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メタルブレーカーズ  作者: 源三郎


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第10章 月華

第10章。いよいよ月華が本格的に登場します。

連華が「戻るための足」なら、月華は「戻れなくなる空」に近い機体です。


荻野博士、伊藤、三枝、奥山たちが、その美しさと危険性に向き合います。


 月華げっかは、美しかった。


 そのことが、まず危険だった。


 連華は美しくない。


 重く、鈍く、油臭く、地面を踏むたびに床を鳴らす。肩は厚く、脚は太く、操縦殻は狭い。人間を守るというより、人間を鉄の中へ押し込めるための機械だった。


 だが月華は違う。


 格納庫の暗がりの中で、月華はほとんど音を立てずに吊られていた。


 全高は連華より低い。


 脚は細く、腕も細い。


 装甲は最低限。


 機体の線は、地面へ荷重を逃がすためではなく、空気と波動の隙間へ滑り込むために削られている。


 背部には翼ではない翼があった。


 固定翼ではない。


 推進器でもない。


 複数の特殊合金製フィンと、手動で角度を変えられる空力板、そして精神接続系と連動する姿勢補助リンクが組み合わされたものだった。


 見る者によっては、それを花弁と呼ぶ。


 見る者によっては、刃と呼ぶ。


 伊藤いとう二尉は、最初に見た瞬間、どちらでもないと思った。


 あれは、逃げ道を持たない翼だ。



 地下第零格納庫は、防衛庁地下第七区画のさらに下にあった。


 公式な図面にはない。


 古い整備用昇降機で二層分降り、手動ロックを三つ外し、湿ったコンクリートの通路を進んだ先にある。空気は冷え、照明は少なく、壁にはところどころ潮に似た白い結晶が浮いていた。


 ここは地下なのに、海の匂いがした。


 篠籠島から運ばれた機材が、長い時間をかけてこの空気を作ったのかもしれない。


 あるいは、荻野誠一おぎの・せいいち博士が持ち込んだのかもしれない。


 加藤かとう一尉は、そう思った。


 彼は黒崎司令、伊藤、榊原技官、奥山おくやま三枝真帆さえぐさ・まほ二尉とともに第零格納庫へ入った。


 奥山は、入口で一度足を止めた。


「ここ、入って大丈夫な場所ですか」


「許可は出ている」


 黒崎が言った。


「許可が出ている場所ほど怖い時があります」


「正しい」


「正しいって言わないでください」


 三枝は奥山の横で、格納庫の奥を見ていた。


 彼女は何も言わなかった。


 だが、指先が少しだけ動いている。


 医療者の目だった。


 機械ではなく、そこに乗る人間の方を先に探している。


 榊原は手元の紙束を抱え直した。


「第零格納庫、入室者記録。黒崎司令、加藤一尉、伊藤二尉、奥山三尉、三枝二尉、榊原」


「俺は記録される側か」


 黒崎が言った。


「ここでは全員です」


 榊原は短く答えた。


 格納庫の奥で、古い工具が床に落ちる音がした。


 誰かが悪態をつく。


 しわがれた声だった。


「記録なら、俺の死亡時刻も先に書いておけ。どうせ上の連中はその欄が好きだ」


 奥山が小さく言った。


「怖い人の声がします」


「本人に言うな」


 加藤は言った。


「言いませんよ」


「聞こえているぞ、臆病者」


 声が返ってきた。


 奥山は硬直した。


 格納庫の奥から、白衣の老人が出てきた。


 白衣は白くない。


 油、インク、錆、焦げ跡、そして何か分からない黒い染みで汚れている。髪は伸び、眼鏡は古く、片方のレンズには細い傷がある。右手には杖を持っていた。


 杖ではない。


 長いスパナだ。


 荻野博士は、加藤を見た。


「まだ歩いているな」


「博士も」


「俺は歩いていない。引きずっているだけだ」


 荻野は奥山を見た。


「お前が二号機か」


「奥山です」


「二号機だろう」


「人間の名前から始めていただけると助かります」


「助かりたいのか」


「常に」


 荻野は少しだけ笑った。


「なら、乗れる」


 奥山は加藤を見た。


「隊長、この人もそういう基準なんですか」


「そういう基準を作った人だ」


「最悪ですね」


「聞こえていると言った」


「すみません」


 荻野は次に伊藤を見た。


 目つきが変わった。


 さっきまでの皮肉混じりの目ではない。


 機械を見る目だった。


 いや、壊れた機械の中に残っている人間を見る目だった。


「三号機」


 伊藤は表情を変えなかった。


「伊藤です」


「三号機だ」


「人間の名前から始める気はないようですね」


「名前は後で剥がれる。機体番号は残る」


「人間としては不快です」


「技術者としては正しい」


 伊藤は黙った。


 荻野は近づき、伊藤の肩ではなく、背中のあたりを見た。


「火を背負う気か」


「必要なら」


「必要、か。便利な毒だ」


 荻野は月華の方を見た。


「必要という言葉で、人間はたいてい自分を壊す」



 第零格納庫には、二機があった。


 一つは月華。


 もう一つは、奥の暗がりに膝をついた古い二足歩行重機だった。


 連華ではない。


 鉄脚。


 篠籠島から移された、最初の一機。


 胴体は箱に近く、腕は細く、脚だけが太い。装甲は薄く、膝関節はむき出しで、油圧管とワイヤーが古い血管のように見えている。


 連華の祖父。


 華計画の根。


 その機体が、格納庫の奥で眠っていた。


 月華は、その反対側に吊られている。


 鉄脚が地面を掴む古い足なら、月華は地面から離れた未完成の神経だった。


 同じ格納庫に置かれていることが、ほとんど悪い冗談に見えた。


「月華の説明を」


 黒崎が言った。


 荻野は嫌そうに顔をしかめる。


「説明は榊原にさせろ。あいつは壊れていない」


「博士の言葉で必要です」


「俺の言葉は報告書に向かない」


「だから必要です」


 荻野は黙った。


 そして、月華を見た。


 目が細くなる。


 憎しみとも、愛着とも、嫌悪とも違う。


 自分が作ってしまったものを見る目だった。


「月華は、飛行機ではない」


 荻野は言った。


「連華でもない。重機でもない。兵器と呼ぶには、まだきれいすぎる。だが道具と呼ぶには、人間を食いすぎる」


 奥山が小さく息を呑んだ。


「精神接続式高機動空戦機」


 榊原が補足した。


「電子制御を排除した結果、操縦者の脳を演算装置として使用します。身体所有感、前庭感覚、視覚補正、運動予測を機体姿勢へ直結し、飛翔体干渉波の微細な変動に反応する」


「簡単に言うと」


 奥山が言った。


「人間の脳で飛ぶ」


 伊藤が答えた。


「もっと嫌な言い方になりました」


「正確です」


 荻野はスパナで床を叩いた。


「正確ではない。人間の脳で飛ぶならまだましだ。月華は、人間の脳に機体を生やす」


 誰もすぐには言葉を返せなかった。


 荻野は続けた。


「腕を動かす。脚を動かす。人間は、それが自分の身体だと疑わない。月華はその疑わなさを利用する。翼を腕だと思わせる。推力を筋肉だと思わせる。姿勢変化を体の傾きだと思わせる。干渉波の痛みを、自分の皮膚のざわめきだと思わせる」


 三枝の顔がわずかに強張った。


「それは、解除できるのですか」


 荻野は彼女を見た。


「衛生科か」


「三枝二尉です」


「解除はできる。問題は、人間が解除された後も自分の身体を覚えているかだ」


 三枝は黙った。


 伊藤は、破壊不能の検証資料を読んだ時の記録を思い出していた。


 右腕を自分のものとして認識できなくなった被験者。


 帰還不能。


 報告書の冷たい文字。


 その文字が、今は月華の白い機体の表面に浮かんで見えた。



 月華の初期試験記録は、紙では足りなかった。


 紙テープ。


 手書きログ。


 音声記録の書き起こし。


 医療記録。


 被験者の発話。


 隔離観察室の看護メモ。


 すべてが箱に詰められ、第零格納庫の壁際に積まれている。


 榊原は一つのファイルを開いた。


「初期試験、第三十二回。被験者、荻野誠一」


 奥山が思わず荻野を見た。


「博士が乗ったんですか」


「乗った」


 荻野は簡単に言った。


「なぜ」


「俺が作ったからだ」


「それ、理由になりますか」


「ならん。だが理由にした」


 榊原は読み上げた。


「接続深度、二十。被験者、正常応答。接続深度、三十五。左上肢の延長感を報告。接続深度、四十八。背部フィンを自己身体の一部として認識。接続深度、五十二。飛翔体干渉波模擬入力開始」


 荻野は黙っていた。


 スパナを握る手だけが、少し強くなった。


「接続深度、六十。被験者、皮膚感覚の外部拡張を報告。接続深度、六十八。被験者、格納庫天井を『近い』と発言。実際の月華は固定架上で停止」


「天井が近かった」


 荻野が言った。


 全員が彼を見る。


「あの時、俺は吊られていた月華の中にいた。だが同時に、格納庫の天井へ腕を伸ばしていた。腕ではない。翼だ。いや、翼でもない。皮膚だった」


 彼の声は、そこだけ少し遠かった。


「天井の錆びたボルトが見えた。いや、見えたんじゃない。触った。触ったのに、目で見ていた。目ではなかった。月華のフィンだ。フィンが目で、皮膚で、指だった」


 三枝が一歩近づいた。


「博士」


「分かっている。今はここだ」


 荻野は床をスパナで叩いた。


 金属音。


 一度。


 二度。


 三度。


「ここだ」


 彼はもう一度言った。


 その言葉は、周囲に向けたものではない。


 自分を地面へ戻すための手順だった。


 奥山は、その音を聞いていた。


 怖い時ほど足元を見る。


 怖い時ほど声を出す。


 荻野博士も、何かをしている。


 壊れた人間にも手順がある。


 そのことが、奥山にはひどく怖く、少しだけ救いに見えた。


 榊原は続きを読んだ。


「接続深度、七十二。被験者、飛翔体干渉波模擬入力に対し、追従反応を示す。接続深度、七十五。被験者、自己身体境界の混濁。接続深度、七十八。強制遮断」


 紙をめくる音がした。


「遮断後、被験者は三分間、自分の右脚を認識できず。五分後、格納庫内の月華を『まだ私の背中にある』と発言。十二分後、通常会話に一部復帰。ただし以後、断続的な身体拡張錯覚、睡眠障害、時間感覚の混濁、機体との同一化発言を確認」


 榊原は読み終えた。


 誰も笑わない。


 荻野は月華を見上げていた。


「俺は戻った」


 彼は言った。


「完全には戻らなかったが、戻った。だから記録になった。戻らなかった者は、記録の中でしか喋れん」


 黒崎が低く言った。


「死亡者は」


「いない」


 榊原が答えた。


 少し間を置いて続ける。


「ただし、日常生活へ完全復帰できなかった被験者は複数います」


 奥山が小さく言った。


「それ、死亡者がいないって言っていいんですか」


 荻野が奥山を見た。


「いい質問だ」


「褒めないでください。怖いです」


「怖がれ。正しい」



 月華の操縦殻は、連華よりも広かった。


 それなのに、伊藤には狭く見える。


 理由はすぐに分かった。


 連華の操縦殻は、人間を鉄に閉じ込める。


 月華の操縦殻は、人間の内側へ機体を入れる。


 座席は深く、背面には神経接続用の多層リンクがある。頭部固定具、首筋の接触端子、脊椎沿いの圧力センサー、両腕両脚へ伸びる細い拘束帯。電子制御を使わないため、信号の多くは機械式、流体式、圧覚式の変換器で伝えられる。


 だが最終的に演算するのは、人間の脳だった。


「乗りたくありませんね」


 奥山が言った。


「お前は乗せない」


 加藤が答えた。


「今、この世で一番安心する言葉でした」


「候補者は別にいる」


 黒崎の声で、空気が変わった。


 奥山の安心は長く続かなかった。


「誰ですか」


 伊藤が訊いた。


 黒崎は答える前に荻野を見た。


 荻野は嫌そうに顔をしかめた。


「月華は乗りたい者を乗せるな」


「連華と同じですね」


 奥山が言った。


「連華より悪い」


 荻野は即答した。


「連華は乗りたい者を殺す。月華は乗りたい者を喜ばせてから壊す」


 その言葉は、格納庫の冷えた空気に沈んだ。


 黒崎は一枚の紙を出した。


「候補者は、現時点で三名。いずれも精神接続適性、前庭感覚、反応速度、身体境界の柔軟性が高い」


「柔軟性という言葉が嫌ですね」


 三枝が言った。


 医療者としての声だった。


「身体境界は、柔らかければいいものではありません」


「その通りだ」


 荻野が言った。


「柔らかい壁は破れやすい」


 伊藤は候補者名簿を見た。


 知らない名前が二つ。


 三つ目の名前で、目が止まった。


 柏木美央。


 違う。


 見間違いだった。


 そこにあるのは別の名前だ。


 柏木ではない。


 佐伯でもない。


 だが、一瞬だけ、美央の名前に見えた。


 子ども。


 空を見上げる少女。


 柏木が帰る理由だと言った存在。


 伊藤は紙を閉じた。


「候補者の年齢は」


「最年少で十九」


 黒崎が答えた。


「若すぎます」


「若い方が接続適性は高い」


 荻野が言った。


「だから危険だ」


「博士は、反対ですか」


「月華そのものに反対だ」


「では、なぜここにいる」


 伊藤の声は静かだった。


 だが、その場の全員が少しだけ彼を見ている。


 荻野も見た。


「作ったからだ」


「それは理由になりません」


「ならない。だが理由にしたと言った」


「人間を壊すと知っていて」


「知っている」


「それでも」


「それでも、白いものへ触れるには、誰かが波の隙間を読む必要がある」


 荻野の声が低くなった。


「連華は近づける。だが遅い。烈火は撃てる。だが一度きりだ。月華は読む。あれの周りで、何が変わるのかを読む。読むためには、人間の脳を使うしかない」


「人間を壊してでも」


「壊さずに済む方法を探している」


「見つかりましたか」


 沈黙。


 荻野は答えなかった。


 答えないこと自体が答えになる。


 伊藤は月華を見た。


 美しい機体。


 帰ることを考えない機体ほど、美しく見える。


 その記録を読んだ時に思った言葉が、また胸の中に戻ってきた。


「なら、帰還手順を先に作るべきです」


 伊藤は言った。


 黒崎が彼を見た。


 榊原も。


 荻野は、少しだけ笑った。


「三号機らしいな」


「伊藤です」


「帰還手順は作った」


 荻野は言った。


「全部失敗した」


「なら、失敗記録を見せてください」


「何に使う」


「次の失敗を変えます」


 荻野の目が、初めて少しだけ楽しそうに光った。


「嫌な言い方だ」


「技術者としては正しい」


 榊原が小さく言った。


 荻野はスパナで床を叩いた。


「よし。見せる。ただし、見たら戻れんぞ」


「資料を見るだけです」


「違う。人間がどう壊れるかを見た者は、見なかった頃には戻れん」


 伊藤は答えた。


「戻れないことには慣れています」


 荻野は、今度は笑わなかった。


「それが一番危ない」



 月華の試験映像は、映像ではなかった。


 干渉対策のため、電子記録の多くは残っていない。


 かわりに、連続写真、手描きの姿勢図、紙テープ、観測者のメモ、そして被験者の発話記録がある。


 伊藤はそれを読んだ。


 月華は固定架の上で動いていない。


 だが記録の中の被験者は、飛んでいた。


 空が近い。


 腕が長い。


 背中が痛い。


 左の翼が濡れている。


 違う、これは翼ではない。


 私の肩だ。


 誰かが私の肩を持っている。


 やめろ。


 いや、離すな。


 落ちる。


 落ちていない。


 私は格納庫にいる。


 格納庫が小さい。


 私は大きい。


 違う。


 私はどこだ。


 伊藤は、紙から目を上げた。


 月華は静かに吊られている。


 こんなにも静かに、人間を壊す。


「気分が悪いですか」


 三枝が訊いた。


「いいえ」


「嘘ですね」


「あなたは医療者ですか、尋問官ですか」


「ここでは両方必要そうなので」


 伊藤は少しだけ息を吐いた。


「気分は悪いです」


「続けますか」


「続けます」


「でしょうね」


 三枝はそう言って、少し離れた。


 止めるために見る。


 奥山が彼女へ頼んだことを、伊藤は思い出した。


 止めてください。


 自分にも必要かもしれない。


 そう思ったが、口にはしなかった。


 まだ。


 まだ言えなかった。



 その夜、第零格納庫で月華の低深度接続試験が行われた。


 搭乗者はいない。


 正確には、人間は操縦殻に入らない。


 荻野が作った擬似神経負荷装置を使い、接続系の動作だけを見る試験だった。


 黒崎が反対する。


 榊原も反対した。


 三枝は医療監視なしでは許可できないと言った。


 荻野は全員の反対を聞き、こう言った。


「では、全員見ていろ」


 許可ではない。


 強行でもない。


 責任の押しつけでもない。


 壊れるものを見るために、目を逸らすなという命令に近かった。


 月華の胸部が開く。


 操縦殻の内側が見える。


 白い。


 連華の操縦殻は暗い。


 月華は白い。


 その白さが、奥山には気味悪く見えた。


「病院みたいですね」


 三枝が言った。


「病院は人を治す場所です」


 奥山が答えた。


「そうとも限りません」


 三枝の声は静かだった。


 擬似神経負荷装置が接続される。


 細い管。


 圧力変換器。


 機械式の応答板。


 人間の脳の代わりに、一定の反応を返すだけの装置。


 それでも月華は、何かを待っているように見えた。


「低深度接続、開始」


 榊原が言った。


 紙テープが動き始める。


 月華の背部フィンが、わずかに開いた。


 音はほとんどない。


 空気が動く。


 照明が少しだけ揺れる。


 伊藤は目を細めた。


 動きが美しすぎる。


 連華は動くたびに重さを示す。


 月華は、重さを隠す。


 それが危険だった。


「接続深度、十」


 榊原の声。


「応答安定」


 月華の右腕が、わずかに上がった。


 誰も乗っていない。


 擬似装置が信号を返しているだけ。


 それでも、人間の腕のように見えた。


 奥山が一歩下がる。


 加藤がそれに気づいた。


「どうした」


「嫌です」


「何が」


「今の動き、人間みたいでした」


 荻野が言った。


「人間みたいに作ったからだ」


「博士は、ロボットって呼ばれるの嫌いなんですよね」


「嫌いだ」


「でもこれは、機械というより」


 奥山は言葉を探した。


 生き物、とは言いたくなかった。


 言えば本当にそう見えてしまう。


「人間の真似をしている何かです」


 荻野は奥山を見た。


「やはり二号機は目がいい」


「褒められても怖いです」


「月華は、人間の真似をしているんじゃない。人間に、自分が月華だと思わせるために、人間の動きを覚えている」


「もっと怖い説明ありがとうございます」


「礼はいらん」


「言ってません」


 接続深度、十五。


 背部フィンがさらに開く。


 月華の肩が、呼吸するように動いた。


 三枝が息を止めた。


 伊藤は、倉田の機体が夜の海へ落ちる直前の姿勢を思い出した。


 まだ戻せる。


 月華は、その言葉を好みそうだった。


 まだ戻せる。


 まだ飛べる。


 まだ自分の身体だ。


 まだ。


 その「まだ」が、人を壊す。


「停止」


 伊藤は言った。


 全員が彼を見た。


 榊原が黒崎を見た。


 黒崎は荻野を見た。


 荻野は伊藤を見ていた。


「理由は」


 荻野が訊いた。


「美しすぎます」


 奥山が小さく言った。


「理由になるんですか、それ」


 伊藤は月華から目を離さなかった。


「なります」


 荻野は少しだけ口元を歪めた。


「停止」


 榊原が操作した。


 紙テープの動きが止まる。


 月華のフィンが閉じた。


 格納庫の空気が戻る。


 誰もすぐには動かなかった。


 ただの低深度接続試験。


 人間は乗っていない。


 なのに、全員が何かから帰ってきたような顔をしていた。



 試験後、伊藤は月華の前に残った。


 荻野も残っている。


 二人だけではない。


 少し離れて三枝がいた。


 彼女は何も言わない。


 止めるために見ている。


 伊藤はそれに気づいていた。


「美しすぎる、か」


 荻野が言った。


「技術者らしくない理由です」


「技術者は美しさに弱い」


「意外です」


「嘘だ。お前も分かっている」


 伊藤は否定しなかった。


 月華は美しい。


 その美しさは、無駄がないからではない。


 帰ることを削っているからだ。


「博士」


「何だ、三号機」


「伊藤です」


「何だ」


「月華は、戻りたがりますか」


 荻野は少し黙った。


 その問いは、機体についての問いではない。


 だが機体についての問いでもあった。


「月華は戻りたがらない」


 荻野は言った。


「月華に乗った人間は」


「戻りたい人間なら戻ろうとする。飛びたい人間なら、戻りたくなくなる」


 伊藤は目を伏せた。


「候補者から、飛びたい人間を外すべきです」


「正しい」


「できますか」


「できん」


 荻野は即答した。


「月華に適性のある人間は、たいてい飛びたい。身体境界が柔らかく、空間への自己投影が強く、速度変化を恐れない。つまり、飛ぶことを好む」


「最悪の条件ですね」


「そうだ」


 荻野は月華を見た。


「だから俺は、連華の足を信用している」


 伊藤は彼を見た。


「月華ではなく」


「月華は読む。連華は戻る。読むだけでは帰れん。戻るだけでは触れられん。どちらも要る。だから嫌なんだ」


「嫌でも作る」


「作った者は見る」


 荻野の声が少しだけ揺れた。


「俺は月華で壊れた。まだ全部は戻っていない。時々、背中にあれがある。時々、天井が近い。時々、白いものの波が皮膚の下を通る」


 三枝が一歩近づいた。


 荻野は手を上げて止めた。


「今はここだ」


 スパナで床を叩く。


 一度。


 二度。


 三度。


「ここだ」


 伊藤は、その手順を見ていた。


 壊れた人間が戻るための手順。


 自分にも必要になるかもしれない。


 月華に乗る者にも。


 奥山にも。


 加藤にも。


 誰にでも。


「博士」


「何だ」


「月華の帰還手順を、三号機側で作ります」


「作れ」


「月華側の協力は期待しません」


「期待するな」


「搭乗者の意思も、混濁する前提で組みます」


「それでいい」


「場合によっては、月華を壊します」


 荻野は伊藤を見た。


 長い沈黙があった。


「壊せるか」


「必要なら」


「便利な毒だと言った」


「はい」


「なら、必要ではなく、帰すために壊せ」


 伊藤は頷いた。


「帰すために壊します」


 荻野は少しだけ笑った。


「嫌な男だ」


「よく言われます」


「言われるだけましだ。俺は言う側だった」


 三枝が静かに言った。


「お二人とも、休んでください」


 伊藤と荻野が同時に彼女を見た。


 三枝は視線を逸らさなかった。


「今の会話は、どちらも危険です」


 奥山なら、言い方、と言ったかもしれない。


 伊藤は言わなかった。


「了解しました」


 彼は答えた。


 荻野は不満そうに鼻を鳴らした。


「衛生科は嫌いだ」


「生きて戻すのが仕事です」


「なら、嫌いだが必要だ」


 三枝は小さく頷いた。



 翌朝、月華再試験計画の第一案が作成された。


 作戦名はまだない。


 搭乗候補者も正式には決まっていない。


 だが紙の上には、すでに多くの線が引かれていた。


 月華接続深度の段階制限。


 精神負荷の観測項目。


 身体所有感の確認手順。


 強制遮断条件。


 遮断後の医療観察。


 連華三号機による外部回収案。


 月華が戻らない場合の物理拘束案。


 月華搭乗者が戻ることを拒否した場合の対応。


 その最後の行を、伊藤は長く見ていた。


 戻ることを拒否した場合。


 それは月華の怖さだった。


 飛べない恐怖ではない。


 戻りたくなくなる恐怖。


 伊藤は紙の余白へ、いつものように短く書いた。


 帰投優先。


 その下に、もう一行。


 本人の意思が混濁した場合も適用。


 書いてから、鉛筆を止めた。


 人間を帰すために、人間の意思を疑う。


 それはひどいことだった。


 だが、月華はもっとひどい。


 白い飛翔体は、今日も空を進んでいる。


 破壊不能なものとして。


 その下で、人間は自分たちの脳を翼に変えようとしている。


 伊藤は、月華の格納庫へ目を向けた。


 美しい機体は、まだ眠っている。


 眠っているように見える。


 だが伊藤には、あれが目を閉じているだけに見えた。


 いつか開く。


 開いた時、人間は空へ行く。


 そして、帰りたくなくなるかもしれない。


 だから地面には、連華の足が必要だった。


 重く。


 遅く。


 不格好で。


 嫌になるほど具体的な、帰り道として。


 月華は美しかった。


 そのことが、まず危険だった。


 そして、それでも人類は、その美しさを起こそうとしていた。


 触れられない白いものへ、初めて触れるために。


 誰かの心を、翼にして。


月華を単なる強化機体ではなく、人間の脳と身体感覚を壊しかねない禁忌の機体として描きました。


荻野博士は連華の原点を作った人物でありながら、月華の精神接続試験で自分自身も壊れてしまった人物です。

そのため彼は、月華の美しさも危険さも、誰よりも近い場所で知っています。


第9章で伊藤が掲げた「帰投優先」は、月華に対してさらに重い意味を持ち始めます。

次章では、宇宙戦用の烈火へ物語が広がっていきます。

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