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メタルブレーカーズ  作者: 源三郎


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第8章 臆病者の奥山

第8章は、奥山の話です。

いつも怖いと言い、逃げたがり、泣き言を口にする彼が、なぜ連華に乗り続けているのか。


第7章で語られた「怖がる者を残せ」という言葉を受けて、奥山の臆病さを掘り下げていきます。


 奥山おくやま三尉は、臆病者だった。


 本人も、それを否定しない。


 否定するほど勇敢ではなかったし、否定して通るほど器用でもなかった。


 怖いものは怖い。


 痛いものは痛い。


 死ぬかもしれない場所には行きたくない。


 自分より大きな音は嫌いで、自分より速いものはもっと嫌いで、空に浮かぶ白いものなど、本当なら見たくもなかった。


 だから、第1特務機械化隊の中で彼だけは、いつも正直だった。


 加藤は黙る。


 伊藤は整える。


 黒崎は命令にする。


 榊原は数値にする。


 奥山だけが、怖いと言った。


 それは、地下第七区画では奇妙な才能だった。



 医務室の天井には、染みが二十三個ある。


 奥山はそう結論づけた。


 少なくとも、見える範囲では二十三個。


 最初は十七個だと思った。


 次に十九個。


 それから二十一個。


 数えるたびに増える。


 染みが増えているのか、自分の目が余計なものを見つけているのかは分からない。


 どちらにせよ、あまり良い兆候ではなかった。


「奥山三尉」


 医官がカーテンを開けた。


 年配の女性医官だった。声は穏やかだが、目はごまかせない。地下第七区画の人間は、皆どこかでごまかす技術を身につけている。だが医官は、そのごまかしを剥がす側の人間だった。


「眠れましたか」


「眠ったふりなら、かなり上達しました」


「眠れていませんね」


「そういう結論になりますか」


「なります」


 医官は記録紙を見た。


 電子カルテは使えない時間帯が多い。


 だからここでは、体温も脈拍も血圧も、紙に書かれる。


 奥山はその紙が嫌いだった。


 針の振れや数字より、医官の字の方が自分を正確に暴いている気がした。


「心拍が高い。食事量も少ない。睡眠も浅い。手の震えも残っています」


「良いところも言ってください」


「冗談を言う余裕はあります」


「それは良いところですか」


「場合によります」


 医官は椅子に座った。


「出撃後の急性ストレス反応です。珍しいことではありません」


「珍しくないなら、治してください」


「治すというより、通過するものです」


「嫌な言い方ですね」


「便利な言い方ではありません」


 奥山は天井を見た。


 二十三個。


 いや、二十四個かもしれない。


「僕、次も乗るんですよね」


「命令はまだ出ていません」


「出ますよ」


「なぜそう思います」


「連華に乗れる人間が少ないからです」


「乗れる、という言い方をするのですね」


 奥山は医官を見た。


「乗りたいわけじゃありません」


「知っています」


「向いてるわけでもありません」


「それは、私には判断できません」


「じゃあ誰が判断するんです」


「あなた以外の全員です」


 奥山は少し笑った。


 笑うと胸の奥が痛んだ。


「ひどい組織ですね」


「ここは、そういう場所です」


 医官は記録紙を閉じた。


「怖いですか」


「はい」


「何が」


 奥山は答えようとして、止まった。


 白い飛翔体。


 干渉圏。


 砲撃の反動。


 連華の操縦殻。


 地面が崩れる音。


 通信が途切れる瞬間。


 自分の呼吸が速くなり、機体の肩が上がること。


 たくさんある。


 だが、そのどれも少し違った。


「怖くなくなることです」


 自分で言って、奥山は驚いた。


 医官は黙っていた。


「怖いのは嫌です。でも、怖くなくなったら、たぶんもっと嫌です」


「なぜ」


「隊長が言ってました。怖がっている間は、まだ戻れるって」


 医官は記録紙へ何かを書いた。


「加藤一尉らしい言葉です」


「あの人、怖くないんですかね」


「怖いでしょう」


「見えません」


「見せない訓練を受けています」


「僕にも必要ですか」


「あなたには、見せたまま動く訓練が必要です」


 奥山はその言葉を聞いて、嫌な顔をした。


「それ、一番つらいやつじゃないですか」


「そうですね」


「医官って、優しい職業だと思ってました」


「優しさだけでは人は戻りません」


 戻る。


 最近、その言葉をよく聞く。


 帰還。


 帰り道。


 戻るための部隊。


 戻ってくる足。


 皆がそれを言う。


 言うということは、戻れない可能性があるということだ。


 奥山は、天井の染みを数えるのをやめた。



 奥山の実家は、埼玉の古い住宅地にあった。


 駅から歩いて二十分。


 商店街を抜け、踏切を渡り、狭い路地へ入る。昔は田んぼだったらしい土地に、似たような二階建ての家が並んでいる。庭は小さく、塀は低く、夕方になるとどこかの家から味噌汁の匂いがした。


 奥山は、その町が好きだ。


 好きだったが、ずっと出たかった。


 安全な場所は、時々息苦しい。


 守られていることと、閉じ込められていることは、子どもにはよく似ている。


 父は市役所に勤めていた。


 母は病院の事務をしている。


 姉は要領が良く、弟は人懐こかった。


 奥山だけが、いつも遅かった。


 運動会では最後の方。


 水泳では息継ぎが下手。


 遠足では前の子に置いていかれないよう、列の真ん中に入る。


 雷が鳴ると耳を塞ぎ、犬が吠えると道を変え、注射の前には本気で泣いた。


 家族は笑った。


 悪意はない。


 奥山も笑った。


 笑えば、臆病は少しだけ軽いものになる。


 だが軽くなるだけで、消えるわけではなかった。


 中学生の時、近所の用水路に子どもが落ちた。


 雨上がりで水かさが増えている。


 流れは速く、濁っていた。


 奥山は、自転車で通りかかった。


 子どもの手が見えた。


 泣き声が聞こえる。


 周りには誰もいなかった。


 奥山は動けなかった。


 足がすくむ、という言葉をその時初めて理解した。


 本当に足が動かない。


 水が怖い。


 流れが怖い。


 落ちたら自分も死ぬ。


 その考えが、頭の中を何度も回った。


 子どもの手が、また沈んだ。


 奥山は叫んだ。


 助けて、と。


 自分で助けに入ったわけではない。


 近くの工場から人が走ってきた。


 大人が用水路へ飛び込み、子どもを引き上げた。


 子どもは助かった。


 奥山も褒められた。


 よく叫んだ。


 すぐ人を呼んだ。


 落ち着いていた。


 大人たちはそう言う。


 奥山は、何も言えなかった。


 落ち着いていたのではない。


 動けなかっただけだ。


 飛び込めなかっただけだ。


 怖くて、怖くて、叫ぶことしかできなかった。


 その夜、奥山は布団の中で泣いた。


 誰にも聞こえないように泣く。


 助かったのだから良かった。


 それは分かっている。


 だが、自分が飛び込めなかったことも、同じくらい分かっていた。


 臆病であることは、その時から彼の中で冗談ではなくなる。


 笑える弱点ではなく、いつか誰かを見殺しにするかもしれない穴になった。



 奥山が自衛隊に入った理由を、人に説明するのは難しかった。


 国を守りたい、と言えば嘘になる。


 強くなりたかった、と言えば単純すぎる。


 家を出たかった、というのは少し本当だった。


 安定した職が欲しかった、というのも少し本当だった。


 だが一番近い理由は、もっと情けない。


 怖い時に、次は何かできる人間になりたかった。


 飛び込めなくてもいい。


 叫ぶだけでもいい。


 だが、叫ぶ前に固まるのは嫌だった。


 訓練はつらかった。


 怒号。


 走る。


 担ぐ。


 伏せる。


 撃つ。


 泥の中を進む。


 奥山は何度も辞めようと思った。


 同期の中で、彼はいつも目立った。


 悪い意味で。


 驚く。


 慌てる。


 声が裏返る。


 虫が服の中へ入っただけで半泣きになる。


 実弾射撃では、最初の発砲音に肩を跳ね上げた。


 教官は言った。


「お前は、戦場で真っ先に死ぬ」


 奥山は、はい、と答えた。


 その通りだと思う。


 だが、死にたくなかった。


 死にたくないという感情だけは、誰にも負けなかった。


 だから彼は覚えた。


 怖い時ほど、足元を見る。


 怖い時ほど、弾数を数える。


 怖い時ほど、呼吸を吐く。


 怖い時ほど、声を出す。


 怖い時ほど、隣の人間の位置を確認する。


 勇気がないなら、手順を作る。


 根性がないなら、確認を増やす。


 奥山は、そうやって少しずつ残った。


 強くはならない。


 ただ、逃げ出すまでの時間が伸びた。


 それだけだった。


 それでも、彼には十分だった。



 特防群への異動辞令が出た時、奥山は何かの間違いだと思った。


 当時、彼は補給と後方支援に近い任務に就いていた。


 前線の花形ではない。


 だが、彼には合っていた。


 物資を数える。


 重量を計算する。


 搬入経路を見る。


 壊れた車両を避ける。


 不足しているものを先に報告する。


 地味だが、誰かがやらなければならない仕事だった。


 奥山はそういう仕事が嫌いではなかった。


 怖くても、数字は待ってくれる。


 銃弾より、燃料缶の方が正直だ。


 だが辞令は来た。


 防衛庁地下。


 特別防衛特務群。


 第1特務機械化隊。


 連華二号機搭乗候補。


 奥山は、三度読み直した。


 それから上官へ訊いた。


「これ、誰かと名前を間違えてませんか」


 上官は言った。


「俺もそう思った」


 救いのない返事だった。



 地下第七区画で初めて連華を見た時、奥山は笑わなかった。


 泣きそうになった。


 全高四メートルを超える鉄の機体。


 太い脚。


 背中の装備架。


 滑腔砲を抱えるための腕。


 操縦殻は狭く、暗く、人間が入る場所というより、人間をしまう場所に見えた。


「無理です」


 奥山は言った。


 それが、連華班での最初の言葉になる。


 加藤はその場にいた。


 まだ今ほど冷えてはいなかったが、すでに表情は硬かった。


「何が無理だ」


「全部です」


「具体的に言え」


「大きい。重い。暗い。怖い。砲が太い。乗るところが狭い。説明書が厚い。あと、たぶん臭い」


 整備員が笑った。


 加藤は笑わなかった。


「よく見ている」


 奥山は瞬きをした。


「怒らないんですか」


「怒る要素がない」


「無理って言いました」


「判断を報告しただけだ」


「じゃあ、帰っていいですか」


「駄目だ」


「ですよね」


 奥山はその日、連華二号機の操縦殻へ入れられた。


 入るだけで十分つらかった。


 胸部装甲が閉じると、外の音が鈍くなる。


 ハーネスが体を固定する。


 肩、肘、膝、腰にリンクが接続される。


 自分の体が機械の中で小さく折り畳まれていく。


 奥山は、すぐに言った。


「出してください」


『まだ起動していない』


 加藤の声が有線に入った。


「起動する前に出たいです」


『なぜ』


「起動したらもっと出たくなるからです」


 沈黙があった。


 それから別の声が入った。


『理屈は通っている』


 伊藤だった。


 初対面に近い男が、冷静にそんなことを言う。


 奥山は、この部隊は本当に駄目かもしれないと思った。


 だが、起動試験は始まった。


 二号機の油圧が唸る。


 足裏の針が揺れる。


 奥山の心拍が上がる。


 機体の肩が上がる。


『二号機、肩を下げろ』


「僕の肩ですか、機体の肩ですか」


『両方だ』


「どっちも無理です」


『なら、息を吐け』


「吐いたら死にませんか」


『吸い続ける方が死ぬ』


 奥山は、仕方なく息を吐いた。


 二号機の肩が、わずかに下がる。


 その時、加藤は言った。


『動いたな』


 奥山は、自分ではなく機体の計器を見た。


 針が揺れている。


 たしかに、動いていた。


 それだけのことだ。


 だが、奥山は少しだけ泣きそうになった。


 怖くても、動いた。


 その事実は、彼にとって大きすぎた。



 現在の地下第七区画では、追加人員の選抜が始まっていた。


 書類上は、特防群増強計画の一次適性確認。


 現場では、ふるい落としと呼ばれていた。


 候補者は十六名。


 陸上自衛隊、航空自衛隊、海上自衛隊、技術研究本部、衛生科、通信科、整備部隊。


 肩書きはさまざまだった。


 全員、どこか優秀だ。


 全員、どこか扱いにくかった。


 地下第七区画の訓練室に、仮設の連華操縦殻が置かれている。


 実機ではない。


 胸部と四肢リンクだけを切り出した試験装置だった。


 候補者はそこへ入り、閉鎖環境、姿勢負荷、通信遅延、警報音、振動、視界制限に耐えられるかを見る。


 奥山は、見学席に座らされていた。


 なぜ自分が見る側なのか分からなかった。


 むしろ見られる側に戻りたい。


 見ていると、嫌なことまで分かってしまう。


 一人目の候補者は、元戦車部隊の曹長だった。


 体格がよく、声が大きく、操縦殻へ入る前から自信があった。


「問題ありません」


 彼は言った。


「狭い場所には慣れています」


 五分後、警報音が重なった時、彼はリンクを力で押し返した。


 機体側の抵抗に逆らい、腕を上げようとする。


 仮設装置が軋んだ。


 整備員が停止ボタンに手をかける。


 加藤は言った。


「終了」


 曹長はハッチが開くと、不満そうに出てきた。


「まだ続けられます」


「だから終了だ」


 加藤は言った。


 曹長は理解できない顔をしている。


 奥山には、少し分かった。


 あの人は怖くなかったのではない。


 怖さを力で潰そうとした。


 連華は、それを嫌う。


 二人目は航空自衛隊の若いパイロットだった。


 伊藤と同じ空自出身だが、雰囲気は違った。


 明るく、よく喋り、自分の反応速度に自信がある。


 試験開始から三分で、彼は通信遅延に苛立った。


「反応が遅い」


 彼は言った。


「この機体、入力から遅れすぎです」


 伊藤が見学席で静かに言った。


「遅れる機体です」


「それでは空では死にます」


「だから連華は空を飛ばない」


 若いパイロットは笑った。


「でも、三号機は飛ぶんでしょう」


 伊藤は何も言わなかった。


 試験は続いた。


 視界制限が入る。


 警報音。


 振動。


 リンクの抵抗。


 若いパイロットは、速く動いた。


 速すぎた。


 仮設装置の姿勢指示が乱れる。


 足裏荷重が崩れる。


 転倒判定。


 終了。


 彼はハッチから出て、悔しそうに床を見た。


 奥山は、彼を少し気の毒に思った。


 速い人間が悪いわけではない。


 ただ、連華は速さだけでは立たない。


 三人目は衛生科の女性だった。


 背は高くない。


 声も大きくない。


 操縦殻へ入る前、彼女は小さく手を震わせていた。


 奥山はそれを見た。


 見てしまっている。


「あの人、怖がってます」


 隣にいた榊原が言った。


「分かりますか」


「分かりますよ」


「同類ですか」


「言い方」


 試験が始まった。


 彼女は遅かった。


 反応も速くない。


 警報音が鳴るたびに肩が跳ねる。


 視界が狭まると呼吸が乱れる。


 だが、彼女は必ず声を出した。


「視界制限、確認」


「右腕リンク、抵抗増」


「呼吸、乱れています」


「続行できます」


 自分の状態を報告する。


 悪いことを隠さない。


 見栄を張らない。


 足裏荷重が崩れかけた時、彼女は動きを止めた。


 一度戻した。


 姿勢を整える。


 また進む。


 奥山は、知らないうちに身を乗り出していた。


「今の」


 加藤が奥山を見た。


「何が見えた」


 奥山は驚いた。


「僕に訊くんですか」


「そうだ」


「ええと、怖がってました」


「それだけか」


「怖がって、止まりました」


「止まったのは悪いことか」


「違います。止まって、戻しました。無理に進まなかった」


 加藤は頷いた。


「名前は」


 榊原が書類を見た。


「衛生科、三枝真帆さえぐさ・まほ二尉」


「残せ」


 加藤は言った。


 奥山は、胸の奥が少しざわつくのを感じた。


 残せ。


 その言葉は、選ばれたという意味でもあり、逃げられなくなったという意味でもある。


 三枝二尉は、ハッチから出てきた時、ひどく青い顔をしていた。


 それでも彼女は、最初にこう言った。


「すみません。途中で止まりました」


 奥山は思わず言った。


「止まれたんです」


 三枝がこちらを見た。


 奥山は自分の口を押さえる。


 また余計なことを言った。


 だが加藤は何も言わなかった。


 三枝は、しばらく奥山を見ていた。


「止まれた、ですか」


「はい。たぶん」


「それは、良いことなんですか」


 奥山は困った。


 自信はない。


 だが、自分が初めて二号機の中で息を吐いた時のことを思い出した。


「少なくとも、壊れるよりは」


 三枝は小さく頷いた。


「覚えておきます」


 それだけ言って、彼女は医官の方へ歩いていった。


 奥山は見送った。


「奥山」


 加藤が言った。


「はい」


「今の判断を覚えておけ」


「僕のですか」


「そうだ」


「僕、判断しました?」


「した」


 奥山は首を振った。


「嫌ですね。責任が発生する感じがします」


「発生している」


「もっと嫌ですね」


 伊藤が横から言った。


「責任は、発生してから気づくものです」


「その名言っぽい言い方、やめてください」


「名言ではありません。手遅れの説明です」


「なおさら嫌です」


 周囲の整備員が少し笑った。


 奥山も笑おうとする。


 だが、うまく笑えなかった。


 三枝二尉の青い顔が、頭から離れなかった。


 残された。


 自分も、ああして残されたのだ。


 残ることは、救いなのか。


 それとも、次に壊れる順番が回ってくることなのか。



 その夜、奥山は第三区画の補助格納庫で、二号機の前にいた。


 消灯後ではない。


 だが人は少なかった。


 整備員たちは交代で仮眠を取り、連華の装甲は一部が外され、内部の油圧管が露出している。


 二号機は後方支援・重武装型だ。


 肩部と背部に装備架が増設され、弾薬を抱え、携帯型滑腔砲の反動を受けるため脚部は太い。アウトリガーは他の機体より長く、地面を掴むというより、地面へしがみつくように設計されている。


 奥山は、その足が自分に似ていると思う時があった。


 格好悪い。


 重い。


 逃げ足は速くない。


 それでも、倒れたくないという意思だけは強い。


「僕たち、似てるんですかね」


 奥山は二号機へ言った。


 返事はない。


 あったら困る。


「怖いですよね」


 もちろん、返事はない。


 奥山は二号機の足元へ座った。


 床は冷たい。


 油の匂いがする。


 遠くで換気扇が鳴っている。


 彼はポケットから小さな封筒を出した。


 実家から届いた手紙だった。


 母の字。


 父の短い追伸。


 姉からの一言。


 弟からの雑な絵。


 通信が不安定になってから、地下第七区画では紙の手紙が増えた。検閲され、遅れ、時には届かない。それでも紙は残る。電波より遅いが、消えにくい。


 母は、無理をしないでと書いていた。


 父は、必要なことをしろと書いている。


 姉は、生きて帰れと書いていた。


 弟は、兄ちゃんのロボットは強いのか、と書いていた。


 奥山は苦笑した。


「ロボットじゃないんだよなあ」


 荻野博士が聞いたら怒るらしい。


 博士にはまだ会ったことがない。


 だが、すでに少し怖かった。


 いかれている博士。


 戻るための足を作った人。


 月華で壊れた人。


 その全部が同じ人物だというのは、奥山にはまだうまく飲み込めなかった。


 人は、誰かを帰すために機械を作りながら、自分は帰れなくなることがある。


 怖い話だ。


 だが、この地下ではそういう話ばかりが本当になる。


 奥山は手紙を封筒へ戻した。


 その時、格納庫の入口で小さな物音がした。


 三枝真帆二尉だった。


 訓練後の検査を終えたのだろう。


 髪は少し濡れており、顔色はまだ良くない。


「すみません」


 三枝は言った。


「ここ、入ってはいけませんでしたか」


「たぶん駄目です」


 奥山は答えた。


 三枝が固まる。


 奥山は慌てて続けた。


「でも僕もいます。つまり、怒られる時は二人です」


「それは安心材料ですか」


「いいえ」


 三枝は少しだけ笑った。


 奥山はほっとした。


 笑える人なら、まだ大丈夫だ。


 たぶん。


「二号機ですか」


 三枝が見上げた。


「はい。僕の、というと偉そうですけど」


「大きいですね」


「大きいです」


「怖いですね」


「怖いです」


 二人はしばらく二号機を見上げていた。


 沈黙は気まずくなかった。


 同じものを怖がっている時、人は少しだけ黙りやすくなる。


「奥山三尉」


「はい」


「今日、止まれたと言ってくれました」


「言いました」


「あれは、どういう意味ですか」


 奥山は少し考えた。


 自分でも、完全には分かっていない。


「僕、止まれない人が怖いんです」


「止まれない人」


「強い人です。速い人。怖くないって言える人。そういう人は、すごいと思います。でも、止まれない時があります」


 三枝は黙って聞いていた。


「僕は怖いから止まります。止まりすぎるから、たぶん迷惑です。でも、たまに止まった方がいい時がある。今日の三枝二尉は、たぶんそれでした」


「たぶん」


「自信がないので」


 三枝は少しだけ目を伏せた。


「私は、衛生科です」


「はい」


「止まると、人が死ぬことがあります」


 奥山は言葉を失った。


「でも、止まらないと、もっと死ぬこともあります」


 三枝は二号機を見上げたまま言った。


「それを知っているから、私はたぶんここへ来ました」


 奥山は、三枝の横顔を見た。


 怖がっている。


 間違いなく怖がっている。


 だが、その怖さの奥に別のものがある。


 自分と似ている。


 少し違う。


 奥山はそう思った。


「嫌ですね」


 三枝が言った。


「何がですか」


「残される理由が、少し分かってしまうことです」


 奥山は頷いた。


「本当に嫌ですね」


 二人はまた黙った。


 連華二号機は、格納庫の薄い光の中で沈黙している。


 その足元に、怖がる人間が二人いた。


 それは、強い絵ではなかった。


 だが特防群には、たぶん必要な絵だった。



 翌日、奥山はシミュレーション訓練へ戻された。


 戻された、という表現が一番正しい。


 医官は許可した。


 加藤が命じる。


 奥山は嫌がった。


 伊藤は記録係として立った。


 榊原は試験装置の横で、紙テープを準備した。


「二号機搭乗者、奥山三尉。干渉圏内想定、視界制限、通信断、友軍機損傷、撤退支援」


 榊原が読み上げる。


「嫌な単語をまとめないでください」


 奥山は操縦殻の中で言った。


『訓練開始』


 加藤の声が入る。


 仮想視界が狭まる。


 警報音。


 振動。


 二号機の姿勢指示が乱れる。


 奥山は息を吐いた。


 吐く。


 吸う。


 吐く。


 肩を下げる。


 足裏を見る。


 右。


 左。


 荷重。


 弾数。


 残弾六。


 通信、遅延。


 友軍機、前方で停止。


 画面の隅に赤い表示が出る。


 三号機損傷。


 伊藤機。


 訓練だ。


 分かっている。


 仮想表示だ。


 分かっている。


 だが奥山の体は、分かっていなかった。


 心拍が上がる。


 手が汗ばむ。


 機体の肩が上がる。


『二号機』


 加藤の声。


『呼吸』


「してます」


『吐け』


「吐いてます」


『もっと』


 奥山は歯を食いしばった。


 前方の三号機表示が点滅する。


 救助対象。


 撤退支援。


 白いノイズ。


 干渉波想定。


 砲撃音。


 大きすぎる音。


 奥山の頭の中で、用水路の水音が重なった。


 子どもの手。


 沈む。


 叫ぶ。


 動けない。


 また沈む。


 奥山は、息を吸いすぎた。


 視界が狭まる。


 訓練室の声が遠くなる。


『奥山』


 誰かが呼んでいる。


 加藤か。


 伊藤か。


 三枝か。


 分からない。


 前方の三号機表示が、さらに赤くなる。


 救助対象、生命反応低下。


 そんな表示を入れるな。


 奥山は思った。


 訓練だろう。


 分かっている。


 分かっているのに、体が冷える。


 また動けないのか。


 また叫ぶだけなのか。


 また誰かが飛び込むのを待つのか。


 その瞬間、何かが切れた。


 恐怖が消えたのではない。


 恐怖が、奥山の中で形を変えた。


 冷たいものが、熱くなった。


 足がすくむ感覚が、足場を探す感覚に変わる。


 喉を塞ぐ息が、声になった。


「二号機、前進します」


『待て』


 加藤の声が入った。


「待ちません」


 奥山は言った。


 自分の声とは思えないほど低かった。


『奥山、停止しろ』


「停止したら死にます」


『訓練だ』


「訓練でも死にます」


 奥山は二号機を進めた。


 仮想地形の崩落予測が表示される。


 右脚では駄目。


 左脚を深く。


 アウトリガー。


 固定。


 砲を捨てる。


 残弾六。


 捨てる。


 重いものはいらない。


 腕を伸ばす。


 三号機の表示へ向かう。


 榊原が叫んだ。


「二号機、武装投棄判定」


 伊藤の声が重なる。


「姿勢制御は安定しています」


 加藤は何も言わなかった。


 奥山は三号機の仮想残骸へ到達した。


 通常手順では、ここで救助索を展開する。


 だが通信断想定。


 視界不良。


 足場崩落。


 時間がない。


 奥山は二号機の左腕を残骸の下へ差し込み、右脚を固定し、機体を傾けた。


 警報。


 過負荷。


 膝関節限界。


 肩部リンク限界。


 うるさい。


 奥山は思った。


 うるさい。


 黙れ。


 今は、怖がっている暇がない。


『奥山』


 加藤の声。


 今度は命令ではなかった。


 奥山は残骸を持ち上げた。


 仮想表示の三号機が、撤退可能範囲へ入る。


 訓練装置が成功判定を出す。


 だが奥山は止まらなかった。


 さらに後退。


 さらに固定。


 さらに引く。


 安全圏を越えても、まだ引いた。


『終了』


 加藤が言った。


 奥山は動かなかった。


『訓練終了』


 声が聞こえた。


 だが手が離れない。


 リンクを握る指が固まっている。


 呼吸が荒い。


 視界が赤い。


 誰かが死ぬ。


 まだ足りない。


 もっと引かなければ。


 もっと遠くへ。


 もっと。


 ハッチが開いた。


 外の光が入る。


 加藤がいた。


 伊藤もいる。


 三枝も、少し離れたところにいた。


「奥山」


 加藤が言った。


「戻ってこい」


 その言葉で、奥山は初めて、自分がまだ操縦殻の中にいることを思い出した。


 戻る。


 戻らなければならない。


 奥山は指を一本ずつ離した。


 体が震えた。


 今度は、寒さではない。


 恐怖でもない。


 いや、恐怖だった。


 戻ってきた恐怖だった。


「僕」


 奥山は言った。


 声が掠れていた。


「今、怖くなかった」


 加藤は黙っていた。


 伊藤も黙っていた。


 榊原は紙テープを見ている。


 三枝は両手を握っていた。


「隊長」


 奥山は加藤を見た。


「これ、駄目なやつですよね」


 加藤はすぐには答えなかった。


 その沈黙が、何より怖かった。


「駄目になる前に止める」


 加藤は言った。


「そのために隊がある」


 奥山は、笑おうとした。


 失敗した。


「嫌な部隊ですね」


「そうだ」


 加藤は短く答えた。


 奥山は操縦殻から降りる。


 膝が笑っていた。


 三枝が肩を貸そうとする。


 奥山は一瞬断ろうとして、やめた。


 支えられた。


 自分の体重を、少しだけ他人へ預けた。


 それが、ひどく怖かった。


 だが倒れずに済んだ。



 訓練記録は、紙テープに残った。


 二号機の心拍上昇。


 呼吸乱れ。


 一時的な恐怖反応の消失。


 命令停止への反応遅延。


 武装投棄。


 救助対象回収。


 過負荷領域での姿勢安定。


 終了後の固着。


 榊原はその線を何度も見た。


「危険ですね」


 伊藤が言った。


「危険です」


 榊原は答えた。


「ただし、有効でもあります」


「最悪の言葉です」


「ええ」


 加藤は二人の会話を聞いていた。


 奥山は医務室へ運ばれた。


 三枝が付き添っている。


 訓練室には、まだ二号機の仮設操縦殻が残っていた。


 ハーネスが揺れている。


 誰も乗っていないのに、まだ誰かの恐怖を抱えているように見えた。


「奥山は」


 伊藤が言った。


「壊れますか」


 加藤は答えなかった。


 壊れるかどうかではない。


 人間は、必ずどこかで壊れる。


 問題は、壊れた時に戻ってこられるかどうかだ。


 そして、戻る前に何をしてしまうかだ。


「止める」


 加藤は言った。


「必要なら、俺が」


 伊藤は加藤を見た。


「止められますか」


 加藤は仮設操縦殻を見た。


 奥山の指の跡が、グリップに残っている。


「止める」


 同じ言葉を繰り返した。


 確信ではない。


 命令でもなかった。


 祈りに近かった。



 医務室で、奥山はまた天井を見ていた。


 染みは二十三個。


 たぶん二十三個。


 増えていない。


 それだけで少し安心した。


 三枝が隣の椅子に座っている。


 医官に頼まれたのか、自分の意思なのかは分からない。


「怖いですか」


 三枝が訊いた。


 奥山は少し考えた。


「はい」


 そう答えると、胸の奥が少しだけ緩んだ。


 怖い。


 戻ってきた。


 まだ言える。


「良かった」


 三枝が言った。


「良かったんですか」


「たぶん」


「自信ないですね」


「奥山三尉ほどではありません」


「僕を基準にしないでください」


 三枝は少し笑った。


 奥山も、今度は少しだけ笑える。


 それから、笑いはすぐに消えた。


「三枝二尉」


「はい」


「僕、もしまた怖くなくなったら」


 言葉が喉に引っかかった。


 言いたくない。


 だが言わなければならない。


「止めてください」


 三枝は静かに頷いた。


「分かりました」


「怖いですよ」


「知っています」


「たぶん、僕、言うこと聞かないです」


「でしょうね」


「そこは否定してください」


「医療者なので」


「ひどい」


 三枝は、奥山の手元を見た。


 指がまだ震えている。


 彼女はその震えを止めようとはしなかった。


 ただ、見ていた。


 震えていることを、なかったことにしないように。


 奥山は、天井を見た。


 二十三個。


 臆病者は、まだここにいる。


 怖いと言える。


 震える手を見られても、まだ消えていない。


 それが今は、少しだけありがたかった。


 地下第七区画の上では、白い飛翔体が沈黙したまま空を進んでいる。


 破壊不能なものとして。


 その下で、奥山は自分の中にも壊れにくいものがあるとは思えなかった。


 むしろ、壊れやすいものばかりだ。


 勇気も。


 呼吸も。


 手順も。


 冗談も。


 怖いという言葉さえ、いつか折れるかもしれない。


 だが、折れる前に誰かへ渡せるものがある。


 止めてください。


 その一言だけは、今のうちに渡せた。


 奥山は目を閉じた。


 眠れるかは分からない。


 だが、少なくとも天井を数えるのはやめた。


 怖いものは、まだ怖い。


 それなら、まだ戻れる。


 そう信じたいと思った。


 眠りかけた頃、医療区画の外で三枝の声がした。


「月華候補者の精神負荷表、もう一度ください」


 奥山は目を開けた。


 月華。


 その名前だけで、天井の染みが一つ増えたように見えた。


「奥山三尉の適性欄は」


 別の医官の声。


 三枝はすぐに答えなかった。


 少し間があった。


「臆病さは、欠点ではありません」


 奥山は息を止めた。


「ただし、月華に乗せるなら、その臆病さを失わせない手順が必要です」


 月華に乗せるなら。


 その仮定が、奥山の胃を冷やした。


 戦うことより、怖くなくなることの方が怖い。


 奥山は布団の中で、小さく言った。


「やっぱり、怖いです」


 誰にも聞こえなかった。


 聞こえなくてよかった。


奥山の臆病さを弱点としてだけではなく、「戻るための感覚」として描きました。

ただし、その恐怖が消えた時に何が起こるのか、という危うさも少し見えてきた章です。


新たに登場した三枝真帆も、今後の特防群に関わっていく人物になります。

奥山が自分の怖さを誰かに預けられるのか。

そして、怖くなくなった時に本当に止まれるのか。


次章では、伊藤に焦点を当てます。

空を捨てた男が、なぜ泥臭い連華に乗るのかを描いていきます。

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