った。
柏木は頷いた。
「良かった」
「良かったのですか」
「怖くない人間は、帰る理由を忘れます」
伊藤は、その言葉を聞いて奥山を思い出した。
怖くなくなった時の奥山の声。
低く、冷たく、止まらない声。
倉田の最後の声。
まだ戻せる、と言った声。
伊藤は壁にもたれた。
「柏木一尉」
「はい」
「脱出すべき時に、機体を捨てられますか」
柏木はすぐには答えなかった。
それは軍人にとって簡単な問いではない。
機体は任務であり、責任であり、時には自分の身体の延長でもある。
捨てるという言葉は、いつも正しいとは限らない。
「今なら」
柏木は言った。
「捨てます」
「以前は」
「分かりません」
正直な答えだった。
「娘がいます」
柏木は続けた。
「帰る理由が、昔よりはっきりしました」
伊藤は頷いた。
倉田には帰る理由がなかったのか。
そんなことはない。
あったはずだ。
家族。
仲間。
休暇の予定。
くだらない会話。
だが空の中で、人は時々それを見失う。
機体を戻すことと、自分が戻ることを混同する。
任務を続けることと、生きて帰ることを混同する。
伊藤自身も、あの夜、捜索を続けようとした。
帰投可能距離を切ってでも。
倉田を探すという正しい理由で、自分まで帰れなくなろうとしていた。
「私は」
伊藤は言った。
「空が嫌いになったわけではありません」
柏木は黙って聞いていた。
「ただ、空を信用しなくなった」
その言葉は、口に出すとひどく重かった。
「だから地面へ来たのですか」
「地面なら信用できる、というわけでもありません」
「連華は」
「嫌いです」
伊藤は即答した。
柏木は少し笑った。
「でも、乗る」
「はい」
「なぜ」
伊藤は、旧滑走試験室の方を見た。
三号機がいる。
不格好な鉄の足。
背中に火を背負った、飛ぶために作られていない機械。
「連華は」
伊藤は言った。
「帰れない空へ、地面の重さを持ち込める」
柏木は、その言葉をしばらく噛むように黙った。
「いい機体ですね」
「いいえ」
伊藤は言った。
「ひどい機体です」
それから少しだけ間を置いた。
「だから、信用できます」
夜、伊藤は一人で三号機の前に立っていた。
旧滑走試験室は静かだった。
燃焼試験の匂いがまだ残っている。
火薬。
油。
熱を持った金属。
紙の焦げたような匂い。
伊藤は、倉田の写真を持っていなかった。
持たないようにしていた。
写真は人を過去へ固定する。
彼に必要なのは、過去ではなく手順だった。
そう思ってきている。
だが、今夜は違った。
彼は胸ポケットから、小さな紙片を出した。
写真ではない。
古い訓練メモだった。
倉田の字で、くだらないことが書いてある。
休暇中に人生を知れ。
その下に、伊藤自身の字で小さく追記されていた。
制度としては把握している。
馬鹿げたやり取りだ。
なぜ残していたのか、自分でも分からない。
捨てられなかったのだろう。
伊藤はその紙を三号機の整備台に置いた。
「倉田」
声に出すのは久しぶりだった。
地下の空気が、名前を少しだけ重くした。
「私は、空を捨てていない」
そう言ってから、伊藤は目を閉じた。
違う。
それではまだ強がりだ。
彼はもう一度口を開いた。
「私は、君を置いて帰った」
言葉は、静かに出た。
叫びではない。
懺悔でもない。
事実だった。
「帰らなければ、私も死んでいた。それは分かっている。分かっていても、置いて帰った」
三号機は黙っていた。
鉄の足で、床を踏んでいる。
「だから、今度は」
伊藤は三号機を見上げた。
不格好な機体。
泥臭い機体。
嫌いな機体。
信用できる機体。
「今度は、置いて帰らない」
それは誓いではなかった。
誓いは美しすぎる。
伊藤には、もっと汚れたものが必要だった。
手順。
補強。
燃焼時間。
帰還経路。
非常切離し。
救助索。
失敗した時の次の手。
彼は整備台の紙を取り、改修案の余白へ書いた。
月華回収時、搭乗者意識混濁を前提。
手動固定具を追加。
接触後、相手機の反応を待たない。
引く。
その一文字を、伊藤は強く書いた。
引く。
戻す。
連れて帰る。
空は美しい。
だが、美しさは人を帰さない。
帰すのは、醜いほど具体的な手順だ。
伊藤は鉛筆を置いた。
遠くで、地上からの観測報告が流れている。
白い飛翔体は、また進路を変えたらしい。
何を考えているのか分からない。
そもそも、考えているのかも分からない。
伊藤は空を見上げなかった。
地下にいるからではない。
今は、見上げる必要がなかった。
彼の前には、地面を踏む機体がある。
空へ行くためではない。
空から誰かを引き戻すための、重い足がある。
伊藤は三号機の脚に手を置いた。
冷たい鉄だ。
だが、その冷たさは嫌いではなかった。
空を捨てた男。
誰かがそう呼ぶなら、それでもいい。
伊藤は、もう訂正しない。
ただ、心の中でだけ言い直した。
空を捨てたのではない。
空だけに任せるのをやめたのだ。
そしてその夜、連華三号機の改修案には、初めて正式な名前が書かれた。
月華回収支援仕様。
その下に、伊藤は小さく追記した。
帰投優先。
どの作戦名よりも、どの兵装名よりも、その四文字が彼には重かった。
翌朝、整備班はその改修案を見て、全員で黙った。
最初に口を開いたのは、一番若い整備員だった。
「これ、飛ぶんですか」
伊藤は答えた。
「飛ばない」
整備員は図面を見た。
ブースター。
姿勢制御噴射。
月華回収索。
手動固定具。
「でも、空に上がりますよね」
「落下を少し遅らせるだけだ」
「それを世間では飛ぶって言いませんか」
「言わない」
整備員は助けを求めるように周囲を見た。
誰も助けない。
伊藤は図面の端を指で押さえた。
「月華が戻れなくなった時、三号機が下にいる必要がある」
「下って、空の下ですか」
「そうだ」
「地上じゃ駄目なんですか」
「駄目だ」
整備員は深く息を吐いた。
「嫌な作戦ですね」
「だから先に作る」
伊藤は言った。
「嫌になってからでは、間に合わない」
伊藤が「空を捨てた男」と呼ばれる理由を描きました。
けれど彼が本当に捨てたのは、空そのものではなく、空だけに任せるという考えでした。
連華三号機は、ただ飛ぶための機体ではなく、誰かを空から引き戻すための機体として意味を持ち始めます。
「帰投優先」という言葉は、今後の月華にも深く関わっていきます。
次章では、いよいよ月華に踏み込みます。
美しく、速く、そして人間を壊す禁忌の機体です。




