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メタルブレーカーズ  作者: 源三郎


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第11章 烈火

第11章。華計画の三つ目の花、烈火が登場します。

連華が地上で戻るための足、月華が空で心を翼にする機体なら、烈火は脚を持たない巨大な上半身で宇宙から照準を合わせる黒い花です。


帰還を前提にしない機体に乗る人間が、それでも何を諦めずにいるのか。

搭乗予定者・真壁遥の日常と覚悟を、衛生兵・三枝真帆との会話を交えて描いていきます。


 烈火れっかには、足がなかった。


 だが、腕はある。


 頭もあった。


 人の形をしている。


 そう言おうとすれば、言えなくもない。


 だが、それは人間から下半身を奪い、胴を膨らませ、腕を兵器へ変え、頭部を観測器へ置き換えたものだった。


 花の名を与えられていながら、それは人の形の途中で、何かを諦めたような姿をしていた。


 連華は地面を踏む。


 月華は空を舞う。


 烈火は、落ちる。


 ただ落ちるだけではない。


 大気圏外で姿勢を変え、腕で軌道を掴み、頭部の光学照準で白い飛翔体を捉え、胴体そのものを質量弾の発射台にする。


 大気圏外から、地球の重力を味方につけ、飛翔体の軌道へ向かって質量を叩き込む。


 兵器というより、巨大な砲手だった。


 機体というより、自分自身を撃ち出すための砲座だ。


 搭乗者は、操縦士というより、最後の照準器だった。


 その説明を聞いた時、奥山おくやま三尉は言った。


「それ、乗り物じゃないですよね」


 誰も否定しなかった。



 烈火は、防衛庁地下第七区画にはなかった。


 置ける場所ではない。


 大きすぎる。


 危険すぎる。


 そして、地上から遠すぎる。


 烈火が眠っているのは、鹿児島県南端、旧宇宙開発施設群からさらに山側へ入った、火山岩の地下だった。


 表向きは老朽化した推進剤保管施設。


 実際には、宇宙軍準備室と防衛庁が共同で改修した、極秘の軌道投入施設だった。


 名前は、南星地下射出場。


 地上には低い倉庫と古い観測塔しか見えない。


 だが地下には、巨大な縦坑があった。


 岩盤をくり抜き、特殊合金の補強環を打ち込み、発射筒というより、地球の内側から空へ突き刺す針のように作られた穴。


 その底で、烈火は巨大な支持架に固定されていた。


 黒かった。


 塗装ではない。


 未処理の耐熱材と、特殊合金の地肌と、炭化した試験痕が重なった黒だった。


 白い飛翔体へ向かうための機体が、黒い。


 それは偶然ではなかった。


 烈火の開発主任は言った。


 宇宙では、花の色など誰も見ない。


 熱に耐え、波に耐え、落下に耐えるなら、それでいい。


 その言葉は正しかった。


 だが正しい言葉ほど、人間を慰めない。



 加藤かとう一尉、伊藤いとう二尉、榊原技官、そして黒崎司令は、輸送機と夜間車列を乗り継いで南星地下射出場へ入った。


 奥山は来ていない。


 医務室の判断ではなく、加藤の判断だった。


 烈火を見る必要はない。


 少なくとも今は。


 奥山はそう聞いて、珍しく反論しなかった。


「僕、見たらたぶん泣くので」


 そう言った。


 加藤は答えた。


「泣く場所は選べ」


「選んでいいんですか」


「泣くなとは言っていない」


 奥山は少し黙った。


「隊長、最近そういう言い方しますよね」


「どんな言い方だ」


「怖い人が優しいことを言う時の言い方です」


「医務室へ戻れ」


「はい」


 奥山は戻った。


 その背中を見ながら、伊藤は何も言わなかった。


 烈火を見れば、奥山は泣くだろう。


 伊藤も、それは正しいと思った。


 泣ける人間には、泣ける場所が必要だ。


 烈火の前では、たぶん誰も泣けない。


 泣くには、あまりにも乾いている。



 南星地下射出場の司令室は、地下深くにあった。


 防衛庁地下第七区画よりも、さらに無機質だ。


 壁は厚く、天井は低く、配管は露出している。電子機器は必要最低限に抑えられ、主要な表示は紙、針、機械式カウンター、光学投影図で構成されていた。


 宇宙を扱う施設なのに、ここでも最後に残ったのは紙だった。


「ようこそ、地面の底へ」


 出迎えた男は、そう言った。


 宇宙軍準備室、宗像暁むなかた・あきら一佐。


 年齢は四十代半ば。


 背は高く、痩せている。


 髪は短く、目の下には深い影があった。


 制服は整っている。だがそこにいる人間の中で彼だけが、どこか地上ではなく軌道上の気圧に合わせて立っているように見える。


 黒崎は敬礼を返した。


「状況は」


「烈火一号機、機体統合完了。烈火二号機、推進器未装着。三号機は部品のままです」


「一号機しか使えないか」


「一号機も、使えると言うには勇気が要ります」


 宗像は淡々と言った。


「ですが、勇気のない報告書は上に嫌われる」


「ここも同じか」


「どこも同じでしょう」


 宗像は伊藤を見た。


「連華三号機の搭乗者ですね」


「伊藤二尉です」


「空自の」


「現在は特防群です」


「空を捨てたと聞きました」


 黒崎がわずかに眉を動かした。


 伊藤は表情を変えなかった。


「よくある噂です」


「宇宙では噂も遅れて届きます」


「なら、鮮度が悪い」


 宗像は少しだけ笑った。


「悪くない」


 それから、彼は加藤を見た。


「連華班の隊長」


「加藤です」


「部下を帰す人だと聞きました」


 加藤は答えなかった。


 その言い方は、褒め言葉のようで、どこか違う。


 宗像は続けた。


「ここでは、それが一番難しい」



 烈火の格納坑へ降りる昇降機は、貨物用だった。


 人間が乗るには広すぎる。


 広いのに、逃げ場がない。


 四人は金網の床に立ち、ゆっくりと下へ降りた。


 縦坑の壁を、補強環が何層にも囲んでいる。赤い非常灯が一定間隔で並び、下から冷たい風が吹き上がってくる。


 伊藤は上を見なかった。


 空ではない。


 穴だ。


 だが、穴の先には空がある。


 それが烈火の嫌なところだった。


 地面の底から、空の外へ向かう。


 帰り道を地上に残さず、最初から上へ上へと切り離していく。


「烈火の軌道投入方式は」


 榊原が宗像に訊いた。


「多段式固体推進。初段は地下射出筒内で燃焼、二段以降は高度と姿勢に応じて手動補正。電子誘導は干渉波で信用できません。最終段は搭乗者の光学照準と機械式姿勢補正で対象軌道へ合わせる」


「搭乗者の負荷は」


「聞かない方がいい」


「聞きます」


 宗像は少しだけ間を置いた。


「通常の航空機搭乗者なら失神します。訓練済みでも、最終段で意識を維持できる保証はない」


「それで照準器ですか」


「だから照準器です」


 伊藤は言った。


 宗像が彼を見た。


「搭乗者を操縦士と呼ばない理由が分かりました」


「気に入りませんか」


「気に入りません」


「私もです」


 昇降機が止まった。


 金属音。


 ロックが外れる。


 扉の向こうに、黒い機体があった。



 烈火一号機は、巨大な支持架の上に座っていた。


 座っている、としか言いようがない。


 脚はない。


 腰から下は、巨大な推進器と姿勢制御ノズルを束ねた膨らんだスカート状の推進ブロックになっている。そこから上は、異様に大きな胴体だった。胸部は厚く、中央には操縦殻と質量弾射出機構が重なって収められている。


 胴体の左右には、巨大な腕があった。


 人間の腕に似せてはいる。


 だが手ではない。


 掌にあたる部分には五本の指ではなく、姿勢制御用の小型ノズル、光学照準補助器、質量弾の補助固定具が束ねられている。腕は物を掴むためではなく、宇宙で機体の向きを変え、撃つべき瞬間に自分の重心を押さえ込むためのものだった。


 頭部もあった。


 小さい。


 胴体に比べれば、ひどく小さい。


 だが、その頭部こそが烈火の目だった。電子センサーが死ぬ空域でも使えるよう、複数の光学系、機械式測距器、手動照準環が重ねられている。黒い胴体の上に載ったその頭部は、どこか無表情な仮面のように見えた。


 全高は二十メートル近い。


 人型と呼べる。


 だが人間ではない。


 脚を捨て、帰還を捨て、宇宙で撃つためだけに膨れ上がった上半身だった。


 帰還する形をしていない。


 それが、見ただけで分かった。


 伊藤は、胸の奥が冷えるのを感じた。


 月華の怖さとは違う。


 月華は戻りたくなくなる。


 烈火は、戻ることを最初から訊いてこない。


 それが恐ろしかった。


「これに人が乗るのか」


 加藤が言った。


 宗像は答えた。


「はい」


「必要なのか」


「はい」


「便利な毒だな」


 伊藤は思わず加藤を見た。


 荻野博士の言葉だ。


 加藤は烈火から目を離さなかった。


 宗像は言った。


「毒でも、効くなら使う」


「効いた後に何が残る」


「結果です」


「人間は」


 宗像はすぐには答えなかった。


 格納坑の冷たい風が、烈火の黒い胴体と巨大な腕を撫でた。


「記録に残します」


 加藤の目がわずかに細くなった。


「それを答えにするな」


 宗像は加藤を見た。


 その視線に、怒りはない。


 疲労があった。


 諦めではない。


 諦めていない者が、諦めたような言葉を使わなければならない時の疲労だった。


「では、見てください」


 宗像は言った。


「記録ではない人間を」



 烈火一号機の横に、一人の女性が立っていた。


 背は低くない。


 髪は短く、首筋に古い火傷の跡がある。


 宇宙軍準備室の濃紺の作業服を着ていた。


 年齢は三十代前半に見える。


 表情は穏やかだった。


 穏やかすぎて、かえって危うく見えた。


真壁遥まかべ・はるか二佐」


 宗像が紹介した。


「烈火一号機、搭乗予定者です」


 真壁は敬礼した。


「真壁です」


 声は低く、よく通った。


 加藤は敬礼を返した。


「加藤です」


 伊藤も名乗った。


「伊藤です」


 真壁は伊藤を見た。


「空自の伊藤二尉ですね」


「現在は特防群です」


「空を捨てた」


「今日はよく聞きます」


「宇宙は噂が遅いので」


「宗像一佐にも同じことを言われました」


「では、正しいのでしょう」


 真壁は少しだけ笑った。


 笑顔は柔らかい。


 だが目は、烈火と同じ方向を見ている。


 上ではない。


 もっと遠く。


 高度というより、距離を見ている目だった。


「真壁二佐」


 加藤が言った。


「烈火に乗る理由を訊いてもいいですか」


「命令です」


「それ以外を」


 真壁は少し黙った。


 宗像が止めるかと思ったが、止めなかった。


「私は、宇宙を仕事にしたかった」


 真壁は言った。


「子どもの頃から、上へ行きたかった。空では足りませんでした。大気の外へ出たかった」


「夢ですか」


「はい」


 真壁は烈火を見た。


「ですが、これは夢ではありません」


「では」


「残骸です」


 その言葉に、伊藤は目を細めた。


「私たちが作ろうとしていた宇宙機の残骸。平時なら、十年かけて人を安全に軌道へ送るための機体になったかもしれない。再使用できる推進器、帰還カプセル、軌道上作業ポッド。そういうものを全部削って、飛翔体へ届く一撃にした」


 真壁の声は穏やかなままだった。


「烈火は、私の夢の残骸です」


 奥山がいれば、たぶん何も言えなかっただろう。


 伊藤も、すぐには言えなかった。


「それでも乗るのですか」


 彼は訊いた。


「はい」


「死ぬつもりですか」


 真壁は伊藤を見た。


 その目に、初めて少しだけ怒りが見えた。


「違います」


 はっきりした声だった。


「帰還を前提にしない任務と、死ぬつもりの任務は違います」


 伊藤は黙った。


 その言葉は、彼の胸に鋭く入った。


「私は死ぬために乗るのではありません。任務を果たすために乗ります。帰還手段がないことと、生きる意志がないことを混同しないでください」


 真壁は烈火へ手を置いた。


「私は、帰れるなら帰ります」


 加藤が低く言った。


「帰還手段は」


「未確立です」


「未確立と、ない、は違う」


「はい」


 真壁は加藤を見た。


「だから、まだ諦めていません」


 その言葉で、加藤の表情が少し変わった。


 伊藤には分かる。


 加藤は、真壁を死にたがりとは見なくなっている。


 死にたがりではない。


 帰りたい者だ。


 帰りたいのに、帰る道がない機体へ乗ろうとしている者だ。


 それは、もっと悪い。



 真壁遥の訓練記録は、尋常ではなかった。


 高G耐性。


 低酸素環境適性。


 孤立閉鎖環境。


 無音環境。


 光学照準。


 手動姿勢補正。


 睡眠制限下での判断保持。


 彼女は、ほとんどの項目で最高評価を取っている。


 だが伊藤が見たのは、評価ではなかった。


 訓練後の自由記述欄。


 そこに、真壁の字で短く書かれていた。


 帰還手順、再検討を要する。


 次の記録にも。


 帰還手順、再検討を要する。


 その次にも。


 帰還手順、再検討を要する。


 何度も同じ言葉があった。


 宗像は言った。


「彼女は毎回書きます」


「却下されるのですか」


「保留です」


「却下より悪い」


「知っています」


 伊藤は記録を閉じた。


「なぜ改善されない」


「質量の問題です。推進剤の問題です。耐熱材の問題です。飛翔体干渉波の問題です。帰還装備を積めば、烈火は烈火でなくなる」


「つまり、弾として軽くするために、人間の帰還を削った」


「そうです」


 宗像は隠さなかった。


 隠すほど余裕がないのだろう。


「真壁二佐は、それを承知している」


「承知と納得は違います」


 伊藤は言った。


 宗像は少しだけ目を伏せた。


「その通りです」



 烈火の操縦殻は、想像よりも狭かった。


 月華のような白さはない。


 連華のような油臭さもない。


 烈火の操縦殻は、黒かった。


 内壁は耐熱材で覆われ、座席はほとんど寝台に近い角度で固定されている。搭乗者はそこへ仰向けに収まり、全身を拘束される。腕は左右の手動補正レバーへ固定される。そのレバーの先で、烈火の巨大な腕が動く。


 足はペダルではなく、姿勢反応確認用の圧板に置かれるだけだった。


 烈火に脚はない。


 搭乗者の脚は、機体のどこにもつながらない。


 その代わり、腕だけが宇宙へ届く。


 動くための場所ではない。


 動かないための場所だった。


 真壁が中へ入る。


 訓練用の低負荷模擬試験だった。


 本番ではない。


 それでも、ハッチが閉じる音は棺の蓋に似ていた。


 伊藤は、その音を嫌った。


 加藤はもっと嫌っただろう。


 だが二人とも何も言わなかった。


「烈火一号機、模擬接続」


 管制官が読み上げる。


「搭乗者、真壁二佐。姿勢補正系、手動。推進器、未点火。光学照準、模擬星図」


 紙テープが動く。


 機械式カウンターが回る。


 真壁の声が有線で入った。


『真壁、状態良好』


 声は落ち着いている。


 落ち着きすぎている。


『光学照準、確認』


「模擬目標、投影」


 格納坑の壁面に、星図が光学投影された。


 電子画面ではない。


 レンズとフィルムと光源で作られた、古い星の絵だった。


 真壁は操縦殻の中から、その星図を見ている。


『目標捕捉』


 針が動く。


 烈火の頭部が、ごくわずかに傾いた。


 大きな機体が、針一本分だけ動く。


 その動きは、美しくはなかった。


 重い。


 鈍い。


 だが、まっすぐだった。


 伊藤は月華を思い出した。


 月華は人間の脳に翼を生やす。


 烈火は人間を、脚のない巨人の胸へ固定する。


 どちらがひどいのか、すぐには決められなかった。


『模擬軌道、修正』


 真壁の声。


 機首がさらに微調整される。


 宗像が記録を見ていた。


 榊原も別の紙へ書き込んでいる。


 加藤は操縦殻のハッチだけを見ていた。


 人間がいる場所を見ている。


 それが、加藤の見方だった。


『目標、接近』


 管制が言う。


『最終補正』


 真壁の声が、少しだけ低くなった。


 針が揺れる。


 烈火の内部で何かが軋む。


 模擬試験のはずなのに、格納坑の空気が緊張する。


『補正完了』


 成功判定。


 管制室に小さな息が漏れた。


 誰も拍手しない。


 真壁の声が続いた。


『帰還手順へ移行』


 沈黙。


 管制官が宗像を見た。


 宗像は目を閉じた。


「真壁二佐」


 彼は言った。


「本試験項目に帰還手順は含まれない」


『承知しています』


「では、試験終了」


『帰還手順へ移行』


 同じ声。


 落ち着いている。


 だからこそ痛かった。


 加藤が宗像を見る。


 宗像は首を横に振った。


「毎回です」


 真壁の声が入る。


『姿勢反転。残推力なし。通信遅延想定。手動再突入角、設定』


 管制官は何も入力していない。


 模擬星図も変わっていない。


 それでも真壁は、自分の中で帰還手順を続けている。


『熱防護、不足。角度再設定』


「真壁」


 宗像が名前で呼んだ。


『生存可能角、再計算』


「真壁」


『再計算』


 声が一瞬だけ揺れた。


『再計算』


 伊藤は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。


 これは死にたがりの声ではない。


 帰りたい者の声だ。


 帰りたいのに、帰り道がない者が、存在しない道を何度も計算している。


「真壁二佐」


 伊藤は有線へ近づいた。


 宗像が止めようとしたが、黒崎が手で制した。


「伊藤二尉です」


『連華三号機』


「はい」


『帰還手順、ありますか』


 伊藤は答えられなかった。


 ない。


 現時点では。


 烈火に対して、連華三号機ができることはほとんどない。


 大気圏外へは届かない。


 再突入機を抱えることもできない。


 燃え尽きるものを地上から引くこともできない。


 嘘は言えない。


 だが、何も言わないこともできなかった。


「今は、ありません」


 伊藤は言った。


 管制室の空気が止まった。


「ですが、探します」


『見つかりますか』


「分かりません」


『正直ですね』


「嘘をつくには、材料が足りません」


 短い沈黙。


 それから、真壁は小さく笑った。


『良いですね。宇宙軍には、嘘をつくための材料だけは余っている』


 宗像が目を伏せた。


『試験終了します』


 真壁の声が落ち着きを取り戻した。


 操縦殻のハッチが開く。


 中から出てきた真壁の顔は、少し青かった。


 だが、立っている。


 加藤は彼女を見た。


「戻りましたね」


 真壁は頷いた。


「模擬試験では」


「それでも、戻りました」


 真壁は、何かを言いかけてやめた。


 それから静かに言った。


「ありがとうございます」



 模擬試験の後、南星地下射出場には短い休息時間が与えられた。


 食堂と呼ぶには狭い。


 射出場の地下三階、配管の間に挟まれた横穴のような空間に、折りたたみ机が四つ並んでいる。壁に据え付けられた棚には缶詰と乾パンが積まれ、湯沸かし器と使い込まれた急須が一台ずつ。


 温かいものはお茶しかない。


 だがそのお茶が、ここでは贅沢だった。


 真壁遥は、急須から自分の湯飲みに茶を注いでいた。


 湯飲みは白い。南星の備品で、底に小さく「宇宙軍準備室」と焼き印がある。配られた時、真壁は少し笑った。宇宙へ行く部署の湯飲みが、地面の底にある。


 その湯飲みを、彼女は三年使っている。


 縁が欠けていた。


 取り替えればいいのに、取り替えない。整備員の一人が訊いたことがある。なぜその湯飲み、替えないんですか。


 真壁は答えた。


「慣れたから」


 それだけだった。慣れる、ということが、ここでは小さな抵抗だった。何かに慣れるということは、ここにいる時間が積まれているということだ。積まれた時間は、消えない。


 真壁は机に座り、乾パンを一枚割った。


 硬い。噛むと、歯の奥に振動が来る。それが妙に好きだった。食べている、という実感がある。宇宙食の試食訓練では、柔らかく温かく味の調整されたものばかり食べた。だが地上では、硬いものを噛みたかった。


 向かいの席に、宗像が座った。


 茶を注ぎ、乾パンには手を出さない。


「食べないんですか」


「歯が痛い」


「医務に行ってください」


「ここに医務はない」


 真壁は少し黙った。


「三枝二尉が来ていますよ」


 宗像は眉を上げた。


「衛生兵が」


「防衛庁地下から、搭乗者の身体検査のために来ています。歯も診てもらえるかもしれません」


「衛生兵に歯を診せるのか」


「嫌なら我慢してください」


 宗像は茶をすすった。


 真壁も茶をすすった。


 二人の間に、会話らしい会話はない。だがこの沈黙が南星では日常だった。地上から遠い場所で、人間が並んで茶を飲む。それだけのことが、ここでは生活になる。



 三枝真帆さえぎ・まほ二尉は、南星地下射出場の仮設医務室にいた。


 医務室と呼べるほどの設備はない。地下通路の一角に、折りたたみ式の診察台とアナログ血圧計と体温計と簡易な外傷処置セットが置かれている。薬品棚は小さく、消毒液と鎮痛剤と胃薬が半分ずつ入っていた。


 三枝は防衛庁地下第七区画の医療区画から、烈火搭乗候補者の定期身体検査のために派遣されていた。


 検査項目は多い。


 心肺機能。血圧変動。高G耐性後の回復速度。骨密度。視力。聴力。精神状態の簡易評価。


 そのほとんどは、電子機器を使わずに行わなければならない。干渉波対策ではない。南星にまともな電子医療機器がないだけだった。


 三枝は手動の血圧計のカフを巻き直しながら、記録用紙に数字を書いていた。


 そこへ、真壁が入ってきた。


「定期検査です」


「お待ちしていました」


 三枝は椅子を引いた。


 真壁は座り、作業服の袖をまくって左腕を差し出した。


 三枝がカフを巻く。ゴム球を握る。針が動く。


 しばらく無言だった。


 血圧計の針が揺れ、三枝がメモを取り、真壁が静かに呼吸する。その繰り返しが、二人の間の距離を測っていた。


「血圧、正常範囲です」


「いつも通りですね」


「模擬試験直後にしては安定しています」


 三枝は次の項目に移った。ペンライトを取り出し、真壁の瞳孔を確認する。


 真壁は目を開いたまま動かない。光を受けても、瞬きしなかった。


 訓練の結果だった。光学照準を手動で合わせる搭乗者は、瞬きを制御しなければならない。烈火の操縦殻の中で目を閉じることは、照準を失うことだ。


 三枝はペンライトを消した。


「瞳孔反射、正常。ただし」


「ただし」


「瞬き回数が少なすぎます。意識的に目を閉じる時間を作ってください。角膜が乾燥します」


「宇宙では乾燥する」


「地上にいる間は、地上の身体を維持してください」


 真壁は少し笑った。


「三枝二尉は、いつもそう言いますね」


「毎回言わないと、搭乗者は地上を忘れるからです」


 真壁の笑顔が、ほんの少しだけ固まった。


 忘れるのではない。忘れたいのでもない。ただ、地上のことを考えすぎると、烈火に乗れなくなる。


 三枝はそれを知っている。知っているから、あえて地上の話をする。


「食事は取れていますか」


「乾パンと茶」


「それだけですか」


「南星にはそれしかありません」


「缶詰があるはずです」


「鯖の味噌煮が三十六缶あります。全部同じ味です」


「食べてください」


「飽きました」


 三枝はペンを止めた。真壁を見る。


 真壁は目を逸らさなかった。


「真壁二佐。飽きるということは、味を感じているということです」


 真壁は黙った。


「味を感じなくなったら、教えてください。それは疲労ではなく、別のものです」


 三枝の声は穏やかだった。穏やかだが、譲らない。


 真壁は頷いた。


「分かりました」


「鯖の味噌煮を食べてください」


「……はい」


 三枝は記録用紙の備考欄に、短く書いた。


 食事量、やや不足。味覚正常。経過観察。


 それから視線を記録用紙から上げて、真壁の首筋を見た。古い火傷の跡。初めて見た時、三枝は何も訊かなかった。今も訊かない。医療者として必要なら訊く。だが火傷の由来は、検査項目にない。


「三枝二尉」


 真壁が言った。


「はい」


「あなたは、防衛庁地下で連華班の面倒も見ているんですよね」


「はい」


「あの人たちは、どうですか」


 三枝は少し考えた。


「どう、とは」


「帰ってきますか」


 三枝のペンが止まった。


 連華班は帰ってくる。毎回、壊れかけて、それでも帰ってくる。烈火は違う。帰還手段がない。


 真壁が訊いているのは、連華班のことではなかった。自分が帰れるかどうかを、別の人間の帰還率で測ろうとしている。


 三枝は答えた。


「加藤一尉は、部下を帰す人です」


 真壁は静かに聞いていた。


「奥山三尉は怖がりです。怖がりだから、生き延びます」


「伊藤二尉は」


「帰投優先、と言います」


「帰投優先」


「帰ることを最優先にする人です」


 真壁は湯飲みの縁を指でなぞった。欠けた縁。


「いい言葉ですね」


「真壁二佐にも、使える言葉だと思います」


 真壁は答えなかった。


 答えない代わりに、作業服の胸ポケットに手を当てた。ポケットの中には何もない。まだ何もない。


 だが、その手つきは、すでに何かを守るように見えた。


 三枝はそれを見なかったことにした。見なかったことにして、記録用紙を閉じた。


「検査終了です。次回は一週間後になります」


「ありがとうございます」


「鯖の味噌煮」


「食べます」


 真壁は立ち上がった。


 仮設医務室を出る時、扉の枠に手を置いた。一瞬だけ振り返る。


「三枝二尉」


「はい」


「連華班の人たちに、よろしくお伝えください」


「伝えます」


 真壁は頷いて、出ていった。


 三枝は記録用紙を机に戻し、しばらく座っていた。


 よろしくお伝えください。


 それは社交辞令ではなかった。帰れない場所へ行く人間が、帰れる場所にいる人間へ送る、小さな挨拶だった。


 三枝はペンを取り、備考欄の末尾に一行だけ加えた。


 精神状態、安定。ただし覚悟の度合いが深い。要継続観察。


 ペンを置く。


 湯沸かし器の音が、配管の向こうから聞こえていた。



 その夜、伊藤は南星地下射出場の仮眠室で眠れなかった。


 薄い寝台。


 硬い毛布。


 換気扇の音。


 遠くで聞こえる機械式カウンターのリセット音。


 彼は目を閉じると、真壁の声を思い出した。


 帰還手順へ移行。


 再計算。


 再計算。


 倉田の声も重なる。


 まだ戻せる。


 奥山の声も。


 止めてください。


 月華の記録も。


 私はどこだ。


 伊藤は起き上がった。


 机に向かい、紙を広げる。


 烈火の簡略図。


 大気圏外。


 再突入。


 残推力。


 熱防護。


 回収可能高度。


 連華では届かない。


 月華でも届かない。


 烈火自身が戻るしかない。


 だが烈火は戻るために作られていない。


 なら、何を残せる。


 伊藤は鉛筆を走らせた。


 帰還ではない。


 生存可能性。


 完全な帰還ではなく、通信。


 通信が無理なら、信号。


 電子が死ぬなら、光。


 光が駄目なら、アナログ電波。


 電波が駄目なら、落下軌道に意味を持たせる。


 烈火が戻れないなら、戻れない場所から何を返すか。


 それは帰還ではない。


 だが、完全な喪失でもない。


 伊藤は書いた。


 烈火帰還案。


 すぐに線で消した。


 帰還ではない。


 まだ。


 その下に書き直す。


 烈火生存・信号継続案。


 醜い名前だった。


 作戦名にも、兵装名にも向かない。


 だが、正直だった。


 伊藤はその紙を見た。


 帰投優先。


 その言葉は、烈火には届かないかもしれない。


 それでも、優先しなければならない。


 届かない場所にいる者にも。



 同じ頃、真壁遥は烈火一号機の前にいた。


 格納坑の照明は落とされ、非常灯だけが黒い機体を赤く照らしている。


 ここへ来る前に、仮眠室の洗面台で顔を洗った。


 水は冷たかった。南星の水道は火山岩の地下水を引いており、真冬でなくても手が痺れる。真壁はその冷たさが好きだった。頬を叩くように冷えて、意識がはっきりする。


 鏡を覗くと、自分の顔があった。


 三十二歳の顔。


 宇宙開発実験隊に入った頃は、まだ二十四だった。八年が経った。その間に、宇宙開発実験隊は宇宙軍準備室になり、実験棟は射出場になり、観測衛星の打ち上げ計画は白い飛翔体への迎撃計画に変わった。


 真壁は鏡の中の自分に向かって、何も言わなかった。


 何か言えば、崩れそうな気がした。


 洗面台を離れ、格納坑へ降りた。


 消灯後の格納坑に入るのは規則違反ではない。搭乗予定者には機体周辺の巡視権限が与えられている。だがその権限を使うのは、いつも真壁だけだった。


 他の整備員は消灯後に格納坑へ来ない。


 来ない理由を、真壁は知っていた。


 暗い格納坑に立つ烈火は、昼間とは違う。照明の下では兵器に見える。だが非常灯だけの赤い暗闇の中では、脚のない巨人が膝を抱えて座っているように見えた。


 それが、怖いのだろう。


 真壁には怖くなかった。


 怖くない自分が、少し怖かった。


 彼女は作業服のまま、烈火の操縦殻ハッチに手を置いた。


 冷たい。


 冷たいのに、どこか人の額のようにも感じる。


 熱を持たない額。


 まだ死んでいないものの額。


「帰りますよ」


 真壁は小さく言った。


 誰もいない。


 だから言えた。


「帰れるなら、帰ります。帰れなくても、帰ろうとはします」


 烈火は答えない。


 答える機体ではない。


 それでいい。


 もし答えたら、真壁は乗れなくなるかもしれない。


 ハッチから手を離し、支持架の下段に腰を降ろした。


 冷たい金属の感触が、作業服越しに伝わる。


 ここに座るのは何度目だろう。数えてはいない。数えると、ここにいる時間の長さに気づいてしまう。


 真壁は、足を投げ出した。


 烈火には脚がない。


 だが自分にはある。


 その当たり前のことが、時々、妙に重く感じられた。自分の脚で地面を踏めること。歩いて仮眠室に戻れること。洗面台まで自分で行けること。そういう一つ一つが、烈火に乗った後には失われる可能性がある。


 恐怖ではなかった。


 恐怖を通り越した場所に、静かな痛みがあった。


 真壁は宇宙開発実験隊に入る前のことを思い出していた。


 鹿児島の大学にいた頃、研究室の屋上から夜空を見た。ゼミの仲間が四人いて、缶ビールを開けて、衛星の軌道を予測する課題を出し合った。


 衛星が見えると、誰かが指をさす。


 見えた。


 あれだ。


 点にしか見えない光が、静かに空を横切っていく。人間が作ったものが、あんなに遠くを動いている。それだけのことが、たまらなく嬉しかった。


 あの夜のビールの味を、今でも覚えている。


 安い缶ビールだった。


 泡がぬるくて、苦くて、それが美味しかった。


 南星の地下では、酒は出ない。


 鯖の味噌煮と乾パンと茶。


 三枝二尉に鯖を食べろと言われた。


 食べよう。


 食べられるうちに、食べておこう。


 味が分かるうちに。


 真壁は胸ポケットから小さな布を出した。


 古いミッションパッチだった。まだ宇宙軍ではなく、宇宙開発実験隊と呼ばれていた頃のもの。


 そこには、小さな地球と、その周りを回る白い線が刺繍されている。


 白い線。


 飛翔体の白ではない。


 人間が自分で引いた軌道の白だった。


 あの頃は、この白い線の上を人間が渡る日が来ると信じていた。自分がその一人になると思っていた。


 真壁はパッチを烈火の整備台に置いた。


「これは夢ではない」


 彼女は言った。


「でも、夢の残骸だけで終わらせない」


 声は震えなかった。


 震えないようにしていた。


 三枝二尉の言葉が浮かんだ。


 地上にいる間は、地上の身体を維持してください。


 地上の身体。


 地上にいる自分。


 この足で歩いて、この手で茶を注いで、この口で乾パンを噛み砕く自分。その自分がもうすぐ、脚のない機体の胸に閉じ込められる。


 それでも、帰ると決めている。


 帰る方法がなくても。


 帰る手段が見つからなくても。


 帰ると決めたことだけは、自分で選んだ。


 伊藤二尉は言った。帰投優先。


 いい言葉だと思った。


 だが真壁にとっては、帰投優先よりもっと手前に、もっと小さなものがある。


 いつか誰かが、何かを手渡してくれるかもしれない。封筒でも、手紙でも、ただの紙切れでも。帰ってから開けてと言われるようなものを、誰かがくれるかもしれない。


 そうなったら、絶対に開けない。


 帰るまで、開けない。


 開けない理由を持っていれば、帰る理由になる。


 それはまだ起きていない。


 まだ、誰もそんなものをくれていない。


 だが真壁は、胸ポケットに手を当てた。


 空のポケット。


 何も入っていない。


 それでも、いつか何かが入る場所として、そこを空けておこうと思った。


 真壁は目を閉じる。


 上へ行きたかった。


 大気の外へ。


 地球を遠くから見たかった。


 人間が作った小さな船で、夜の外へ出たい。


 その夢は、白い飛翔体の出現によって形を変えた。


 船ではなく、弾へ。


 軌道ではなく、突入角へ。


 帰還カプセルではなく、記録用の紙テープへ。


 それでも、まだ全部ではない。


 まだ何か残っている。


 残っているから、彼女は乗る。


 死ぬためではない。


 夢を完全に殺さないために。



 翌朝、南星地下射出場から防衛庁地下第七区画へ、烈火一号機の状態報告が送られた。


 紙に打ち直された短い報告だった。


 烈火一号機、統合完了。


 搭乗者、真壁遥二佐。


 最終軌道補正試験、成功。


 帰還手順、未確立。


 搭乗者による帰還手順再検討要求、継続。


 伊藤は、その最後の行を見ていた。


 要求、継続。


 それは、真壁がまだ諦めていないという記録だった。


 黒崎は低く言った。


「烈火は使えるか」


 宗像からの返答は、報告書の下に手書きで添えられていた。


 使える。


 ただし、帰せない。


 加藤はその文字を見て、しばらく黙った。


 そして言った。


「帰す方法を探せ」


 誰に向けた命令かは分からなかった。


 伊藤へ。


 榊原へ。


 黒崎へ。


 あるいは、自分自身へ。


 誰も返事をしなかった。


 返事より先に、考えなければならないことが多すぎた。


 白い飛翔体は、今日も空を進んでいる。


 破壊不能なものとして。


 その下で、人類は三つの花を起こそうとしていた。


 地上で踏みとどまる連華。


 空で心を翼にする月華。


 宇宙から落ちる烈火。


 どれも希望だった。


 どれも、人間を壊すものだった。


 烈火には足がない。


 だが腕がある。


 頭がある。


 それでも、人間の形には戻れない。


 それでも、真壁遥は帰ると言った。


 帰れるなら、帰る。


 帰れなくても、帰ろうとする。


 その言葉だけが、黒い機体の中で、まだ人間の形をしていた。


宇宙戦用の烈火と、その搭乗予定者である真壁遥を描きました。

烈火は巨大な胴体、頭部照準器、両腕状の姿勢制御ユニットを持つ、帰還を前提にしていない機体です。

けれど、真壁は死ぬために乗るわけではありません。

「帰還手段がないこと」と「帰る意志がないこと」は違う、という章でした。


衛生兵の三枝真帆が初登場します。地上の身体を忘れるなと言い続ける彼女は、後の章でも重要な役割を担います。

真壁の胸ポケットはまだ空です。でも、空けてある理由があります。


これで、連華、月華、烈火の三つの華が本格的に揃いました。

次章では、いよいよ華計画の決行、「オペレーション・フラワー」へ進みます。

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