第13章 オペレーション・フラワー(後編)
第13章・後編です。
前編では、華計画の三機とその搭乗者たちが、それぞれの場所で作戦開始を待ちました。
加藤は署名し、真壁は封筒を預け、奥山は震えながら月華の前に立ち、伊藤は帰投優先を自分にも適用すると誓った。
ここから先は、戦場です。
連華が地上で踏みしめ、月華が空へ落とされ、烈火が宇宙から撃つ。
人類が初めて白い飛翔体に手を伸ばす瞬間を、どうかお読みください。
作戦開始。
最初に動いたのは連華だった。
地上展開地点は、旧北関東演習場。
飛翔体の予測通過線から最も近く、かつ地盤が硬い場所だった。
連華一号機と三号機が、夜明け前の灰色の地面に立つ。
一号機には加藤。
三号機には伊藤。
周囲には無人化された支援車両が並び、退避した整備員たちの代わりに遠隔操作アームが最後の固定具を外していく。
空は白くなり始めていた。
雲は少ない。
地平線の向こうに、飛翔体はまだ見えない。
見えないのに、空気が重い。
連華の操縦殻の中で、加藤は呼吸を整えた。
足元から、機体の重さが身体へ入ってくる。
錯覚ではない。
連華は操縦者へ重さを返す。
地面を踏め。
倒れるな。
支えろ。
その単純な命令を、鉄の身体で伝えてくる。
「連華一号機、起動」
加藤は言った。
表示灯が並んで点く。
膝関節、腰部駆動、足裏アンカー、腕部拘束爪。
地面を掴むための装備が、次々に応答する。
伊藤の声が通信に入った。
「連華三号機、起動。回収支援仕様、全系統正常」
「三号機、無理はするな」
「一号機もです」
「俺は押さえる側だ」
「押さえる側も壊れます」
伊藤の声は、いつも通り平坦だった。
だが、その平坦さが今はありがたかった。
怖がっていないのではない。
怖さを手順へ変換している。
伊藤はそういう人間だった。
「月華は」
加藤が訊く。
管制から返答があった。
「月華一号機、空中投下機へ固定完了。奥山三尉、接続前待機」
奥山の声が入る。
「こちら奥山。まだ怖いです」
三枝の声が重なる。
「記録しました」
「本当に記録するんですね」
「大事な指標です」
「僕の怖さが」
「はい」
「大出世ですね」
加藤は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
次の瞬間、空が白く光った。
飛翔体ではない。
烈火の射出だった。
南星地下射出場。
山の下で、巨大な加速軌道が震えた。
烈火一号機は、脚のない身体を射出台に固定されたまま、天を向いている。
真壁は操縦殻の中で、衝撃固定具が身体を締め上げるのを感じた。
胸が潰される。
肺が小さくなる。
だが、恐怖は不思議と遅れて来た。
目の前には光学照準の黒い輪がある。
手は補正レバーに縛られている。
烈火の腕が、自分の腕の先にある。
脚はどこにもない。
それなのに、身体は巨大だった。
「最終確認」
宗像の声。
「烈火一号機、射出承認」
黒崎の声が遠くから重なる。
「承認」
真壁は短く息を吸った。
封筒のことを思い出した。
戻ってから読む。
その約束が、彼女の胸の内側に小さく残っている。
小さすぎる約束だ。
宇宙へ向かう機体には、似合わない。
だからよかった。
大きな理想だけでは、人は戻れない。
小さな紙一枚の方が、人間を強く引くことがある。
「真壁遥」
彼女は言った。
「行きます」
射出。
音は聞こえなかった。
音より先に、身体が潰れた。
烈火は地下から夜明けへ突き上がる。
黒い上半身が、火山岩の坑道を抜け、開いた射出口から空へ撃ち出される。
脚のない機体が、地面を離れる。
人間の形を途中で捨てた機械が、初めて地球の重力へ逆らう。
真壁は歯を食いしばった。
視界の端が暗くなる。
警告灯が二つ点いた。
許容範囲。
まだ許容範囲。
烈火の推進ブロックが燃える。
腕部姿勢制御が開く。
掌ではない掌から、小さな炎が噴いた。
機体の向きが微修正される。
頭部光学照準器が、まだ見えない白い飛翔体の未来位置を捉えようと動く。
真壁は、レバーを握る。
腕がある。
頭がある。
足はない。
それでも、彼女は進む。
飛翔体が見えたのは、作戦開始から二十七分後だった。
空の高い場所に、白い点があった。
雲ではない。
鳥ではない。
航空機でもない。
それは動いていた。
ゆっくりに見える。
だが表示盤の速度数値は、人間の感覚を拒絶するほど大きい。
加藤は連華一号機の視覚補助を切った。
数字を見すぎると、身体が遅れる。
今必要なのは、地面と機体と、自分の呼吸だった。
「連華隊、拘束準備」
管制の声。
「一号機、了解」
「三号機、了解」
連華の足裏アンカーが地面へ食い込む。
土と岩が砕ける。
地震のような振動が、操縦殻の内側へ入ってくる。
加藤は両腕を前へ出した。
連華の巨大な腕が動く。
空へ届くわけではない。
飛翔体を直接掴めるわけでもない。
だが干渉波は、地上にも落ちてくる。
白いものが空を進むたび、世界の見えない場所が押し潰される。
そこへ連華の重さを置く。
逃げる波へ、地面の鈍さをぶつける。
「干渉波、接近」
榊原の声が通信に入る。
「一号機、負荷上昇」
「三号機、右脚負荷上昇」
伊藤の声は乱れない。
加藤は歯を食いしばった。
連華の膝が鳴る。
機体が後ろへ押される。
何も触れていない。
何も見えない。
それなのに、重い。
白い飛翔体は、世界に手を触れずに、世界を押す。
加藤は操縦桿を握り込んだ。
「踏め」
誰に言ったのか分からない。
自分へ。
連華へ。
地面へ。
死んだ仲間へ。
これから壊れるかもしれない誰かへ。
「踏め」
連華一号機の足裏アンカーが、さらに深く地面へ刺さった。
膝が沈む。
腰部が軋む。
操縦殻の警告音が鳴る。
加藤は警告音を切らなかった。
警告は、まだ機体が生きている証拠だった。
「拘束場、形成開始」
榊原の声。
「月華、侵入可能域、七秒」
七秒。
人間の一生より短い。
だが、今はその七秒を作るために、人類がここまで来た。
「奥山」
加藤は通信を開いた。
「行け」
奥山の返事は、少し遅れた。
「了解」
そして、月華が空へ落とされた。
月華は飛ぶのではなかった。
最初は落ちる。
輸送機から切り離された細い機体が、白い空の下へ投げ出される。
奥山は操縦殻の中で、身体が軽くなるのを感じた。
その軽さが怖かった。
軽いものは戻ってこない。
子どもの頃、手を離した風船を見たことがある。
誰かが泣いていた。
自分ではなかったかもしれない。
だが今、奥山はその泣いていた子どもの顔を思い出した。
風船は空へ行く。
人間は、地上に残る。
月華はどちらだ。
「接続第一段階」
三枝の声。
「怖いですか」
奥山は息を吸った。
「怖いです」
「記録」
月華の背中で、花弁のようなフィンが開く。
奥山の背中にも、何かが開く感覚があった。
神経ではない。
だが神経よりも深い場所。
自分の身体の境界が、薄くなる。
月華の脚が自分の脚になる。
月華の翼ではない翼が、自分の背中に生える。
美しい。
奥山はそう思った。
思った瞬間、怖くなる。
美しいと感じてしまった。
それが怖い。
「怖いです」
奥山はもう一度言った。
三枝が答える。
「記録」
「接続第二段階」
荻野の声が割り込んだ。
「身体を機体へ寄せるな。機体を身体へ寄せろ。お前が空になるんじゃない。月華を臆病者にしろ」
「難しいこと言いますね」
「簡単なら壊れん」
奥山は笑いかけた。
笑えない。
白い飛翔体が見えた。
近い。
遠い。
距離というものが、意味を失い始める。
月華の視界では、飛翔体は点ではなかった。
空間の傷だった。
白い形があるのではなく、そこだけ世界の答えが違っている。
見れば見るほど、見ている自分の方が間違っている気がする。
「接続第三段階」
三枝の声が硬くなる。
「奥山三尉、怖いですか」
奥山は答えようとした。
怖い。
その言葉を出そうとした。
だが、口の中に空が入ってきた。
青ではない。
白でもない。
飛翔体の周囲にある、言葉のない場所。
怖い。
怖い。
怖い。
言葉が遠い。
奥山は、月華のフィンを動かした。
いや、フィンが動いた。
自分が動いたのか、月華が動いたのか分からない。
干渉波の隙間へ入る。
連華が地上で作った七秒の凹みに、月華が身体を滑り込ませる。
飛翔体の軌道が、わずかに震えた。
世界が息を止める。
奥山は、その瞬間、怖くなくなった。
何も怖くない。
空は広い。
身体は軽い。
地上は遠い。
戻らなくてもいい。
戻るという発想そのものが、古い。
こんなに軽いなら。
こんなに美しいなら。
このまま。
「奥山三尉」
三枝の声。
「怖いですか」
奥山は答えなかった。
答えられなかったのではない。
答える必要がないと思った。
怖いという言葉は、地上のものだ。
地上に残った人間が、重さを抱えて作った言葉だ。
月華には要らない。
「奥山」
加藤の声が入った。
「怖がれ」
その声は重かった。
連華の足のように。
地面のように。
奥山は一瞬だけ、天井を数えた夜を思い出した。
二十三個。
怖いものが、まだ怖い。
それなら、まだ戻れる。
そう信じたいと思った。
怖い。
怖い。
怖い。
奥山は口を開いた。
「こわ」
言葉が途切れた。
飛翔体の白が、月華の視界を満たす。
干渉波が深く入る。
三枝の声が鋭くなった。
「接続深度、上限接近。強制遮断準備」
荻野が怒鳴った。
「まだだ。今切れば波に置いていかれる」
「第四段階に入ります」
「三秒だけ持たせろ」
「医療上、認められません」
「技術上、今切れば死ぬ」
通信が一瞬、混線した。
奥山には、誰の声も遠かった。
自分の声だけがない。
怖いと言え。
言えなくなったら、壊れ始めている。
荻野の声を思い出した。
奥山は舌を噛んだ。
痛い。
痛みがある。
身体がある。
血の味がした。
人間の味だった。
「怖い」
奥山は言った。
声は掠れていた。
「怖いです」
三枝が即座に答えた。
「記録。強制遮断、準備維持」
荻野が短く笑った。
「よし、臆病者」
月華のフィンが開ききる。
飛翔体の軌道が、わずかに曲がった。
わずか。
だが烈火には、それで十分だった。
大気圏外で、真壁遥は地球を見ていた。
見る余裕はないはずだった。
だが、烈火の頭部光学照準器が飛翔体を追う途中、視界の端に青い曲線が入った。
地球。
真壁は、何年も夢見たものを見た。
青い。
薄い。
脆い。
美しいという言葉では足りない。
美しいという言葉が、少し失礼に思えるほどだった。
人間はあそこにいる。
整備員の封筒も。
宗像の険しい顔も。
黒崎の命令も。
加藤の責任も。
奥山の恐怖も。
伊藤の帰投優先も。
全部、あの薄い青の内側にある。
真壁は、帰りたいと思った。
宇宙へ来て初めて、強くそう思った。
帰りたい。
だから撃つ。
「烈火一号機、照準系、飛翔体捕捉」
宗像の声が返る。
「南星管制、捕捉確認。月華干渉、成功。軌道偏差、予測範囲内」
予測範囲内。
その言葉は、今日初めて聞くまともな希望だった。
だが希望はすぐに警告へ変わる。
「烈火、射撃窓、十一秒」
十一秒。
真壁は手動補正レバーを動かした。
烈火の巨大な腕が、宇宙で広がる。
掌のノズルが噴き、機体の重心を押さえ込む。
頭部照準器が、白い飛翔体の未来位置へ重なる。
胸部質量弾射出機構、一次安全解除。
二次安全解除。
機体全体が、巨大な砲座になる。
真壁の身体は、その中心で固定されている。
人間ではなく、照準の一部。
それでも、彼女は人間だった。
「真壁二佐」
黒崎の声。
「撃て」
真壁は答えた。
「了解」
その瞬間、彼女は封筒を思い出した。
戻ってから読む。
宇宙へ行きたかった少女の頃を思い出した。
帰還カプセルの模型を机に置いていた日を思い出した。
夢の残骸。
でも、残骸だけで終わらせない。
「烈火」
真壁は、機体へではなく、自分へ言った。
「帰ろう」
射出。
音はない。
宇宙に音はない。
だが烈火の内側では、世界が割れたような衝撃があった。
胸部から超大型質量弾が撃ち出される。
機体が反動で後ろへ飛ぶ。
腕部姿勢制御が火を噴く。
真壁の視界が白くなる。
飛翔体へ、黒い一撃が向かう。
当たったかどうかは、すぐには分からなかった。
宇宙は広い。
人間の一撃は、小さい。
それでも、その小さいものに、人類はすべてを載せた。
一秒。
二秒。
三秒。
白い飛翔体の縁が、揺れた。
形が崩れるのではない。
割れるのでもない。
ただ、進む方向がわずかに変わる。
月華が作った偏りへ、烈火の質量が叩き込まれる。
連華が地上で押さえた凹みへ、空と宇宙の手が重なる。
白い飛翔体は、進路を逸らした。
ほんの少し。
だが、ほんの少しで十分だった。
地球へ向かう線から、月外縁方向へ。
表示盤の中で、赤い予測線が青へ変わった。
作戦室では、誰も声を出さなかった。
最初の一秒。
次の一秒。
さらに次の一秒。
人間は、信じることに時間がかかる。
破壊不能だったものが、動いた。
触れられなかったものへ、触れている。
勝利という言葉は、まだ誰の口にも乗らなかった。
榊原が、震える声で数値を読んだ。
「飛翔体、軌道偏差増大。月外縁方向へ移行。地球衝突予測、解除」
黒崎は動かなかった。
「再計算」
「実施中」
「別系統」
「実施中」
「国際観測網」
「同値確認、待機」
沈黙。
表示盤の数字が変わる。
赤が消える。
青が増える。
やがて、別の通信が入った。
国際共同観測網からの報告だった。
飛翔体、地球近傍進路より離脱。
月外縁方向へ移行。
地球への直接脅威、現時点で消失。
現時点で。
その言葉は残った。
だが、作戦室の誰も、その小さな棘へまだ触れなかった。
黒崎は、ようやく言った。
「作戦目的、達成」
その声が終わった瞬間、作戦室が崩れた。
歓声ではない。
泣き声。
椅子が倒れる音。
誰かが机に手をつく音。
長く止めていた息が、一斉に漏れる音。
榊原は紙束を抱えたまま、床に座り込んだ。
黒崎は立ったままだった。
だが、肩がわずかに落ちていた。
加藤の通信が入る。
「連華一号機、拘束解除」
声は荒い。
「機体損傷多数。搭乗者、生存」
伊藤の声が続いた。
「連華三号機、右膝損傷。月華回収へ移行」
黒崎はすぐに言った。
「月華の状態」
三枝の声が入った。
「接続深度、低下せず。奥山三尉、応答不安定」
勝利の音が、そこで止まった。
奥山は、空にいた。
作戦は成功した。
それは分かる。
白い飛翔体が逸れたことも分かる。
地球が助かったことも、多分分かる。
だが、戻る理由が薄くなっていた。
目的を果たした。
なら、もういいのではないか。
月華は軽い。
地上は重い。
重い場所には、痛みがある。
怖さがある。
天井を数える夜がある。
自分の情けなさがある。
空には、それがない。
月華の中で、奥山は初めて、怖くないことを怖いと思えなくなっていた。
「奥山三尉」
三枝の声。
「応答してください」
応答。
応答とは何だ。
地上の人間へ、自分がまだ地上の言葉を持っていると示すこと。
面倒だ。
とても面倒だ。
「奥山」
加藤の声。
重い。
遠い。
うるさい。
「戻れ」
戻れ。
その言葉も重い。
命令。
責任。
地面。
奥山は月華のフィンを閉じようとした。
閉じられない。
閉じたくなかった。
その時、月華の身体に何かが触れた。
乱暴だった。
美しくない。
空気を読む気のない接触。
連華三号機の回収固定具だった。
伊藤の声が入る。
「月華一号機、接触」
奥山は思った。
嫌だ。
引かないでください。
まだここにいたい。
まだ飛べる。
まだ怖くない。
伊藤は、奥山の反応を待たなかった。
「固定」
金属音。
月華の腰部へ、連華三号機の補助索が噛み込む。
「引く」
奥山は叫んだ。
声になったか分からない。
月華の身体が地上へ引かれる。
軽さが破れる。
重さが戻る。
痛みが戻る。
怖さが戻る。
奥山は泣いた。
泣いていると分かった瞬間、自分が人間に戻っていることも分かった。
「怖い」
奥山は言った。
「怖いです」
三枝の声が、すぐに返った。
「記録」
その声は少しだけ震えていた。
「奥山三尉、帰還反応あり」
伊藤は何も言わなかった。
ただ、三号機の膝が悲鳴を上げるほど強く、月華を引いた。
地上へ。
重い場所へ。
怖いと言える場所へ。
烈火は、帰還軌道に乗っていなかった。
それは、最初から分かっていた。
射撃後の反動、姿勢制御残量、飛翔体干渉波の余波。
どれも、机上の値とは違っていた。
真壁は意識を失っていない。
失いたかった。
身体が痛い。
胸が焼ける。
腕が痺れている。
脚はどこにもつながっていないのに、脚が痛い。
不思議だと思った。
烈火には脚がない。
それでも、人間には脚がある。
痛む場所がある。
帰る場所を覚えている身体がある。
「烈火一号機、南星管制」
宗像の声。
「応答願います」
真壁は口を開いた。
声が出なかった。
もう一度。
「烈火一号機、真壁」
雑音。
自分の声が、自分のものではないように聞こえる。
「生存」
宗像の息が乱れた。
「状態」
「機体、姿勢制御不安定。推進剤残量、低下。帰還軌道、未確立」
「二佐」
「分かっている」
真壁は光学照準器を地球へ向けた。
青い。
まだ青い。
白い飛翔体は、月の彼方へ逸れていく。
人類は勝った。
少なくとも、今は。
真壁は笑いそうになった。
笑うと胸が痛むので、やめた。
「帰還努力を継続」
彼女は言った。
「紙テープ記録、継続。南星、封筒は開けないで」
宗像が答える。
「了解」
「まだ読む予定がある」
「了解」
通信の向こうで、宗像の声が少しだけ崩れた。
「お待ちしています」
真壁は目を閉じた。
待っている人がいる。
それは帰還手順ではない。
だが、帰還理由にはなる。
日没前、月華は地上へ回収された。
奥山は自分の足で降りられない。
三枝と衛生班が、操縦殻から彼を引き出した。
顔は青白く、目の焦点は合っていない。
それでも、彼は泣いていた。
泣いているなら、まだ戻っている。
三枝はそう判断した。
「奥山三尉」
「はい」
「怖いですか」
奥山は答えるまで時間がかかった。
「怖いです」
「記録」
「寒いです」
「記録」
「気持ち悪いです」
「記録」
「三枝二尉が怖いです」
「記録」
奥山は少しだけ笑った。
笑って、また泣く。
三枝は彼の肩に毛布をかけた。
医療者としては、もっと多くのことを確認しなければならない。
瞳孔。
脈拍。
記憶。
神経反射。
身体所有感。
だがその前に、彼女は一つだけ言った。
「戻りました」
奥山は目を閉じた。
「戻されました」
「はい」
「ひどいですね」
「必要でした」
「知ってます」
その言葉を聞いて、三枝は初めて少しだけ笑った。
奥山は戻っている。
完全ではない。
無傷でもない。
だが、戻っている。
連華三号機の右膝は、ほとんど壊れていた。
伊藤は整備員に支えられながら操縦殻から降りた。
足元がふらつく。
地面があるのに、身体がそれを信用するまで少し時間がかかった。
加藤が近づいてきた。
彼の搭乗服は汗と油で濡れている。
顔には細かい傷があった。
「戻したな」
加藤が言った。
伊藤は頷いた。
「戻しました」
「自分も戻った」
「命令だったので」
「そうだ」
加藤は三号機を見た。
右膝から油が漏れている。
足裏アンカーの一部は折れ、腕部固定具も歪んでいた。
それでも、三号機は立っている。
不格好で。
壊れかけで。
地面に汚く足を置いている。
伊藤は、その姿を見て思った。
美しくないものが、人を帰す。
空の美しさに、地面の汚さが勝つ時がある。
それは、少しだけ救いだった。
「烈火は」
伊藤が訊いた。
加藤は答えない。
答えられなかった。
通信卓から、まだ断続的に真壁の声が届いている。
帰還努力を継続。
推進剤残量、低下。
姿勢制御、手動補正中。
紙テープ記録、継続。
生存。
生存。
生存。
その言葉がある限り、誰も烈火を喪失扱いにできなかった。
夜になって、政府は発表した。
白い飛翔体は地球近傍進路を離脱した。
人類は、前例のない国際共同作戦により、危機を回避した。
世界中の都市で、人々が泣き、叫び、抱き合った。
ニュース映像には、花火のような光が映っている。
教会の鐘が鳴り、寺の鐘も鳴り、知らない国の広場で知らない言葉の歌が始まった。
人類は勝利したと信じた。
信じたかった。
信じる必要があった。
防衛庁地下第七区画にも、その映像は流れていた。
だが音は絞られていた。
作戦室には、まだ多くの紙が残っている。
加藤は、その中から死亡時記録手順の束を抜き取った。
捨てようとして、やめた。
捨てていい紙ではない。
誰かが壊れる可能性を、なかったことにしてはいけない。
彼は紙束を机の端へ置いた。
黒崎が隣に立った。
「勝ったな」
加藤は答えなかった。
黒崎も、それ以上は言わない。
しばらくして、加藤は言った。
「勝ったと、言っていいんでしょうか」
「今はな」
「今は」
「今を馬鹿にするな」
黒崎は画面を見ていた。
世界中の人々が笑っている。
泣いている。
生きている。
「今日死ぬはずだった人間が、今日を越えた。それは勝利だ」
加藤は、その言葉を聞いた。
受け取るには、少し時間が必要だった。
今日を越えた。
それは確かに勝利だった。
たとえ明日が分からなくても。
たとえ烈火がまだ戻らなくても。
たとえ奥山の手がまだ震えていても。
たとえ伊藤が帰投優先の文字を見つめ続けていても。
今日を越えた。
加藤は、初めて椅子に座った。
座った瞬間、身体の重さが全部戻ってきた。
責任は軽くならない。
勝っても軽くならない。
むしろ、勝ったからこそ重くなるものがある。
次も勝てと言われる。
次も帰せと言われる。
次も誰かを壊してでも始めろと言われる。
加藤は目を閉じた。
それでも、今日は越えた。
医療区画の簡易寝台で、奥山は眠れずにいた。
三枝が椅子に座って、記録を書いている。
「三枝二尉」
「はい」
「僕、戻りたくないって思いました」
「記録しています」
「嫌な記録ですね」
「必要な記録です」
「また乗れますか」
三枝のペンが止まった。
奥山は天井を見ていた。
天井には照明が十二個あった。
少ない。
数えやすい。
「乗りたいんですか」
三枝が訊いた。
奥山は答えるまでに時間をかけた。
「分かりません」
「では、今は答えなくていいです」
「怖いです」
「はい」
「でも、怖いのが戻ってきて、少し安心しました」
三枝はペンを置いた。
「それは、いい記録です」
奥山は笑った。
「いい記録なんてあるんですか」
「あります」
「じゃあ書いてください」
三枝は頷き、紙に書いた。
恐怖感、回復。
それは医療記録としては奇妙な言葉だった。
だが、今夜の奥山には、それが一番正確だった。
伊藤は、格納庫で三号機の膝を見ていた。
整備員たちは休めと言う。
加藤も休めと言った。
榊原は休息命令の紙まで持ってきた。
それでも伊藤は、少しだけ見ると言って残る。
少しだけ、の長さは誰も信用していなかった。
三号機の膝は開かれている。
内部の駆動軸が歪み、補助索の巻き取り機は焼けていた。
月華を引いた時、限界を超えている。
限界を超えなければ、奥山は戻らなかった。
伊藤は工具を持っていない。
ただ見ている。
壊れた場所を見る。
壊れたことで帰ってきたものを見る。
背後で、荻野博士が言った。
「帰したな」
伊藤は振り向かなかった。
「はい」
「自分も帰った」
「はい」
「つまらん」
伊藤は振り向いた。
荻野は汚れた白衣のポケットに手を突っ込み、三号機の膝を見ていた。
「つまらないですか」
「技術者としてはな。英雄的な自己犠牲など、設計の敗北だ。お前が戻ったせいで、俺たちはもっと面倒な設計をしなければならん」
伊藤は少しだけ笑った。
「それは、すみません」
「謝るな。面倒な方がいい」
荻野はスパナで三号機の膝を軽く叩いた。
「機械は壊れる。人間も壊れる。だから帰す手順を増やす。壊れないものを作ろうとする奴は、大抵、人間の壊れ方を見ていない」
伊藤は黙った。
荻野の声は荒い。
だが、その荒さの奥に、月華の試験で壊れた何かがまだ残っている。
伊藤はそれを感じた。
「烈火も帰せますか」
伊藤が訊いた。
荻野は鼻を鳴らした。
「帰せると言えば嘘だ」
「では」
「帰す案を考える」
伊藤は三号機の膝を見た。
帰す案。
その言葉が、今日の勝利よりも胸に残った。
深夜、烈火からの通信は細くなっていた。
真壁遥の声は、時々途切れる。
それでも、途切れた後に必ず戻ってきた。
「烈火一号機、姿勢補正」
雑音。
「地球、視認」
雑音。
「帰還努力、継続」
雑音。
「封筒、開けないで」
南星の管制室では、宗像がその声を聞き続けていた。
封筒は、管制卓の上に置かれている。
誰も開けていない。
誰も触れていない。
小さな紙一枚が、烈火の帰還理由としてそこにある。
宗像は通信機へ向かって言った。
「南星管制より烈火一号機」
真壁の返事は遅れた。
「聞こえています」
「世界中が、作戦成功を確認しました」
「そう」
「飛翔体は、月外縁方向へ離脱しています」
「よかった」
その声は、とても小さかった。
宗像は言った。
「二佐」
「何」
「帰ってください」
命令ではなかった。
技術的な指示でもない。
ただの願いだった。
宗像は、自分がそんな言葉を使ったことに少し驚いた。
真壁は笑ったようだった。
雑音の奥で、息が漏れた。
「努力します」
「はい」
「宗像」
「はい」
「封筒の差出人、誰」
宗像は封筒を見た。
差出人は、整備班一同。
だが封筒の端に、小さく別の字があった。
帰ってきたら、全員で読む。
宗像はそれを読まなかった。
読むと、泣くかもしれなかった。
「戻ってから確認してください」
真壁は少し黙った。
「了解」
それから、彼女は言った。
「帰還努力を継続」
翌朝、世界は祝っていた。
新聞の見出しは勝利を叫び、政府は各国首脳との共同声明を準備し、避難所では人々が家へ帰り始めていた。
街には、まだ恐怖の跡が残っている。
割れた窓。
空になった棚。
放置された車。
それでも、人々は空を見上げて笑った。
白い飛翔体は、もう地球へ向かっていない。
人類は勝った。
そう信じている。
防衛庁地下第七区画では、誰も大きく笑わなかった。
作戦後評価会議の席で、榊原が報告を読み上げた。
「連華一号機、中破。三号機、大破判定手前。月華一号機、機体損傷軽微、搭乗者精神負荷甚大。烈火一号機、射撃成功、現時点で地球低軌道への帰還不可。通信継続」
現時点で。
またその言葉だった。
加藤は、その言葉を聞きながら、机の上の作戦名を見た。
オペレーション・フラワー。
花は咲いた。
咲いた花は、美しいとは限らない。
油に汚れ、血に濡れ、紙テープの上で震えながら、それでも咲くものがある。
黒崎が言った。
「本作戦は成功した」
誰も異議を唱えなかった。
「だが、終わっていない」
その言葉にも、誰も異議を唱えなかった。
加藤は目を閉じた。
世界は今日、勝利を持ち帰る。
それでいい。
持ち帰れる感情がなければ、人間は明日へ進めない。
だが自分たちは、別のものも持ち帰らなければならない。
奥山が空で怖さを失いかけたこと。
伊藤が人を帰すために、自分も帰らなければならないと知ったこと。
真壁が宇宙でまだ帰ろうとしていること。
そして加藤自身が、誰かを壊すと分かっていて作戦を始めたこと。
勝利は、それらを消してくれない。
消してはいけない。
加藤は、作戦報告書の最後に手書きで一行を加えた。
全搭乗者の帰還手順を、次作戦の第一条件とする。
それは作戦評価としては、少し感情的すぎる一文だった。
榊原なら直すかもしれない。
黒崎なら黙認するかもしれない。
荻野なら鼻で笑って、もっと具体的に書けと言うかもしれない。
だが今は、その一文が必要だった。
勝った。
人類は勝った。
今日だけは、それでいい。
それでも、加藤は知っている。
勝利とは、帰ってきた者だけで数えるものではない。
まだ帰ってこない者を、どこまで待つかで決まる。
白い飛翔体は、月の彼方へ遠ざかっている。
烈火は、宇宙でまだ通信を続けている。
地上では、壊れた連華の足が修理を待っている。
月華は格納庫で眠っている。
奥山は医療区画で怖いと言い続けている。
伊藤は帰投優先の文字を消さない。
加藤は署名した自分の字を見た。
歪んだ字だ。
責任の形に似ていた。
その夜、世界は勝利を祝った。
地下では、誰かがまだ帰ろうとしていた。
そして誰も、その声を切らなかった。
第13章「オペレーション・フラワー」後編、お読みいただきありがとうございます。
連華が地上で押さえ、月華が空で軌道を乱し、烈火が宇宙から一撃を叩き込む。
華計画として大きな達成の章になりました。
ただ、この勝利は完全な救済ではありません。
奥山は怖さを失いかけ、伊藤は帰す側である自分も帰らなければならないと身をもって知り、真壁は宇宙でまだ帰還努力を続けています。
人類は勝ったと信じます。
その信じた勝利が、次にどう揺らぐのか。
次章「再帰還」へ続きます。




