第12章 オペレーション・フラワー(前編)
第12章・前編です。
華計画の三機が、初めて同じ作戦に投入されます。
連華、月華、烈火。それぞれの搭乗者が、それぞれの覚悟を抱いて作戦開始の時刻を待ちます。
勝つために誰が何を背負うのか。
そして、誰を帰そうとするのか。
作戦準備の裏側で交わされる言葉の一つ一つが、この先の戦場へつながっていきます。
作戦名を聞いて、口元を緩めた者はいなかった。
オペレーション・フラワー。
華計画の三機を同時に起こし、白い飛翔体へ干渉する。
連華が地上で押さえる。
月華が空で軌道を乱す。
烈火が宇宙から一撃を叩き込む。
言葉にすれば、たった三行だった。
だが、その三行の中に、人間の身体が何人分も入っている。
加藤一尉は、作戦指揮卓の前で紙を見ていた。
紙は厚い。
作戦要領、通信系統、緊急停止条件、死亡時記録手順、遺体回収見込み、家族連絡文案、広報統制案、国際共同発表草案。
勝つための紙と、死んだ時の紙が同じ束になっている。
それが戦いなのだと、加藤は知っていた。
知っているつもりだった。
だが、知っていることと、紙の上に名前が並ぶことは違う。
連華一号機、搭乗者、加藤大地一尉。
連華三号機、回収支援仕様、搭乗者、伊藤誠二尉。
月華一号機、搭乗者、奥山凪三尉。
烈火一号機、搭乗者、真壁遥二佐。
予備医療監視、三枝真帆二尉。
技術統制、榊原技官。
特別技術顧問、荻野誠一博士。
どの名前も、紙に書かれると軽くなる。
軽くなったように見える。
だから加藤は、その紙を軽く扱わないように両手で持った。
「作戦開始まで、四時間」
黒崎司令が言った。
地下第七区画の作戦室は、朝のない場所だった。
壁一面の表示盤には、白い飛翔体の軌道予測が何本も描かれている。
どの線も完全ではない。
飛翔体は、何度も予測を裏切ってきた。
だが今日だけは、裏切ってもらわなければならない。
予定された軌道に触れないものへ、地上、空、宇宙の三方向から人間の手を伸ばす。
その手が届くかどうかは、まだ誰にも分からない。
黒崎は、部屋の中央に立っていた。
机に座らない。
椅子にもたれない。
立ったまま、すべての画面とすべての人間を見ている。
軍人というより、判決を待つ裁判官のようだった。
「確認する」
黒崎の声が低く響いた。
「本作戦は、飛翔体の破壊を第一目的としない。軌道干渉による月外縁方向への排除を第一目的とする」
誰も頷かなかった。
頷く余裕がなかった。
「連華一号機および三号機は、地上接近時の干渉波を受け止め、飛翔体の進行方向へ短時間の拘束場を作る。月華一号機は、その隙間へ侵入し、干渉波の偏りを増幅する。烈火一号機は、大気圏外から質量弾を射出し、偏った軌道へ衝撃を加える」
言葉は正確だった。
正確すぎて、そこに痛みがない。
加藤は、自分の手の中の紙を見た。
作戦失敗時の第二案。
作戦失敗時の第三案。
作戦失敗時の国民避難指示。
どの紙にも、人間の顔は印刷されていなかった。
だから加藤は、顔を思い出す。
奥山が笑って怖いと言う顔。
伊藤が無表情で帰投優先と書く顔。
真壁が黒い機体の前で夢の残骸と呼んだ顔。
荻野博士が機械ではなく人間の壊れ方を見る時の、ひどく静かな目。
それから、連華を初めて見た時の自分の顔。
あの時、自分はまだ、責任というものを少し誤解していた。
命令を受け、命令を果たし、結果を引き受ける。
それが責任だと思っていた。
今は違う。
責任は、結果だけではない。
始める前に、誰かを壊すと分かっていて、それでも始めることだった。
始めると決めた瞬間から、もう逃げられない。
「加藤」
黒崎が言った。
「はい」
「最終承認だ」
作戦指揮卓に、一枚の紙が置かれた。
そこには、手書きの欄が一つだけ残っていた。
現場作戦代表確認。
加藤大地。
加藤はペンを取った。
ペン先が紙に触れる前、奥山の声が背後から聞こえた。
「一尉」
奥山は月華用の耐圧服を着ていた。
連華の搭乗服とは違う。
薄く、軽く、身体に張り付くような服だった。背中には精神接続用の端子が並び、首の後ろには細い銀色の保護管が伸びている。
いつもの頼りない笑みは、そこにはなかった。
あるのは、怖がっている顔だった。
隠していない。
隠す余裕がないのかもしれない。
だが加藤には、それが強さに見えた。
「何だ」
「僕、もし戻りたくないって言ったら」
作戦室の音が、一瞬だけ遠のいた。
奥山は唇を噛んだ。
「止めてください」
三枝真帆が、奥山の後ろに立っていた。
彼女はその言葉を聞いて、目を伏せない。
医療者の目で、ただ見ていた。
加藤は、ペンを持ったまま奥山を見た。
冗談にして逃がすこともできる。
心配するなと言うこともできた。
必ず戻すと言うこともできた。
どれも嘘に近い。
だから加藤は言った。
「命令する」
奥山の肩が小さく動いた。
「戻れ」
加藤は続けた。
「戻りたくなくなっても、戻れ。怖くても戻れ。怖くなくなったら、その時こそ戻れ」
奥山は、ほんの少しだけ笑った。
「怖くなくなったら、ですか」
「お前が怖がらない時は危ない」
「ひどいですね」
「褒めている」
「それもひどい」
奥山は目を伏せた。
そして、小さく言った。
「了解しました」
その声は震えていた。
だが、震えているからこそ届く。
加藤は承認欄に署名した。
字は少しだけ歪んだ。
その歪みを、加藤は直さなかった。
南星地下射出場では、烈火が地上へ向かっていた。
正確には、地上へではない。
地上の下から、空の外へ。
巨大な射出坑の底に、黒い機体が固定されている。
脚のない上半身。
巨大な胴体。
両腕状の姿勢制御ユニット。
小さな頭部光学照準器。
スカート状の推進ブロック。
烈火は、人間の形を途中で諦めたような姿で、夜明けを待っていた。
真壁遥二佐は、操縦殻の前で手袋をはめていた。
宗像技官が、最終チェックリストを読み上げる。
「生命維持系、予備酸素、正常。紙テープ記録器、正常。光学照準系、主系、副系、手動系、正常。姿勢制御腕、左、右、応答確認。胸部質量弾射出機構、一次安全栓、保持。二次安全栓、保持」
真壁は黙って聞いていた。
作業員の一人が近づいた。
「二佐」
「何」
「これを」
差し出されたのは、小さな封筒だった。
真壁は手を止めた。
「規定違反」
「分かっています」
「誰から」
「南星の整備班一同からです」
封筒は薄い。
中に入っているのは紙一枚だろう。
真壁は受け取らなかった。
受け取れば、戻れなかった時に、その紙は彼女と一緒に燃える。
それが嫌だった。
整備員は、手を引っ込めなかった。
「戻ってきてから読んでください」
真壁は整備員を見た。
彼は若い。
若いのに、目の下に濃い影があった。
烈火を組んだ人間の顔だった。
真壁は封筒を受け取った。
「戻ったら読む」
「はい」
「戻らなかったら」
整備員の顔が固くなった。
真壁は封筒を宗像へ渡した。
「あなたが読んで。全員に」
宗像は無言で封筒を受け取った。
そして、短く言った。
「戻ってから、ご自分で読んでください」
真壁は笑わなかった。
泣きもしなかった。
「努力する」
それだけ言って、操縦殻へ入った。
烈火の内側は、黒かった。
彼女の身体が固定される。
腕が手動補正レバーへ結ばれる。
脚は圧板に置かれるだけだった。
どこにもつながらない脚。
どこかへ届く腕。
真壁はヘルメットの内側で息を吐いた。
「烈火一号機、真壁遥」
通信回線が開く。
「搭乗完了」
宗像の声が返る。
「南星管制、了解。二佐」
「何」
「帰還手順は未確立です」
「知っている」
「帰還意思確認」
真壁は目を閉じた。
宇宙へ行きたかった。
夜の外へ出たい。
白い飛翔体が現れる前、人類は宇宙へ行くことを夢と呼んでいた。
今は、宇宙へ行くことが兵器の一部になっている。
それでも、夢の全部が死んだわけではない。
「帰還意思あり」
真壁は言った。
「帰れるなら帰る。帰れなくても、帰ろうとする」
通信の向こうで、誰かが息を吸う音がした。
宗像ではない。
若い整備員かもしれない。
真壁は、それでいいと思った。
誰かが聞いている。
それなら、言葉は残る。
第七区画の格納庫では、連華三号機が起きていた。
油の匂い。
鉄の音。
地面を踏むための巨大な脚。
月華や烈火を見た後では、連華はあまりにも鈍重に見えた。
だが伊藤には、その鈍さが頼もしい。
彼は三号機の右脚関節に手を置き、整備班の最終確認を聞いていた。
「膝部応力センサー、正常」
「足裏アンカー、開閉確認」
「月華回収固定具、作動確認」
「補助索、巻き取り確認」
伊藤は一つずつ頷いた。
彼は搭乗服を着ている。
飛行服ではない。
連華用の重い服だった。
首元が硬く、肩が窮屈で、汗がすぐに溜まる。
空へ行く服ではない。
地面へ縛りつける服だった。
伊藤はそれでいいと思う。
榊原が近づいてきた。
腕に紙束を抱えている。
「伊藤二尉」
「何です」
「三号機の回収支援仕様、最終承認が出ました」
「遅い」
「作戦開始前なので、早い方です」
「そういう意味じゃない」
「分かっています」
榊原は紙を一枚差し出した。
そこには、伊藤の追記が正式な文言として印字されていた。
帰投優先。
本人の意思が混濁した場合も適用。
伊藤は、その文字を見た。
手書きではない。
印字されると、冷たくなる。
だが冷たくならなければ、命令にはならない。
「奥山は」
「月華区画です」
「三枝二尉は」
「同席しています」
「加藤一尉は」
「一号機側です」
伊藤は短く頷いた。
榊原は、少しだけためらってから言った。
「伊藤二尉」
「何です」
「帰投優先は、あなた自身にも適用されます」
伊藤は目を上げた。
榊原は真面目な顔をしていた。
「月華を引くために、三号機が戻れなくなる判断は認められません。連華三号機が戻れない場合、月華も戻れない可能性が高い。手順上、あなたが死ぬことで誰かを帰す案はありません」
伊藤はしばらく黙った。
そして言った。
「嫌な言い方ですね」
「必要な言い方です」
「俺が考えそうなことを先に潰した」
「はい」
「誰の指示ですか」
「三枝二尉と、荻野博士です」
伊藤は思わず眉をひそめた。
「荻野博士が」
「『帰す役が死ぬのは設計不良だ』と」
伊藤は笑いそうになった。
笑えない。
胸の奥に、別のものが来た。
自分が帰す役だと思っていた。
自分だけは、誰かを帰す側だと。
だが、誰かは伊藤の帰り道も考えている。
それは少し、重かった。
ありがたいより先に、重かった。
「了解しました」
伊藤は言った。
「帰投優先。自機にも適用」
榊原は頷いた。
「記録しました」
月華区画は、静かだった。
静かすぎる。
奥山は操縦殻の前に立って、手袋を外していた。
手袋をしていると、指の震えが分かりにくい。
分かりにくいものは、見逃される。
見逃された震えは、作戦中に別の形で出る。
三枝がそう言った。
だから奥山は、素手を見せていた。
指は震えている。
はっきりと。
荻野博士は、月華の足元で配線を見ていた。
白衣は汚れ、髪は乱れ、目だけが鋭い。
彼は何かを呟きながら、古いスパナで床を叩いた。
「奥山」
「はい」
「怖いか」
「怖いです」
「どれくらい」
「吐きそうです」
「吐くな。機械に悪い」
「僕には」
「お前にも悪い」
荻野は顔を上げなかった。
「怖いのは正しい。月華は怖く作った」
「作った本人が言うんですね」
「言う。言わない技術者は信用するな」
奥山は月華を見た。
美しい機体だった。
細い脚。
薄い装甲。
背中の花弁のようなフィン。
見ているだけなら、あれは兵器ではない。
空へ行くための祈りのように見える。
だから怖い。
怖いものが醜ければ、人は避けられる。
美しい怖さは、人を近づける。
三枝が端末を確認する。
「接続深度、上限値を再確認します。第一段階、身体反応確認。第二段階、姿勢共有。第三段階、干渉波接触。第四段階以上は禁止」
「第四に入ったら」
奥山が言った。
「強制遮断します」
「僕が嫌だって言ったら」
「遮断します」
「僕が大丈夫って言ったら」
「遮断します」
「僕が泣いたら」
「遮断します」
「僕が笑ったら」
三枝はそこで、少しだけ間を置いた。
「すぐ遮断します」
奥山は笑った。
笑って、すぐに震えた。
「分かりました」
荻野が立ち上がった。
彼は奥山の前に来る。
老人の目は、近くで見ると濁っていた。
それでも、その奥に燃えているものがあった。
「月華は、お前を空にする」
荻野は言った。
「だが、お前は空ではない。肉だ。骨だ。臆病者だ。地面へ戻るための、面倒な人間だ」
「面倒まで言いますか」
「褒めている」
「みんな褒め方が下手ですね」
「上手い褒め言葉で人間が戻るなら、医者も整備士もいらん」
荻野はスパナの先で、奥山の胸を軽く突いた。
「怖いと言え。言えなくなったら、壊れ始めている」
奥山は頷いた。
「怖いです」
「よし」
「今も怖いです」
「よし」
「博士も怖いです」
「それは正常だ」
三枝が小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
奥山は、その音を聞いて少しだけ楽になった。
人間の音だった。
作戦開始一時間前。
特防群の全員が、地下第七区画の通路に集められた。
広い場所ではない。
連華の格納庫へ続く、油の匂いのする通路だった。
そこに、加藤、伊藤、奥山が並んで立った。
黒崎、榊原、三枝、荻野もいた。
誰かが整列を命じたわけではない。
自然にそうなった。
互いの顔を見る時間が、もうほとんどない。
加藤は奥山を見た。
奥山は月華用の服の上から、何度も袖口を触っている。
伊藤はそれに気づいて言った。
「袖口を触るな。接続端子に汗が入る」
「今それですか」
「今だからです」
「伊藤二尉って、本当に最後まで伊藤二尉ですね」
「褒めていますか」
「分かりません」
伊藤は奥山の首元を見た。
「呼吸が浅い」
「怖いので」
「深く吸ってください」
「命令ですか」
「整備上の要請です」
「人間を機械扱いしてますね」
「機械より面倒です」
「博士みたいなこと言わないでください」
加藤は二人のやり取りを聞いていた。
いつものようだった。
いつもではない。
だから、いつものようにしている。
黒崎が言った。
「長い訓示はしない」
誰も残念そうな顔をしなかった。
「本作戦で、人類は初めて飛翔体へ能動的な干渉を行う。成功すれば、飛翔体は月外縁方向へ逸れる。失敗すれば」
黒崎は一度だけ言葉を止めた。
「失敗すれば、次を考える」
奥山が小さく言った。
「そこ、次があるんですね」
「ある」
黒崎は即答した。
「お前たちが戻れば、次がある」
その言葉に、伊藤がわずかに顔を上げた。
加藤も同じだった。
勝つことではなく、戻ること。
黒崎の口からそれが出たことが、少し意外だった。
黒崎は加藤を見た。
「加藤一尉」
「はい」
「地上を任せる」
「了解」
「伊藤二尉」
「はい」
「月華を帰せ。自分も帰れ」
「了解」
「奥山三尉」
「はい」
「怖がれ」
奥山は目を丸くした。
「それ、命令ですか」
「命令だ」
「了解しました」
奥山は、ほとんど泣きそうな顔で笑った。
「怖がります」
黒崎は最後に、通信卓へ向けて言った。
「南星、聞こえるか」
少し遅れて、雑音混じりの声が通路のスピーカーから流れた。
「南星、真壁」
真壁遥の声だった。
遠い。
だが、はっきりしている。
「烈火一号機、搭乗完了。射出待機」
黒崎は言った。
「真壁二佐」
「はい」
「戻れ」
雑音の向こうで、少しだけ沈黙があった。
そして真壁が言った。
「努力します」
黒崎は目を細めた。
「命令だ」
真壁は、今度はすぐに答えた。
「了解。帰還努力を継続します」
奥山が小さく呟いた。
「努力って命令になるんだ」
伊藤が言った。
「なります」
「便利ですね」
「重いですよ」
「知ってます」
加藤は、通路の冷たい壁に手を置いた。
地下の壁。
逃げ道のない壁。
だが今は、その壁が彼らを支えている。
地面は、まだある。
戻る場所は、まだある。
その事実だけを、加藤は胸の中へ押し込んだ。
第12章・前編、お読みいただきありがとうございます。
加藤の署名、真壁の封筒、奥山の震える指、伊藤の帰投優先。
全員が作戦のために何かを飲み込み、それでも最後に人間の言葉を交わす。
黒崎の「怖がれ」という命令が、この物語における勝利の定義でもあります。
後編では、ついに作戦が始まります。
連華が地上で踏みしめ、月華が空へ落とされ、烈火が宇宙から一撃を放つ。
華計画の花が、どう咲くのか。
後編へ続きます。




