第8章 臆病者の奥山
第8章は、奥山の話です。
いつも怖いと言い、逃げたがり、泣き言を口にする彼が、なぜ連華に乗り続けているのか。
第7章で語られた「怖がる者を残せ」という言葉を受けて、奥山の臆病さを掘り下げていきます。
奥山三尉は、臆病者だった。
本人も、それを否定しない。
否定するほど勇敢ではなかったし、否定して通るほど器用でもなかった。
怖いものは怖い。
痛いものは痛い。
死ぬかもしれない場所には行きたくない。
自分より大きな音は嫌いで、自分より速いものはもっと嫌いで、空に浮かぶ白いものなど、本当なら見たくもなかった。
だから、第1特務機械化隊の中で彼だけは、いつも正直だった。
加藤は黙る。
伊藤は整える。
黒崎は命令にする。
榊原は数値にする。
奥山だけが、怖いと言った。
それは、地下第七区画では奇妙な才能だった。
医務室の天井には、染みが二十三個ある。
奥山はそう結論づけた。
少なくとも、見える範囲では二十三個。
最初は十七個だと思った。
次に十九個。
それから二十一個。
数えるたびに増える。
染みが増えているのか、自分の目が余計なものを見つけているのかは分からない。
どちらにせよ、あまり良い兆候ではなかった。
「奥山三尉」
医官がカーテンを開けた。
年配の女性医官だった。声は穏やかだが、目はごまかせない。地下第七区画の人間は、皆どこかでごまかす技術を身につけている。だが医官は、そのごまかしを剥がす側の人間だった。
「眠れましたか」
「眠ったふりなら、かなり上達しました」
「眠れていませんね」
「そういう結論になりますか」
「なります」
医官は記録紙を見た。
電子カルテは使えない時間帯が多い。
だからここでは、体温も脈拍も血圧も、紙に書かれる。
奥山はその紙が嫌いだった。
針の振れや数字より、医官の字の方が自分を正確に暴いている気がした。
「心拍が高い。食事量も少ない。睡眠も浅い。手の震えも残っています」
「良いところも言ってください」
「冗談を言う余裕はあります」
「それは良いところですか」
「場合によります」
医官は椅子に座った。
「出撃後の急性ストレス反応です。珍しいことではありません」
「珍しくないなら、治してください」
「治すというより、通過するものです」
「嫌な言い方ですね」
「便利な言い方ではありません」
奥山は天井を見た。
二十三個。
いや、二十四個かもしれない。
「僕、次も乗るんですよね」
「命令はまだ出ていません」
「出ますよ」
「なぜそう思います」
「連華に乗れる人間が少ないからです」
「乗れる、という言い方をするのですね」
奥山は医官を見た。
「乗りたいわけじゃありません」
「知っています」
「向いてるわけでもありません」
「それは、私には判断できません」
「じゃあ誰が判断するんです」
「あなた以外の全員です」
奥山は少し笑った。
笑うと胸の奥が痛んだ。
「ひどい組織ですね」
「ここは、そういう場所です」
医官は記録紙を閉じた。
「怖いですか」
「はい」
「何が」
奥山は答えようとして、止まった。
白い飛翔体。
干渉圏。
砲撃の反動。
連華の操縦殻。
地面が崩れる音。
通信が途切れる瞬間。
自分の呼吸が速くなり、機体の肩が上がること。
たくさんある。
だが、そのどれも少し違った。
「怖くなくなることです」
自分で言って、奥山は驚いた。
医官は黙っていた。
「怖いのは嫌です。でも、怖くなくなったら、たぶんもっと嫌です」
「なぜ」
「隊長が言ってました。怖がっている間は、まだ戻れるって」
医官は記録紙へ何かを書いた。
「加藤一尉らしい言葉です」
「あの人、怖くないんですかね」
「怖いでしょう」
「見えません」
「見せない訓練を受けています」
「僕にも必要ですか」
「あなたには、見せたまま動く訓練が必要です」
奥山はその言葉を聞いて、嫌な顔をした。
「それ、一番つらいやつじゃないですか」
「そうですね」
「医官って、優しい職業だと思ってました」
「優しさだけでは人は戻りません」
戻る。
最近、その言葉をよく聞く。
帰還。
帰り道。
戻るための部隊。
戻ってくる足。
皆がそれを言う。
言うということは、戻れない可能性があるということだ。
奥山は、天井の染みを数えるのをやめた。
奥山の実家は、埼玉の古い住宅地にあった。
駅から歩いて二十分。
商店街を抜け、踏切を渡り、狭い路地へ入る。昔は田んぼだったらしい土地に、似たような二階建ての家が並んでいる。庭は小さく、塀は低く、夕方になるとどこかの家から味噌汁の匂いがした。
奥山は、その町が好きだ。
好きだったが、ずっと出たかった。
安全な場所は、時々息苦しい。
守られていることと、閉じ込められていることは、子どもにはよく似ている。
父は市役所に勤めていた。
母は病院の事務をしている。
姉は要領が良く、弟は人懐こかった。
奥山だけが、いつも遅かった。
運動会では最後の方。
水泳では息継ぎが下手。
遠足では前の子に置いていかれないよう、列の真ん中に入る。
雷が鳴ると耳を塞ぎ、犬が吠えると道を変え、注射の前には本気で泣いた。
家族は笑った。
悪意はない。
奥山も笑った。
笑えば、臆病は少しだけ軽いものになる。
だが軽くなるだけで、消えるわけではなかった。
中学生の時、近所の用水路に子どもが落ちた。
雨上がりで水かさが増えている。
流れは速く、濁っていた。
奥山は、自転車で通りかかった。
子どもの手が見えた。
泣き声が聞こえる。
周りには誰もいなかった。
奥山は動けなかった。
足がすくむ、という言葉をその時初めて理解した。
本当に足が動かない。
水が怖い。
流れが怖い。
落ちたら自分も死ぬ。
その考えが、頭の中を何度も回った。
子どもの手が、また沈んだ。
奥山は叫んだ。
助けて、と。
自分で助けに入ったわけではない。
近くの工場から人が走ってきた。
大人が用水路へ飛び込み、子どもを引き上げた。
子どもは助かった。
奥山も褒められた。
よく叫んだ。
すぐ人を呼んだ。
落ち着いていた。
大人たちはそう言う。
奥山は、何も言えなかった。
落ち着いていたのではない。
動けなかっただけだ。
飛び込めなかっただけだ。
怖くて、怖くて、叫ぶことしかできなかった。
その夜、奥山は布団の中で泣いた。
誰にも聞こえないように泣く。
助かったのだから良かった。
それは分かっている。
だが、自分が飛び込めなかったことも、同じくらい分かっていた。
臆病であることは、その時から彼の中で冗談ではなくなる。
笑える弱点ではなく、いつか誰かを見殺しにするかもしれない穴になった。
奥山が自衛隊に入った理由を、人に説明するのは難しかった。
国を守りたい、と言えば嘘になる。
強くなりたかった、と言えば単純すぎる。
家を出たかった、というのは少し本当だった。
安定した職が欲しかった、というのも少し本当だった。
だが一番近い理由は、もっと情けない。
怖い時に、次は何かできる人間になりたかった。
飛び込めなくてもいい。
叫ぶだけでもいい。
だが、叫ぶ前に固まるのは嫌だった。
訓練はつらかった。
怒号。
走る。
担ぐ。
伏せる。
撃つ。
泥の中を進む。
奥山は何度も辞めようと思った。
同期の中で、彼はいつも目立った。
悪い意味で。
驚く。
慌てる。
声が裏返る。
虫が服の中へ入っただけで半泣きになる。
実弾射撃では、最初の発砲音に肩を跳ね上げた。
教官は言った。
「お前は、戦場で真っ先に死ぬ」
奥山は、はい、と答えた。
その通りだと思う。
だが、死にたくなかった。
死にたくないという感情だけは、誰にも負けなかった。
だから彼は覚えた。
怖い時ほど、足元を見る。
怖い時ほど、弾数を数える。
怖い時ほど、呼吸を吐く。
怖い時ほど、声を出す。
怖い時ほど、隣の人間の位置を確認する。
勇気がないなら、手順を作る。
根性がないなら、確認を増やす。
奥山は、そうやって少しずつ残った。
強くはならない。
ただ、逃げ出すまでの時間が伸びた。
それだけだった。
それでも、彼には十分だった。
特防群への異動辞令が出た時、奥山は何かの間違いだと思った。
当時、彼は補給と後方支援に近い任務に就いていた。
前線の花形ではない。
だが、彼には合っていた。
物資を数える。
重量を計算する。
搬入経路を見る。
壊れた車両を避ける。
不足しているものを先に報告する。
地味だが、誰かがやらなければならない仕事だった。
奥山はそういう仕事が嫌いではなかった。
怖くても、数字は待ってくれる。
銃弾より、燃料缶の方が正直だ。
だが辞令は来た。
防衛庁地下。
特別防衛特務群。
第1特務機械化隊。
連華二号機搭乗候補。
奥山は、三度読み直した。
それから上官へ訊いた。
「これ、誰かと名前を間違えてませんか」
上官は言った。
「俺もそう思った」
救いのない返事だった。
地下第七区画で初めて連華を見た時、奥山は笑わなかった。
泣きそうになった。
全高四メートルを超える鉄の機体。
太い脚。
背中の装備架。
滑腔砲を抱えるための腕。
操縦殻は狭く、暗く、人間が入る場所というより、人間をしまう場所に見えた。
「無理です」
奥山は言った。
それが、連華班での最初の言葉になる。
加藤はその場にいた。
まだ今ほど冷えてはいなかったが、すでに表情は硬かった。
「何が無理だ」
「全部です」
「具体的に言え」
「大きい。重い。暗い。怖い。砲が太い。乗るところが狭い。説明書が厚い。あと、たぶん臭い」
整備員が笑った。
加藤は笑わなかった。
「よく見ている」
奥山は瞬きをした。
「怒らないんですか」
「怒る要素がない」
「無理って言いました」
「判断を報告しただけだ」
「じゃあ、帰っていいですか」
「駄目だ」
「ですよね」
奥山はその日、連華二号機の操縦殻へ入れられた。
入るだけで十分つらかった。
胸部装甲が閉じると、外の音が鈍くなる。
ハーネスが体を固定する。
肩、肘、膝、腰にリンクが接続される。
自分の体が機械の中で小さく折り畳まれていく。
奥山は、すぐに言った。
「出してください」
『まだ起動していない』
加藤の声が有線に入った。
「起動する前に出たいです」
『なぜ』
「起動したらもっと出たくなるからです」
沈黙があった。
それから別の声が入った。
『理屈は通っている』
伊藤だった。
初対面に近い男が、冷静にそんなことを言う。
奥山は、この部隊は本当に駄目かもしれないと思った。
だが、起動試験は始まった。
二号機の油圧が唸る。
足裏の針が揺れる。
奥山の心拍が上がる。
機体の肩が上がる。
『二号機、肩を下げろ』
「僕の肩ですか、機体の肩ですか」
『両方だ』
「どっちも無理です」
『なら、息を吐け』
「吐いたら死にませんか」
『吸い続ける方が死ぬ』
奥山は、仕方なく息を吐いた。
二号機の肩が、わずかに下がる。
その時、加藤は言った。
『動いたな』
奥山は、自分ではなく機体の計器を見た。
針が揺れている。
たしかに、動いていた。
それだけのことだ。
だが、奥山は少しだけ泣きそうになった。
怖くても、動いた。
その事実は、彼にとって大きすぎた。
現在の地下第七区画では、追加人員の選抜が始まっていた。
書類上は、特防群増強計画の一次適性確認。
現場では、ふるい落としと呼ばれていた。
候補者は十六名。
陸上自衛隊、航空自衛隊、海上自衛隊、技術研究本部、衛生科、通信科、整備部隊。
肩書きはさまざまだった。
全員、どこか優秀だ。
全員、どこか扱いにくかった。
地下第七区画の訓練室に、仮設の連華操縦殻が置かれている。
実機ではない。
胸部と四肢リンクだけを切り出した試験装置だった。
候補者はそこへ入り、閉鎖環境、姿勢負荷、通信遅延、警報音、振動、視界制限に耐えられるかを見る。
奥山は、見学席に座らされていた。
なぜ自分が見る側なのか分からなかった。
むしろ見られる側に戻りたい。
見ていると、嫌なことまで分かってしまう。
一人目の候補者は、元戦車部隊の曹長だった。
体格がよく、声が大きく、操縦殻へ入る前から自信があった。
「問題ありません」
彼は言った。
「狭い場所には慣れています」
五分後、警報音が重なった時、彼はリンクを力で押し返した。
機体側の抵抗に逆らい、腕を上げようとする。
仮設装置が軋んだ。
整備員が停止ボタンに手をかける。
加藤は言った。
「終了」
曹長はハッチが開くと、不満そうに出てきた。
「まだ続けられます」
「だから終了だ」
加藤は言った。
曹長は理解できない顔をしている。
奥山には、少し分かった。
あの人は怖くなかったのではない。
怖さを力で潰そうとした。
連華は、それを嫌う。
二人目は航空自衛隊の若いパイロットだった。
伊藤と同じ空自出身だが、雰囲気は違った。
明るく、よく喋り、自分の反応速度に自信がある。
試験開始から三分で、彼は通信遅延に苛立った。
「反応が遅い」
彼は言った。
「この機体、入力から遅れすぎです」
伊藤が見学席で静かに言った。
「遅れる機体です」
「それでは空では死にます」
「だから連華は空を飛ばない」
若いパイロットは笑った。
「でも、三号機は飛ぶんでしょう」
伊藤は何も言わなかった。
試験は続いた。
視界制限が入る。
警報音。
振動。
リンクの抵抗。
若いパイロットは、速く動いた。
速すぎた。
仮設装置の姿勢指示が乱れる。
足裏荷重が崩れる。
転倒判定。
終了。
彼はハッチから出て、悔しそうに床を見た。
奥山は、彼を少し気の毒に思った。
速い人間が悪いわけではない。
ただ、連華は速さだけでは立たない。
三人目は衛生科の女性だった。
背は高くない。
声も大きくない。
操縦殻へ入る前、彼女は小さく手を震わせていた。
奥山はそれを見た。
見てしまっている。
「あの人、怖がってます」
隣にいた榊原が言った。
「分かりますか」
「分かりますよ」
「同類ですか」
「言い方」
試験が始まった。
彼女は遅かった。
反応も速くない。
警報音が鳴るたびに肩が跳ねる。
視界が狭まると呼吸が乱れる。
だが、彼女は必ず声を出した。
「視界制限、確認」
「右腕リンク、抵抗増」
「呼吸、乱れています」
「続行できます」
自分の状態を報告する。
悪いことを隠さない。
見栄を張らない。
足裏荷重が崩れかけた時、彼女は動きを止めた。
一度戻した。
姿勢を整える。
また進む。
奥山は、知らないうちに身を乗り出していた。
「今の」
加藤が奥山を見た。
「何が見えた」
奥山は驚いた。
「僕に訊くんですか」
「そうだ」
「ええと、怖がってました」
「それだけか」
「怖がって、止まりました」
「止まったのは悪いことか」
「違います。止まって、戻しました。無理に進まなかった」
加藤は頷いた。
「名前は」
榊原が書類を見た。
「衛生科、三枝真帆二尉」
「残せ」
加藤は言った。
奥山は、胸の奥が少しざわつくのを感じた。
残せ。
その言葉は、選ばれたという意味でもあり、逃げられなくなったという意味でもある。
三枝二尉は、ハッチから出てきた時、ひどく青い顔をしていた。
それでも彼女は、最初にこう言った。
「すみません。途中で止まりました」
奥山は思わず言った。
「止まれたんです」
三枝がこちらを見た。
奥山は自分の口を押さえる。
また余計なことを言った。
だが加藤は何も言わなかった。
三枝は、しばらく奥山を見ていた。
「止まれた、ですか」
「はい。たぶん」
「それは、良いことなんですか」
奥山は困った。
自信はない。
だが、自分が初めて二号機の中で息を吐いた時のことを思い出した。
「少なくとも、壊れるよりは」
三枝は小さく頷いた。
「覚えておきます」
それだけ言って、彼女は医官の方へ歩いていった。
奥山は見送った。
「奥山」
加藤が言った。
「はい」
「今の判断を覚えておけ」
「僕のですか」
「そうだ」
「僕、判断しました?」
「した」
奥山は首を振った。
「嫌ですね。責任が発生する感じがします」
「発生している」
「もっと嫌ですね」
伊藤が横から言った。
「責任は、発生してから気づくものです」
「その名言っぽい言い方、やめてください」
「名言ではありません。手遅れの説明です」
「なおさら嫌です」
周囲の整備員が少し笑った。
奥山も笑おうとする。
だが、うまく笑えなかった。
三枝二尉の青い顔が、頭から離れなかった。
残された。
自分も、ああして残されたのだ。
残ることは、救いなのか。
それとも、次に壊れる順番が回ってくることなのか。
その夜、奥山は第三区画の補助格納庫で、二号機の前にいた。
消灯後ではない。
だが人は少なかった。
整備員たちは交代で仮眠を取り、連華の装甲は一部が外され、内部の油圧管が露出している。
二号機は後方支援・重武装型だ。
肩部と背部に装備架が増設され、弾薬を抱え、携帯型滑腔砲の反動を受けるため脚部は太い。アウトリガーは他の機体より長く、地面を掴むというより、地面へしがみつくように設計されている。
奥山は、その足が自分に似ていると思う時があった。
格好悪い。
重い。
逃げ足は速くない。
それでも、倒れたくないという意思だけは強い。
「僕たち、似てるんですかね」
奥山は二号機へ言った。
返事はない。
あったら困る。
「怖いですよね」
もちろん、返事はない。
奥山は二号機の足元へ座った。
床は冷たい。
油の匂いがする。
遠くで換気扇が鳴っている。
彼はポケットから小さな封筒を出した。
実家から届いた手紙だった。
母の字。
父の短い追伸。
姉からの一言。
弟からの雑な絵。
通信が不安定になってから、地下第七区画では紙の手紙が増えた。検閲され、遅れ、時には届かない。それでも紙は残る。電波より遅いが、消えにくい。
母は、無理をしないでと書いていた。
父は、必要なことをしろと書いている。
姉は、生きて帰れと書いていた。
弟は、兄ちゃんのロボットは強いのか、と書いていた。
奥山は苦笑した。
「ロボットじゃないんだよなあ」
荻野博士が聞いたら怒るらしい。
博士にはまだ会ったことがない。
だが、すでに少し怖かった。
いかれている博士。
戻るための足を作った人。
月華で壊れた人。
その全部が同じ人物だというのは、奥山にはまだうまく飲み込めなかった。
人は、誰かを帰すために機械を作りながら、自分は帰れなくなることがある。
怖い話だ。
だが、この地下ではそういう話ばかりが本当になる。
奥山は手紙を封筒へ戻した。
その時、格納庫の入口で小さな物音がした。
三枝真帆二尉だった。
訓練後の検査を終えたのだろう。
髪は少し濡れており、顔色はまだ良くない。
「すみません」
三枝は言った。
「ここ、入ってはいけませんでしたか」
「たぶん駄目です」
奥山は答えた。
三枝が固まる。
奥山は慌てて続けた。
「でも僕もいます。つまり、怒られる時は二人です」
「それは安心材料ですか」
「いいえ」
三枝は少しだけ笑った。
奥山はほっとした。
笑える人なら、まだ大丈夫だ。
たぶん。
「二号機ですか」
三枝が見上げた。
「はい。僕の、というと偉そうですけど」
「大きいですね」
「大きいです」
「怖いですね」
「怖いです」
二人はしばらく二号機を見上げていた。
沈黙は気まずくなかった。
同じものを怖がっている時、人は少しだけ黙りやすくなる。
「奥山三尉」
「はい」
「今日、止まれたと言ってくれました」
「言いました」
「あれは、どういう意味ですか」
奥山は少し考えた。
自分でも、完全には分かっていない。
「僕、止まれない人が怖いんです」
「止まれない人」
「強い人です。速い人。怖くないって言える人。そういう人は、すごいと思います。でも、止まれない時があります」
三枝は黙って聞いていた。
「僕は怖いから止まります。止まりすぎるから、たぶん迷惑です。でも、たまに止まった方がいい時がある。今日の三枝二尉は、たぶんそれでした」
「たぶん」
「自信がないので」
三枝は少しだけ目を伏せた。
「私は、衛生科です」
「はい」
「止まると、人が死ぬことがあります」
奥山は言葉を失った。
「でも、止まらないと、もっと死ぬこともあります」
三枝は二号機を見上げたまま言った。
「それを知っているから、私はたぶんここへ来ました」
奥山は、三枝の横顔を見た。
怖がっている。
間違いなく怖がっている。
だが、その怖さの奥に別のものがある。
自分と似ている。
少し違う。
奥山はそう思った。
「嫌ですね」
三枝が言った。
「何がですか」
「残される理由が、少し分かってしまうことです」
奥山は頷いた。
「本当に嫌ですね」
二人はまた黙った。
連華二号機は、格納庫の薄い光の中で沈黙している。
その足元に、怖がる人間が二人いた。
それは、強い絵ではなかった。
だが特防群には、たぶん必要な絵だった。
翌日、奥山はシミュレーション訓練へ戻された。
戻された、という表現が一番正しい。
医官は許可した。
加藤が命じる。
奥山は嫌がった。
伊藤は記録係として立った。
榊原は試験装置の横で、紙テープを準備した。
「二号機搭乗者、奥山三尉。干渉圏内想定、視界制限、通信断、友軍機損傷、撤退支援」
榊原が読み上げる。
「嫌な単語をまとめないでください」
奥山は操縦殻の中で言った。
『訓練開始』
加藤の声が入る。
仮想視界が狭まる。
警報音。
振動。
二号機の姿勢指示が乱れる。
奥山は息を吐いた。
吐く。
吸う。
吐く。
肩を下げる。
足裏を見る。
右。
左。
荷重。
弾数。
残弾六。
通信、遅延。
友軍機、前方で停止。
画面の隅に赤い表示が出る。
三号機損傷。
伊藤機。
訓練だ。
分かっている。
仮想表示だ。
分かっている。
だが奥山の体は、分かっていなかった。
心拍が上がる。
手が汗ばむ。
機体の肩が上がる。
『二号機』
加藤の声。
『呼吸』
「してます」
『吐け』
「吐いてます」
『もっと』
奥山は歯を食いしばった。
前方の三号機表示が点滅する。
救助対象。
撤退支援。
白いノイズ。
干渉波想定。
砲撃音。
大きすぎる音。
奥山の頭の中で、用水路の水音が重なった。
子どもの手。
沈む。
叫ぶ。
動けない。
また沈む。
奥山は、息を吸いすぎた。
視界が狭まる。
訓練室の声が遠くなる。
『奥山』
誰かが呼んでいる。
加藤か。
伊藤か。
三枝か。
分からない。
前方の三号機表示が、さらに赤くなる。
救助対象、生命反応低下。
そんな表示を入れるな。
奥山は思った。
訓練だろう。
分かっている。
分かっているのに、体が冷える。
また動けないのか。
また叫ぶだけなのか。
また誰かが飛び込むのを待つのか。
その瞬間、何かが切れた。
恐怖が消えたのではない。
恐怖が、奥山の中で形を変えた。
冷たいものが、熱くなった。
足がすくむ感覚が、足場を探す感覚に変わる。
喉を塞ぐ息が、声になった。
「二号機、前進します」
『待て』
加藤の声が入った。
「待ちません」
奥山は言った。
自分の声とは思えないほど低かった。
『奥山、停止しろ』
「停止したら死にます」
『訓練だ』
「訓練でも死にます」
奥山は二号機を進めた。
仮想地形の崩落予測が表示される。
右脚では駄目。
左脚を深く。
アウトリガー。
固定。
砲を捨てる。
残弾六。
捨てる。
重いものはいらない。
腕を伸ばす。
三号機の表示へ向かう。
榊原が叫んだ。
「二号機、武装投棄判定」
伊藤の声が重なる。
「姿勢制御は安定しています」
加藤は何も言わなかった。
奥山は三号機の仮想残骸へ到達した。
通常手順では、ここで救助索を展開する。
だが通信断想定。
視界不良。
足場崩落。
時間がない。
奥山は二号機の左腕を残骸の下へ差し込み、右脚を固定し、機体を傾けた。
警報。
過負荷。
膝関節限界。
肩部リンク限界。
うるさい。
奥山は思った。
うるさい。
黙れ。
今は、怖がっている暇がない。
『奥山』
加藤の声。
今度は命令ではなかった。
奥山は残骸を持ち上げた。
仮想表示の三号機が、撤退可能範囲へ入る。
訓練装置が成功判定を出す。
だが奥山は止まらなかった。
さらに後退。
さらに固定。
さらに引く。
安全圏を越えても、まだ引いた。
『終了』
加藤が言った。
奥山は動かなかった。
『訓練終了』
声が聞こえた。
だが手が離れない。
リンクを握る指が固まっている。
呼吸が荒い。
視界が赤い。
誰かが死ぬ。
まだ足りない。
もっと引かなければ。
もっと遠くへ。
もっと。
ハッチが開いた。
外の光が入る。
加藤がいた。
伊藤もいる。
三枝も、少し離れたところにいた。
「奥山」
加藤が言った。
「戻ってこい」
その言葉で、奥山は初めて、自分がまだ操縦殻の中にいることを思い出した。
戻る。
戻らなければならない。
奥山は指を一本ずつ離した。
体が震えた。
今度は、寒さではない。
恐怖でもない。
いや、恐怖だった。
戻ってきた恐怖だった。
「僕」
奥山は言った。
声が掠れていた。
「今、怖くなかった」
加藤は黙っていた。
伊藤も黙っていた。
榊原は紙テープを見ている。
三枝は両手を握っていた。
「隊長」
奥山は加藤を見た。
「これ、駄目なやつですよね」
加藤はすぐには答えなかった。
その沈黙が、何より怖かった。
「駄目になる前に止める」
加藤は言った。
「そのために隊がある」
奥山は、笑おうとした。
失敗した。
「嫌な部隊ですね」
「そうだ」
加藤は短く答えた。
奥山は操縦殻から降りる。
膝が笑っていた。
三枝が肩を貸そうとする。
奥山は一瞬断ろうとして、やめた。
支えられた。
自分の体重を、少しだけ他人へ預けた。
それが、ひどく怖かった。
だが倒れずに済んだ。
訓練記録は、紙テープに残った。
二号機の心拍上昇。
呼吸乱れ。
一時的な恐怖反応の消失。
命令停止への反応遅延。
武装投棄。
救助対象回収。
過負荷領域での姿勢安定。
終了後の固着。
榊原はその線を何度も見た。
「危険ですね」
伊藤が言った。
「危険です」
榊原は答えた。
「ただし、有効でもあります」
「最悪の言葉です」
「ええ」
加藤は二人の会話を聞いていた。
奥山は医務室へ運ばれた。
三枝が付き添っている。
訓練室には、まだ二号機の仮設操縦殻が残っていた。
ハーネスが揺れている。
誰も乗っていないのに、まだ誰かの恐怖を抱えているように見えた。
「奥山は」
伊藤が言った。
「壊れますか」
加藤は答えなかった。
壊れるかどうかではない。
人間は、必ずどこかで壊れる。
問題は、壊れた時に戻ってこられるかどうかだ。
そして、戻る前に何をしてしまうかだ。
「止める」
加藤は言った。
「必要なら、俺が」
伊藤は加藤を見た。
「止められますか」
加藤は仮設操縦殻を見た。
奥山の指の跡が、グリップに残っている。
「止める」
同じ言葉を繰り返した。
確信ではない。
命令でもなかった。
祈りに近かった。
医務室で、奥山はまた天井を見ていた。
染みは二十三個。
たぶん二十三個。
増えていない。
それだけで少し安心した。
三枝が隣の椅子に座っている。
医官に頼まれたのか、自分の意思なのかは分からない。
「怖いですか」
三枝が訊いた。
奥山は少し考えた。
「はい」
そう答えると、胸の奥が少しだけ緩んだ。
怖い。
戻ってきた。
まだ言える。
「良かった」
三枝が言った。
「良かったんですか」
「たぶん」
「自信ないですね」
「奥山三尉ほどではありません」
「僕を基準にしないでください」
三枝は少し笑った。
奥山も、今度は少しだけ笑える。
それから、笑いはすぐに消えた。
「三枝二尉」
「はい」
「僕、もしまた怖くなくなったら」
言葉が喉に引っかかった。
言いたくない。
だが言わなければならない。
「止めてください」
三枝は静かに頷いた。
「分かりました」
「怖いですよ」
「知っています」
「たぶん、僕、言うこと聞かないです」
「でしょうね」
「そこは否定してください」
「医療者なので」
「ひどい」
三枝は、奥山の手元を見た。
指がまだ震えている。
彼女はその震えを止めようとはしなかった。
ただ、見ていた。
震えていることを、なかったことにしないように。
奥山は、天井を見た。
二十三個。
臆病者は、まだここにいる。
怖いと言える。
震える手を見られても、まだ消えていない。
それが今は、少しだけありがたかった。
地下第七区画の上では、白い飛翔体が沈黙したまま空を進んでいる。
破壊不能なものとして。
その下で、奥山は自分の中にも壊れにくいものがあるとは思えなかった。
むしろ、壊れやすいものばかりだ。
勇気も。
呼吸も。
手順も。
冗談も。
怖いという言葉さえ、いつか折れるかもしれない。
だが、折れる前に誰かへ渡せるものがある。
止めてください。
その一言だけは、今のうちに渡せた。
奥山は目を閉じた。
眠れるかは分からない。
だが、少なくとも天井を数えるのはやめた。
怖いものは、まだ怖い。
それなら、まだ戻れる。
そう信じたいと思った。
眠りかけた頃、医療区画の外で三枝の声がした。
「月華候補者の精神負荷表、もう一度ください」
奥山は目を開けた。
月華。
その名前だけで、天井の染みが一つ増えたように見えた。
「奥山三尉の適性欄は」
別の医官の声。
三枝はすぐに答えなかった。
少し間があった。
「臆病さは、欠点ではありません」
奥山は息を止めた。
「ただし、月華に乗せるなら、その臆病さを失わせない手順が必要です」
月華に乗せるなら。
その仮定が、奥山の胃を冷やした。
戦うことより、怖くなくなることの方が怖い。
奥山は布団の中で、小さく言った。
「やっぱり、怖いです」
誰にも聞こえなかった。
聞こえなくてよかった。
奥山の臆病さを弱点としてだけではなく、「戻るための感覚」として描きました。
ただし、その恐怖が消えた時に何が起こるのか、という危うさも少し見えてきた章です。
新たに登場した三枝真帆も、今後の特防群に関わっていく人物になります。
奥山が自分の怖さを誰かに預けられるのか。
そして、怖くなくなった時に本当に止まれるのか。
次章では、伊藤に焦点を当てます。
空を捨てた男が、なぜ泥臭い連華に乗るのかを描いていきます。




