第14章 再帰還
第14章。
前章で人類は、白い飛翔体を月の彼方へ逸らすことに成功しました。
けれど、これは「勝った後」の章です。
勝利を信じた世界が、もう一度恐怖へ引き戻される。
その時、人間は何を疑い、誰を責め、何にしがみつくのか。
華計画の勝利の後始末と、次の絶望の始まりを描きます。
勝利の翌朝、空はよく晴れていた。
雲は薄く、風は弱い。
避難所の駐車場には、家へ戻る人々の列ができていた。毛布を抱えた老人。眠った子どもを背負う母親。割れた眼鏡を直さずに、スマートフォンで家族へ連絡を取る男。
誰もが疲れていた。
だが疲れの奥に、奇妙な明るさがあった。
まだ生きている。
今日も朝が来た。
その事実だけで、人間は少し笑える。
テレビでは、同じ映像が繰り返し流れていた。白い飛翔体の軌道が地球から逸れていく予測図。各国首脳の共同声明。危機は回避された――強い言葉が画面に並び、解説者たちは何度も頷いた。
詳しい技術情報は伏せられている。
華計画の名も、連華の姿も、月華の危険も、烈火がまだ帰っていないことも、国民は知らない。
知らないまま、勝ったと思っている。
それでよかった。
少なくとも、今日の朝だけは。
防衛庁地下第七区画の食堂でも、テレビはついていた。
音量は小さい。
誰かが消そうとして、誰かが止めた。
見る者はほとんどいない。
それでも、画面に映る街の祝祭は、地下の人間たちにとっても必要だった。自分たちが壊した機体と、壊れかけた人間と、帰れない宇宙機だけを見ていれば、作戦が本当に成功したのか分からなくなる。
地上の笑顔は、成功の証明だった。
加藤一尉は、食堂の端の席でコーヒーを飲んでいた。
味はしない。
紙コップは少し潰れている。
指に力が入りすぎていた。
彼の前には、作戦後評価の紙が置かれている。
全搭乗者の帰還手順を、次作戦の第一条件とする。
自分が書いた一文。夜中に榊原技官が清書し、黒崎司令が赤字で承認印を押した。
荻野博士は、その横に手書きで一行足していた。
第一条件なら、感情ではなく設計に落とせ。
読んだ時、加藤は少しだけ笑った。
笑った後、重くなった。
設計に落とす。
人を帰すことを、願いではなく構造にする。
だが昨日、加藤は知った。
人間は勝つためなら、誰かを帰さない設計をしてしまう。
それを止めるには、誰かが署名しなければならない。
責任は、まだ終わっていない。
むしろ、昨日から始まった気がした。
「寝ていませんね」
伊藤二尉の声がした。
加藤は顔を上げる。
伊藤は食堂の入口に立っていた。搭乗服ではなく、整備服だった。袖に油がついている。右目の下に濃い影がある。
「お前もだろ」
「三号機の膝を見ていました」
「休息命令は」
「紙は読みました」
「守ったか」
「紙を読むことまでは守りました」
加藤は紙コップを置いた。
「奥山は」
「医療区画です。三枝二尉がついています」
「状態は」
伊藤は少しだけ間を置いた。
「怖がっています」
「そうか」
「良い兆候だそうです」
加藤は目を伏せた。
怖がることが良い兆候。
この部隊では、人間のまともさが、奇妙な形で測られる。
「烈火は」
加藤が訊いた。
伊藤は食堂のテレビを見た。
画面の下には、白い飛翔体の離脱軌道が青い線で描かれている。
「通信継続。推進剤残量、さらに低下。姿勢制御は手動補正で維持。帰還軌道は未確立」
「真壁二佐は」
「生存」
その一語だけで、食堂の空気が少し変わった。
勝利の翌朝に、まだ生存と報告される人がいる。
勝利は、すべての人間を家へ返す言葉ではない。
加藤は紙を見た。
全搭乗者の帰還手順。
真壁遥二佐の名前が、その紙の中で最も重かった。
「帰す」
加藤は言った。
伊藤は頷いた。
「帰します」
その返答は、命令への復唱ではなかった。
伊藤自身の言葉だ。
医療区画の朝は、夜の延長だった。
照明は白く、窓はない。
奥山凪三尉は、簡易寝台の上で天井を見ていた。
照明は十二個。
夜中に何度も数えた。
数えるたびに、数は同じだった。
それがありがたい。
空では、数がほどけた。
距離も、時間も、自分の身体の境界も、全部ほどけていく。
美しかった。
怖くなかった。
そのことを思い出すたび、奥山の喉が詰まる。
怖くなかったことが怖い。
怖くない自分を、もう一人の自分が空に置いてきた気がする。
三枝真帆二尉は、寝台の横で記録を書いていた。
彼女はあまり眠っていないはずだ。
それでも、字は乱れていない。
「三枝二尉」
「はい」
「僕、昨日、戻りたくなかったんですよね」
「はい」
「それ、記録に残りますか」
「残ります」
「恥ずかしいですね」
「恥ずかしい記録ではありません」
「でも、逃げようとしたみたいです」
三枝はペンを置いた。
「あなたは逃げようとしたのではありません。月華の接続が、戻る理由を薄くした」
「でも、僕がそう思いました」
「はい」
「じゃあ、僕です」
三枝はすぐに否定しなかった。
奥山は、その沈黙がありがたい。
違いますよ、と言われたら、たぶん救われなかった。自分ではないと断言されると、昨日空にいた自分がどこにも行けなくなる。
あれも自分だった。
戻りたくなかった自分も、自分だった。
だから怖い。
「奥山三尉」
三枝が静かに言った。
「あなたが戻りたくなかったことは、あなたの責任の一部ではあります」
奥山は目を閉じた。
少し痛かった。
だが、逃げ場のない痛みではなかった。
「ただし、全部ではありません」
三枝は続けた。
「月華の設計。接続深度。作戦判断。強制遮断のタイミング。連華三号機の回収。全て含めて、昨日のあなたが戻ってきた。あなた一人の弱さとして片づけるのは、雑です」
「雑」
「はい」
「医療者って、そういう言い方するんですか」
「必要なら」
奥山は少しだけ笑った。
笑うと、胸が痛んだ。
身体はまだ戻りきっていない。
だが痛みがある。
痛みは、少なくとも身体がここにある証拠だった。
「怖いです」
奥山は言った。
「記録します」
「また月華に乗るのも怖いです」
「はい」
「でも、乗らなくていいと言われるのも怖いです」
三枝の手が止まった。
「それも記録しますか」
「します」
「嫌な患者ですね」
「いい患者です」
「どこが」
「怖いと言えるところです」
奥山は天井を見た。
十二個。
照明は、まだ十二個ある。
増えない。
減らない。
数えられるものがある。
それだけで、奥山は少し呼吸が楽になった。
南星地下射出場では、封筒がまだ管制卓に置かれていた。
真壁遥二佐宛。
整備班一同。
薄い封筒。紙一枚。
宗像技官は、その封筒を見ないようにしていた。見ないようにしているのに、視界の端に必ず入る。
烈火一号機からの通信は、夜明け前より細くなっていた。
それでも途切れない。
途切れても戻る。
雑音の奥から、真壁の声が帰ってくる。
「烈火一号機、真壁」
宗像は通信卓へ身を乗り出した。
「南星管制、受信」
「地球、視認」
「姿勢」
「不安定」
「酸素」
「許容」
「推進剤」
真壁は少し黙った。
「少ない」
宗像はペンを握った。
少ない。技術者の報告としては曖昧すぎる。だが、真壁遥は曖昧な言葉を選ぶ人間ではなかった。
数字を言えないほど、余裕がない。
あるいは、数字を言えば誰かが諦めると分かっている。
宗像は、推定値を紙に書いた。
帰還可能性。
その欄へ数値を入れようとして、手を止めた。
低いと書けば、低い方へ人間の心が倒れる。
高いと書けば、嘘になる。
宗像は欄を空けた。
「二佐」
「何」
「封筒は未開封です」
「よかった」
「読み上げますか」
「駄目」
真壁の返事は早かった。
「戻ってから読む」
「了解」
宗像は封筒を見た。
たった紙一枚。帰還カプセルでも、推進剤でも、耐熱材でもない。それでも今、烈火を地球へ引いているものの一つだった。
技術者としては、認めたくない。
認めたくないが、事実だった。
帰還理由は、設計図の外にもある。
「南星」
真壁の声が少し揺れた。
「はい」
「飛翔体は」
「月外縁方向へ移行継続中です」
「本当に」
宗像は表示盤を見た。
青い線が、地球から遠ざかっている。
国際観測網の値も同じ。
少なくとも、今は。
「継続中です」
「よかった」
真壁は言った。
その声に、ほんの少しだけ眠気が混じる。
宗像はすぐに言った。
「二佐、睡眠は禁止です」
「知っている」
「意識確認。名前」
「真壁遥」
「所属」
「宇宙軍準備室、烈火一号機搭乗者」
「帰還意思」
「あり」
「帰還理由」
真壁は黙った。
宗像は待った。
雑音が増える。
管制室の誰も動かなかった。
やがて、真壁が言った。
「封筒」
それは、あまりにも小さな答えだった。
だが宗像は、そのまま記録した。
帰還理由、封筒。
世界の祝祭は二日続いた。
安堵の一日目。説明の二日目。
専門家たちが画面に並び、白い飛翔体がどのように逸れたのかを語った。再接近可能性は極めて低い――その言葉は数字ではない。数字ではないから、人はそれを希望として聞く。
スーパーには人が戻り、駅のシャッターが上がり、学校の校門には再開予定の紙が貼られた。
壊れたままでも、日常は戻ってくる。割れた窓に段ボールを貼り、空になった棚に別の商品を並べ、避難所で出会った人へ別れを告げる。人間は、壊れたものの上に生活を置くのがうまい。
防衛庁地下第七区画でも、修理が始まっていた。
連華一号機の膝部装甲が外され、三号機の右脚は完全に分解された。月華は第零格納庫へ戻され、接続系統に追加の遮断装置が組み込まれている。
荻野博士は、月華の足元で配線を引きずり出していた。
「やり直しだ」
彼は誰にともなく言った。
榊原が紙束を抱えて近くに立っている。
「どこからですか」
「全部だ」
「全部」
「月華は戻りたくなくなる。烈火は戻れない。連華は戻すには重い。三機とも、設計思想が勝利に寄りすぎている」
榊原はメモを取った。
「勝利に寄りすぎている」
「書くな」
「重要です」
「俺の愚痴だ」
「重要な愚痴です」
荻野は舌打ちした。
だが否定しなかった。
「昔はな」
彼は月華の黒い端子を見つめた。
「機械を強くすれば、人間は守れると思っていた。強い脚。強い腕。強い推進器。強い接続。全部、強くすればいいと思っていた」
榊原は黙って聞いていた。
「だが強い機械は、人間に強さを要求する。強い接続は、強い心を要求する。強い推進器は、帰れない軌道を要求する」
荻野は配線を床へ投げた。
「人間はそんなに強くない」
その声は、怒りではなかった。
悔しさだ。
あるいは、遅すぎる理解だった。
榊原は静かに言った。
「では、次は」
「弱さを前提に組む」
荻野は言った。
「怖がること。迷うこと。帰りたがること。逃げたくなること。意識が混濁すること。誰かが止めること。そういう面倒なものを、全部、機械の側へ押し込む」
「難しいですね」
「簡単なことは、もう失敗した」
荻野は月華を見上げた。
美しい機体。
人の心を翼にする禁忌。
「次に飛ぶ時は、空から引きずり戻す仕組みを、機体自身に持たせる」
榊原はメモを取った。
月華自律帰還補助。
荻野はそれを見て、嫌そうな顔をした。
「名前がつまらん」
「博士なら何と」
「帰りたくなくなった馬鹿を殴る装置」
「正式名称にはできません」
「だからお前たち官僚は駄目なんだ」
榊原は少しだけ笑った。
笑った後、表情を戻した。
作業灯の下で、月華は眠っている。
だが、誰もそれを本当の眠りとは思っていなかった。
三日目の夜、烈火の通信が途切れた。
最初は、いつもの途切れだと思われている。雑音が増え、信号が薄れ、数分後に戻る。それはこれまでも何度かあった。
だから南星管制は、手順通りに再捕捉を行った。
宗像は冷静だった。
冷静でいようとしていた。
「烈火一号機、南星管制」
応答なし。
「烈火一号機、真壁二佐」
応答なし。
「烈火一号機、受信できる場合は、姿勢制御信号を三回短く」
応答なし。
管制室の空気が、少しずつ冷えていく。
封筒はまだ机の上にある。
誰も触れない。
宗像は時計を見た。
通信断絶、十三分。
十五分を超えれば、喪失判定準備へ移行する。
その手順は宗像自身が作った。
だが、その紙を今見ることができなかった。
帰還理由、封筒。
そんな記録を残しておきながら、喪失判定へ移るのか。
「南星」
通信士が言った。
「国際追跡網より、烈火一号機の位置推定、更新遅延」
「遅延理由」
「不明」
「不明を報告するな。推定を書け」
「飛翔体干渉波の残留による散乱、または姿勢制御噴射の途絶」
宗像は目を閉じた。
姿勢制御噴射の途絶。
烈火が宇宙で姿勢を保てなくなった可能性を意味する。
姿勢を失えば、通信アンテナも地球を向かない。
通信が切れても、生存している可能性はある。
だが、帰還可能性はさらに落ちる。
宗像は通信機へ向かった。
「烈火一号機」
声が少し震えた。
彼はそれを止めなかった。
「南星管制。封筒は未開封です。繰り返す。封筒は未開封です」
管制室の誰かが顔を上げた。
手順にない呼びかけだ。
だが誰も止めなかった。
「戻ってから読んでください」
応答はなかった。
宗像は、同じ言葉をもう一度送った。
さらにもう一度。
封筒は未開封です。
戻ってから読んでください。
それは通信ではなく、祈りに近かった。
第七区画に烈火通信断の報告が届いたのは、深夜だった。
加藤が作戦室で受け取る。
黒崎、榊原、伊藤、三枝、荻野もいた。
奥山は医療区画から出る許可が出ていなかったが、三枝が同行する条件で入室していた。毛布を肩にかけ、壁際の椅子に座っている。顔色は悪い。だが、目は開いていた。
榊原が報告書を読み上げた。
「烈火一号機、通信断絶。最終通信より二十一分経過。位置推定、不安定。南星管制は喪失判定を保留」
黒崎は低く言った。
「保留理由」
「宗像技官判断。機体姿勢不安定による通信途絶の可能性があるため」
「技術的妥当性は」
榊原は紙を見た。
「あります。ただし、時間経過とともに低下します」
作戦室が沈黙した。
「喪失判定は出すな」
黒崎が加藤を見た。
「根拠は」
「通信断だけでは、死亡も機体喪失も確定しません」
「それは技術的根拠か」
加藤は伊藤を見た。
伊藤はすぐに言った。
「姿勢制御喪失による通信途絶なら、生存可能性はあります。烈火の紙テープ記録器は独立系です。再捕捉できれば、状態復元も可能です」
「帰還は」
伊藤は一瞬だけ黙った。
「案を作ります」
黒崎は荻野を見た。
「博士」
荻野は不機嫌そうに腕を組んでいた。
「死んだと決めるのは簡単だ」
「技術的には」
「簡単だと言っている」
荻野は吐き捨てるように言った。
「簡単な判断で人間を捨てるために、俺は機械を作ったわけじゃない」
黒崎は黙った。
三枝が奥山の脈を確認している。
奥山は小さく言った。
「真壁二佐、怖いですかね」
誰もすぐには答えなかった。
宇宙で一人。通信が切れ。帰還手順もない。
怖いに決まっている。
だが、その恐怖を想像するには、遠すぎた。
奥山は続けた。
「怖いって言える相手、いないんですよね」
三枝の手が止まった。
奥山は毛布を握った。
「僕は、言えたから戻れました」
その声は小さかった。
「真壁二佐にも、聞こえる相手が要ると思います」
加藤は奥山を見た。
臆病者は、まだ震えている。
だがその震えで、宇宙にいる誰かの恐怖を測ろうとしている。
それは強さではない。
弱さを失わなかった者だけが持てる想像力だった。
加藤は黒崎へ向き直った。
「南星へ、継続呼びかけを指示してください」
「内容は」
「帰還理由を送る。真壁二佐が戻る理由です。封筒が未開封であること。帰還努力を継続すること。こちらが喪失判定を出していないこと」
伊藤が言った。
「加えて、烈火帰還案を作成中であること」
荻野が鼻を鳴らした。
「作成中では弱い」
「では」
「作る、と送れ」
加藤は頷いた。
「烈火帰還案を作る。だから生きていろ」
黒崎は通信卓を見た。
「南星へ送れ」
通信士が頷いた。
それは命令だった。
同時に、願いだった。
命令と願いの境目が、ここ数日でずいぶん曖昧になった。
だが、曖昧でも送るしかない。
宇宙にいる一人へ。
まだ切れていないかもしれない、細い線へ。
四日目の朝、世界はまだ勝利を祝っていた。
その朝、国際観測網の第三班が、最初の異常値を出した。
飛翔体の遠方追跡データ。
速度成分、再計算要求。
軌道予測、微小修正。
担当者は、最初それを計測誤差だと思った。
センサーの角度。月の重力影響。飛翔体周囲の干渉波散乱。
どれかであってほしかった。
再計算。別系統照合。別国観測網照会。
結果は、完全には一致しなかった。
問題は、ずれ方だった。
全てのずれが、同じ方向を示している。
飛翔体は、月外縁方向へ遠ざかっている。
それは事実だった。
だが遠ざかりながら、減速していない。
むしろ、速度を増している。
そして、増した速度の先に、曲率があった。
誰かが言った。
「戻っている」
その言葉を、誰も最初は記録しなかった。
記録すれば、現実になる気がしたのだ。
防衛庁地下第七区画に第一報が届いたのは、午前九時十七分だった。
作戦後評価会議の最中だった。
議題は、烈火帰還案。
伊藤が黒板に軌道図を書いていた。烈火の推定位置。地球との相対速度。残存推進剤を仮定した場合の姿勢補正範囲。月華による高高度回収は却下。連華三号機の再稼働は最低四十八時間。
伊藤の字は硬かった。
眠っていない字だ。
通信卓の警告音が鳴った。
短い音。
作戦室の全員が顔を上げた。
榊原が端末を確認する。
表情が変わった。
ほんのわずか。
だが加藤には分かった。
悪い報告だ。
「国際観測網より、飛翔体軌道再計算要請」
黒崎は言った。
「内容」
「飛翔体、月外縁方向への離脱を継続。ただし速度成分に異常。複数観測網で加速傾向を確認」
伊藤の手が止まった。
チョークの粉が床へ落ちる。
黒崎は低く言った。
「加速」
「はい」
「何に向かって」
榊原は答えなかった。
端末に新しい線が描かれる。
青い線。月外縁方向へ向かっていたはずの線が、遠方で緩やかに曲がっている。曲がり、伸び、再び地球近傍へ向かう可能性を示す点線が表示される。
まだ確定ではない。
だから点線。
だが、その点線は部屋の空気を奪った。
奥山が椅子の背を掴んだ。
三枝がすぐに彼の肩へ手を置く。
荻野博士が画面へ近づいた。
「馬鹿な」
その声は、驚きではなかった。
怒りでもない。
理解したくない技術者の声だった。
「何だこれは」
榊原が別画面を出す。
「飛翔体は排除方向へ移行後、月重力圏外縁を通過。ただし、通常の慣性軌道から逸脱しています。外力なしに説明できない加速です」
「外力」
黒崎が言った。
「何かに引かれているのか」
「現時点では不明」
不明。
その言葉が、作戦室に落ちた。
勝利の翌々日に、不明が戻ってきた。
加藤は表示盤を見た。
白い飛翔体の線。逸らしたはずの線。月の彼方へ捨てたはずの線。
それが、遠くで折り返している。
帰ってくる。
破壊不能だっただけではない。
排除不能だった。
遠ざけても戻る。しかも、速く。
伊藤が静かに言った。
「再接近予測」
榊原は数値を出した。
「最短で、五日後」
「前回より」
「速度は増しています」
部屋の誰かが息を吐いた。
それはため息ではない。折れる音に近かった。
「我々の作戦が原因か」
加藤は言った。
黒崎が彼を見た。
「結論を急ぐな」
「でも、可能性は」
「ある」
黒崎は否定しなかった。
奥山が小さく言った。
「戻ってくるんですか」
誰も答えなかった。
答えたのは、表示盤だった。
点線が更新される。
地球近傍再接近可能性、上昇。
情報統制は、一時間も持たなかった。
国際観測網は多国間の網だ。どこかが隠しても、どこかが漏れる。
海外の研究者が匿名で投稿した短文は、削除される前に保存され、拡散し、翻訳された。政府の確認中という発表は否定ではない。否定ではない言葉は、恐怖にとって肯定に近い。
昼過ぎ、都市の祝祭は止まった。
避難所から帰りかけていた人々が足を止め、家へ戻った人々がまた荷物をまとめ始めた。学校再開の紙が剥がされる。スーパーの棚が再び空になる。
一度安心した心を、もう一度恐怖へ戻すのは、最初に怖がるよりも残酷だった。
安堵は、心の防波堤を下げる。そこへ同じ波が戻ってくる。しかも高く。
人々は怒った。誰が勝ったと言ったのか。何を隠しているのか。
怒りの矛先は、飛翔体へ届かない。
届かない怒りは、近くの人間へ向かった。
伊藤は黒板の烈火帰還案を消していなかった。
その横に、飛翔体再接近線を書いている。
烈火推定位置。
その線が交差しかけていた。
「烈火」
加藤が気づいた。
「何だ」
「飛翔体の再帰還軌道と、烈火の推定漂流域が近い」
榊原が顔を上げる。
「距離は」
「確定できません。烈火の位置推定が不安定です」
伊藤は黒板へ白い線を引いた。
その線が、飛翔体の点線に近づく。
「もし真壁二佐が生存していて、烈火の光学系が動くなら、飛翔体の最接近前観測点になり得ます」
加藤の胸に嫌な形で刺さった。
「利用するのか」
「言い方を選ばなければ、そうです」
「帰す対象を、観測点として使うのか」
「帰すためにも、位置を知る必要があります」
加藤は言葉を止めた。
伊藤の顔に疲労が深く出ていた。分かっていて言っている。
帰すために使う。使うから、帰す。その順番が、簡単に入れ替わることを、加藤は昨日知った。
黒崎が言った。
「烈火の再捕捉を最優先に加えろ。目的は二つ。真壁二佐の生存確認と、飛翔体再帰還軌道の補足。順序は同列だ」
加藤は言った。
「現場作戦代表として確認します。烈火再捕捉時、真壁二佐の生存確認および帰還支援を、観測任務と同列の第一目的とします」
榊原がすぐに記録した。
荻野博士は、壁際で腕を組んでいた。
「同列では足りん」
加藤は振り向いた。
「では」
「機械は目的の上位にあるものへ従う。人間は建前の下にある本音へ従う。だから書け」
荻野の声は荒い。
「真壁を捨てる判断は、観測成功を理由にしてはならない」
作戦室が静かになった。
黒崎は荻野を見た。
「重い文言だ」
「重いものを軽く書くから、人間が死ぬ」
荻野は吐き捨てた。
加藤は頷いた。
「記録してください」
榊原は書いた。
真壁二佐を放棄する判断は、飛翔体観測の成功を理由としてはならない。
書かれた文字は、冷たい。
だがその冷たさが、今は必要だった。
奥山は作戦室を出た。
三枝が同行した。
本当の理由は、奥山が震え始めたからだ。
通路に出ると、空気が少しだけ静かになった。
「三枝二尉」
「はい」
「僕、嫌なことを考えました」
「何を」
「飛翔体が戻ってくるって聞いた時」
奥山は息を整えようとした。
うまくいかなかった。
「また月華に乗れるって、一瞬思いました」
三枝は何も言わなかった。
「怖いです。乗りたくないです。でも、一瞬、空に戻れるって思ったんです」
奥山の声が崩れた。
「僕、壊れてますか」
三枝はすぐに答えなかった。
それが医療者の誠実さだった。
「壊れていないとは言いません」
奥山は目を閉じた。
「でも、壊れたまま固定されているとも言いません」
三枝は続けた。
「あなたの中に、月華の快感が残っています。怖さと一緒に。それは危険です。だから観察します。だから一人にしません」
「僕、また戻りたくなくなるかもしれません」
「その可能性があります」
「そんな人間を、また乗せるんですか」
三枝は奥山を見た。
「私は、乗せる判断をする立場ではありません」
「じゃあ」
「止める判断はします」
彼女の顔は静かだった。
「あなたが戻れない状態で乗せられそうになったら、止めます。あなたが乗りたいと言っても、止めるべき時は止めます。あなたが乗りたくないと言えなくなった時も、止めます」
奥山は唇を噛んだ。
「強いですね」
「強くはありません」
「じゃあ何ですか」
「仕事です」
奥山は少し笑った。
笑って、泣きそうになった。
「怖いです」
「記録します」
「また空に行きたいと思った自分が怖いです」
「それも記録します」
「消えますか」
三枝は首を横に振った。
「消すより、扱えるようにします」
奥山は通路の天井を見た。
照明は長く続いている。
数え始めると、作戦室へ戻れなくなりそうだった。
だから数えなかった。
怖い。
空に戻りたいと思った自分が怖い。
その怖さを、奥山は胸の中で握った。
消えない。
でも、握れる。
今は、それでいいのかもしれない。
夕方、政府は正式に発表した。白い飛翔体について、新たな軌道再計算が行われている。地球近傍への再接近可能性を排除できない。
街は再び混乱した。
駅には人が殺到し、道路は渋滞し、避難所には戻ってきた人々が黙って列を作った。昨日まで笑っていた人々が、今日は隣の人間を疑い始めた。
国境では、避難民の受け入れをめぐって部隊が動き始める。同盟国同士が、観測データの秘匿を疑い始めた。
人類は昨日、同じ空を見上げて勝利を祝った。
今日、その空の下で、互いの手元を見始めている。
飛翔体は戻ってくる。
その事実だけで、人間は十分に壊れ始めた。
第七区画の深夜。
加藤は連華一号機の足元にいた。
機体は修理中だった。膝部装甲は外され、内部の駆動系が露出している。連華は、眠っているというより、傷口を開かれて横たわっているように見えた。
加藤はその足に手を置いた。
冷たい。
昨日は地面を踏んだ足。飛翔体の干渉波を受け止めた足。
だが飛翔体は戻ってくる。
勝利は、勝利でなくなりかけている。
それでも、昨日踏んだことが無意味だったとは思いたくなかった。今日を越えた人々がいる。昨日死ななかった子どもがいる。真壁がまだ通信を返していた時間がある。奥山が怖いと言えた夜がある。
それらは、飛翔体が戻ってくることで消えるのか。
消えない。
消してはいけない。
「ここにいると思いました」
伊藤の声がした。
「お前も休め」
「その言葉を、今日はお返しします」
伊藤は隣に立った。
二人で、壊れかけた連華の足を見る。
「俺たちは間違えたのか」
加藤は言った。
「作戦判断としては、現時点でも成功です」
「嫌な言葉だな」
「便利な言葉です」
「便利な言葉は嫌いだ」
「僕もです」
沈黙。
格納庫の奥で、工具の音がした。
誰かがまだ修理している。飛翔体が戻ってくると分かった夜に、それでも機械を直している。
加藤は、その音に救われた。
答えがなくても、手を動かす人間がいる。
「間違えたかどうかは、まだ分かりません」
伊藤は言った。
「でも、昨日やらなければ、今日の朝はありませんでした」
「明日は」
「作ります。烈火を帰す案も、飛翔体への次の対応も」
「作れるか」
「作らないと、帰せません」
加藤は伊藤を見た。
伊藤の目は赤い。眠っていない。
それでも、その目は空を見ていなかった。
地面と機体と、人間の帰り道を見ている。
「伊藤」
「はい」
「真壁二佐を帰せ」
「了解」
「奥山を、次に乗せるなら戻せ」
「了解」
「自分も戻れ」
伊藤は一瞬だけ黙った。
そして言った。
「了解」
加藤は頷いた。
命令は、願いに似ていた。
願いは、命令にしなければ届かない時がある。
その夜遅く、南星から短い報告が入った。
烈火一号機、微弱信号再捕捉。
音声通信、不可。
姿勢制御信号、断続。
紙テープ記録器の送信片、受信。
復号中。
作戦室に、久しぶりに息が戻った。
真壁は生きているかもしれない。
少なくとも、烈火はまだ完全には沈黙していない。
加藤は報告書を受け取った。
紙の端が少し震える。
自分の手が震えているのだと気づくまで、時間がかかった。
榊原が復号結果を読み上げる。
「断片です。時刻不明。音声ではなく、手動入力記録」
黒崎が言った。
「読め」
榊原は紙を見た。
「地球、視認」
沈黙。
「飛翔体、遠方光学捕捉」
伊藤が顔を上げた。
「続き」
榊原の声が少し震えた。
「飛翔体、加速」
作戦室の空気が止まった。
「飛翔体、反転」
奥山が目を閉じた。
三枝が彼の肩を支える。
榊原は最後の行を読んだ。
「戻ってくる」
その言葉は、観測値より重かった。
宇宙で一人、帰れない機体に固定された真壁遥が、白い飛翔体を見て書いた言葉。
戻ってくる。
人類が再計算する前に、烈火はそれを見ていた。
帰れない者が、帰ってくるものを見ている。
加藤は紙を握った。
勝利の章は終わった。
誰もそう言わなかった。
だが、全員が分かった。
昨日までの世界は、もうない。
白い飛翔体は、月の彼方から戻ってくる。
しかも、速度を増して。
追い払えば戻る。
遠ざければ速くなる。
触れれば、別の形で返ってくる。
それは攻撃ではない。
敵意でもない。
ただ、戻る。
その無意味さが、人間の心を折る。
加藤は深く息を吸った。
責任は、終わらない。
勝っても終わらない。
負けても終わらない。
戻ってくるものがある限り、責任も戻ってくる。
「黒崎司令」
加藤は言った。
「次の作戦を」
黒崎は表示盤を見たまま答えた。
「組む」
その声に迷いはなかった。
だが、疲労はある。
人間の声だった。
「ただし」
黒崎は続けた。
「次は、飛翔体だけを相手にするとは限らん」
加藤はその意味をすぐに理解できなかった。
数秒後、作戦室の別回線が鳴った。
国境付近での軍事衝突未遂。
避難民輸送路をめぐる武装部隊の展開。
同盟国間の観測データ秘匿疑惑。
国内複数都市での暴動。
飛翔体は戻ってくる。
だが先に壊れ始めたのは、人類の方だった。
加藤は連華の修理予定表を見た。
人類を救うために作られた機体。
その鉄の足が、次に何を踏むのか。
考えたくなかった。
考えなければならない。
奥山が小さく言った。
「怖いです」
三枝が答えた。
「記録します」
その言葉だけが、まだ人間の形をしていた。
遠い宇宙で、烈火は微弱な信号を送り続けている。
戻ってくる白いものを見ながら。
戻れない黒い機体の中で。
真壁遥は、まだ帰還努力を継続している。
地上では、人類が勝利の後片付けをする前に、次の恐怖を始めていた。
白い飛翔体は、何も語らない。
ただ戻ってくる。
人類がそれをどう受け取るかだけが、世界を壊していく。
第14章「再帰還」、第2部の折り返し地点です。
飛翔体は倒せなかった、というだけではありません。
追い払っても戻ってくる。
しかも、速度を増して戻ってくる。
この章で、第2部「華計画」は大きく反転します。
加藤たちの作戦は無意味ではありませんでした。
けれど勝利は、世界を完全には救ってくれません。
そして、恐怖は飛翔体そのものより先に、人類の内側を壊し始めます。
次章からは第3部「人類自滅」へ進みます。




