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メタルブレーカーズ  作者: 源三郎


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第14章 再帰還

第14章。


前章で人類は、白い飛翔体を月の彼方へ逸らすことに成功しました。

けれど、これは「勝った後」の章です。


勝利を信じた世界が、もう一度恐怖へ引き戻される。

その時、人間は何を疑い、誰を責め、何にしがみつくのか。


華計画の勝利の後始末と、次の絶望の始まりを描きます。


 勝利の翌朝、空はよく晴れていた。


 雲は薄く、風は弱い。


 避難所の駐車場には、家へ戻る人々の列ができていた。毛布を抱えた老人。眠った子どもを背負う母親。割れた眼鏡を直さずに、スマートフォンで家族へ連絡を取る男。


 誰もが疲れていた。


 だが疲れの奥に、奇妙な明るさがあった。


 まだ生きている。


 今日も朝が来た。


 その事実だけで、人間は少し笑える。


 テレビでは、同じ映像が繰り返し流れていた。白い飛翔体の軌道が地球から逸れていく予測図。各国首脳の共同声明。危機は回避された――強い言葉が画面に並び、解説者たちは何度も頷いた。


 詳しい技術情報は伏せられている。


 華計画の名も、連華の姿も、月華の危険も、烈火がまだ帰っていないことも、国民は知らない。


 知らないまま、勝ったと思っている。


 それでよかった。


 少なくとも、今日の朝だけは。


 防衛庁地下第七区画の食堂でも、テレビはついていた。


 音量は小さい。


 誰かが消そうとして、誰かが止めた。


 見る者はほとんどいない。


 それでも、画面に映る街の祝祭は、地下の人間たちにとっても必要だった。自分たちが壊した機体と、壊れかけた人間と、帰れない宇宙機だけを見ていれば、作戦が本当に成功したのか分からなくなる。


 地上の笑顔は、成功の証明だった。


 加藤かとう一尉は、食堂の端の席でコーヒーを飲んでいた。


 味はしない。


 紙コップは少し潰れている。


 指に力が入りすぎていた。


 彼の前には、作戦後評価の紙が置かれている。


 全搭乗者の帰還手順を、次作戦の第一条件とする。


 自分が書いた一文。夜中に榊原技官が清書し、黒崎司令が赤字で承認印を押した。


 荻野博士は、その横に手書きで一行足していた。


 第一条件なら、感情ではなく設計に落とせ。


 読んだ時、加藤は少しだけ笑った。


 笑った後、重くなった。


 設計に落とす。


 人を帰すことを、願いではなく構造にする。


 だが昨日、加藤は知った。


 人間は勝つためなら、誰かを帰さない設計をしてしまう。


 それを止めるには、誰かが署名しなければならない。


 責任は、まだ終わっていない。


 むしろ、昨日から始まった気がした。


「寝ていませんね」


 伊藤いとう二尉の声がした。


 加藤は顔を上げる。


 伊藤は食堂の入口に立っていた。搭乗服ではなく、整備服だった。袖に油がついている。右目の下に濃い影がある。


「お前もだろ」


「三号機の膝を見ていました」


「休息命令は」


「紙は読みました」


「守ったか」


「紙を読むことまでは守りました」


 加藤は紙コップを置いた。


「奥山は」


「医療区画です。三枝二尉がついています」


「状態は」


 伊藤は少しだけ間を置いた。


「怖がっています」


「そうか」


「良い兆候だそうです」


 加藤は目を伏せた。


 怖がることが良い兆候。


 この部隊では、人間のまともさが、奇妙な形で測られる。


「烈火は」


 加藤が訊いた。


 伊藤は食堂のテレビを見た。


 画面の下には、白い飛翔体の離脱軌道が青い線で描かれている。


「通信継続。推進剤残量、さらに低下。姿勢制御は手動補正で維持。帰還軌道は未確立」


「真壁二佐は」


「生存」


 その一語だけで、食堂の空気が少し変わった。


 勝利の翌朝に、まだ生存と報告される人がいる。


 勝利は、すべての人間を家へ返す言葉ではない。


 加藤は紙を見た。


 全搭乗者の帰還手順。


 真壁遥二佐の名前が、その紙の中で最も重かった。


「帰す」


 加藤は言った。


 伊藤は頷いた。


「帰します」


 その返答は、命令への復唱ではなかった。


 伊藤自身の言葉だ。



 医療区画の朝は、夜の延長だった。


 照明は白く、窓はない。


 奥山凪おくやま・なぎ三尉は、簡易寝台の上で天井を見ていた。


 照明は十二個。


 夜中に何度も数えた。


 数えるたびに、数は同じだった。


 それがありがたい。


 空では、数がほどけた。


 距離も、時間も、自分の身体の境界も、全部ほどけていく。


 美しかった。


 怖くなかった。


 そのことを思い出すたび、奥山の喉が詰まる。


 怖くなかったことが怖い。


 怖くない自分を、もう一人の自分が空に置いてきた気がする。


 三枝真帆二尉は、寝台の横で記録を書いていた。


 彼女はあまり眠っていないはずだ。


 それでも、字は乱れていない。


「三枝二尉」


「はい」


「僕、昨日、戻りたくなかったんですよね」


「はい」


「それ、記録に残りますか」


「残ります」


「恥ずかしいですね」


「恥ずかしい記録ではありません」


「でも、逃げようとしたみたいです」


 三枝はペンを置いた。


「あなたは逃げようとしたのではありません。月華の接続が、戻る理由を薄くした」


「でも、僕がそう思いました」


「はい」


「じゃあ、僕です」


 三枝はすぐに否定しなかった。


 奥山は、その沈黙がありがたい。


 違いますよ、と言われたら、たぶん救われなかった。自分ではないと断言されると、昨日空にいた自分がどこにも行けなくなる。


 あれも自分だった。


 戻りたくなかった自分も、自分だった。


 だから怖い。


「奥山三尉」


 三枝が静かに言った。


「あなたが戻りたくなかったことは、あなたの責任の一部ではあります」


 奥山は目を閉じた。


 少し痛かった。


 だが、逃げ場のない痛みではなかった。


「ただし、全部ではありません」


 三枝は続けた。


「月華の設計。接続深度。作戦判断。強制遮断のタイミング。連華三号機の回収。全て含めて、昨日のあなたが戻ってきた。あなた一人の弱さとして片づけるのは、雑です」


「雑」


「はい」


「医療者って、そういう言い方するんですか」


「必要なら」


 奥山は少しだけ笑った。


 笑うと、胸が痛んだ。


 身体はまだ戻りきっていない。


 だが痛みがある。


 痛みは、少なくとも身体がここにある証拠だった。


「怖いです」


 奥山は言った。


「記録します」


「また月華に乗るのも怖いです」


「はい」


「でも、乗らなくていいと言われるのも怖いです」


 三枝の手が止まった。


「それも記録しますか」


「します」


「嫌な患者ですね」


「いい患者です」


「どこが」


「怖いと言えるところです」


 奥山は天井を見た。


 十二個。


 照明は、まだ十二個ある。


 増えない。


 減らない。


 数えられるものがある。


 それだけで、奥山は少し呼吸が楽になった。



 南星地下射出場では、封筒がまだ管制卓に置かれていた。


 真壁遥二佐宛。


 整備班一同。


 薄い封筒。紙一枚。


 宗像技官は、その封筒を見ないようにしていた。見ないようにしているのに、視界の端に必ず入る。


 烈火一号機からの通信は、夜明け前より細くなっていた。


 それでも途切れない。


 途切れても戻る。


 雑音の奥から、真壁の声が帰ってくる。


「烈火一号機、真壁」


 宗像は通信卓へ身を乗り出した。


「南星管制、受信」


「地球、視認」


「姿勢」


「不安定」


「酸素」


「許容」


「推進剤」


 真壁は少し黙った。


「少ない」


 宗像はペンを握った。


 少ない。技術者の報告としては曖昧すぎる。だが、真壁遥は曖昧な言葉を選ぶ人間ではなかった。


 数字を言えないほど、余裕がない。


 あるいは、数字を言えば誰かが諦めると分かっている。


 宗像は、推定値を紙に書いた。


 帰還可能性。


 その欄へ数値を入れようとして、手を止めた。


 低いと書けば、低い方へ人間の心が倒れる。


 高いと書けば、嘘になる。


 宗像は欄を空けた。


「二佐」


「何」


「封筒は未開封です」


「よかった」


「読み上げますか」


「駄目」


 真壁の返事は早かった。


「戻ってから読む」


「了解」


 宗像は封筒を見た。


 たった紙一枚。帰還カプセルでも、推進剤でも、耐熱材でもない。それでも今、烈火を地球へ引いているものの一つだった。


 技術者としては、認めたくない。


 認めたくないが、事実だった。


 帰還理由は、設計図の外にもある。


「南星」


 真壁の声が少し揺れた。


「はい」


「飛翔体は」


「月外縁方向へ移行継続中です」


「本当に」


 宗像は表示盤を見た。


 青い線が、地球から遠ざかっている。


 国際観測網の値も同じ。


 少なくとも、今は。


「継続中です」


「よかった」


 真壁は言った。


 その声に、ほんの少しだけ眠気が混じる。


 宗像はすぐに言った。


「二佐、睡眠は禁止です」


「知っている」


「意識確認。名前」


「真壁遥」


「所属」


「宇宙軍準備室、烈火一号機搭乗者」


「帰還意思」


「あり」


「帰還理由」


 真壁は黙った。


 宗像は待った。


 雑音が増える。


 管制室の誰も動かなかった。


 やがて、真壁が言った。


「封筒」


 それは、あまりにも小さな答えだった。


 だが宗像は、そのまま記録した。


 帰還理由、封筒。



 世界の祝祭は二日続いた。


 安堵の一日目。説明の二日目。


 専門家たちが画面に並び、白い飛翔体がどのように逸れたのかを語った。再接近可能性は極めて低い――その言葉は数字ではない。数字ではないから、人はそれを希望として聞く。


 スーパーには人が戻り、駅のシャッターが上がり、学校の校門には再開予定の紙が貼られた。


 壊れたままでも、日常は戻ってくる。割れた窓に段ボールを貼り、空になった棚に別の商品を並べ、避難所で出会った人へ別れを告げる。人間は、壊れたものの上に生活を置くのがうまい。


 防衛庁地下第七区画でも、修理が始まっていた。


 連華一号機の膝部装甲が外され、三号機の右脚は完全に分解された。月華は第零格納庫へ戻され、接続系統に追加の遮断装置が組み込まれている。


 荻野博士は、月華の足元で配線を引きずり出していた。


「やり直しだ」


 彼は誰にともなく言った。


 榊原が紙束を抱えて近くに立っている。


「どこからですか」


「全部だ」


「全部」


「月華は戻りたくなくなる。烈火は戻れない。連華は戻すには重い。三機とも、設計思想が勝利に寄りすぎている」


 榊原はメモを取った。


「勝利に寄りすぎている」


「書くな」


「重要です」


「俺の愚痴だ」


「重要な愚痴です」


 荻野は舌打ちした。


 だが否定しなかった。


「昔はな」


 彼は月華の黒い端子を見つめた。


「機械を強くすれば、人間は守れると思っていた。強い脚。強い腕。強い推進器。強い接続。全部、強くすればいいと思っていた」


 榊原は黙って聞いていた。


「だが強い機械は、人間に強さを要求する。強い接続は、強い心を要求する。強い推進器は、帰れない軌道を要求する」


 荻野は配線を床へ投げた。


「人間はそんなに強くない」


 その声は、怒りではなかった。


 悔しさだ。


 あるいは、遅すぎる理解だった。


 榊原は静かに言った。


「では、次は」


「弱さを前提に組む」


 荻野は言った。


「怖がること。迷うこと。帰りたがること。逃げたくなること。意識が混濁すること。誰かが止めること。そういう面倒なものを、全部、機械の側へ押し込む」


「難しいですね」


「簡単なことは、もう失敗した」


 荻野は月華を見上げた。


 美しい機体。


 人の心を翼にする禁忌。


「次に飛ぶ時は、空から引きずり戻す仕組みを、機体自身に持たせる」


 榊原はメモを取った。


 月華自律帰還補助。


 荻野はそれを見て、嫌そうな顔をした。


「名前がつまらん」


「博士なら何と」


「帰りたくなくなった馬鹿を殴る装置」


「正式名称にはできません」


「だからお前たち官僚は駄目なんだ」


 榊原は少しだけ笑った。


 笑った後、表情を戻した。


 作業灯の下で、月華は眠っている。


 だが、誰もそれを本当の眠りとは思っていなかった。



 三日目の夜、烈火の通信が途切れた。


 最初は、いつもの途切れだと思われている。雑音が増え、信号が薄れ、数分後に戻る。それはこれまでも何度かあった。


 だから南星管制は、手順通りに再捕捉を行った。


 宗像は冷静だった。


 冷静でいようとしていた。


「烈火一号機、南星管制」


 応答なし。


「烈火一号機、真壁二佐」


 応答なし。


「烈火一号機、受信できる場合は、姿勢制御信号を三回短く」


 応答なし。


 管制室の空気が、少しずつ冷えていく。


 封筒はまだ机の上にある。


 誰も触れない。


 宗像は時計を見た。


 通信断絶、十三分。


 十五分を超えれば、喪失判定準備へ移行する。


 その手順は宗像自身が作った。


 だが、その紙を今見ることができなかった。


 帰還理由、封筒。


 そんな記録を残しておきながら、喪失判定へ移るのか。


「南星」


 通信士が言った。


「国際追跡網より、烈火一号機の位置推定、更新遅延」


「遅延理由」


「不明」


「不明を報告するな。推定を書け」


「飛翔体干渉波の残留による散乱、または姿勢制御噴射の途絶」


 宗像は目を閉じた。


 姿勢制御噴射の途絶。


 烈火が宇宙で姿勢を保てなくなった可能性を意味する。


 姿勢を失えば、通信アンテナも地球を向かない。


 通信が切れても、生存している可能性はある。


 だが、帰還可能性はさらに落ちる。


 宗像は通信機へ向かった。


「烈火一号機」


 声が少し震えた。


 彼はそれを止めなかった。


「南星管制。封筒は未開封です。繰り返す。封筒は未開封です」


 管制室の誰かが顔を上げた。


 手順にない呼びかけだ。


 だが誰も止めなかった。


「戻ってから読んでください」


 応答はなかった。


 宗像は、同じ言葉をもう一度送った。


 さらにもう一度。


 封筒は未開封です。


 戻ってから読んでください。


 それは通信ではなく、祈りに近かった。



 第七区画に烈火通信断の報告が届いたのは、深夜だった。


 加藤が作戦室で受け取る。


 黒崎、榊原、伊藤、三枝、荻野もいた。


 奥山は医療区画から出る許可が出ていなかったが、三枝が同行する条件で入室していた。毛布を肩にかけ、壁際の椅子に座っている。顔色は悪い。だが、目は開いていた。


 榊原が報告書を読み上げた。


「烈火一号機、通信断絶。最終通信より二十一分経過。位置推定、不安定。南星管制は喪失判定を保留」


 黒崎は低く言った。


「保留理由」


「宗像技官判断。機体姿勢不安定による通信途絶の可能性があるため」


「技術的妥当性は」


 榊原は紙を見た。


「あります。ただし、時間経過とともに低下します」


 作戦室が沈黙した。


「喪失判定は出すな」


 黒崎が加藤を見た。


「根拠は」


「通信断だけでは、死亡も機体喪失も確定しません」


「それは技術的根拠か」


 加藤は伊藤を見た。


 伊藤はすぐに言った。


「姿勢制御喪失による通信途絶なら、生存可能性はあります。烈火の紙テープ記録器は独立系です。再捕捉できれば、状態復元も可能です」


「帰還は」


 伊藤は一瞬だけ黙った。


「案を作ります」


 黒崎は荻野を見た。


「博士」


 荻野は不機嫌そうに腕を組んでいた。


「死んだと決めるのは簡単だ」


「技術的には」


「簡単だと言っている」


 荻野は吐き捨てるように言った。


「簡単な判断で人間を捨てるために、俺は機械を作ったわけじゃない」


 黒崎は黙った。


 三枝が奥山の脈を確認している。


 奥山は小さく言った。


「真壁二佐、怖いですかね」


 誰もすぐには答えなかった。


 宇宙で一人。通信が切れ。帰還手順もない。


 怖いに決まっている。


 だが、その恐怖を想像するには、遠すぎた。


 奥山は続けた。


「怖いって言える相手、いないんですよね」


 三枝の手が止まった。


 奥山は毛布を握った。


「僕は、言えたから戻れました」


 その声は小さかった。


「真壁二佐にも、聞こえる相手が要ると思います」


 加藤は奥山を見た。


 臆病者は、まだ震えている。


 だがその震えで、宇宙にいる誰かの恐怖を測ろうとしている。


 それは強さではない。


 弱さを失わなかった者だけが持てる想像力だった。


 加藤は黒崎へ向き直った。


「南星へ、継続呼びかけを指示してください」


「内容は」


「帰還理由を送る。真壁二佐が戻る理由です。封筒が未開封であること。帰還努力を継続すること。こちらが喪失判定を出していないこと」


 伊藤が言った。


「加えて、烈火帰還案を作成中であること」


 荻野が鼻を鳴らした。


「作成中では弱い」


「では」


「作る、と送れ」


 加藤は頷いた。


「烈火帰還案を作る。だから生きていろ」


 黒崎は通信卓を見た。


「南星へ送れ」


 通信士が頷いた。


 それは命令だった。


 同時に、願いだった。


 命令と願いの境目が、ここ数日でずいぶん曖昧になった。


 だが、曖昧でも送るしかない。


 宇宙にいる一人へ。


 まだ切れていないかもしれない、細い線へ。



 四日目の朝、世界はまだ勝利を祝っていた。


 その朝、国際観測網の第三班が、最初の異常値を出した。


 飛翔体の遠方追跡データ。


 速度成分、再計算要求。


 軌道予測、微小修正。


 担当者は、最初それを計測誤差だと思った。


 センサーの角度。月の重力影響。飛翔体周囲の干渉波散乱。


 どれかであってほしかった。


 再計算。別系統照合。別国観測網照会。


 結果は、完全には一致しなかった。


 問題は、ずれ方だった。


 全てのずれが、同じ方向を示している。


 飛翔体は、月外縁方向へ遠ざかっている。


 それは事実だった。


 だが遠ざかりながら、減速していない。


 むしろ、速度を増している。


 そして、増した速度の先に、曲率があった。


 誰かが言った。


「戻っている」


 その言葉を、誰も最初は記録しなかった。


 記録すれば、現実になる気がしたのだ。



 防衛庁地下第七区画に第一報が届いたのは、午前九時十七分だった。


 作戦後評価会議の最中だった。


 議題は、烈火帰還案。


 伊藤が黒板に軌道図を書いていた。烈火の推定位置。地球との相対速度。残存推進剤を仮定した場合の姿勢補正範囲。月華による高高度回収は却下。連華三号機の再稼働は最低四十八時間。


 伊藤の字は硬かった。


 眠っていない字だ。


 通信卓の警告音が鳴った。


 短い音。


 作戦室の全員が顔を上げた。


 榊原が端末を確認する。


 表情が変わった。


 ほんのわずか。


 だが加藤には分かった。


 悪い報告だ。


「国際観測網より、飛翔体軌道再計算要請」


 黒崎は言った。


「内容」


「飛翔体、月外縁方向への離脱を継続。ただし速度成分に異常。複数観測網で加速傾向を確認」


 伊藤の手が止まった。


 チョークの粉が床へ落ちる。


 黒崎は低く言った。


「加速」


「はい」


「何に向かって」


 榊原は答えなかった。


 端末に新しい線が描かれる。


 青い線。月外縁方向へ向かっていたはずの線が、遠方で緩やかに曲がっている。曲がり、伸び、再び地球近傍へ向かう可能性を示す点線が表示される。


 まだ確定ではない。


 だから点線。


 だが、その点線は部屋の空気を奪った。


 奥山が椅子の背を掴んだ。


 三枝がすぐに彼の肩へ手を置く。


 荻野博士が画面へ近づいた。


「馬鹿な」


 その声は、驚きではなかった。


 怒りでもない。


 理解したくない技術者の声だった。


「何だこれは」


 榊原が別画面を出す。


「飛翔体は排除方向へ移行後、月重力圏外縁を通過。ただし、通常の慣性軌道から逸脱しています。外力なしに説明できない加速です」


「外力」


 黒崎が言った。


「何かに引かれているのか」


「現時点では不明」


 不明。


 その言葉が、作戦室に落ちた。


 勝利の翌々日に、不明が戻ってきた。


 加藤は表示盤を見た。


 白い飛翔体の線。逸らしたはずの線。月の彼方へ捨てたはずの線。


 それが、遠くで折り返している。


 帰ってくる。


 破壊不能だっただけではない。


 排除不能だった。


 遠ざけても戻る。しかも、速く。


 伊藤が静かに言った。


「再接近予測」


 榊原は数値を出した。


「最短で、五日後」


「前回より」


「速度は増しています」


 部屋の誰かが息を吐いた。


 それはため息ではない。折れる音に近かった。


「我々の作戦が原因か」


 加藤は言った。


 黒崎が彼を見た。


「結論を急ぐな」


「でも、可能性は」


「ある」


 黒崎は否定しなかった。


 奥山が小さく言った。


「戻ってくるんですか」


 誰も答えなかった。


 答えたのは、表示盤だった。


 点線が更新される。


 地球近傍再接近可能性、上昇。



 情報統制は、一時間も持たなかった。


 国際観測網は多国間の網だ。どこかが隠しても、どこかが漏れる。


 海外の研究者が匿名で投稿した短文は、削除される前に保存され、拡散し、翻訳された。政府の確認中という発表は否定ではない。否定ではない言葉は、恐怖にとって肯定に近い。


 昼過ぎ、都市の祝祭は止まった。


 避難所から帰りかけていた人々が足を止め、家へ戻った人々がまた荷物をまとめ始めた。学校再開の紙が剥がされる。スーパーの棚が再び空になる。


 一度安心した心を、もう一度恐怖へ戻すのは、最初に怖がるよりも残酷だった。


 安堵は、心の防波堤を下げる。そこへ同じ波が戻ってくる。しかも高く。


 人々は怒った。誰が勝ったと言ったのか。何を隠しているのか。


 怒りの矛先は、飛翔体へ届かない。


 届かない怒りは、近くの人間へ向かった。



 伊藤は黒板の烈火帰還案を消していなかった。


 その横に、飛翔体再接近線を書いている。


 烈火推定位置。


 その線が交差しかけていた。


「烈火」


 加藤が気づいた。


「何だ」


「飛翔体の再帰還軌道と、烈火の推定漂流域が近い」


 榊原が顔を上げる。


「距離は」


「確定できません。烈火の位置推定が不安定です」


 伊藤は黒板へ白い線を引いた。


 その線が、飛翔体の点線に近づく。


「もし真壁二佐が生存していて、烈火の光学系が動くなら、飛翔体の最接近前観測点になり得ます」


 加藤の胸に嫌な形で刺さった。


「利用するのか」


「言い方を選ばなければ、そうです」


「帰す対象を、観測点として使うのか」


「帰すためにも、位置を知る必要があります」


 加藤は言葉を止めた。


 伊藤の顔に疲労が深く出ていた。分かっていて言っている。


 帰すために使う。使うから、帰す。その順番が、簡単に入れ替わることを、加藤は昨日知った。


 黒崎が言った。


「烈火の再捕捉を最優先に加えろ。目的は二つ。真壁二佐の生存確認と、飛翔体再帰還軌道の補足。順序は同列だ」


 加藤は言った。


「現場作戦代表として確認します。烈火再捕捉時、真壁二佐の生存確認および帰還支援を、観測任務と同列の第一目的とします」


 榊原がすぐに記録した。


 荻野博士は、壁際で腕を組んでいた。


「同列では足りん」


 加藤は振り向いた。


「では」


「機械は目的の上位にあるものへ従う。人間は建前の下にある本音へ従う。だから書け」


 荻野の声は荒い。


「真壁を捨てる判断は、観測成功を理由にしてはならない」


 作戦室が静かになった。


 黒崎は荻野を見た。


「重い文言だ」


「重いものを軽く書くから、人間が死ぬ」


 荻野は吐き捨てた。


 加藤は頷いた。


「記録してください」


 榊原は書いた。


 真壁二佐を放棄する判断は、飛翔体観測の成功を理由としてはならない。


 書かれた文字は、冷たい。


 だがその冷たさが、今は必要だった。



 奥山は作戦室を出た。


 三枝が同行した。


 本当の理由は、奥山が震え始めたからだ。


 通路に出ると、空気が少しだけ静かになった。


「三枝二尉」


「はい」


「僕、嫌なことを考えました」


「何を」


「飛翔体が戻ってくるって聞いた時」


 奥山は息を整えようとした。


 うまくいかなかった。


「また月華に乗れるって、一瞬思いました」


 三枝は何も言わなかった。


「怖いです。乗りたくないです。でも、一瞬、空に戻れるって思ったんです」


 奥山の声が崩れた。


「僕、壊れてますか」


 三枝はすぐに答えなかった。


 それが医療者の誠実さだった。


「壊れていないとは言いません」


 奥山は目を閉じた。


「でも、壊れたまま固定されているとも言いません」


 三枝は続けた。


「あなたの中に、月華の快感が残っています。怖さと一緒に。それは危険です。だから観察します。だから一人にしません」


「僕、また戻りたくなくなるかもしれません」


「その可能性があります」


「そんな人間を、また乗せるんですか」


 三枝は奥山を見た。


「私は、乗せる判断をする立場ではありません」


「じゃあ」


「止める判断はします」


 彼女の顔は静かだった。


「あなたが戻れない状態で乗せられそうになったら、止めます。あなたが乗りたいと言っても、止めるべき時は止めます。あなたが乗りたくないと言えなくなった時も、止めます」


 奥山は唇を噛んだ。


「強いですね」


「強くはありません」


「じゃあ何ですか」


「仕事です」


 奥山は少し笑った。


 笑って、泣きそうになった。


「怖いです」


「記録します」


「また空に行きたいと思った自分が怖いです」


「それも記録します」


「消えますか」


 三枝は首を横に振った。


「消すより、扱えるようにします」


 奥山は通路の天井を見た。


 照明は長く続いている。


 数え始めると、作戦室へ戻れなくなりそうだった。


 だから数えなかった。


 怖い。


 空に戻りたいと思った自分が怖い。


 その怖さを、奥山は胸の中で握った。


 消えない。


 でも、握れる。


 今は、それでいいのかもしれない。



 夕方、政府は正式に発表した。白い飛翔体について、新たな軌道再計算が行われている。地球近傍への再接近可能性を排除できない。


 街は再び混乱した。


 駅には人が殺到し、道路は渋滞し、避難所には戻ってきた人々が黙って列を作った。昨日まで笑っていた人々が、今日は隣の人間を疑い始めた。


 国境では、避難民の受け入れをめぐって部隊が動き始める。同盟国同士が、観測データの秘匿を疑い始めた。


 人類は昨日、同じ空を見上げて勝利を祝った。


 今日、その空の下で、互いの手元を見始めている。


 飛翔体は戻ってくる。


 その事実だけで、人間は十分に壊れ始めた。



 第七区画の深夜。


 加藤は連華一号機の足元にいた。


 機体は修理中だった。膝部装甲は外され、内部の駆動系が露出している。連華は、眠っているというより、傷口を開かれて横たわっているように見えた。


 加藤はその足に手を置いた。


 冷たい。


 昨日は地面を踏んだ足。飛翔体の干渉波を受け止めた足。


 だが飛翔体は戻ってくる。


 勝利は、勝利でなくなりかけている。


 それでも、昨日踏んだことが無意味だったとは思いたくなかった。今日を越えた人々がいる。昨日死ななかった子どもがいる。真壁がまだ通信を返していた時間がある。奥山が怖いと言えた夜がある。


 それらは、飛翔体が戻ってくることで消えるのか。


 消えない。


 消してはいけない。


「ここにいると思いました」


 伊藤の声がした。


「お前も休め」


「その言葉を、今日はお返しします」


 伊藤は隣に立った。


 二人で、壊れかけた連華の足を見る。


「俺たちは間違えたのか」


 加藤は言った。


「作戦判断としては、現時点でも成功です」


「嫌な言葉だな」


「便利な言葉です」


「便利な言葉は嫌いだ」


「僕もです」


 沈黙。


 格納庫の奥で、工具の音がした。


 誰かがまだ修理している。飛翔体が戻ってくると分かった夜に、それでも機械を直している。


 加藤は、その音に救われた。


 答えがなくても、手を動かす人間がいる。


「間違えたかどうかは、まだ分かりません」


 伊藤は言った。


「でも、昨日やらなければ、今日の朝はありませんでした」


「明日は」


「作ります。烈火を帰す案も、飛翔体への次の対応も」


「作れるか」


「作らないと、帰せません」


 加藤は伊藤を見た。


 伊藤の目は赤い。眠っていない。


 それでも、その目は空を見ていなかった。


 地面と機体と、人間の帰り道を見ている。


「伊藤」


「はい」


「真壁二佐を帰せ」


「了解」


「奥山を、次に乗せるなら戻せ」


「了解」


「自分も戻れ」


 伊藤は一瞬だけ黙った。


 そして言った。


「了解」


 加藤は頷いた。


 命令は、願いに似ていた。


 願いは、命令にしなければ届かない時がある。



 その夜遅く、南星から短い報告が入った。


 烈火一号機、微弱信号再捕捉。


 音声通信、不可。


 姿勢制御信号、断続。


 紙テープ記録器の送信片、受信。


 復号中。


 作戦室に、久しぶりに息が戻った。


 真壁は生きているかもしれない。


 少なくとも、烈火はまだ完全には沈黙していない。


 加藤は報告書を受け取った。


 紙の端が少し震える。


 自分の手が震えているのだと気づくまで、時間がかかった。


 榊原が復号結果を読み上げる。


「断片です。時刻不明。音声ではなく、手動入力記録」


 黒崎が言った。


「読め」


 榊原は紙を見た。


「地球、視認」


 沈黙。


「飛翔体、遠方光学捕捉」


 伊藤が顔を上げた。


「続き」


 榊原の声が少し震えた。


「飛翔体、加速」


 作戦室の空気が止まった。


「飛翔体、反転」


 奥山が目を閉じた。


 三枝が彼の肩を支える。


 榊原は最後の行を読んだ。


「戻ってくる」


 その言葉は、観測値より重かった。


 宇宙で一人、帰れない機体に固定された真壁遥が、白い飛翔体を見て書いた言葉。


 戻ってくる。


 人類が再計算する前に、烈火はそれを見ていた。


 帰れない者が、帰ってくるものを見ている。


 加藤は紙を握った。


 勝利の章は終わった。


 誰もそう言わなかった。


 だが、全員が分かった。


 昨日までの世界は、もうない。


 白い飛翔体は、月の彼方から戻ってくる。


 しかも、速度を増して。


 追い払えば戻る。


 遠ざければ速くなる。


 触れれば、別の形で返ってくる。


 それは攻撃ではない。


 敵意でもない。


 ただ、戻る。


 その無意味さが、人間の心を折る。


 加藤は深く息を吸った。


 責任は、終わらない。


 勝っても終わらない。


 負けても終わらない。


 戻ってくるものがある限り、責任も戻ってくる。


「黒崎司令」


 加藤は言った。


「次の作戦を」


 黒崎は表示盤を見たまま答えた。


「組む」


 その声に迷いはなかった。


 だが、疲労はある。


 人間の声だった。


「ただし」


 黒崎は続けた。


「次は、飛翔体だけを相手にするとは限らん」


 加藤はその意味をすぐに理解できなかった。


 数秒後、作戦室の別回線が鳴った。


 国境付近での軍事衝突未遂。


 避難民輸送路をめぐる武装部隊の展開。


 同盟国間の観測データ秘匿疑惑。


 国内複数都市での暴動。


 飛翔体は戻ってくる。


 だが先に壊れ始めたのは、人類の方だった。


 加藤は連華の修理予定表を見た。


 人類を救うために作られた機体。


 その鉄の足が、次に何を踏むのか。


 考えたくなかった。


 考えなければならない。


 奥山が小さく言った。


「怖いです」


 三枝が答えた。


「記録します」


 その言葉だけが、まだ人間の形をしていた。


 遠い宇宙で、烈火は微弱な信号を送り続けている。


 戻ってくる白いものを見ながら。


 戻れない黒い機体の中で。


 真壁遥は、まだ帰還努力を継続している。


 地上では、人類が勝利の後片付けをする前に、次の恐怖を始めていた。


 白い飛翔体は、何も語らない。


 ただ戻ってくる。


 人類がそれをどう受け取るかだけが、世界を壊していく。


第14章「再帰還」、第2部の折り返し地点です。

飛翔体は倒せなかった、というだけではありません。

追い払っても戻ってくる。

しかも、速度を増して戻ってくる。


この章で、第2部「華計画」は大きく反転します。

加藤たちの作戦は無意味ではありませんでした。

けれど勝利は、世界を完全には救ってくれません。


そして、恐怖は飛翔体そのものより先に、人類の内側を壊し始めます。

次章からは第3部「人類自滅」へ進みます。

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